第一章1 『星に願いを』
もし、俺に剣の才能があったなら、こんなことはしていないのに。
もし、俺に魔術の才能があったなら、こんな場所にはいないのに。
もし、俺に勇気があったのなら、こんな惨めな想いをせずに済んだのに。
世界は不公平だ。
才能がないのも勇気がないのも俺のせいなんかじゃない。
人間は不平等だ。
力があるやつは嫌いだ。頭が良いやつは嫌いだ。金があるやつは嫌いだ。
でも。
本当はわかってる。そんなふうにしか考えることの出来ない自分が。
そんなふうに考えることしか出来なくなった自分が、俺は、一番――。
「ソイルさん? ちょっと聞いてますか? ソイルさん?」
パンッという音で、ソイルはハッと我に返った。目の前にはギルド受付嬢のミントの姿があった。白い手がカウンターの上に置かれている。どうやらさきほどの音は、彼女が受付台を叩いた音らしい。
「あー……。ごめん、ちょっとボーっとしてたみたいだ」
ソイルは後頭部に手をあてながら、ははっとお茶目を演じようとしたが、笑ったのはソイルだけだった。後ろからはあからさまな舌打ちが聞こえ、ミントは小さく息をついた。
「――繰り返しとなりますが、いまソイルさんにご紹介出来る仕事はないんです。最近は受注の条件も軒並み上がっていて、最低のものでもギルドランクCは必要なんです。ソイルさんのランクはD。残念ですが、ご理解下さい」
ミントは機械的な動作で頭を下げる。話は終わりだということだろう。ソイルは慌てて言った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。明日までに金がいるんだ、払えないと家を追い出されちまう」
「お気の毒です。しかし、だからといって私にはどうすることも出来ません。すみませんが、後ろの方を待たせてしまっておりますので」
ソイルは後ろを振り返った。獣革の鎧に身を包んだハゲ頭の男が、ソイルをじっと睨んでいた。体格も形相も、ソイルがあと少しでもこの場に居座ろうものなら、入り口の扉まで投げ飛ばしてやるといったふうだった。
「な、なあ。本当に仕事は何もないのか? なんでもいいんだ、なんでもやるよ……」
「そう言われましても……」
ミントは最後の慈悲とでもいうように、帳面をパラパラとめくった。長いまつ毛を従えた紫色の瞳を、紙の上をなぞるように動かしている。わずかにあどけなさを残しながらも、美しい顔立ち。
「ランクは問わないという依頼もいくつかはあります。ですが……魔術や剣術などの戦闘スキルに秀でた方、特殊なスキルや加護を持っている方が、対象となっているようです」
「俺も剣なら、少しは……」
ソイルは言ったが、自分の技量がわからないほど馬鹿ではなかった。魔物討伐であれば、十人で一匹の下級魔物を囲んで、タコ殴りにすることなら出来るくらい。対人ともなるとさらに絶望的だった。
「過去にソイルさんがこなしてきた依頼程度の腕前では」
ソイルの心を見透かしたように告げるミントに対し、ソイルは言葉がすぐに出なかった。
「そ、それでもやってみなくちゃわからないだろ」
「無理です。何かあったとき、いたずらに命を落とすだけです……。どうか聞き分けて下さい」
ミントの表情には侮蔑ではなく、あわれみに近いものが浮かんでいた。声音は子どもを諭すかのように優しい。だがそれが、ソイルの心を激しくかき乱した。
「でもっ!」
さらに食い下がろうとしたソイルは自分の意志とは関係なく、後方に激しく吹き飛ばされた。ズシンという衝撃とともに、腰と尻にかけて痛みが広がる。思わず打った部分をさすりながら上を見ると、さきほどまで後ろにいたハゲ頭の男がソイルを見下ろし睨みつけていた。
「いい加減にしろよクズ野郎。俺を待たせたことは、まあいい。だが、これ以上ミント嬢に迷惑をかけるような真似は許さねえ」
ソイルは痛みのなかで状況を理解した。どうやらこの男に首根っこを掴まれて、投げ飛ばされたらしい。ソイルさんっ! と後ろからミントの声がした。
「ててて……。まぁ、確かにミントには迷惑かけたな。だが、それもてめぇの体臭ほどじゃない」
ソイルもハゲ男を睨みつけたが、男にとっては蚊に刺されたほどの効果もなかったようだ。
「口だけは達者だな。俺の匂いのことをとやかく言ってるみてえだが、おまえからする悪臭ほどじゃねえや。なあ、スカベンジャー」
ハゲ男はそう言って口元を歪ませた。
「おまえ、なんで自分がそう呼ばれてるか知ってるか? 残飯や腐肉を漁るみてえに、いつも誰も受けねえような、低ランクの依頼ばかり底からかっさらっていくからさ。プライドも向上心もねえ。そんなのクソ虫と同じだろ?」
嘲笑の声が、響く。響く。わかってる。わかってんだよ。
そんなふうに考えることしか出来なくなった自分が、俺は、一番――。
ソイルは立ち上がり、にやりと笑うとハゲ男に向かって殴りかかった。
◆
「はぁ……」
ギルドの外壁に背中をもたれて座り込みながら、ソイルは空を仰いでいた。空はどこまでも飛んでいけそうなくらいに、青く、高い。
「明日からしばらくギルドには近づけないかもしれねえ……。金も払わなきゃいけねえのに。ほんと、なにやってんだ俺……」
顔を含め、全身がずきずきと痛んだ。素直にバカなことをしたと思う。ソイルは騒ぎを起こしたことで、ギルドから叩き出されていた。
騒乱の中、ミントが口添えしてくれたおかげで袋叩きにはあわずに済んでいたが、彼女に迷惑をかけてしまったことを思うと、そうされていたほうがまだマシだというような気分になった。
安い挑発にのったうえ、返り討ちにされて……。
違う。そうじゃないだろ。ソイルに残ったわずかなプライドが言う。
あんなことをしたのは、ハゲ男に図星を突かれたからだ。
ソイルは今年で二十二歳になる。冒険者に憧れ、田舎からゼルドアへ出てきたのが十六のとき。そこから実力もランクもずっと鳴かず飛ばず。
ズタ袋と一緒に詰め込んできたはずの夢も希望も、いつしか底をつき、今は低ランクの依頼だけをこなし、ほとんどその日暮らしのような、最低限の衣食住をつなぐだけの日々を送っていた。
最初の頃につるんでいた連中はとっくにランクを駆け上がっていき、いつしかソイルの周りには、気兼ねなく話せるような人間さえも、誰もいなくなっていた。
剣の鍛錬をやめたのはいつだったか。走り込みさえしなくなったのはいつだったか。それさえももう、おぼろげで思い出せない。
明日に家賃を払うことが出来なければ、大家はソイルを追い出すだろう。なんの感慨もいらない。ホウキでゴキブリを掃き出すみたいなものだ。
ソイルは地面に黒いものを見つけた。なんの変哲もない、犬の糞だ。皮肉が効きすぎていて、過呼吸にでもなりそうだった。
「クソ虫、か」
潮時だと思う。いや、本当はずっと前から気づいていた。ただ、それを見ないようにしていただけだ。
六年暮らしたボロ部屋には、まとめるほどの荷物も、ましてや価値があるものなど何もないが、二束三文にでもすべて売り払えば、多少の路銀にはなるかもしれない。
ソイルは腰に差している剣を見た。何の特徴もないブロードソードだが、どれだけ生活に困窮したときでも、これだけは手放さなかった。ソイルは柄に手をかける。カチャリと寂しい音が鳴った。
「こんなはずじゃ、なかったんだけどな」
ポツリと呟いた言葉は、誰に拾われることもなく雑踏の中に消えていく。
ソイルは俯いた。
あと少し。あと少しだけ休んだら、家に帰ろう。
帰って、掃除をして。それから。それから……。
「大丈夫?」
声がした。誰かの。りんと鈴がなるような音で。
ソイルはハッと顔上げた。ひとりの少女がしゃがみこみ、ソイルをじっと見ている。美しい少女だった。小さな薄桃色の唇がわずかに動き、同じ言葉をもう一度繰り返した。
「ねえ、大丈夫?」
澄んだ銀灰色の瞳は、なんの邪念も虚飾もない。周囲の時間は止まり、音さえ凪いでいくような。ソイルは息をするのも忘れて少女を見つめていた。まるで夜空の星が、突然目の前に落ちてきたとでもいうみたいに。