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92 一方その頃:シスターと人魚

 同時刻、バラットの海岸にて。

 気落ちした様子のシスターが一人、岩場で立ち尽くしていた。


 彼女――ヘレンは目が見えない分、人より聴覚が過敏である。だから冷たい潮風が吹きすさぶ場所であっても、潮騒によって他の音がかき消され聞こえなくなる此処こそが、海辺の都市で生まれ育った彼女にとって一番静かで落ち着く場所であった。

 何か思い悩むことがあれば、大抵彼女は此処に来る。一人で思案に耽るのに適しているからだ。彼女が治癒師として名を馳せてからはあまり来ていなかったが、昨日今日と、連続で来ている。


 ――原因は、昨日の患者だ。

 治療を拒まれる事は初めてではなかったが、あんな風に強く拒絶されたのは初めてのことで、しかもそれが敬愛するベアード神父に「ただ怪我を治すだけではいけない」と諭された後だったこともあり、余計に精神的ダメージが大きかった。


 あの後、ベアード神父は言った。病や傷を癒やす事は悪い事ではない。ただ、それだけが人々の助けになる訳では無い、と。

 そして、今の自分に足りないのは、救いを求めて来た人と言葉を交わすことである、と。


 対応はいつも通りだった。相手に慈悲の心を持ち、その人の悲しみを取り除くために治癒を施そうとした。その過程で対話だってしていたはずだ。今までのやり方で良しとしてきたのは、それを求めて来た本人達だ。

 それを今になって、いくら敬愛する人物と言えど他人から違うと言われても、十六歳のヘレンにはどうすれば良いのか分からなかった。


 答えを求めるのは簡単だ。だが、これは自身が気付かなければならない問題だということを、彼女は理解していた。だからこそ、一人で悩んでいるのだが。


 ヘレンはふと、波の音が少し変わった事に気が付いた。何か大きなものに波がぶつかる音、それに波と海風の音に交じって、ずる、ずる、と重い何かを引きずる音が聞こえてきたのだ。

 つい最近聞いた事のある音だと気付いたヘレンは、耳を澄ませ、わずかに聞こえる柔らかいものがぬめり擦れる音を聞き、それが昨日ここに打ち上げられ弱っていた生物だと気が付いた。


 ――目が見えない彼女には、その正体が宙族、人魚であるという事には気が付いていなかった。

「……あなた、まだここに居たのですね」


 返事は、無い。それが海の魔物であれば、鳴く種類は非常に少ないので、当然のことだった。人魚としては異質であったが。


「どうしました? 帰り道が分からなくなってしまいましたか? それとも……受け入れてくれる仲間が居なかったのですか?」


 人魚は一度手を伸ばしかけ、しかしサイズ差に気付いたのか止めて、冷たくぬめる自身のもみあげのような触手を、ヘレンの手にそっと重ねた。人がそうするように。

 彼女が何を思ってそうしたのかは分からない。だがヘレンはそれを肯定と見なし、そして知能のある生物故の行動だと認識した。


「私と同じですね」


 ぬるりと不快なぬめりを纏う触手を、ヘレンは躊躇無くもう片方の手で優しく握り、訥々と自分のことを語り始める。


「私の母は、悪魔と契約をして私を産みました。悪魔という存在は、対価と引き換えにどんな願いをも叶えてくれる、エルフやドワーフより古い種族だそうです」


 この世界における悪魔は、我々が持つ悪魔の概念とは少し違う。天使という対になる存在が居ないため、悪性を象徴する存在ではないのだ。

 それが他者を貶めるための願いだろうが、他者の幸福のための願いだろうが、関係無い。ただ願いを叶え、その対価をもらうだけの存在。願いが叶った結果堕落するか否かは本人次第であり、また、願いを叶えてもらったからといって必ず不幸になる訳でも無い。

 ただ、人生のどん底に居る人ほど自暴自棄になり、恵まれた悪人ほど強欲であるため、より大きな対価を取り立てやすく狙われやすい。故に後々の転落人生がより色濃く浮き彫りになってしまい、詐欺や理不尽に似た印象を持たれやすく、故に「悪魔」と呼ばれているに過ぎないのだ。


「人寄り承認欲求が強かった母は、神の子たる聖女となるため処女懐胎を願って……そして、私が産まれました。最初は聖女だと認められていたそうですが、私の物心がつく頃には真実は暴かれ、自ら命を絶ったと。そんな生まれですから、私には友達が居ませんし、表面上は友好的でも、皆どこかよそよそしくて」


 処女懐胎は、ごく稀であるが存在する。女性のみで単性生殖をする竜人種一族や爬虫種一族に存在するため、そういった一族は例外とされるが、それ以外では殆ど見られない。

 しかし、処女懐胎をするのは、基本的に卵から生まれる種族のみだ。竜人種、鳥人種、爬虫種がそれに該当する。

 それ以外の種族が処女懐胎するというのは、正に奇跡と言えるだろう。


 聖女とは本来、奇跡をその身に宿した存在を指す。汎人であったヘレンの母親が処女懐胎したとなれば当然、母子共に聖女と認定されてもおかしくはないし、事実一時的にはそうであった。

 ヘレンの母親は凡庸な女だった。彼女の妹が当時、歴代最高の治癒師だと有名になってしまってから、妹に劣る姉という状況に非常に強いコンプレックスを抱き、悪魔の契約に縋ってしまったのだ。

 その対価の一つに、産まれる子供(ヘレン)の視力を捧げたことは判明しているが、他に何を対価にしたのかは、ヘレン自身は教えてもらってない。


「私は母とは違うと、そう信じてもらうために人より努力して、頑張って……そうしたら、尊敬する方に、叱られ……いえ、諭されてしまいました。『怪我を治すだけが、物質的に満たすだけが人の役に立つ事ではない』、と。でも、私……っ、他に何をすれば良いのか、分からなくて……っ! 他者を可哀想と決めつけ、上から目線で優しさを押しつけてくるとまで言われてしまって……!」


 口に出しているうちに、光を映さないヘレンの目に涙がいっぱいに溢れ、ぽろぽろと零れていく。

 魚は涙を流さない。人魚の涙は宝石になる、なんて言われることもあるが、そんな事実は無い。だから、人魚は急に目から水を流し始めたヘレンに驚いて、あからさまに狼狽えたようにおろおろと両手と触手を右往左往させた。


 数秒程そうしてから、人魚は恐る恐るといった様子で、自身の指先でヘレンの涙を拭う。触手部分よりマシとはいえ、粘液で逆に顔中がベトベトになってしまった。


「……慰めてくれるのですか? ……ありがとうございます。優しいのですね、あなたは。それに比べて、私はいけませんね……人々に道を示す立場であるというのに」


 人魚の指先を触手の一つだと勘違いしているヘレンは、人魚の指先を撫でてから、粘液で汚れ生臭く

なってしまった顔を拭う。粘液の不快感はあったようだが、自身を慰めるような行動が嬉しかったのだろう、その顔には微笑が浮かんでいた。


「ねえ、魔物さん。今度はあなたの話を……って、言葉を話せないあなたには、伝える術はありませんよね……」


 そもそもの話、魔物相手だったら話の内容をちゃんと理解出来るかは怪しい所だが、魔物と、それも大型の魔物と接触する機会が殆ど無かったヘレンには、そこまで考えが及ばないようだった。

 だが、話している相手は人魚。少なくとも、人族と同等の知能はある。この人魚もまた、ヘレンが語った話をしっかりと理解しており、声の出せない喉をさすり、悲しげな表情を浮かべた。


「そうだ、触手話を教えましょう! あなたは賢いですから、これを覚えてくれれば、私が一方的に話すのではなくて、二人でおしゃべりが出来るようになりますよ。人族のように手を組んで、というのは難しいでしょうから、こうやって……あなたの触手で、私の手を手話の形にするんです。例えば、これが『こんにちは』ですよ」


 手の形とジェスチャーを、少しゆっくりとした動作で見せる。二、三回程そうやって見せて、その動きがイコール「こんにちは」となる事を理解させる。

 人魚は同じように手話を両手を使ってやってみるが、ヘレンにはその様子が見えない。何か物音がするから、触手で真似をしているのだろう、なんて思っていた。


 触手をヘレンの手に伸ばし、潰さないように慎重に、そっと優しく手の形を組ませ、ジェスチャーと同じような動作をさせる。ヘレンは人魚を魔物だと勘違いしているため、言葉にはしなかったものの、内心ではとても賢い魔物だと舌を巻いていた。


「そう、上手……。ではもう一度。『こんにちは』の形にしてみて下さい。……はい、こんにちは。ふふっ、少しだけですが、初めて会話をしましたね」


 ヘレンのそんな言葉を聞いた人魚は、瞳孔を開き、深海に溶ける群青を鮮やかな藍色に発色させる。

 初めての「会話」に興奮――否、喜んでいるのだ。


 色の変化は盲目であるヘレンには分からなかったが、次の言葉をせがむように手に絡みつく触手に、喜んでくれているのだと何となく察した。

 人魚の望むままに手話を教えている内に、ヘレンはいつの間にか昨日から重く苦しかった感情から解

放されていた。


 しかし、そんな楽しい時間はあっという間に過ぎてしまい、気が付けば体は潮風に体温を奪われて冷え切っていた上に、潮が満ちてきて、足下に波が届くようになっていた。


「まあ、潮が……きっと、もう夜になってしまっていますね。ごめんなさい、今日はもう帰りますね」


 これ以上この場に留まってしまっては、風邪を引くどころか、波に攫われてしまうだろう。

 名残惜しく思いながらヘレンは人魚に別れを告げるが、人魚はヘレンの体をその手で掴み、触手でヘレンの腕を動かして、覚えたての「言葉」で自分の意志を伝える。


 行く、だめ。


「ですが、潮が満ちてきましたから、ここに居ると波に攫われてしまいます」


 一緒、行く。


「連れて行きたいのは山々ですが、教会に野生の魔物を連れて行く訳にはいきません。パニックになってしまいますから」


 あなた、好き。一緒、行く。


「私も同じ気持ちですが、分かって下さい。もう少し手話を覚えて、人のルールを覚えて、そうしたら皆に紹介しようと思っています。その時に、一緒に行きましょう?」


 人魚を説得するためにそう言ったヘレンだったが、ふと、とある事に気が付く。


「……紹介するにしても、名前が無いといけませんよね。では……今度からあなたのことを、セレナ、と呼びましょう。手話では、こう。セ、レ、ナ」


 せ、れ、な。


「そう、セレナ。小夜曲(セレナーデ)……夜に、愛しい人に送る曲から取りました。『穏やか』を意味する古い言葉から生まれたとされています」


 ヘレンは自身を掴む人魚の手を撫でる。それはまるで、愛しい人の頭を撫でるような手つきだった。


「私は、あなたと過ごす、この穏やかな時間に救われました。あなたの無音の小夜曲に、傷ついた心を癒やしてもらいました。だから、この名前をあなたに贈らせて下さい」


 しばらく瞳孔を開いてぽかんとした顔をしていた人魚だったが、群青色だった部分を鮮やかな藍色にして、触手でヘレンの手を動かす。


 せ、れ、な。嬉しい。ありがとう。へ、れ、ん、好き。


「気に入ってくれて良かったです、セレナ。……それと、ありがとうございます。ベアード神父が言っていた言葉……あなたのおかげで、少しだけ分かった気がします」


 もう一度、来て。


「ええ、また来ます。必ず。だから今日は、さようなら、ですよ」


 さようなら、のジェスチャーをしようとしたヘレンだったが、それを触手に中断され、別の手話にさせられる。


 嫌。


「なら、これにしましょう。また、明日。また、明日、です」

 

 まだ教えていなかった手話をやってみせる。

 言葉の意味を理解したセレナはややあって、やっと納得したように返事をする。


 また、明日。


「はい。また明日、会いましょう」

ご清覧いただきありがとうございました!

昨日は完全にスヤッスヤに寝落ちてました。申し訳ございません。


そろそろ誤字脱字の修正等をやりたいので、次回更新は土曜日ではなく、来週水8/21(水)となります。

何卒よろしくお願いします。


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