06 振れなかった
桂泉高校のリードオフマン(※1)である榊原は、投球練習を始める相手校の先発投手を打席の外で注視していた。打席に入ってすぐにタイミングが合うよう、投手が投げるのに合わせて軽くスイングし、イメージを作っておく。
138km、141km、143kmと、電光掲示板に表示される球速が徐々に上がってきた。向こうの投手は普通の公立校のエースなどではなく、県でも上位レベルかもしれない、と榊原は脳内で事前情報を修正する。
とは言え、そもそもその事前情報が今日の相手については非常に少ない。
実際に試合する中で、探り探りやっていくしかないだろうと半ば諦めつつ、球審に挨拶して左打席に入る。
桂泉高校野球部監督・岩井からの指示は出ていない。
元々榊原は岩井から全幅の信頼を置かれているおかげで、ノーサインのことがほとんど。ヘルメットのつばに軽く触れてからバットを構える。
初球。榊原がバットを振ろうと思った時には、ボールがミットに収まっていた。
(……ん? 何が起きた?)
一瞬思考がついていかなかった。
え? と思わずマウンドに立つ今日の対戦相手・村雨を見ると、彼はしまったというように顔をしかめていた。コースが悪かったからだろう。
が、問題はそこではない。
村雨のさらに奥に見える、電光掲示板に表示された球速。155km。
(おいおいおい、ちょっと待て。状況を整理しよう)
一瞬の沈黙の後、ざわざわと落ち着かない様子を示すスタンドの観客をよそに、榊原は一人打席で考える。そうしている間に2球目が来て、今度もボールだった。
(今日は地方大会の2回戦。相手は名前すらほとんど聞いたことのない公立高校、青嵐だ。その青嵐に、どうしてこんな投手がいる!?)
3球目もボール。今度は1・2球目に比べ、かなり際どいコースだった。
マウンド上の村雨は、ぽんぽんと何度かジャンプしてからプレートに付く。
緊張をほぐそうとしているのだろう。
(……いや、今そんなことを考えていても仕方がない。とにかくこの打席は相手のボールを、挙動をしっかり見よう。話はそれからだ)
4球目。榊原は持ち前の集中力を発揮し、村雨のボールを見定めようとした。
ストレートがど真ん中にきたが、スイングせずにミットへ収まるのを眺める。
ストライク、と球審がコールすると、村雨が今日初めて笑顔を見せた。
榊原はその様子を冷静に観察しながら、なおも思考を続ける。
(やっぱり向こうの投手は、ストライクを取るのに苦労してたんだな。今のほっとした顔がその証拠。なら——)
5球目。村雨がボールを投げる直前で、榊原はバントの構えをする。
気休めにしかならないだろうが、何もしないよりは相手を揺さぶれるのでは、と思っての行動だった。上手いことボール球を誘えば、四球で出塁できる。
しかし、榊原の期待も虚しく、ボールは真っ直ぐにミットへ収まった。
榊原はバットを引いたものの、球審がストライクをコールし、これで2ストライク3ボール。ここまで打者有利のカウントだったのが、ついに互角となる。
(くそっ、こうなったらもう自分のセンスを信じるしかない。ストライクならもちろん振る、際どいコースなら当てに行く、明らかなボールなら振らない、だ)
割り切ってしまえば、すっと集中状態に入ることができた。
村雨が振りかぶるのを見ながら右足を上げ、間合いを測る。
次の瞬間にはズバーン、という大きな音とともに、ボールがミットへ収まった。
一拍の間を置いて球審が「ボール!」とコールすると、榊原はへなへな崩れ落ちそうになるのを堪えながらバットを置き、一塁へ向かう。
出迎えてくれた1塁ランナーコーチにバッティンググローブを渡すと、
「ナイセン(※2)! 最後の球、よく振らなかったな。結構際どかったし速かったのに、流石は榊原だ」
とランナーコーチから肩を叩かれる。
榊原は言葉少なに「……ああ」とだけ言った。
振らなかったのではない。振れなかったのだ。
そういう経験は今までになかったから、榊原の自信を大きく揺るがしていた。
リードオフマンの内心などつゆ知らず、ランナーコーチは能天気に続ける。
「でも、速いには速いけど、コントロールはそうでもないな。あれなら何回かチャンス作れるんじゃないか?」
「……どうだろうな」
榊原はすげなく答えると、マウンド上の村雨を見た。
タイムを取ったのか捕手がマウンドへ向かい、村雨と何やら話している。
4球目以降、つまりストライクが入りだしてからの投球が、彼の実力だろう。
榊原は、何となくそんな気がしていた。
そして自分の勘は、野球に関して言えば大抵当たる。
仮にその勘が当たってるなら、チャンスはもう来ない。
自分が四球で出塁したこの回が、最初で最後のチャンスになる。
幸いにも、榊原は監督の岩井からグリーンライトを与えられていた。
つまり、いけそうなら榊原の判断で盗塁して良いということだ。
もちろん、自由には責任が伴うから、あまりに杜撰な判断をすれば叱責は免れないが。
(……腹括って、リスクを背負うか)
榊原は、ゆっくりと深呼吸した。
* * *
慎吾が先頭打者に四球を許すと、福尾がマウンドへやって来た。
福尾は心配そうな顔で、慎吾の様子を窺っている。
「大丈夫か? 最初の方、なんかボールが荒れてたけど」
「大丈夫。もう治ったから」
「そうか。……どうだ? 久しぶりの公式戦のマウンドは」
福尾が尋ねると、慎吾は顔を俯けた。
なぜかぷるぷる震えるその様子に、何かまずいことを言ったのかと福尾があたふたし始めたその時、慎吾ががばりと顔を上げる。
やけに真剣な顔で、慎吾は言った。
「やばいんだよ。楽しすぎて、ここを離れたくない。どうすれば良いと思う?」
「……紛らわしいんだよ、お前は。心配して損したわ」
福尾は軽く慎吾の腹を小突くと、ホームへ戻った。
口元には、自然と笑みが浮かんでいる。
(普段の様子見てると、もっとガチガチになると思ってたが……どうやらあいつは、マウンドに登ると性格変わるタイプみたいだな。俺や猿田より、よほど自信に満ち溢れている)
勝敗がどうなるかはまだ分からないが、慎吾があの調子なら面白いことになりそうだ。福尾は何となく、そんな気がした。
※1 リードオフマン:1番打者のこと。lead-off man。
※2 ナイセン :「ナイス選球」の略。際どいコースの球を見極めてボールだった時に使う。