第一章10 『暗い空』
「ソイルさん? ちょっと聞いてますか? ソイルさん?」
パンッという音で、ソイルはハッと我に返った。目の前にはギルド受付嬢のミントの姿があった。白い手がカウンターの上に置かれている。どうやらさきほどの音は、彼女が受付台を叩いた音らしい。
「――――え?」
「え? じゃ、ありません! ソイルさん私の話を聞いてましたか!?」
ミントの声も聞こえなかった。俺は死んだ。死んだのに。死んだはずなのに。
「死んだ……」
ソイルは呆然と呟いた。
死んだ死んだ死んだ死んだ。ぜったいにまちがいなくたしかにおれは死んだのに。
なんで。どうして。
「しんだって、なにがです?」
ミントが聞き返した。その瞬間、ソイルの感情は決壊した。
「俺は死んだんだよ!!」
ソイルは怒鳴り、叩き壊すほどの勢いで拳を受付台に振り下ろした。
「なのになんでだ!? なんなんだよ?! どうしてまたここに居るんだよ!?」
「ひっ!? そ、ソイル、さん。おち、落ち着いてくださ――」
覚えている。一回目に死んだことも。二回目に死んだことも。ミントの言葉も。仕事がなかったことも。ハゲに投げ飛ばされたことも。冒険者なんてやめようと思ったことも。メロヌを食ったことも。フィオと出会ったことも。フィオを、守れなかったことも! 全部、全部、全部、全部、全部!
「これは夢じゃねえ、夢なんかじゃなかったんだ!! ぜんぶんぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ!! 覚えてる、おぼえてる、おぼえてる!! 消えねえ、消せねえ!! ちくしょう!! くそが!! なんでここに戻ってくるんだよ!? 戻ってきてんだよ!?」
ミントの表情が、恐怖に引きつっている。そんなことさえも、ソイルにはどうでもよかった。
「おいてめえ!! いきなりなにトチ狂ってやがる!?」
肩を掴まれ、ソイルは強引に振り向かせられる。ハゲ頭の男が、ソイルを睨みつけていた。
「離せ、ウスノロ!! 俺は死んだんだ! なのに、おまえのこぎたねえ顔も覚えてんだ!! ふざけんな!! ちくしょう、ちくしょう!!」
「こいつ! クスリでもやってんのか!? くそ、暴れやがって、このっ!!」
ハゲ男は、ソイルを掴むと思いきり放り投げた。ソイルはテーブルに激突し、座っていた何人かを吹き飛ばしながら床に転がった。
「はぁ……はぁ……」
手負いの獣のように息を吐き、ソイルはゆらりと立ち上がった。いつもはドラゴンが宴会をしているのかというほど騒々しいギルド内が、シンと静まり返っている。
ソイルは入り口に向かって駆けだした。後ろは振り返らなかった。
◆
ソイルに絶望的な思いをもたらしたのは、前回だけでなく、前々回の記憶もハッキリと覚えているという事実だった。前回の記憶中で、前々回の記憶を夢だと疑ったことも、その思考の過程すら、つい数時間前のことのように思い出すことが出来るのだ。
「ありえないだろ……こんなこと」
呟いてみたところで、目の前に横たわる現実にはなんの影響もない。いつもと変わらない景色。道行く人の群れも、街並みも、芝居の張り紙でさえ、見慣れているはずのもの全てが恐ろしく、不気味に見えてしまう。自身の身体さえ。
不意に、ソイルは自分がどこか知らない世界に迷い込んでしまった気がした。否。ような、ではなく。実際に迷い込んでしまっているのだ。思考を重ねるたびに、ますます袋小路に追い詰められていくような感覚になる。しかし、逃げずに事実だけを直視するなら。
始まりは二回ともギルドの受付。ミントと話しているところを始点とし、終点はソイルの死。このふたつの地点をソイルは行き来している。ソイルの精神が、というべきか。より正確にいうなら、
「俺は、同じ日を繰り返してる……ってことに」
それは言葉にしてみるとひどく滑稽で、荒唐無稽な話だった。
馬鹿馬鹿しい。こんなもの。知らない間にクスリに手を出していて、そのせいで幻を見ているのだと考えた方がよほど説得力がある。だが、ソイルの理性がそれを否定する。
「俺はまともだ……。ラリってなんかない……」
そして、ソイルが正常だとするのなら、おかしいのは世界の方だということになる。
「こんなの、どうすりゃ良いってんだ」
頭を抱える。とにかく。起こってしまっていることは仕方ない。ひとまず飲み込んで、受け入れろ。それから問題を、この状況をどう解消すればいいのか。どうやったら先に進むことが出来るのか。それを考えろ。考え――。
ふと、ソイルは思い至った。そして、こんな簡単なことに気づかないほど混乱していたのかと苦笑した。これも、違和感を無理やりにでも嚥下したことによる功名か。
「当たり前だけど。俺が死んだことで時間が戻ってるとするなら、死ななければ良いってことになる……」
そうか。たったそれだけで良いんだ。はは。そうだよな。死んだら明日は来ない。生きていれば明日は来る。小さな子どもだってわかっていることだ。
「そうと決まったら話は早いな。こんな薄気味わるい状態からなんて、さっさとおさらばだ」
べつに誰かに大金を支払う必要もない。魔物の群れを倒す必要もない。ダンジョンに潜って深部の秘宝やらなにやらを取ってくる必要さえない。
必要なのは何もしないことだけ。面倒に首を突っ込まず、余計な望みも抱かず、ただ静かに目立たずに過ごせばいい。それは、おまえの得意分野だろ。なあ、ソイル。
日常に戻るための対価はいらないんだ。引き換えにしなくちゃいけないものは何も。何も――。
ソイルの少し前方。見知った少女が歩いていた。どうしてこうも巡り会ってしまうのか。いや、これが反復だというのなら、同じ場所にいれば彼女と出会うのは必然か。
グッと心臓を鷲掴みにされたような感覚。考えないようにしても、ソイルの視線は勝手に少女を追っていた。少女は往来の中で立ち止まり、自分を見ているソイルに気付いたのだろう。ごく自然に声をかけてきた。
「あの、どうかされました?」
「え――?」
「あ、すみません急に。でも、私のことをじっと見ていたから」
「あ、いや……その」
以前なら福音のようにさえ感じていた、その姿も声も。いまは得体の知れない呪いのように思えてしまう。
『大丈夫?』
「大丈夫ですか?」
記憶の中の声が重なって響く。幾重にも。重なって。
フィオ。君はいつ会っても、変わらないんだな。
ソイルは微笑んだ。
「大丈夫だ。ちょっと。ちょっとだけ疲れちまっててさ」
微笑みながら、言った。
「ごめんな。俺のことは、気にしないでくれ」
そう言い残し、ソイルはフィオに背を向け歩き出した。
これ以上フィオのことを考えたくなかった。これから彼女を待ち受ける運命に対して、自分は何をすることも出来ない。あの黒騎士を相手に、出来ることなどあるわけがない。二回も死んだんだ、さすがに思い知るというものだ。
知り合っている状態ならまだしも、今のフィオはソイルの名前さえ知らない。なら、それはほぼ他人同士だ。そもそもからして、関わりのあいのないことなのだ。
彼女が殺されることだって、俺のせいなんかじゃない。野良犬に食い殺される子猫の死に、なんの責任もないのと同じように。フィオの物語に対して、自分はなんの影響ももたらさない。これまでも。そしてこれからだって。
フィオのもとから去ったあと、まるで暗示でもかけるかのように、何度も何度もソイルは自分に言い聞かせた。けれど、後ろめたさが消えない。
「なのに、どうして」
ソイルは呟いた。
どうして、自分がクソ野郎みたいに思えちまうんだ。
どこをどう歩いたのかなど、覚えていなかった。人も物も、何も目に入らなかった。少しでも止まったら、頭がどうにかなりそうだった。ソイルは空を見上げた。果てなどないように広がる青に、吐き気がした。




