105 一羽でチュン
それは、突然のことだった。
「その付き合いの浅さでこれねぇ……」
「なっ、なんだよ、その目は……チョロい奴って馬鹿にしてるみたいじゃないか」
「べっつにぃー?」
ニヤリと笑ってからかう様な視線をラガルに向けるレイシーに、恥ずかしいのか、はたまた気分を害したのか、その両方か、ともかくラガルはムスッと口をへの字にしてしまう。
ラガルはあまりからかわれるのが好きではない。それが例え、普通の人ならばむしろコミュニケーションだと感じるだろう親愛からのものだとしてもだ。
だからルイはさりげなく話題を逸らしつつ、ラガルの面目を立てる為に口を開こうとして――その瞬間、ルイは裏路地へと引きずり込まれてしまった。
一瞬、何が起こったのかルイには分からなかった。口を塞がれ、あっという間に後ろ手に拘束され、突然の出来事に抵抗する間も無く大通りから遠ざけられたのだ。
ようやく自身がどういう状況に置かれているのかを理解して、誰かに助けを求めなければ、声を出さなければ、と思った時には日の光が届かない裏路地の突き当たりに到着していた。逃がさないようにか、ルイを誘拐した人物は壁側に彼女を押しやった。
誘拐犯は一瞬だけ拘束を解く。しかしそれは、ルイを解放するためではなく、自身と彼女を対面させる為だったらしい。急に拘束を解かれてふらついたルイの肩を掴み、強引に自身と向き合わせて、そのまま壁へと押しつける。
動いた際にフードが頭からずり落ちたのか、誘拐犯はフード付きの外套を羽織っていたのだが、その顔が露わになっていた。
薄暗い裏路地でも、日中であれば人の顔を認識出来る程度の光量はある。
彼の正体は――少し前、バラットに来る前に、見た事のある人物だった。
「何故ここに居る!」
怒気を孕んだ低い声に、ぴっ、と小さく悲鳴を上げる。いきなり怒鳴りつけられたのもあるが、彼の正体を知っているルイは、彼だと認識した瞬間に抵抗してどうこうしようなんて気概を削がれてしまったせいもある。
彼の質問に答えるより前に、恐怖を感じて震えてしまう口は、頭の中に思い浮かんだ疑問を垂れ流してしまった。
「あなた、あの時トワさん達を襲ってた……!」
ルイが口にした通り、彼の正体は、以前トワ達を襲撃した暗殺者の男だった。
あの時は今にも殺されそうなトワ達が居て、ルイは彼女達を助けようと、ただそれだけを考えていたので立ち向かう事が出来た。
だが、今は一人だ。自分が守らなければ、助けなければ、と思わせる仲間から引き離されてしまった。
獣人種や鳥人種の一部は、本能として仲間意識が強く群れで行動することを好む個体が一定数存在する。時には身を挺してでも仲間を守る、勇気や蛮勇を見せることだってある。しかし一方で、そういった特徴を持つ人族は往々にして、単独行動時に強敵と認識した相手と相対する際には、恐怖で動けなくなってしまいがちになってしまうものだ。
独りぼっちという状態から本能的に感じる不安感と、力量差のある相手から肩を掴まれ壁に押しつけられているという状況への恐怖に、恋愛以外の感情の機微に聡いはずのルイは冷静さを失い、普段なら出来ているはずの「相手の動向を見る」ということすら出来なくなっていた。
今やルイは、捕食者に食われるのを震えて待つことしか出来ない、被捕食者に過ぎなかった。
男は望んだ答えが帰って来ない事に苛立ち、小さく舌打ちをする。その一挙一動にビクついて、それが尚のこと彼の神経を逆撫でしてしまっていた。
しびれを切らした男は、乱暴にルイを何処かへと連行しようとする。
「早くこの都市から出ていくんだ、今すぐに!」
「ちゅあっ! や、やめて……離してっ! やだぁ!」
強引に連れて行かれそうになり、ルイは彼が口にした言葉の意味を理解する前に、反射的に身を捩って抵抗する。それは見た目相応の、恐怖に震える少女のか弱い抵抗であった。
しかし、何故か男は硬直する。その顔には、やってしまった、という後悔と罪悪感が滲んでいたことに、普段のルイなら気付いていただろう。
だが今の彼女は、本能から来る不安と、男への負のイメージから沸き起こる恐怖のせいでパニック状態だ。
男に敵意がない事にという事実に気付けなかったルイは、恐怖の限界を迎え、ついに泣き出してしまった。
「やだ、やだよぉ……ひっく、うぅ……」
誰にも届かないような、小さく震えた声でルイはすすり泣く。風船が割れるように感情が爆発したのではなく、コップに入った水の表面張力が限界を迎えて水が零れるような、そんな泣き方だった。男があのまま強引に連れ去ろうとしていたら、もっと感情という名の水は勢い良く溢れていただろう。
男は数秒程暗殺者らしくない、目に見える動揺という感情を露わにしたまま視線を彷徨わせた後、先程までの威圧的な態度を和らげてルイに話しかける。
「……悪い、泣かせるつもりは無かった」
男の言葉に、ルイはいやいやする子供のように首を横に振る。気にしないでというジェスチャーではなく、彼の話を聞きたくない、という拒絶の意だった。小揺るぎもしないが、彼の胸板に当てられたルイの手が弱々しいながらも力を込めていて、彼を突き放そうとしていたのだから。
彼は少しショックを受けたようだったが、それを振り払うように頭を振っってから、ルイを宥めるために落ち着いた声色で話しかけ続ける。
「いきなり攫われて、怒鳴られて、怖かったよな。俺が悪かった。少し焦っていて、それで強引にこんなことをしてしまったんだ。もう無理矢理どうこうしようとしないから、話を聞いてくれ。頼むよ」
その語り口は、泣きじゃくる妹をあやす兄のような、きっとこの場に傍観者が居たならばそんな印象を受けたことだろう。
幸い、ルイも感情がキャパシティオーバーしていたとはいえ、それはすぐ収まる程度のものだった。ピークを迎えたら後は下がっていくもので、少しずつルイは冷静さを取り戻し、帰ってきた思考力で彼に対話の意志がある事を理解した。
未だ涙は溢れるが、声を上げて泣く程ではなくなったルイは、びくびくと怯えながら恐る恐る男の顔を見上げる。すると彼はほっとしたように、強ばっていた顔を緩ませた。
「話を聞いてくれるか?」
彼の言葉に、ルイは小さく頷く。男がルイの肩から手を離した。ルイは無意識に彼から距離を取ろうとして後ずさったが、たった半歩で壁にぶつかってしまった。しかし、足が震えて腰が抜けそうだったルイにとっては、壁が立つための支えになってくれた。
距離こそ取ろうとしたものの逃走の意志は無いと判断したらしい男は、一呼吸置いて数歩下がって、話し始めた。
「港にディープワンが集まっている。いつスタンピードが起きてもおかしくない状況だ」
スタンピード、それもディープワンの。
魔物や一部の宙族には、突発的に集団暴走が発生する時がある。ただの群れの暴走というわけではなく、それこそ都市一つが滅んでもおかしくない規模の集団が押し寄せ、全てを破壊し尽くしてしまう災害だ。
それが、見るだけで人々の正気を削る宙族が起こすとなると、危険度は更に跳ね上がる。都市を守るべき騎士を始めとした戦闘員が真っ先に狂気に染まり、脅威に抵抗する手段は失われてしまう。そして狂人となった人から狂気は伝播し、凶行を止める者は一人残らず狂人に堕ち、最終的に現世に地獄が形成される。魔物のスタンピード以上の被害が出てしまうのは避けようが無い。
蛇人間といい、ディープワンといい、どうも今日は宙族に縁がある日らしい。そんな思考がルイの脳裏に過った。
しかし、このような事実を何故真っ先気にルイに伝えたのだろうか。こんな突拍子も無い話を信じられるか、という問題もあるのだが、それがもし事実だとして、それを知った彼がどうしてルイに接触しなければならなかったのか。
ルイは思わず、その事について言及する。
「な、なんでそんなこと、私に……」
「今は説明する暇が惜しい、とにかくすぐにでもこの都市から離れるんだ。宙族は聖女が片付ける算段だが……いや、今は一刻も早く避難することだけを考えろ」
男の声色は、表情は、真剣そのものだ。もしこれが根も葉もない話だったとしたら、彼はハリウッド俳優クラスの演技力の持ち主だろう。
ルイは迷った。トワ達を害したこの男を信用して良いものなのか、と。
男は何か言いかけると同時に手を伸ばそうとして、途中でやめる。行き場を失った手で拳を握り、痛みを感じているかのように顔を歪め、ややあって絞り出すように言った。
「……俺は、お前を危険に巻き込みたくないだけなんだ。分かってくれ」
彼は暗殺者だ。簡単に人を傷つけるどころか、殺す事だって出来る人だ。そんな人物を信用するなんて、普通は出来ないはずだ。
なのにその言葉はどうしてか、嘘には思えなかった。
ご清覧いただきありがとうございました!
同人女の異世界召喚を書き始めてからずーーーーーっと書きたい書きたい思ってて、なのに文字数が乾燥ワカメの如く増えて中々たどり着けなかったシーンをやっと書けてスッキリしました。
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