07 暴走と好走塁は紙一重
桂泉高校監督の岩井は、右打席に入る2番打者・梶田に「待て」のサインを出した。状況は0アウト走者1塁、1番の榊原が四球で出塁したばかりだ。まだ相手投手がコントロールを乱している可能性もあるから、1球様子を見ておきたかった。
初球、ストライクゾーンのストレートを梶田が指示通り見逃してストライク。
岩井はこれでもう相手が立ち直ったと確信し、今度はバントのサインを出す。
梶田は榊原ほど打撃センスがあるわけではないし、柔軟な判断力も持っていないが、言われたことを着実に丁寧にこなす職人気質の選手だ。梶田にバントのサインを出せば、まず間違いなく決めてくれると岩井は思っていた。
ところがその直後、目を疑うような出来事が起きた。
相手投手・村雨の投じたストレートが、梶田の寝かせたバットの上を綺麗に通過していったのだ。梶田がバントで空振るところなど、岩井は見たことがなかった。
しかし、岩井にとって想定外だったのはそれだけではない。
「走ってるぞ!」
青嵐高校の選手が上げた声で反射的に1・2塁間を見やると、確かに2塁へ向かう榊原が視界に入る。こちらはバントのサインを出していたにも関わらず、榊原が盗塁したのだ。
「何勝手なことを——」
岩井が怒鳴ろうとしたその時、青嵐の捕手からの返球より早く榊原が2塁へ滑り込み、盗塁は成功した。何となく怒鳴りそびれた岩井は、腕を組んでふーっと息を吐く。
たまたま成功こそしたものの、いくらグリーンライトを与えているとはいえやっていいことではない。練習中ならスタンドプレーだと叱るところだ。
(……榊原。お前、何を考えている?)
岩井は2塁ベース上で太ももについた土を払う榊原を睨んだ。
* * *
(うげぇ、めっちゃ睨まれてるよ)
2塁ベースに滑り込んだ榊原は、太ももについた土を払ってから岩井を見た。
ひしひしと感じる岩井からの視線に恐怖を覚えながらも、ここでびびったら負けだと思い、しっかりと目を見返す。
バントのサインが出た時、榊原は梶田がバントを失敗すると確信した。
それも、一球目はバットに擦りもしないのでは、と思った。
梶田のことは、チームメイトとして信頼している。
バントのみに関して言えば、自分よりはるかに上手い。
だが、その梶田を以てしても、村雨のボールを初球からすんなりバントできるとは思えなかった。それほどまでに、先ほどの打席で植え付けられた衝撃は大きかったのだ。
ともかく、梶田はバントを空振りするだろう。
どうせなら、その空振りを活かしてやろうじゃないか。
そこで試みたのが、先ほどの盗塁だった。
梶田のバントの構えの影響で、捕手からの2塁送球が遅れるだろうと踏んでの行動だ。
(ま、実際博打だったけどな。梶田がフライを打ち上げたりしたら、目も当てられない結果になってたし)
岩井が怒るのも無理はないと思う。
だが、ここは自軍の監督の考えに反してでも、走れる時に走っておいた方が良いと思ったのだ。
岩井は怒ってこそいるが、どうやらまだ榊原を代える気はないらしい。
榊原は内心安堵しつつ、サインを確認してからリードを取り始める。
梶田は結局、スリーバント(※1)失敗に終わった。
続いて、3番打者の桜井が左打席に入る。
桜井はチーム一のコンタクト能力を持っているので、もしかしたら何とかしてくれるかも、と淡い期待を抱きつつ、榊原は油断なくバッテリーを観察する。
桜井への初球は、この日初めての変化球だった。
(うわっ、なんだあのスライダー)
コースこそボールゾーンからボールゾーン、というあまり理想的なものでは無かったが、後ろから見てもよく分かるほど鋭い曲がりをしていた。現に桜井はそのボールを空振りし、青嵐の捕手が捕球にミスして軽く弾く。
(って、いけるじゃないか!)
一瞬スライダーに見惚れていた榊原は、我に帰ったその瞬間、迷わず3塁へと向かうべく地面を蹴り出した。ザザーッと3塁ベースに滑り込むと、少し遅れてタッチがくる。3塁審がセーフと判定し、榊原はほっと胸を撫で下ろした。
これで1アウト走者3塁。
自分がここまで来たことで、村雨はスライダーを投げにくくなった。
しかも、相手の捕手がたった今後逸したばかり。
(さあ、ここまでお膳立てしたんだ、桜井。後は仕事するだけだぜ)
榊原は少しでも村雨を揺さぶってやろうと、わざと大きめにリードを取る。
しかし、村雨はそうした揺さぶりには慣れている様子。
全くこちらを意に介さず、2球目を投じた。
桜井のバットはボールの下を潜り、2ストライクとなる。
1球牽制を挟んだ後の3球目。
今度もストレートだったが、偶然か否か、桜井のバットがボールに当たった。
フラフラと上がった打球がサード後方のファールゾーンへ向かい、それを青嵐の遊撃手が追っている。
(この打球……ワンチャン行けるかもな)
榊原は3塁ベースに戻り、スタートを切る準備をした。
* * *
桂泉の3番打者・桜井の打ち上げた打球を目にした瞬間、考えるより先に石塚の足は動き出していた。
「俺が行く!」
と声でサードとレフトの動きを制しつつ、足の回転をぐんぐん上げる。
スライスがかかっていたせいか、打球は思いの外スタンド側へ切れてゆく。
やばい、と思いつつ懸命に追いかけ、何とか飛び込んで捕球する。
ボールの入ったグラブを掲げてアピールすると、3塁審がキャッチを認めた。
高揚感を覚えつつ、身を起こす。
そのせいで、次のプレイへの反応がワンテンポ遅れた。
「ショート! 4つ4つ(※2)!」
周囲の声に何事かと内野を見ると、三塁ランナーがホームへ突っ込んでいる。
(まさか、今の当たりでタッチアップ!?)
慌てて石塚は捕手の福尾目掛けて送球したものの、時既に遅し。
ランナーは綺麗にホームベースを回り込むようにして滑り込み、福尾のタッチを掻い潜った。
「セーフ! セーフ!」
球審のコールに、一拍置いた後桂泉側の応援席が盛り上がった。
※1 スリーバント
……ツーストライクからバントを試みること。
失敗(ファール・空振り)すれば自動的にアウトとなる。
※2 4つ
……バックホーム(※3)のこと指すかけ声。
バックサードなら3つ、バックセカンドなら2つ、
バックファーストなら1つ。
※3 バックホーム
……ホームを狙う走者を刺すために、野手がホームへ送球すること。
「3塁を狙う走者を刺すために、野手が3塁へ送球する」なら
バックサード。1塁・2塁についても以下同文。
だんだん辞書みたいになってきましたね。