第一章11 『銀の髪飾り』
人は、受け入れられない現実を直視したとき、だれしも心の均衡を保とうとするものだ。あるものは努力や昇華によって。あるものは逃避によって。
思えば、自分のこれまでの人生は、逃避の積み重ねだったとソイルは思う。
冒険者になると実家を飛び出したことでさえ、退屈で単調生活からの、その反復から逃げ出しただけなのかもしれない。
賭博場から外に出たとき、ソイルは一文無しになっていた。賭場に行きたかったわけではない。しかし、それ以上に何かで気を紛らわす必要があった。賭けごとに興じることで、過ぎ行く時間と現実を見ないようにしたかった。ただ、それだけのこと。
夜の空気はすこし肌寒く、空には小さな白い星がポツポツと瞬いていた。気分は相変わらず晴れないものの、久しぶりに見た夜空は、ソイルのこころをほんの少しだけ軽くした。
「はは。財布もだいぶ軽くなったけどな。なんて」
なんでもいい。とにかく時間は進んだのだ。巻き戻ることはなく。やがてこの夜も終わり、次の朝がくる。
「あー……。とはいえ、ギルドに顔を出しづらすぎる」
昼間のギルドで、錯乱した末におかした失態を思い、ソイルの心はまたしても重くなる。
「そこだけでもやり直せたら……って、そんな都合の良いこと起こるわけねえか」
ソイルはぶるっと身体を震わせてから、家路についた。途中でデリス通りの近くに差し掛かったとき、ソイルは自然と立ち止まってしまった。
「……ばかか。もう終わったんだ」
そう。もう俺には何も。何も関係のないことだ。
◆
「本当にどうしようもねえやつだよ……」
ソイルはまだ歩いていた。
「嘘じゃないぞ。ソイル・ラガマフィン。どうしようもないバカで、救えないアホだよおまえは」
夜のデリス通りは、昼間とはがらりと雰囲気が違っていた。まるで夜の間にだけ咲く花みたいに、通りのあちこちに露出の多い服を着た女性が立っている。
「もうちょっと奥だったか……。くそ、記憶なんか全然あてにならねえ」
ソイルは家に帰らず、デリス通りを進んでいた。目的地はあの廃墟だった。細部は変わるが、大筋が変わらないことはわかっている。なら、フィオは今日もここを訪れているはずだ。
「道わかってなかったよな、あいつ……。ちゃんと来れたのか」
そう言ったあと、自分が馬鹿なこと口にしたと気づく。違う。たどり着けない方が良いんだ。そうすれば、何も起こらない。さすがに楽観的な考えかもしれないが、可能性がないわけではない。
今回のソイルはフィオの傍に居なかった。とすれば、フィオには道案内が居なかったことになる。親切な人間や、お人好しに出会っていたらもちろん話は変わってくるものの。
「とにかく。ここまできたなら確かめよう」
そこになんの痕跡もなければ、ソイルは晴れて気兼ねもなく、家に帰ってぐっすり眠ることが出来るのだ。
扉をそっと開け、ソイルは中の様子をうかがう。人の気配はないようだ。ソイルは扉の隙間から体を滑り込ませるように中へと入る。廃墟の中は、割れた壁や天井の隙間から、ほんのわずかに月明かりが差し込んでいた。
「誰もいないか……」
ソイルは呟く。誰もいない。今だけでなく、昨日も、今日の昼間も、ずっと誰もここにはいないし、居なかったとそう思いたい。それだけが、いまはソイルの願いの全てだった。
ほの暗い闇の中をゆっくりと進んでいく。床に目をこらしても、ぎりぎりまで顔を寄せない限りは、ほとんど何も見えないし、わからない。少し前方で、何かがわずかに光ったような気がした。
ソイルはその物体に近づき、床から拾い上げた。よく見えない。小さな長方形、表面には凹凸があって。ソイルは月明かりの下にそれをかざした。銀色の、髪飾り。褐色のものが、こびりついて。
「――ッ!!」
ソイルは反射的にそれを投げ捨てた。パキンと床に金属が跳ね返る音がする。
「はぁ……はぁ……!」
動悸が早い。息がうまく出来ない。違う。ちがうちがうちがうちがう。あいつが付けてたものはもっと違ったはずだ。そうだ。だから。こんなの。
『どう? 可愛い?』
声が。響いて。
「うっ、うぷっ!!」
急に血の匂いがあたりを満たした。ソイルはその場ではげしく嘔吐する。わかりたくない。わかりたくなんかない。もういやだ。もう。こんな思いは。こんな場所は。俺は。俺は。
よろめきながら闇の中を歩いたソイルは、何か柔らかいものを踏んだ。ビクリと反射的にそれを避けようとして、ソイルは体勢を崩し、床に倒れた。
なんだ、なんだよ……。なんか、いま、踏んだ、よな。
ソイルは震えながら顔を上げた。ソイルにとって最悪だったのは、顔を床に近づけてしまったこと。
その結果。ソレをわずかにも認識してしまったこと。
「うわっ、手、なんか床、濡れて――」
顔をわずかに上げた時。ソイルの眼がそれを捉えた。
白く、細い、うで、うで、うでが落ちて。
「うわああああああああああああああああああッ!!」
ソイルは弾かれるように飛び出し、からだごと扉を押し開くと、夜の中へ無様に駆けだした。
家へ辿り着いても、鈍い頭痛と血の匂いが離れなかった。ソイルはベッドに腰を下ろし、無言で酒瓶をぐいとあおった。瓶口にガチリと歯がぶつかる。乾ききった身体にアルコールが染みこみ、胃に落ちると火花のように弾けた。
その衝撃と不快さは、ソイルを血の匂いやフィオの幻からわずかに遠ざけた。ソイルは酒瓶を壁に向かって叩きつけ、ベッドにどさりと倒れた。
精神は疲弊しきっていた。ソイルは何かを感じることもできなかった。ただ、これから絶え間なく押し寄せてくるだろう痛みと後悔の予感だけが、潮騒のようにこころの遠くで鳴っていた。
意識がなくなっていく。夢との境目がなくなっていく。
フィオには、もう二度と会えないのだと。
ソイルは、そんな当然のことを思った。
◇
「ソイルさん? ちょっと聞いてますか? ソイルさん?」
パンッという音で、ソイルは我に返った。目の前にはミントの姿があった。さきほどの音は、彼女が受付台を叩いた音だ。今回はそれが、もうわかっていた。
そうか。
状況を、認識。
俺が生きてようが、死んでようが関係ないというわけだ。
「――――はは」
乾いた笑いが漏れる。
「ははって……。ち、ちょっとソイルさん私の話聞いて――」
「俺に紹介できる仕事はない。なぜなら受注の条件が上がっているからだ。最低でもランクCが必要で、俺のランクはD。わかったな? なら、とっと失せやがれ。だろ」
ソイルは朗読するように言った。
「……そ、ソイル、さん?」
「違うのか?」
「そ、それは。で、でも私、そんな、そんな言い方……」
ミントがいまにも泣き出しそうな表情で言った。ソイルは歯を剥き出して笑うと、続けて言った。
「俺は金欠で家を叩き出されそうだが、そんなのおまえにとっちゃ、知ったことじゃない。俺は仕事を恵んで下さいと懇願するが、それでも仕事なんかありはしない。ランクDのクズ野郎に仕事なんかないんだ」
「わ、私はそんなこと思ってませんっ! ま、待って下さいっ。調べますっ、調べますからいまっ……!」
ミントは乱暴な手付きで、帳面をパラパラとめくっていく。ときおり指でページの上を執拗になぞったかと思うと、ぎりっと唇を噛み締める。
「ランクは問わないという依頼もいくつかはあるが、それは魔術、剣術の戦闘スキルに長けたやつか、特殊なスキルや加護を持っているやつだけが対象だ」
「――ッ!!」
「俺には何もないし、俺がこれまでこなしてきた依頼のレベルじゃ話にもならない。そこらで犬死にするだけだ」
ソイルの言葉を無視して、ミントは狂ったように帳面をめくり続けた。
「もういいよ、ありがとな、ミント。でもおまえは最初から俺にこう言えば良かったんだ」
ソイルはそっと耳打ちでもするようにミントに顔を近づけ、囁いた。
「ここにはおまえの餌になる残飯も腐肉もありはしない。クソにでもたかってろ、スカベンジャー」
糸が切れたように、ミントはピタリと手を止めて、ソイルを見上げた。目からは大粒の涙がぽろぽろとこぼれて、カウンターの上に落ちていく。ソイルはミントから顔を離した。
「気にすんな。俺には他にやることがあるんだ。邪魔したな」
そう言ってソイルが受付から離れようとしたとき、ガシッと肩を掴まれた。
「またお前か。ほんと俺の肩を掴むのが好きだよな? 趣味なのか?」
「あ? なんの話だ?」
ハゲ男はソイルの淡々とした態度に、わずかながら気圧されたように言った。
「どうでもいいことさ。で、何か用なのか?」
「てめえの態度が気に入らねえ。ミント嬢に対して――」
「ミントミントミントミント。そんなに好きなら草でも食っておけばいい」
ソイルはうんざりしたように言った。
「俺は俺のことを言っただけだ。自己紹介と同じさ。聞いてたんだろ?」
「……そうだとしても、気に入らねえって言ってんだよ」
「話にならない」
ソイルは肩から男の手を払って言った。
「さっさと行けよ。後ろがつかえる。それとミント嬢が泣いてるぜ?」




