第21話 ゆっくりと、少しずつ
「ひいろとキスしたい」
そう口にしてから「またやってしまった!」と後悔の嵐に苛まれる。
バカバカ。どうしてすぐに結果を得ようとするんだ、まだお試し期間中だっていうのに。受け取る準備してない相手にいきなりボールを投げたらケガするだろうが。
「ごめん今の聞かなかったことにしてくれ。つい本能に抗えなくなっ……て……」
「キスって、あの、口と口を触れ合わせるキス?」
食い気味に問いかけてくる。
「ああぅん……そう、口でするやつ。本当に好きな相手とだけの、特別な」
「やっぱりそうだよね。……ここで、する……」
そっと自分の唇に触れたのを見て心拍数が跳ね上がった。意識してる。
「してもいいかも──ひと君となら」
「ふぇっ!?」
ひっくり返りそうになった。
「ままままじで!!??」
声も裏返ってしまう。
いいのかな? いいんだよな。
「じゃ、じゃあ」
恐る恐る肩を掴んだ。
緋色の体がびくっと震える。
耳まで赤くなっていまにも泣きそうな顔。
緋色から見たらオレもきっと同じ顔してるんだろうな。
「いくぞ」
ゆっくりと顔を近づけながら鼻が当たらないよう顔を傾ける。
ばくばくと鳴る心臓の音がうるさい。
「……目、閉じてくれよ。そんなに見られてると恥ずかしい」
「えっでも、私、歯医者さんで治療するときも目開けてるタイプで……」
歯医者さんもさぞやりにくいだろう(偏見)。
顔と顔がこれ以上ないほど近づき、緋色の吐息が感じられる。
あと少し。
「や──やっぱりダメ!」
間際になって体を押された。
「ごめんなさい、いまは、まだ――。ごめんね」
哀しそうなうつむく緋色。
居たたまれない気持ちになった。
「いや全然平気、まじ全然。あー紅茶うまかったー。じゃあ帰るわー」
自分でも何が何だか分からなくなって、逃げるように腰を上げた。
──その日帰宅したオレを待ち受けていたのは愛犬のサクラだ。
いつものように『お帰りなさーいっ』と飛びかかってくると思ったら、ふんふんと執拗に匂いを嗅ぎはじめる。
しばらくすると物言いたげな目でオレをにらんだ。『アタシ以外の女と遊んでたわね』とでも言いたげだ。モミジの匂いに気づいたのかもしれない。
その日は声を掛けても相手にしてくれなかった。女って難しいな。
※
『――目覚ましを止めて二度寝したら寝坊しちゃいました。今日は先に行ってて』
翌朝。
オレは電車内でため息をついていた。緋色から届いた遅れますメールになんて返そうか悩みつつ。
昨日はなんだかビミョーな空気になってしまったので早々に帰ることにした。
緋色は自宅までのタクシー代を払うと申し出てくれたけど、スマホで確認したら電車が運行再開していたので定期からはみ出す数百円分だけをもらい、逃げるように家を飛び出した。
ああやっちまった。
やっちまったよ。と心の中で叫びながら。
緋色の『彼氏』になりたい。
緋色の『特別』になりたい。
緋色の『唯一』になりたい。
それだけなのに。
めちゃくちゃ難しいことなんだな。
一体全体この世の中のカップルはどうやってカップルになってるんだろう。
朝からセンチメンタルなため息をついていると途中の停車駅から賑やかな一団が乗り込んできた。月波高校の一年だ。学年ごとにネクタイの色が違うので一目で判別できる。
最後に乗り込んできた長身と目が合った。
「あ。先輩じゃないっすか。ちーっす」
小石崎だ。
いま話したくない気分。
あっちいけ、と目で訴えるもまったくもってスルーされ、当たり前のように近づいてくる。
「先輩もこの時間の電車なんすね。隣いいっすか」
「他にいくらでも空いてるだろ、よそいけ」
「えー……」
あからさまに眉を下げる。
うわ、アレだ、事情があって構ってやれない時のサクラの哀愁漂う顔そっくり。オレこういう表情に弱いんだよなぁ(ちなみにサクラは今朝になると何事もなかったようにじゃれついてきた。単純)。
「ったく」
仕方なく席を空けてやった。
「やりぃ、さすが朔丘の元ポイントゲッター。俺のこともよく分かってらっしゃる」
朔丘の名前が出た瞬間、小石崎の顔をマジマジと見てしまった。もしかしたら睨んでいたかもしれない。
「なんで知ってんだよ」
「いまどき名前をちょちょいと入力すればヒットするっすよ」
勝ち誇ったようにスマホを取り出して検索している。
「これこれ、全中の常連・朔丘中央学園のキャプテンにしてシューティングガード。スリーポイントの成功率は驚異の60パーセント越え。その得点力とたぐいまれなドリブル力で『黒い閃光』の異名をもち、三年の全中では悲願の優勝を勝ち取りMVPにも選ばれた。……で合ってますか?」
どっかの記事を興奮気味に読み上げる。
もういいや、どうせ言わなくたってバレるんだろ。
「MVPじゃなくて優秀選手だ。MVPだと一人だけみたいに思われるから他の優秀選手に失礼だろ」
「うっす」
「成功率はオレが計算したわけじゃないから知らない。あとそのクソ恥ずかしい仇名は」
「すげーなァこんだけ活躍したならモテたんじゃないっすか?」
人の話をきけ。
思いきり睨んでやったが小石崎は片耳にイヤホンを差してスマホに夢中だ。どうやら全中決勝戦の試合動画を見ているらしい。死ぬほど恥ずかしいので目をそらしておく。
「言っとくけど周りみんな男ばっかだぜ。モテるもなにもあるわけないだろ」
「なーんだ、可愛い子紹介してもらおうと思ったのに」
こいつ本当にモテることしか考えないんだな。
単純バカだと思うけどオレだって人のこと言えない。
(入学当初は『彼女が欲しい』だけだったんだけどな。いつの間にここまで緋色を意識するようになったんだろう――)
もうすぐ学校の最寄り駅に着く。
小石崎は学校までついてくるつもりだろうか。
緋色はいまごろ家を飛び出したころだろうか。
イヤホンを外した小石崎がいまさらのようにオレを見た。
「そういえば今日マネージャーは一緒じゃないんすか?」
「寝坊したんだって。先に行っててくれだとよ」
「ふぅん。ケンカでもしたんすか?」
一瞬言葉に詰まる。
こいつ、見かけによらず痛いところを突いてきやがる。
「先輩高校でも最初からバスケやれば超モテたかもしれないのに、なんでやらなかったんすか?」
「……いいだろ別に」
オレは自分と賭けをしていた。
全中の決勝戦。第四クオーター。53対54の超接戦だった。
あと1点とれなかったら朔丘の負け、というシーンで手元にボールがきた。
オレはオレと賭けをした。
もしも優勝したなら――――ふつうの、ありふれた恋してみたい。
子どもころからおれの中に深く食い込んでいるバスケっていう根っこを抜いて、ただの桶川佑人になって、好きな子とデートしたり、ドキドキしたり、キスしたりしてみたい。そう思ったんだ。
だから悶々としながらもいまの新鮮な毎日をどこか楽しんでいる自分がいる。
緋色のお陰だな。
※
最寄り駅に到着した。
改札口を出たところで立ち止まる。小石崎が不思議そうに振り返った。
「行かないんすか?」
「先に行け。オレは緋色を待つ」
「って遅刻しますよ?」
「いいんだよ、ちょっとくらい。さっさと行け」
呆れたような表情が浮かんだ。
「お揃いで遅刻っすか。きもちわる」
「うっさい。バスケ部員なら学校まで走っていけ」
「はいはい」
くるりと背中を向けた小石崎は「今度また部活に顔出してくださいねー」と言い捨てて本当に走っていった。笑える。でもちょっとだけ羨ましい、その素直さが。
緋色が息せききって駆けてきたのは四十分後。
改札前にオレの姿を見つけて「え!?」と目を丸くしている。
「はよ。奇遇だな、オレも寝坊したんだ。一緒に遅刻しようぜ」
白々しく手を挙げてニカッと笑って見せた。
緋色は必死に息を整えたあと、様子を見るように歩み寄ってくる。
「待っててくれたの?」
「ちがうちがう。寝坊しただけ」
疑いの目。
まぁ自分でもバカだと思うけど一回の遅刻より緋色との登校の方が大事なんだ。
「とにかく行こうぜ」
胡乱げな緋色を促して一緒に歩き始めた。いつもなら手をつなぐけど昨日のことがあったせいで少し距離をおいている。
「昨日はごめんな。ちょっと焦ってて」
「うぅん私も、ごめんなさい」
浮かない表情をしている。
緋色なりに考えてくれたのかな。
「あのね」
「ん?」
「昨日はごめんね、イヤなわけじゃないんだけど。口でのキスは初めて──だから、その、恥ずかしくて……本当にごめんなさい……」
申し訳なさそうにうつむいている。
「あの! でも! ひと君のことが嫌いとか、そういうことじゃなくて、まだ自分に自信がないだけで、練習して、ちゃんと、できるようにするから……」
練習?
キスの練習ってなんだよ?
「──ぷぷぷ……」
「な、なんで笑うの?」
「いやなんか、緋色って本当にいじらしくて可愛いなと思ったんだよ。そういうところが好きなんだと思う。オレ」
「あ……ありがと……」
どちらからともなく手をつないだ。
「オレも決めたんだ。いまから緋色に《告白予告》する」
「こくはく、よこく?」
「オレ昨日みたいに時々暴走するからちゃんと決めておいた方がいいと思うんだ」
きょとんとする緋色。
そりゃそうだ。「告白予告」なんて緋色を待つ間に思いついた言葉なんだから。
「花火大会の日、緋色に告白する。そのときに正直な気持ちを聞かせてほしい。オレと付き合うか、現状維持か、やめるか。どれを選んでも緋色を嫌いになることはないし、オレに遠慮したり無理したりしなくていいから本心を教えてほしい」
オレが緋色を好きなのは変わらないと思うけど、それだけじゃダメなんだ。
期限を決めて緋色にも気持ちを固めてもらわないと。
「どう……かな」
思いつきにしては悪くないと思うが緋色は黙り込んでいる。
もしかしてやらかしてしまったろうか。
心配になって顔色を伺おうとすると、唐突に親指を突き立ててきた。
「……ありがとう。すごく、いいと思う」
はにかみながらの笑顔。
なんだかこっちまで嬉しくなってお揃いで親指を立てた。
一歩ずつ。ゆっくりと。少しずつ。恋を育んでいけばいい。
なんたってまだお試し期間なんだから。




