二人の母親に迫る娘はイヤですか?
【登場人物】
菱刈美歩:高校一年生。5歳のときに紗知と佳純に引き取られた女の子。
菱刈紗知:36歳。化粧品会社で働いている。佳純とは恋人同士。
浅木佳純:36歳。在宅でwebライターをしている。平日の家事はだいたい佳純の担当。
わたしにはおかあさんが二人いる。
紗知おかあさん。普段は優しいけど怒ると怖い。不条理な怒り方をしたことは一度も無く、わたしが嘘をついたり失敗を隠そうとするとすごく怒る。でも運動会とか発表会でダメだったときはどんなに結果が悪くても『がんばったね』と褒めてくれた。化粧品会社に勤めていてお土産に試供品を持ち帰ってくれるのが最近のわたしの楽しみだ。スーツ姿がかっこ良い自慢のおかあさん。
佳純おかあさん。わたしが怒られて泣いているとそっと頭を撫でながら慰めてくれて、何が悪かったか次にどうすればいいかとかを一緒に考えてくれるくらい優しくて頼りになる。在宅のお仕事をしているからいつも家にいて、化粧の仕方を教えてくれたりもする。我が家の家事を取りまとめる自慢のおかあさん。
二人ともすごく仲が良い。
いってきますのキスは当たり前。テレビを観てるときに手を繋いでいたり、見つめ合って笑ったりする。ケンカをしても次の日の朝にはもういつも通り。
理想の夫婦というのはまさにおかあさんたちのことを言うんだと思う。夫ではないので婦婦って言った方が正しいか。
小さい頃からそんな二人の仲の良い光景をずっと見てきたわたしにとって、理想のカップル像がおかあさんたちになるのも当然のことだ。
いつかわたしに恋人が出来たらおかあさんたちのような関係を築こう、とまだ見ぬ将来の自分に想いを馳せたりしていた。
理想というのは憧れであり羨望だ。
高校に入学して周りの友達の恋愛話を聞く機会が多くなり、なおさらその羨望は強くなっていった。
『恋人が出来たらおかあさんたちみたいになりたい』が『おかあさんたちみたいな恋人が欲しい』に変わるのは時間の問題だったのかもしれない。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
わたしのただいまに応えて奥の方から佳純おかあさんの声が返ってきた。
リビングに入ると何かを煮込む美味しそうな匂いが漂っていた。自分の部屋へ行く途中にダイニングキッチンを覗き込む。
「今日のご飯なに?」
「いつものすき焼き風煮込み」
「やった」
わたしの好きなメニューだ。野菜やキノコやお肉が甘辛く煮付けてあってご飯にとても合う。食べ過ぎないように気をつけないと。
ふと佳純おかあさんに目をやった。
部屋着にエプロン姿でコンロの前に立つ佳純おかあさん。料理の邪魔にならないように長い髪を後ろでまとめている。その白いうなじも、おたまの柄を握る手も、小皿で味見をしている唇も、全部が色っぽく見える。
それは小さい頃から何度も見てきた日常の光景。なのに今ではこんなにもドキドキしてしまう。
「どうかしたの? ぼーっとして」
「え、えっと、佳純おかあさんのエプロン姿似合うなぁって」
「? 毎日このエプロン着けてるのに?」
「だから、毎日そう思ってたよってこと」
佳純おかあさんが嬉しそうにくすりと笑う。
「ありがとう。ほら、早くカバン置いて手洗いうがいしてきなさい」
「はーい」
しょうがないことだけど、いくらわたしがおかあさんの容姿を褒めたところで『子ども』のフィルターがかかってしまう。
もし今のが紗知おかあさんの言葉だったらきっと違った反応が返ってきたはずだ。愛し合っている二人だからこその会話やスキンシップでいちゃいちゃするに違いない。
それは相手が紗知おかあさんであっても同じこと。
晩ごはんを食べる前にお風呂に入り、リビングでテレビを観ていると玄関のドアが開く音が聞こえた。紗知おかあさんが帰ってきたみたいだ。すぐに廊下に向かい出迎える。
「おかえりー」
「ただいま」
柔らかく微笑んだ紗知おかあさんがバッグから長細いボトルを取り出す。
「これ、次に出る化粧水。美歩が使ってるやつもうなくなりそうって言ってたよね」
「わー、ありがとー!」
ボトルを受け取り、紗知おかあさんに抱き着いた。
「こらこら、スーツに抱き着いてこないの。もうお風呂入ったんでしょ」
頭をぽんぽんされてあっさりと引きはがされてしまった。
せっかくハグでお出迎えしたというのに対応が軽い。
もし今のが佳純おかあさんのハグだったら絶対もっと違う反応だったはずだ。愛し合ってる二人だからこそのやりとりやおかえりのキスでいちゃいちゃするに違いない。
あらためてわたしは思った。
わたしだっておかあさんたちといちゃいちゃしたい!
では、おかあさんたちといちゃいちゃするにはどうすればいいか。
自分の気持ちを言葉で伝える?
多分だけど、わたしがいくら『好き』と言っても『私も好きだよ』と返されるだけだと思う。それは恋愛としての『好き』ではなく家族に対しての『好き』だ。わたしが欲しいのはそれじゃない。
強引な手段に出ることも考えたけど腕力じゃ敵わないし、悪ふざけするなと怒られてしまうだろう。
だからわたしは逆転の発想をしてみた。
わたしが直接好意を伝えるんじゃなくて、おかあさんたちがわたしに好意を持つように仕向ければいい。
日常の何気ないスキンシップで相手をドキリとさせてわたしが『娘』ではなく『女性』であることを意識させる。
それが出来たらあとは簡単だ。自分で言うのもなんだけどわたしは二人に愛されている。愛しい娘であり愛しい女性であるわたしを拒むはずがない。
土曜の昼下がり、わたしは佳純おかあさんの部屋に行った。急ぎのお仕事が入ったらしく、今日は午前中からずっと部屋にこもっている。
ドアをノックしてから声をかける。
「佳純おかあさん、入るよ」
中に入ると佳純おかあさんが顔を向けてきた。パソコンで作業をするとき用のメガネを掛けている。
「ん? どうしたの?」
「その、お昼食べてないって聞いたからお菓子持ってきたんだけど」
わたしが持ってきたクッキーやチョコの包みを見て佳純おかあさんが微笑む。
「ありがとう。じゃあちょっと休憩しよっかな」
もしかしたら本当はお仕事の邪魔になってるかもしれないのに、佳純おかあさんはこういうとき嫌そうな顔を絶対にしない。いつだってわたしを労い、褒めてくれる。
佳純おかあさんは何個かお菓子を食べてから、残りをパソコンのモニター横に置いた。
「これはまたあとで食べさせてもらうね」
そう言って飲み物の入ったコップに口をつけた。
普通の娘だったらここで『お仕事頑張ってね』とか声を掛けて部屋を出ていくんだろうけど、それじゃダメだ。
佳純おかあさんがコップを置いたのを見計らって、わたしはその胸に飛び込んだ。
「え」
驚く声を聞きながら腕を回してあたたかい体を抱き締める。
「……こうすれば、ちょっとは疲れも取れるかな」
疲れを取るためなんて建前でしかなかったけど、佳純おかあさんはわたしを抱き締め返して頭をそっと撫でてくれた。
「うん。美歩のお陰で疲れが吹き飛んじゃった。ありがとう」
少しだけ体を反らすと、すぐ目の前に佳純おかあさんの顔があった。メガネのレンズの向こうにある優しい瞳にトクンと胸が高鳴る。
このまま顔をちょっと近づけるだけでキスが出来てしまう距離。指に力が入る。おかあさんたちのキスをずっと見てきたからこそ、キスに対しての憧れも一際強い。今だったら佳純おかあさんも避けたり出来ないだろう。いや、佳純おかあさんだったら簡単に受け入れてくれる可能性もある。これはチャンスだ。
わたしが生唾を飲み込んだとき、佳純おかあさんの表情がぴくりと動いた。目をわずかに見開き唇を引き結ぶその仕草は何かを警戒するようにも見える。
気付かれた?
すぐに体を離して笑ってごまかす。
「えへへ、じゃあお仕事頑張ってね」
「あ、うん」
逃げるように佳純おかあさんの部屋を後にして、ふぅ、と息を吐く。
危なかった。強引な手段は取らないと決めてたはずなのに、いざ佳純おかあさんを前にすると心がぐらついてしまった。
少し怪しまれたかな……。でも結局わたしは何もしてないんだから怒られる理由はどこにもない。いやもしかしたら至近距離でわたしと見つめ合ってドキっとした可能性もある。そういうことにしておこう。
夜になり、晩ごはんもお風呂も済ませてソファーでテレビを観ていると紗知おかあさんがやってきた。
「ふぅ~」
お風呂から出て来たようで、Tシャツ姿で髪の毛にタオルを巻いている。わたしの近くに座り、タオルで軽く叩くようにして髪を拭き始める。その所作もそうだけど、水気を含んだ髪の毛とほんのり上気した肌からは大人の色気を感じる。
わたしの視線が紗知おかあさんの視線とぶつかった。
「ん? なに?」
咄嗟に思いついたことを口走る。
「え、えっと、紗知おかあさんって肌綺麗だよね!」
「そりゃまぁスキンケアはちゃんとしてるし、会社で化粧品取り扱ってるのに肌がボロボロとか洒落にならないからね」
言ってから紗知おかあさんがわたしに手を伸ばしてほっぺたを指でつついてきた。
「そういう美歩もちゃんとやってる? 若いからって手を抜いてちゃ将来大変よ。お風呂上がりは特に肌が乾燥するんだから」
「わ、わかってるよ」
「今は何もしなくてもこんなにすべすべでぷにぷにかもしれないけど――いや本当にすべすべだし張りがあるしで羨ましいな……こいつめこいつめ」
「やつあたりだー」
ぐにぐにとほっぺたを弄ばれる。くすぐったいとか痛いとかは無く、むしろ肌を直接触られているのが嬉しくて気持ち良いとすら思える。
いや、気持ち良いと思ったのは紗知おかあさんの指がいつの間にかわたしの顔をマッサージし始めたからだった。
「これは小顔マッサージね。お風呂につかりながらでいいから毎日こうやって指でほぐしてみて」
やり方を教えてくれる紗知おかあさん。ずっとこのままマッサージをしてもらうのもいいけど、どうせならわたしも紗知おかあさんに触りたい。
「次はわたしが紗知おかあさんの顔をマッサージしてあげる」
「私は自分でやってるから大丈夫よ」
笑って断られた。だったら。
「じゃあ肩とかこってない? 毎日お仕事で疲れてるよね?」
「え、揉んでくれるの? 美歩優しい~」
あっさりとわたしに背中を向ける紗知おかあさん。ただの善意だと信じきってるようだ。
わたしは躊躇することなくその両肩に手を伸ばし、親指で押すようにして揉み始めた。
「結構こってるね」
「そうなのよ。最近座って仕事するのが多かったから――あ、いい、そこそこ」
固くなった部分をほぐすたびに紗知おかあさんが声を出した。
喜んでくれているみたいでよかった。わたしも紗知おかあさんに触れられて嬉しいからまさにWin-Win。
揉み続けることしばし。
「んっ、あー、いい、ん――」
なんだろう。いけないことをしている気分だ。でも寝室から聞こえて来たあの声とはやっぱり違う。佳純おかあさんだったら紗知おかあさんをどんなふうに触るんだろうか。
考えているときに紗知おかあさんの首筋が目に入った。前傾になっているからなおさらよく見える。
……こういう場所にキスしたりするのかな。
ラブシーンでよく見る光景が、おかあさん二人と重なった。
ドクン、と大きく心臓が跳ねる。
白い首筋がどんどん近づいてくる。違う。近づいているのはわたしの方だ。でもそれを止められない。
ただ欲望の赴くままに、わたしは紗知おかあさんの首にキスをした。
「……美歩? 何やってるの?」
「――――」
正気に戻り、紗知おかあさんの背中から飛びのく。
「あ、あはは」
笑ってみるけど紗知おかあさんの表情は明らかに訝しんでいる。当然だ。肩揉みをしていた娘がいきなり首にキスをしてきたんだから。
「こ、こうすると肩こりに効くって誰かが言ってたんだ。えっと、じゃあわたしは部屋に戻るね!」
まくしたててその場から逃げ出した。苦しい言い訳だと自分でも思う。いっそ子どもっぽく『紗知おかあさん大好きー』とでも言った方が見過ごされたかもしれない。でももう遅い。
どうか紗知おかあさんにわたしの気持ちが気付かれませんように。
自室のベッドに横になったままそれだけをひたすらに祈った。
◆ ◆
菱刈紗知と浅木佳純が美歩と出会ったのは、二人が25歳のときだった。
子どもが欲しいという共通の想いを持っていた二人。どちらかが産むのではなく養子を取ろうと思っていた。
養子を取る方法は二つあり、一つは特別養子縁組、もう一つは普通養子縁組だ。
現在の日本の法律では特別養子縁組は夫婦でないと利用出来ないが、普通養子縁組ならば独身でも養親が成年に達していれば利用出来る。ただし、子どもが未成年だった場合は家庭裁判所の許可がいるし、15歳未満の場合はその子どもの親権者の承諾が必要だ。
特別養子縁組と普通養子縁組の違いは、子どもが養親の実子になるかならないか。特別養子縁組を行うと子どもは実親との関係が切れ、戸籍上では養親の『長男』『長女』と表記される。普通養子縁組では実親との関係は残り、戸籍上では養親の『養子』となる。
紗知たちにとっても勿論子どもと本当の親子関係になれるに越したことはなかったが、書類の上で実子であろうと養子であろうと愛情に差なんてないとも思っていた。
そして一番の難問。どの子を迎えるか。
ペットやゲームの相棒を決めるのとは訳が違う。文字通りひとりの人生が掛かっているのだ。軽々には決められない。
幼児院や児童養護施設を巡り、どの子を迎えるかを悩む日々。最初は幼児を引き取って育てるつもりだった。自分たちの子どもとして育てるのならやはり赤ちゃんから育てたいと思ってしまうのは仕方のないこと。実際、日本財団の養子縁組家庭に関するアンケートでは六割の人が1歳以下の子どもを引き取っている。
そんなとき、とある児童養護施設の部屋の隅でひとりでいる美歩を見つけた。5歳になるその子は、一年前に家庭の事情で施設に来たのだという。
美歩の暗く沈んだ表情を見て、二人の意見は一致した。
――この女の子を笑顔にしてあげたい。
『ねぇ、私達の家から小学校に通ってみないかな?』
それが顔を合わせて最初に言った言葉だった。
「えー、久しぶりにおかあさん会議をしようと思います」
紗知と佳純の寝室。ベッドの上で寝間着姿の二人が向かい合う中、紗知が切り出した。
おかあさん会議とは、美歩を育てているときに起きた問題を解決するために二人で相談をすること。叱り方や褒め方、美歩のクセや好き嫌いなど、最初の頃は議事録を取りながら細かく話し合っていた。それだけ必死に子育てをしていたとも言える。
「前やったのって確か美歩が進路決めるときだっけ?」
「そうだね」
「最近は会議するほどのことは無かったと思うんだけど、何かあった?」
聞かれて紗知は一瞬躊躇ったあと、思い切って口に出した。
「美歩が私に恋してるかもしれない」
「…………」
「…………」
「またまたそんなぁ。美歩が甘えんぼだから勘違いしてるだけでしょ」
「いやほんとに」
「何? 告白でもされた?」
「キスされた」
「え!?」
「お風呂あがりに肩を揉んでくれたんだけど、そのとき後ろから首のこの辺に」
「なんだ、それだったら単にじゃれてただけかもしれないじゃない」
「ちらっと美歩の顔が見えたけどあれはじゃれてた感じじゃなくて――」
紗知が一度言葉を止めて佳純を窺い、先を続ける。
「してるときの佳純みたいな顔してた」
「してるとき……」
自分で自分の顔が見えるわけではないが、佳純にもなんとなく想像がついた。それに付随するかのように昼過ぎにあった出来事も思い出す。
「そういえば今日のお昼過ぎに美歩が私のところにお菓子を持ってきてくれたんだけど、そのときにいきなり抱き着いてきてじっと私の顔を見つめてきて――」
「まさかキスされたの!?」
「されてないよ。そういう雰囲気を感じただけ」
「キスしそうな雰囲気?」
「そう。紗知がよく出す『キスしたいオーラ』にそっくりのね。私思わず身構えちゃった」
…………。
わずかな沈黙の後に紗知が乾いた笑いを発した。
「はは、お互いにそっくりってさすが私達の娘だねー、あはは」
「くす、ほんとにね」
「笑い事じゃない!」
「先に笑ったのはそっちでしょ」
「……で、どうする?」
「どうするって言われても」
「このままだとまずいよね」
「んー、でも全部が私達の早とちりで、キスは美歩の愛情表現ってことはない? 親愛を示すのにキスをするのだっておかしくはないし」
「まぁ、ね」
他ならぬ母親たちがキスや触れ合いで愛を確かめ合っているのだから、それに影響を受けたとしてもおかしくはない。しかしそうだとしても、紗知だけでなく佳純に対しても同じような態度というのが気に掛かる。
(私達のどっちかを好きになったんだとしたらもっと迫りようがあるだろうし、わざわざ二人ともに手を出そうとはしないよね)
考えていた紗知に佳純が話しかける。
「ねぇ、美歩にキスされたとこもう一度見せて?」
「ん? 別に唇が触れただけだしキスマークとかは付いてないけど――」
言いかけて、佳純の表情に気付く。切なそうで嬉しそうで何かを期待しているその表情は、先程の佳純の言葉を借りれば『キスしたいオーラ』に溢れていた。
紗知が小さく笑う。
「娘に嫉妬した?」
「そういうんじゃないけど、負けてられないなって」
「でも佳純だってもうちょっとで美歩にキスされそうだったんでしょ」
「私のは未遂だから」
「とか言いながら、本当はキスされたかったんじゃないの? 身構えたってことはキスされてもいいと思ったってことだよね?」
「……ちょっとだけね」
恥ずかしそうに肯定する佳純に少しずつ顔を近づけながら紗知は目を細める。
「じゃあ娘にどんなキスするつもりだったのか、私に教えてよ」
「……それは教えられないなぁ。紗知といつもどんなキスしてるかだったら教えてあげる」
見つめ合ったままくすりと笑い、二人は唇を重ねた。そのままベッドに体を倒し、紗知が佳純のシャツを脱がそうとして――何か小さな音が聞こえた。ベッド周りからではなく、入り口の方から。
動きを止めた紗知を佳純が怪訝そうな顔で窺う。
「どうかしたの?」
紗知が囁いて答える。
「……ちょっとそのまま適当に喘いでて」
「え?」
驚く佳純だったが、紗知が慎重にベッドを降りて抜き足でドアに向かうのを見てどういうことかを察した。言われた通り吐息や切なそうな声を出してサポートする。
そうして紗知はドアの前にたどりつき、ドアの取っ手を持って手前に一気に開けた。
「――ぁわっ!」
部屋に倒れ込んできたのは、ついさっき話題に出たばかりの美歩だった。
◆
いくら神に祈ったところで不安なものは不安だった。
紗知おかあさんはどう思っただろう。佳純おかあさんには言うのか。だとしたら二人に怒られるんじゃないか。
悶々と悩んでから、決めた。おかあさんたちの会話を盗み聞きしよう。そうすれば紗知おかあさんがわたしのキスを気にしているかどうかが分かるはず。
深夜が近づき、家の中が静かになってからわたしは自分の部屋を出た。向かうのはリビングの奥の部屋――おかあさんたちの寝室だ。おかあさんたちが寝る前によく話し合いをしてるのはわたしも知ってる。
寝室のドアの前でしゃがんで耳を近づけとかすかに話し声が聞こえてきた。
『キスされた』
「――――」
ちょうど耳に飛び込んできた言葉は、明らかにわたしについてのことだった。
やっぱりバレてた……。
落ち込みながらもさらに耳をすます。はっきりと聞こえるわけじゃないけど、どうやら佳純おかあさんにもバレていたらしい。
ただ、怒るというよりどうしようという困惑の方が強いみたいだ。
『笑い事じゃない!』
紗知おかあさんの声が聞こえて少し経ったとき、雰囲気が変わった。今まではわたしのことを話していたのに、その声の先にはもうわたしはいない。
ちゅ――。
粘ついた水音が聞こえてわたしは息を飲んだ。見えなくてもそれが何の音かは分かる。おかあさんたちが愛を確かめ合う合図。
自然と体がドアに近づく。もっとよく聞こうと耳をドアに押し付ける。どちらかの艶かしい声が聞こえてきて。
ドアが開いた。
「ぁわっ!」
寄りかかりをなくして部屋の床に倒れ込む。
やばい。しまった。なんで。
思考がぐちゃぐちゃになりながら顔を上げると、紗知おかあさんが腕を組んでわたしを見下ろしていた。
「……美歩」
「ひ、ひゃい」
「何――してたの?」
完全に怒ってる。
「え、えっと、お、お茶を飲みに来たら話し声が聞こえたから……」
「美歩」
「……」
「本当のことを言いなさい」
紗知おかあさんは嘘やごまかしを許さない。観念して素直に応じる。
「……おかあさんたちが何を話してるのか気になって、盗み聞きしてました……」
「いくら家族だからって、褒められたことじゃないのは分かる?」
「はい……ごめんなさい……」
紗知おかあさんが小さく息を吐いて少しだけ語気を和らげた。
「……で、何が気になったの?」
そんなの決まってる。わたしのキスに対するおかあさんたちの反応だ。でもそれを言ってしまうと何でキスをしたのかも言わなければならない。今度こそわたしの気持ちが伝わってしまう。
わたしが黙ったままでいると、紗知おかあさんが呟いた。
「肩揉みのときにしたことと関係ある?」
全部分かった上で聞いているのかもしれない。わたしに怒って、呆れて、軽蔑して……そう思ったら自分が情けなくて恥ずかしくて、どうしようもなくなってしまった。
目の端から涙が溢れてきて手で押さえる。
「ぅ、っ、ぅ……」
「え、美歩?」
「紗知、こっちに連れて来て」
「……ほら立って」
体を起こされて俯いたまま進む。ベッドの端に腰掛けると佳純おかあさんが隣にやってきてわたしの背中を優しくさすった。
「大丈夫。別に紗知お母さんも怒ってないから、ね?」
「まぁ盗み聞きしてたのには怒ってるけど……肩揉みのときのは全然怒ってないよ」
逆側に座った紗知おかあさんがわたしの頭を優しく撫でた。
おかあさんたちに慰められてぐちゃぐちゃだった気持ちが落ち着いてきた。
涙が止まり鼻をすする。今だったら二人に話せるかもしれない。
わたしは全部打ち明けた。おかあさんたちが大好きなこと。おかあさんたちにキスしたくなったこと。おかあさんたちといちゃいちゃしてみたいこと。娘としてじゃなくて女性として見て欲しいこと。
話し終わり、寝室が静寂に包まれる。
やっぱりいきなりこんなこと言われても困るよね……。
気落ちしかけたとき、佳純おかあさんが尋ねてきた。
「美歩は私達のことまだお母さんって思ってない?」
首を横に振る。
「わたしにとって本当のおかあさんは、佳純おかあさんと紗知おかあさんだけ」
両親のことも施設にいたときのこともほとんど覚えていない。それは多分、この家に来てからの生活が幸せだったから。
いつの間にか二人が側にいることが当たり前になっていて、自分が養子であることなんて気にしなくなっていた。二人ともがわたしの大切な家族でおかあさん。
佳純おかあさんが柔らかく微笑んだ。
「うん。私達も美歩のこと本当の娘だと思ってるよ。世界で一番かわいい自慢の娘」
指でわたしの前髪を梳かしながら続ける。
「だからやっぱり、美歩のことを女性として見るのは難しいと思う」
あくまでも娘としてしか見られない。母親だから。
そう言われたらわたしにはもうどうしようもない。むしろわたしの気持ちをしっかり受け止めて答えてくれただけ救われる。
つらくないことはないけど、今の関係が続いていくのならそれで十分だ。
ありがとう。迷惑かけてごめん。それから笑っておやすみを言って立ち上がる。そうしたら明日からまたいつも通り。
すぅ、と息を吸い込んだとき。
佳純おかあさんがわたしにキスをした。それも唇に。
「――――」
何も反応出来ずに固まるわたし。味わったことのない弾力とあたたかさを唇に感じること数秒、佳純おかあさんがゆっくりと唇を離した。
すかさず紗知おかあさんの声が飛んでくる。
「か、か、佳純、あんた何を……!?」
「美歩のことを女性として見られるかどうかと、キス出来るかどうかって別の話でしょ?」
「だからって娘の唇にキスするのは――」
「紗知は世界で一番かわいい自分の娘がキスをせがんでるのにしてあげないの?」
「それは……」
「私はしてあげたい。だって私も美歩のことが大好きだし、いちゃいちゃしたいと思うから」
「いちゃいちゃったって限度はあるでしょ」
「そこはもちろん母娘の範疇でね。キスは最大限の愛情表現」
「…………」
「私が美歩とキスするのはイヤ?」
「……わかんない。でもちょっと複雑」
「……紗知だって美歩にキスされてまんざらでもなかったくせに」
佳純おかあさんがぼそりと呟いた。
心外だと言わんばかりに紗知おかあさんが反論する。
「はぁ!? 私がいつまんざらじゃなかったって!?」
「『美歩が私に恋してるかもしれない』とか嬉しそうに言ってた」
「嬉しそうには言ってないでしょ!」
「いーや、あの顔は『いやぁ娘に惚れられちゃったよー困るなーえへへ』って顔だった」
「してませんけど!」
「私もキスされそうになったって話したときも『え、私だけじゃなかったの!?』って顔に書いてあったし」
「書いてない!」
「じゃあ美歩にキスされて不快だった? 二度とされたくないって思った?」
「う……」
「紗知の言いたいことも分かるよ。でも私は美歩の『好き』って気持ちを否定したくない。否定されるつらさをよく知ってるから」
「…………」
紗知おかあさんが口をつぐんだ。
もしかしたら同性が恋人というだけで色々あったのかもしれない。だからこそわたしに対してそういう態度をとりたくない、と。
やがて紗知おかあさんが深々と息を吐いてから呟いた。
「佳純がそうしたいんだったらそれでいいよ」
「紗知はどうするの?」
「私は……まぁほっぺにキスくらいなら」
ごにょごにょと答える紗知おかあさんを置いて、佳純おかあさんがわたしに耳打ちをする。
「美歩、紗知お母さんにキスのおねだりしてみて」
距離的に完全に聞こえていたらしく紗知おかあさんが視界の端で身構えるのが見えた。
わたしは紗知おかあさんの方を向き、目をまっすぐに見つめながら想いを口にする。
「紗知おかあさん……わたしとキスして?」
「ぁ、う……」
視線を泳がせたり指を無意味に動かしたりとあからさまに動揺を見せる紗知おかあさん。それでもわたしはじっと目で訴えかけ続けた。大好きな紗知おかあさんとキスしたい。キスしたい。キスしたい。
「――あぁもう、分かった!」
紗知おかあさんが降参した。
「目、閉じて」
「うん……」
わたしの頬に手を添えて、紗知おかあさんが唇にキスをしてくれた。一秒にも満たない軽いキスではあったけど、自然と口元が緩むくらい嬉しかった。
その日はおかあさんたちのベッドで一緒に寝た。
二人に挟まれて眠るなんていつぶりだっただろう。
ドキドキしすぎて眠れないんじゃないかと心配したけど、おかあさんたちに撫でられたり優しく胸のあたりをトントンされたりしているうちにいつの間にか眠ってしまった。
こんなに幸せな就寝があるだろうか。
朝、目を覚ましたとき大好きな人達が両隣にいる喜び。おかあさんと目が合い、照れながらおはようを交わす喜び。
おかあさんたちの子どもでよかった。
感謝と愛情を込めて、わたしは両腕を伸ばして二人を抱きしめた。
〈おまけ〉
仲直りの方法
紗知が帰宅してからやることは、荷物を置いて手洗いうがいをして、恋人と娘にただいまのキスをすることだ。
美歩が気持ちを打ち明けた日以降、家族でのスキンシップは格段に増えた。いってきますやただいまのキスは当然、ハグをしたりされたり、時間が合えば一緒にお風呂に入ることもある。
ただ就寝に関しては三人で一緒に寝るのは二日に一回にしている。これは美歩が『おかあさんたちの邪魔にはなりたくない』と主張した為だ。美歩は別に二人の仲を裂きたいわけじゃない。二人が仲良くしているのを前提として、そこに自分も入りたいだけ。
そういうところは親思いの娘と言えるのかもしれない。
「――あれ? 紗知、料理酒は?」
台所で紗知が持ち帰ってきた買い物袋を見て佳純が尋ねた。
「あっ、ごめん買い忘れた」
「もー、昨日も忘れてたじゃない。今日は絶対買ってくるって言ってたのに」
「スーパー入る前は覚えてたんだけど途中で忘れちゃって」
「はぁ……」
「ごめんごめん。明日は買ってくるから」
「いい。また忘れられたら困るから自分で買ってくる」
「いや私が明日買ってくるって」
「もういいから」
「……そこまで言うんなら私が仕事終わったあとにラインしといてよ」
「何? 私のせい?」
「別に。ただそっちにもちょっとは責任あるでしょって」
「…………」
「…………」
無言で視線をばちばちとさせている二人のもとに美歩がやってきた。
「今日おかあさんたちのとこで寝る日だけど、自分の部屋で寝てもいい?」
急にどうしたのかと紗知と佳純が戸惑いの表情を浮かべる。
「それは別に構わないけど……」
「お母さんたちが言い合いしちゃったから一緒に寝たくないの?」
「そういうわけじゃなくて」
美歩が言いづらそうに手をもじもじとさせながら続ける。
「おかあさんたちがケンカした日って、夜にベッドで仲直りするよね? だから邪魔しないよにと思って」
夜。ベッド。仲直り。それぞれの単語が紗知たちの頭の中で結び付き、二人の顔の温度が上昇する。
「み、美歩! 盗み聞きはダメって言ったでしょ!」
「違うよ! これは本当にたまたま何回か聞こえてきただけ!」
娘に悪気がないことが分かり紗知が息を吐く。とはいえそういうことに気を遣われるのは親としても恥ずかしい。
紗知と佳純はアイコンタクトをして頷き、お互いの腰に腕を回して笑顔を作る。
「お母さんたちは全然ケンカしてないから美歩は気にしなくていいの」
「そうそう、ちょっと行き違いがあっただけだよね。ほらもういつも通り」
「料理酒は明日絶対買って帰るから。スマホの待ち受けをメモの画像にしとく」
「私もお昼に一度ラインしとくね」
うふふあははと笑い合って仲の良さをアピールする二人。
それを見て美歩も笑顔を浮かべ、一歩後ろに下がる。
「でもやっぱり今日は自分の部屋で寝る。おかあさんたちにはずっと仲良しでいて欲しいから」
テレビの前のソファーに戻っていく美歩。座ったあとに振り向いて。
「あ、盗み聞きはしないよ」
「そういうことをいちいち言わなくてよろしい!」
はーい、と笑いを噛み殺してテレビの方を向いた美歩を見つめ、紗知が苦笑する。
「……仲良しでいて欲しいってさ。良くできた娘だことで」
「育て方が良かったんじゃない?」
「なるほど」
紗知と佳純が同時に笑う。
児童養護施設で暗い表情をしていた少女はもういない。そこにいるのは明るく笑い、母親を笑顔にさせる自慢の娘。
それは二人が思い描いたもの以上の未来だった。
「まぁそれはそれとして」
「ん?」
「今日一緒に寝るはずだった美歩がひとりで寝るらしいから、今のうちに美歩といっぱいスキンシップして美歩分を補給しようと思うんだけど佳純もどう?」
「いいねー」
二人はこっそりと美歩の方へ近づいていった。
しばらくの間、リビングには家族の楽しそうな声が響いていた。
終
大変お待たせいたしました。
初めての母娘百合。
自分の書きたい母娘百合をああでもないこうでもないと考えているうちに時間が掛かってしまいました。
母娘百合というより家族百合?ですが。
軽い補足。
調べたところ日本でも同性カップルで里子を迎えたケースが二件あるようです。
どちらのケースも里子のようなので、もしかしたら同性カップルが未成年の子どもを普通養子縁組で迎えるのは厳しいのかもしれません。間違ってたらすみません。
ですがこのお話では養子に迎えられた前提で書いています。ご了承ください。
余談ではありますが、書いている途中海外のニュースで『養子を育てていた夫婦が離婚して、母親がその養子(息子)が結婚する』というのを見かけました。
どうせ書くなら最後にみんなが笑顔でいるお話を書きたいなぁ、とあらためて思ったり。