5-3 ②
◇ ◇ ◇
帰り道、陽茉莉はふと空を見上げた。
やけに明るいと思ったら、大きな満月がぽっかりと浮かんでいる。秋の満月はことのほか風情がある。
(満月か。そういえば、高塔副課長と潤ちゃんも今日は満月だって言っていたな)
帰ったら、今日は月が綺麗だよって教えてあげよう。
そう思ってすぐに、夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』と訳したという有名な逸話が頭に浮かぶ。
(……やっぱり、教えなくていいや)
そんな豆知識、知っている人のほうが少ないだろう。それに、知っていたとしてもそんな意味で取られるわけがない。
なのに、なぜか頬が熱くなるのを感じて陽茉莉は片手で顔を仰ぐ。頬を撫でる秋の夜風の冷たさが、かえって心地よかった。
「ただいまー」
玄関を開けると、リビングの電気が付いているのが見えた。けれど、物音は一切聞こえない。
(本でも読んでいるのかな?)
陽茉莉は忍び足でリビングに向かう。ソファーの上では、オオカミ姿になって体を丸めている相澤の姿があった。
(寝てるのかな?)
邪鬼退治をしていない日なのに、リビングでオオカミ姿で寝込んでしまうなんて珍しい。ふわふわの毛並みが呼吸に合わせて上下しており、陽茉莉はおずおずとその銀色の毛並みに手を伸ばす。
(うふふっ、ふわっふわ)
このふわふわ具合は元々なのだろうか。それとも、カノンリゾートへの提案対策のために最近毎日のように日替わりで使用しているあの試供品達の効果なのだろうか。
あまりの触り心地のよさに、陽茉莉は思わず体を屈めてもしゃもしゃと毛並みを撫で回した。
その瞬間、視界がぐるんと回転する。
「きゃっ!」
驚いて悲鳴を上げた陽茉莉は、次の瞬間別の意味で驚いた。
いつの間に人間に戻ったのか、眼前にこちらを見下ろす相澤の顔が迫っていたのだ。
「何やってんの?」
「何って……、帰って来たところです」
手首をしっかりと掴まれているせいで、身動きができない。ソファーに押し倒されたような格好になった陽茉莉は、あまりの距離の近さに動揺した。
「違くって、人の毛並み触ってもふもふしてただろ?」
「え?」
眠っていると思っていたのに、起きていた?
眠っている男性の体を勝手に撫で回して喜んでいるなんて、完全に痴女じゃないか!
「すいません、つい……」
陽茉莉はそれ以上答えることができず、視線を泳がせる。きっと、顔は真っ赤になっているだろう。
「どこ行ってたの?」
「……ちょっとしたお出かけです」
「ふーん。ちょっとしたお出かけね」
なぜが相澤の瞳が不機嫌そうに眇められた気がした。
「すげえ、臭い」
「えっ?」
もう涼しい季節だしそんなに汗もかいていないはずなのに、そんなに汗臭かっただろうか。もしくは、お酒の匂い?
陽茉莉は狼狽えて相澤から逃れようとしたが、がっしりと捕らえられてそれは叶わなかった。
「嫌な気配がする」
滅多に聞かないような、不機嫌さを滲ませた声だった。
「うそっ」
今日は、きちんとお守りを持ち歩いた。邪鬼の声は一度も聞かなかったし、姿も見かけなかったはずだ。
それなのに、嫌な気配がする?
自分のほうに相澤の顔が沈んできて、首元に鼻を寄せる。
次の瞬間、陽茉莉は飛び上がるほど驚いた。柔らかな温もりが肌に触れ、つつつっとなぞるような感覚。
「か、係長……」
「黙って」
唇が離れ、吐息が肌に当る。ぞくぞくとしたものが体の奥から込み上げるのを感じた。
(これって、邪鬼の気配を追い払う一環!?)
確かに、以前も相澤は陽茉莉の首元に顔を寄せて『嫌な気配はしない』と言っていたことがある。
けれど、そうは言っても狼狽えてしまう。
陽茉莉はドキドキしすぎておかしくなりそうな心臓を収めようと、「これは治療のようなもの、これは治療のようなものー!」と必死に自分に言い聞かせる。
次の瞬間、押し当てられた唇の辺りにちりっとした痛みのようなものを感じる。
「んっ」
思わず声が漏れ、恥ずかしさで死にそうだ。
その声に反応するように、相澤が顔を上げた。
焦げ茶色の瞳と視線が絡み合う。
「か、係長。まだ嫌な気配は取れないんですか?」
お願いだから、もう止めてほしい。半ば涙目になりながらも、顔を真っ赤にした陽茉莉はか細い声を絞り出した。
こちらをまっすぐにこちらを見つめる相澤の瞳が、切なげに揺れる。
「……礼也」
「へ」
「礼也って呼んでほしい。家で〝係長〟って呼ばれると、仕事中みたいで疲れる」
「あ。ごめんなさい」
陽茉莉は慌てて謝罪した。
いつも〝係長〟と呼んでいるので、家でも無意識にそう呼んでしまっていた。確かに、プライベートな時間まで役職で呼ばれたくはないだろう。
「れ、礼也さん。嫌な気配、消えましたか?」
名前で呼ぶだけなのに、なぜかものすごく恥ずかしい。
その途端、相澤はなぜか体を起こして片手で顔を覆った。
陽茉莉は慌てて体を起こすと、ちょこんとソファーの端に座り直した。
「あのー、礼也さん?」
陽茉莉はおずおずと、相澤に声をかける。
答えてはくれないけれど、自分から離れたということはもう大丈夫だということだろうか。
「なあ」
「はい?」
相澤はぽすんと反対の端に座ると、深い溜息をついてからこちらを見つめた。そのまっすぐな眼差しに、落ち着きを取り戻しつつあった心臓がまたドキンと跳ねる。
「前から誘おうと思ってたんだけど、一緒にホテルに行かないか?」
「……ホテル?」
それはつまり……そういうお誘い!?
これ以上にない位に目を見開いた陽茉莉を見つめ、相澤がふっと笑う。
「──三人で」
「さ、三人?」
「そ。カノンリゾート東京、プレゼン当日までに下見したほうがいいと思うんだ」
にこりと微笑む相澤を、陽茉莉はぽかんと見上げた。
カノンリゾート東京?
つまりこれは、プレゼン日までに実際に商品を使用する環境などを目で見て確認して、よりよい営業提案に繋げようというお誘いだ。
陽茉莉は自分の勘違いに気付き、恥ずかしさから真っ赤になる。
「陽茉莉、なんか顔が赤いけど大丈夫?」
「ひ、陽茉莉?」
「俺が〝係長〟って呼ばれて疲れるなら、陽茉莉も会社と同じ呼び方だと疲れるかと思ってさ」
あ、なるほどと素直に納得してしまった。そしてすぐに、いや、そうじゃない!って思い直す。この人、今、絶対にからかって遊んでいた。
「礼也さん、わざと変な言い回ししたでしょ! 勘違いしちゃったじゃないですか!」
陽茉莉が頬を膨らませると、相澤は少しだけ小首を傾げる。
「何が?」
相澤は不思議そうに、こちらを見返す。
(純真無垢そうに聞き返してくるけど、騙されないんだからっ!)
会社の人達が猫かぶりにすっかり騙されているけれど、自分に関してはそうは問屋が卸さない。
「とぼけないでください!」
「いや、本当にわからない。何をどう勘違いしたのか、興味深いな」
相澤がこちらを見つめ、にやりと笑う。
「ば、ば、ばかー!」
顔を真っ赤にした陽茉莉はソファーに置かれていた丸クッションをポスンと相澤の顔に投げつけ、立ち上がる。
間違いなくからかっている。
本当に、とんでもない猫かぶりだ。
プイッとそっぽを向いて床に置いた鞄を持つと、陽茉莉はそそくさと自室へと向かったのだった。
◇ ◇ ◇
「それにしても、係長、今日はいつもと様子が違ったな」
自室で、陽茉莉は腕時計を外しながら独りごちる。
初めて〝陽茉莉〟と名前を呼ばれ、不覚にもきゅんとしてしまった。これもそれも、モデル並みのイケメンなのが悪い。
(お酒でも飲んでいたのかな?)
そう思ったけれど、あれだけ近くに寄っても特に酒臭くはなかったから違うと思い直す。そして、先ほどの距離感を思い出してまた顔が赤くなるのを感じた。
──礼也は満月の夜は、オオカミになるから。
ふと、今日高塔から聞いた言葉を思い出した。
(満月の夜は、オオカミになる?)
そういえば、以前に相澤の様子がいつもと違ったのも満月の日だった。
「でも、まさかね」
陽茉莉は首を振り、自分の中に浮かんだ馬鹿げた想像を打ち消した。




