106 板挟み
ルイは目を伏せ、しばし思考を巡らせる。
以前あった出来事を考えると、彼のことは心理的には信用出来ない。だが、嘘を言っているようには見えなかったし、何より、どうにも気になることがあった。
「あの……えっと、あなたの名前は」
そう問われて、男は逡巡する。悩むようなことでもないはずなのに。ルイはその沈黙に、つい名を問うてしまったが実際の所聞く必要は無かったし、彼にも名乗りたくない理由があるのだろうか、と少し後悔した。
ややあって、男は口を開く。
「……ハヤト、だ」
ゲーム内、そしてこの世界では必ず「ヨダカ」と名乗っていたはずの男は、ルイにそう告げた。何故か郷愁を覚えているような、そんな切なげな感情を顔に浮かべて、その名を噛みしめるように。
そこに少し疑問を覚えたルイだったが、偽名だろうと深く追求することはなかった。今はそれよりも、聞かなければならないことがあったからだ。
「その、ハヤトさんがどうして私にだけこんなお話をしたのかだけ、教えてくれませんか? ディープワンやスタンピードの話が嘘か本当かはともかく、あなたの言い方は、まるで――」
――私を守ろうとしているような。
そう言いかけた、その時。
「おっ……お前! ルイに何してるんだよ!」
恐怖を隠しきれていない、けれど振り絞って叫ぶ聞き慣れた声が裏路地に響いた。
その瞬間、ヨダカは瞬時にルイを守るように戦闘態勢を取る。反応速度的にワンテンポ遅れて、ルイは背伸びしてヨダカの肩越しにその声の正体を見た。
ルイの想像通り、そこにはラガルが居た。彼の体躯に隠れて数秒程気付かなかったが、後ろにはレイシーも控えている。
よく見るとラガルの足はガクガクと震えていて、その後ろにラガルを盾にするように隠れているレイシーは、それ以上に体全体をガクブルと震わせていた。
二人共、ルイの姿が消えた状況からルイが人攫いにあったのだと思っており、だからこそ犯人らしき男が目の前に居ると認識していて、こんな反応をしているのだった。
「ラガルさん……! レイシーちゃんも!」
ルイの声に、彼女が無事だと分かった二人は、安堵のため息をつく。
だが、レイシーはルイの姿を隠すように立ち塞がる男の顔を視界に入れた瞬間、驚きに「ああっ!」と声を上げた。
「あんた、紅燕の!」
「な、何だよ、知り合いなのか?」
「知り合いっちゃ知り合いだけど……そんなことより!」
レイシーはへっぴり腰でラガルの後ろから顔だけ出したまま、勢いだけは一人前に、ビシッとヨダカを指差して叫ぶ。
「ちょ、ちょっとあんた、ルイに何しようとしてんのさ! 変なことしようとしたら、ただじゃおかないよ! ラガルが!」
「はぇっ!? ぼ、僕!?」
「極力外出したくない出不精なあたしが手練れの暗殺者を何とか出来る訳ないじゃん!」
これは余談だが、レイシーは興味のあることに関しては関連する知識まで身につけるタイプだが、裏を返せば、興味の無い事に関してはとことん無関心だ。一般的なファンタジー世界観のネット小説でありがちな生活魔法と呼ばれる類いの呪文はこの世界にも存在するが、レイシーはそれすらも真面目に覚えなかったのである。
そしてラガルは幼い頃から劣悪な環境の監禁生活を強いられており、まともな教育すら受けさせてもらえなかった。いくら血筋としては貴族、それも竜人種とはいえ、当然教育を受けなければ知識は得られない。知識が無ければ、呪文は使えない。現在はトワから一般常識こそ教わっているものの、彼女が呪文を使えない事もあって、そちらは完全にノータッチだった。
そして純粋な身体能力の問題としても、自己申告の通り運動不足で筋肉量も汎人種の平均値より低い上、性差もあってレイシーは論外。ラガルは種族的に、他種族より非常に優れた身体能力が潜在しているかもしれないし、実際ゲーム内ではプレイアブルキャラクターになっているため、いくら痩せぎすな体型でも力だけなら一般人程度にはあるだろう。しかし完全な戦闘員として心身と技術を鍛え上げてきたヨダカと、未熟な精神に技術の「ぎ」の字もないラガル。その二人を並べると、比べるまでもなく勝ち目が無いことは明白だった。
要するに、ラガルとレイシーの二人では、何をどう足掻いたってヨダカには敵わないのである。喧嘩を売るのは明らかに無謀だというのはラガルにも理解出来ていたから腰が引けているのだが、レイシーは恐らく気付いているにも関わらずそんな大口を叩いたのだった。
ラガルは頭の端で、先にジュリアと合流してからルイを探せば良かったんじゃないか? と激しく後悔したが、後の祭りである。
ヨダカは最初こそ警戒していたが、ラガルのそんな様子を見たからか、ヨダカが心なしか張り詰めていた殺気を解いているようにルイは感じた。
ヨダカの脇をすり抜けて彼等の元に向かおうとしたが、彼の腕がそれを阻む。無意識だったらしく、すぐに腕を下ろしてくれたが、まだ彼に対する恐怖が拭えないルイはそれ以上歩を進めることはせず、その場からレイシーを落ち着かせるために声をかけた。
「あ、あのねレイシーちゃん。この人は多分、そこまで悪い人じゃ……」
「お人好しなのは良いけど、そいつは人殺しだよ!? 悪人に決まってんじゃん! さぁ、早くルイを解放して! ユイカに言いつけるよ!?」
「レイシーちゃん、話を聞いて……!」
しかし早くも恐怖と緊張がピークに達しているのか、ルイの話すら聞こうとせずきゃんきゃんと喚き散らす。漫画的表現なら、瞳の中にぐるぐる渦巻きが浮かんでいたことだろう。
違う。そんな危ないことはされていないし、彼はこれから起きるだろうスタンピードの情報を教えてくれただけだ。
そう伝えようとしたのだが、そうする前にヨダカがルイにだけ聞こえる声量で話しかけた。
「行け」
「えっ?」
「あれは興奮すると話を聞かなくなる。これ以上騒ぎを大きくしたくない」
フードを被り直したヨダカはそれだけ告げると、ルイのために脇にずれて道を空ける。声は淡々としたもので、フードを被ってしまったせいで認識阻害の刻印が有効化したらしく、その表情を伺うことも出来なかった。
彼の言葉でルイは気付いたが、ラガル達の後ろ、大通りへの入り口には何人か野次馬が集まっており、何だ何だとざわついている。幸いと言うべきか、レイシーが叫んだ言葉の内容までは分からないようで、裏路地が騒がしいから様子を見ているだけのようだった。
ルイは何度かラガル達とヨダカを交互に見やって、後ろ髪を引かれる思いがあったものの、すぐに小走りでラガル達の方へ駆け寄った。
心配かけてごめんね、と口を開く前に、ラガルが勢い良くルイに抱きついて、ぶえぇぇ、と今の今まで我慢していた情けない泣き声を漏らした。力加減を一切気にしていない抱擁に、圧迫感からルイは抱きしめ返すより先にぺちぺちと背中を叩いた。
「ラガルさん、苦し……!」
「ぎゅう゛に゛い゛な゛ぐな゛る゛な゛よ゛ぉ……!」
「ルイ、大丈夫!? 何もされてない!?」
「う、うん、大丈夫だよ。少しお話してただけだから」
「本当? あいつに何かされてたんだったら、隠さなくて良いからね。あたし、あいつにガツンと言える人と仲良いから!」
「本当に平気だよ。急ぎの話だったみたいで、急に連れて来た事も謝ってくれたし……」
ルイは同意を求めるべくヨダカが居たはずの背後に視線を向けるが、既にそこには誰も居なかった。音も無く、気付かないうちに姿を消したヨダカの手腕に、改めてルイは彼が手練れだったことを思い出してぶるりと震えた。
レイシーもルイの視線を追って、ヨダカがいつの間にか立ち去っていた事に気付いたのか、張り詰めていた緊張の糸をようやく緩めた。よかったぁ、と心底安堵したようで、ラガルごとルイを数秒ハグした。レイシーはすぐに離れたが、安堵からべしょべしょと泣くラガルは離れようとしなかった。「さっさと離れなよ」とレイシーがラガルの足を小突いたが、小揺るぎもしなかった。
「ルイって、あいつと知り合いだったの? 急ぎの話とか言ってたけど」
「そういう訳じゃないけど……あの人は私のこと、知っているみたいだった。レイシーちゃんこそ、ハヤトさんと知り合いなの?」
「まあ何というか、あたしのパトロンが護衛に雇ってて……って、ハヤト? いや、あいつはヨダカって呼ばれてたけど」
「やっぱり偽名だったんだ……」
納得、と言うには名乗った時の様子が引っかかるが、見間違いか何かだったのかもしれないとその疑問を頭の隅の押しやった。
ルイはひとまず泣き続けているラガルを落ち着かせるため、とんとんと子供をあやすように背中を優しく叩いてあげながら、レイシーにこの後の事について提案する。
「ごめんね、事情を説明したいけど、まずはジュリアちゃんと合流したいの。ジュリアちゃんは騎士だし、先に色々と伝えなきゃいけないことがあるから」
「……まあ、仕方ないか。わかったよ。その代わり、後でちゃんと話を聞かせてよね」
「ありがとう。そういうことだから、ラガルさん、そろそろ行こう? 今度はちゃんと手を繋いで行くから大丈夫だよ」
ラガルは相変わらずえぐえぐと泣いているが、何とか頷いて体を離し、両手でルイの左手を握る。絶対にこの手だけは離さないという強い意志を感じたレイシーは、「いやそこまでしなくても」と小声でツッコミを入れた。
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※追記 2024/10/16
本日の更新ですが、所用で外出していたところ帰宅がかなり遅くなってしまい、執筆の時間が取れなかったため更新出来ません。
明日更新します! 申し訳ございません!