リナリアに秘めて
絢爛たる舞踏会、上流貴族が集まるこの場に本来なら私はいなくてもいい。だが、それを承知で参加しているのはーー
くるりくるりとダンスホールの中央で物語から出てきたかのような美男美女が皆の視線を集め、華麗に踊っている。男性の方は闇夜を染めたような漆黒の髪、女性の方は月光を集めたような白銀の髪で並ぶと、月夜の如く絵になる二人だ。
曲が終わり、二人が礼を取ると拍手が湧いた。それらに優雅な笑みで応え、彼らはこちらにやってくる。
私は友人らとともに彼らを称賛で迎えた。
「お二人ともとっても素敵でしたわ」
「本当に、思わず見入ってしまって言葉も出ませんでした。ねぇ、ブリギッテ様」
「ええ、ゲルタ様。あまりに軽やかに踊られるので、イルムヒルト様が蝶のように麗しかったです」
友人のゲルタに振られ、頬を紅潮させながら私は素直な感想を述べる。すると、手を口許に添え、イルムヒルト様が可笑しげに喉を鳴らした。
「ブリギッテったら、大袈裟ね」
「いいえ、本当に……っ」
お世辞と思われたのが心外で言い募ろうとすると、それだけで意を汲んだ彼女がふわりと微笑みありがとう、と言った。自分に向けられた笑みに、思わず惚けてしまう。
「では、俺は君がどこかに飛んでいかないよう、虫籠に捕らえておかなければならないな」
「あら、貴方という極上の蜜を知って他へ飛び去れるとお思い?」
「それは光栄だ」
甘やかな会話を目の前にして、友人たちは頬を染め羨望の眼差しを彼らに送る。私はそれに同調した風を装いつつ、簡単に彼女の関心を自分から奪われ内心落胆した。
奪った彼は常に彼女の関心を惹くというのに、僅かに向いた自分への視線すらすぐさま取り上げてしまう。もう少しの猶予をくれてもいいのではないだろうか。同性相手でこれなのだから、存外独占欲が強いと見える。
だが、彼はそれをして許されるのだ。何故なら、彼はイルムヒルト様の婚約者であるヴィクトール殿下なのだから。この国の未来の王に、一介の伯爵令嬢の自分が否を唱えることなどできやしない。
臣下への挨拶があるから、と二人連れ立って去ってゆく。それを友人らとにこやかに見送った。
「はぁ、ヴィクトール殿下は本当に素敵ね。私もあんな甘い言葉を囁かれてみたいわ」
「イルムヒルト様がお羨ましいですわ」
「公爵令嬢のイルムヒルト様だからこそ、殿下に釣り合うのです。私たちでは釣り合いません」
侯爵令嬢以下の自分たちでは相応しくない。家格だけでなく、容姿も内面も含め彼女が素晴らしいからだ、と思いつつ口にすると、友人らは同意し溜め息とともに頷いた。
友人らと言ってはいるが、イルムヒルト様を通じて令嬢らと交流があるだけだ。それぞれの思惑があって、私たちはイルムヒルト様を慕い、友人の体をなしている。ただ、彼女に真に友人と思われているかは定かではない。取り巻きだと言われれば、肯定するしかない立場だ。
それでも、公爵令嬢イルムヒルト・ヒルトラウト・フォン・ヴォーヴェライトに憧れを抱いているという一点において、私たちは共通していた。
「……それでも、羨ましいですわ」
「ええ」
誰ともなしに呟かれた羨望に、私は肯定した。
羨望の相手が、友人らと異なると知りながらーー
「はぁー、今日もイルムヒルト様は素敵だったわ」
「ほんと、あの公爵令嬢サマの信者だよな、お前」
帰りの馬車で、今日のパーティーで見たイルムヒルト様の装いを反芻して悦に入っていると、正面から呆れた声が返った。
「何よ、ヘンリック。私はイルムヒルト様にお会いするためにパーティーに参加しているんだから、嫌なら付き合わなくていいのよ」
パートナーがいる方が色々と詮索されず都合がいいから、幼馴染みのヘンリックに同伴を頼んだだけだ。招待状は確保しているので一人でも入れなくはない。
「阿呆か。パートナーなしで行ったら男漁りに来たと思われるぞ」
「私はどう思われても気にしないわ」
脅すように言うヘンリックに、つんと言い返すと、彼は半眼になった。
「イルムヒルト様のご友人がそんな品のない方でいいんですかねー」
「うぐ……っ、今後ともお願いします……」
痛いところを突かれた。まだ婚約者も決まっていない年頃の伯爵令嬢が、単身で上流貴族が参加するパーティーに参加したら、玉の輿狙いの節操なしに映るのは必至。自分はともかく、それでイルムヒルト様の評判を落とすようなことは絶対に避けたい。
「聞こえないなぁ?」
「おーねーがーいーしーまーすぅー!」
「分かればよし」
彼の有り難みを思い知らされた私は、満足げに頭を撫でてくるヘンリックの手を享受した。幼い頃と変わらない少し粗い撫で方は、犬扱いされているようにも思えてしまうが、彼に悪気がないと解っている。
「……けど、私に付き合っていたらヘンリックこそ婚き遅れない?」
「俺より婚き遅れそうな奴に心配されなくても大丈夫ですー」
幼馴染みを心配した言葉が、そのままブーメランで自分に返ってきた。確かに有力な侯爵家の跡取りの彼なら、わざわざ探さなくとも向こうから寄ってくるだろう。
私と彼は、父親同士が学生時代からの親友だからと、兄妹のように育ち気安い関係だ。だから、心配をしたというのに。
余計な心配だったと、少し損をした気持ちになった。
イルムヒルト様と初めて出会った日を今でも鮮明に思い出せる。
あれは私のデビュタントの日だった。とても緊張していて、精一杯に着飾ったドレスに勇気を貰ってパーティー会場にいた。
ウェルカムドリンクを給仕から受け取り、どこか落ち着けるところはないかと視線を彷徨わせていると、トン、と背中に軽い衝撃が襲った。
近くにいた男性の肘が少し触れたと理解する間もなく、私はバランスを崩し、前方につんのめる。デビュタントの日だからと、普段より高いヒールで来たことを後悔した。
上体を崩したことで、手にしていたグラスも傾き中身が前方に零れた。その液体が他人のドレスのスカートにかかる様がスローモーションで私の眼に映る。
スカートが濡れた瞬間、時が動いたようにも、静止したようにも感じた。いずれにせよ、私は一時停止していたが。
どれぐらい固まっていたか定かではないが、恐る恐るスカートを濡らした相手を確認するため、視線をゆっくり上に移動させた。
すると、満月と眼が合った。
それが、金色の瞳だと気付くのに数秒かかった。白銀のさらりと真っ直ぐな髪も月光のようで、月の化身かと思った。
さらに数秒を要して、月の女神のような彼女が人間だと気付き、自分のしでかしたことを理解して、青ざめる。
「も……っ、申し訳ありません!」
慌てて私は謝った。
上質な生地のドレスだ。明らかに私より上位の貴族令嬢に、弁明しようもない失態をしてしまった。弁償できるだろうか。父親に叱られるかもしれない。
今後の悪い未来しか浮かばない中、少しでも染みを防ごうと、自分のハンカチを取り出しスカートに近付けると、その手を私より指の細い手が阻んだ。
「そんな綺麗な刺繍を汚す訳にはまいりませんわ」
ただの趣味で刺繍をしたハンカチに、丁寧な扱いを受け、私はぼっと頬が熱くなるのを感じた。
「で、でも……っ」
こんな綺麗な人に自分の刺繍を褒めてもらえたのは嬉しいが、他に拭うものを持っていない私は困る。
少しでもお詫びがしたいが手持ちが何もない。弱りきった私は、手にしていたハンカチを差し出した。
「お詫びにもならないかもしれませんが、よ、よかったら……!」
頭を下げてハンカチを差し出してから、お世辞だった可能性に思い至る。もしくは、彼女にとっては安物のハンカチで拭かれるのが嫌だったのかもしれない。
失態に失態を重ねた可能性に気付き、下げた頭が上げられなくなった。
だが、ふっと手に持っていた布の感触が消えた。
驚いて顔を上げると、花の刺繍がある箇所を見つめてから、彼女がハンカチを手にしたままこちらに微笑んだ。
「ありがとう」
内気故に家でひたすら趣味の刺繍をしていたのが報われた瞬間だった。
「けれど、貴女が謝る必要はありませんわ」
美しい微笑みに見惚れ、私が返答しあぐねていると、彼女は私の向こうに視線を移した。
「そこの貴方」
私の背後で歓談していた男性らが、彼女の凛とした声に反応して振り返る。
「これはこれは、ヴォーヴェライト公爵のご息女、イルムヒルト様ではありませんか。お声がけいただき、光栄です」
男性の言葉で、私は初めて彼女の名前を知る。イルムヒルト様、と胸中で復唱して、忘れないようその名を胸に刻んだ。
「貴方は、騎士団に所属されているシンジェロルツ侯爵家の方ですわね」
「はい。未来の国母にお見知りおきいただけ嬉しいです」
にこやかに肯定する男性に、微笑みながらもイルムヒルト様は冴えた月のような眼差しを向ける。
「騎士は民を守る立場だと思いますが」
「勿論です! か弱き国民を守るため、日々鍛錬に励んでおります」
自慢げに胸を張る男性を見て、イルムヒルト様は笑みを深くした。
「では、か弱き者を守り支えるべきその腕で、彼女に当たったことに謝罪もないのはどういうことかしら?」
言うと同時に、男性の視界に入るよう、私はイルムヒルト様に肩を抱き寄せられた。やっと私を視界に入れた男性は、私の持つグラスが減っているのと、イルムヒルト様のスカートに染みができていることを確認し、状況を察して蒼白になった。
私は、そんな場合ではないと解っていながら、イルムヒルト様からほのかに香る爽やかな香水の香りにどぎまぎしていた。
「こっ、これは、大変失礼いたしました!!」
「謝罪すべき相手は、私ではありません。ぶつかったことにも気付かなかったようですし、身体を鍛えられると随分と鈍感になられるようですわね」
「申し訳ありません、レディ! お怪我はありませんか!?」
「あ……、はい。少しバランスを崩しただけですので」
イルムヒルト様の手厳しい言葉に怯えつつ、一回り以上体格の大きな男性に謝罪され、私は眼を丸くする。彼と歓談していた他の男性陣も、顔色悪く状況を見守っていた。これは、私が許さないかぎり、彼らは生きた心地がしないことだろう。
「本当に、もうお気になさらないでください。慣れない靴を履いてきた私も悪かったのです」
更に謝罪を重ねようとする男性にそう言うと、救世主が降臨したかのように彼らに拝まれた。そのやり取りを見ていたイルムヒルト様は、仕方なさそうに嘆息する。
「貴女がそれでいいなら、私もこれ以上は不問にいたします。なので、弁償も不要ですわ」
イルムヒルト様の言葉が合図のように、彼らはへこへこと頭を下げつつ去っていった。早く針の筵のような状況から脱したかったのだろう。
自然と、私とイルムヒルト様がその場に残される。
とにもかくにもお礼を言わなければ、と私は頭を下げた。
「イルムヒルト様、ありがとうございました……っ」
「構わないわ。私がああいう手合いを見過ごせないだけだもの。それよりも、貴女、名前は?」
「し、失礼いたしました。ブリギッテ・フォン・ノイエンドルフと申します」
名乗っていなかったことを指摘され、私は慌ててカーテシーをし名乗る。
「そう、ブリギッテね。ブリギッテ、素敵なハンカチをありがとう」
人差し指で軽く花の刺繍部分をなぞり、イルムヒルト様は微笑んだ。そして、またね、と一言残して颯爽と去っていった。
私はその場に縫い付けられたように棒立ちになり、付き添いできた父親が声をかけてくるまで動けずにいた。
後になって、イルムヒルト様が私と同じ歳と知って、とても驚いたものだ。
それからは、イルムヒルト様を一目見たくて極力パーティーに参加していたら、父親たちに内気だった自分とは思えないと驚かれたっけ。
彼女が、取り巻きの一人と化した自分の名前を覚えていてくれていたときは感激した。そのお陰で、取り巻きの中でも友人の枠に納まれたのだ。
「にやけながら刺繍するなんて、器用だな」
「ヘンリック」
出会いからこれまでの幸福な日々を反芻していたら、唐突な声が割って入り、思考が途切れた。無遠慮な乱入者が誰かと振り向けば、幼馴染みが温室の入り口にいた。
「どうせ、それも公爵令嬢サマのなんだろ」
「そうよ、お誕生日に贈ろうと思って」
呆れたようにほぼ断定的に問われ、当然だと返す。ヘンリックは敢えて椅子の背を前にして、対面に座った。椅子の背に肘を置き、その上に顎を乗せた。
「レディの前ではしたないわよ」
「レディがにやけ顔になるか?」
むっとなったが、言い返せず無作法を不問にするしかなかった。そんなにだらしなくにやけていたのだろうか。
ともかく、イルムヒルト様の誕生日まで日がないので刺繍に戻る。やり始めると自然と集中して、目の前にいる幼馴染みも気にならなくなった。
一針一針、想いを込めて丁寧に縫ってゆく。デザインを考えるのも楽しいが、私はこの作業が一番好きだ。
幼い頃は自室で黙々と刺繍に励んでいた。だが、昔のヘンリックはとても活発な少年で、私を強引に庭の探検などに付き合わせた。彼と妥協案を協議して、半分外の温室で刺繍をすることになり、今ではそれが定着している。
結果として、集中しだすと時間を忘れる私は、落日に合わせて作業を止めれるようになり、ちょうどよかった。
しかし、協議に至る前、連れ回され我慢の限界にきて怒った私を、ヘンリックが嬉しそうに笑ったことだけは未だに謎だ。あれは彼に対して、内弁慶になるきっかけだった。笑われて、彼に意見を控えることが馬鹿らしくなったのだ。
「……なぁ」
「何?」
作業する手元に視線を落としたまま返事をする。
「お前、ヴィクトール殿下、どう思う?」
「はぁ?」
ヘンリックの中で、どういう経緯でそんなことを訊くに至ったのか、思いがけないことを訊かれた。だが、彼は私の反応こそが奇怪しいように、眼を丸くする。
「女なら、殿下みたいな男に憧れるんじゃないのか?」
「……私は、冗談でも訊かれたくないわ」
イルムヒルト様を見ていれば、殿下は自然と視界に入る。だから、極力意識から外すようにしているし、話題も避けていた。私にヴィクトール殿下の名が禁句だとは誰も知らない。
「そっか」
半眼になる私に対して、悪かったと謝罪するヘンリックの表情は嬉しげだ。謝罪には不釣り合いなそれを、私は不可解なもの、ということにした。
「ヘンリックこそ、私の話を聞き流すじゃない。イルムヒルト様を前にしても同じでいられるの?」
彼にする話はほとんどイルムヒルト様の話題だ。私がどれだけ彼女が素敵だったかを語っても、ヘンリックは呆れた眼差しを向けるだけ。だが、通り過ぎる男性らが尽く振り返る美貌を持つイルムヒルト様本人を前にしたら、流石に彼も見惚れるはずだ。
「そりゃ、美人だとは思うけど、俺は……」
「でしょう! あの月の女神のような方ですもの、誰だって見惚れるわよねっ。この間のパーティーのお召し物もーー」
私は、ヘンリックが言いかけていたのを遮って、食いぎみにイルムヒルト様自慢を始める。私が悦に入って話し始めると、彼が仕方なしに聞き役に回ると知っていた。だからだ。
ヘンリックの言葉の先を聞いてはならない、と胸中が警鐘を鳴らす。
気付き始めていることに、私は強引に蓋をした。
イルムヒルト様の誕生日パーティー当日、私が支度をしていると父親が部屋を訪ねてきた。
「お父様、どうかしました?」
「今夜もヘンリック君にパートナーをしてもらうのか?」
「そうですけど……」
いつものことを再確認され、私は首を傾げる。父親は一体何の用で来たのだろう。
「近々、エッシェンバッハ侯爵家と婚約することになる」
「え……」
エッシェンバッハ侯爵家はヘンリックの家だ。彼に歳の近い兄弟はいるが、私が親しいのはヘンリックだけ。必然的に彼が婚約相手だろう。
そこまでを父親の言から把握できたというのに、私は信じられない思いだった。
私が呆然としていることに気付いているのかいないのか、父親はこちらから打診をしているところだと言う。
「ヘンリック君は構わないと言ってくれている。あいつもお前のことは気に入っているから、いい返事が返ってくるだろう」
ヘンリックの父親であるエッシェンバッハ侯爵へ正式な申し出はまだらしい。だが、聞く限りほぼ確定だろう。
「どうして……?」
それでも私は訊いた。どうして今更婚約なのか。幼い頃からヘンリックと共にいたが、そんな話になることはなかった。相手の方が身分が上で、こちらのノイエンドルフ伯爵家に何らかの利がないから成立しないのだろうと考えていた。
「エッシェンバッハとは利害の関わりない付き合いをしたかったが、そうも言ってられん。お前が随分と社交的になって、ヴォーヴェライト公爵令嬢にも覚えよくなったから、自分でよりよい相手を見つけるかと見守っていたが……」
父親は渋い表情を見せ、私を憐れむような眼で見た。
「そろそろ潮時だ」
父親の言葉に、私は足下の地面がなくなったかと錯覚した。
私が行かず後家にならないかと、父親が心配してくれていると頭では解っている。娘を想って親友に頭を下げに行くのだろう。本来なら親の愛情に感激すべきだ。
けれど、私はどうしようもないことにどうしてと胸中で繰り返し問うていた。
私はどうしてもっと上手く立ち回れなかったのだろう。適当な男性を見繕って、父親を安心させておけばよかった。だが、そうなった場合、イルムヒルト様より先に結婚して疎遠になってしまう可能性もあるからしたくなかった。
こうしていれば、という後悔が湧いては、彼女といる時間が減る可能性が結局はこうしかできなかったと打ち消した。
だって、もう彼女は殿下と婚約している。
私が出会ったとき、既に彼女はヴィクトール殿下の婚約者だった。当然だ。次期王位継承者の相手は幼少の頃に決まっている。幼い頃は遠い存在だ、とその話題を流していた。
最初からあと少しの時間しか残されていなかったのだ。だから、内気な自身を奮い立たせて可能な限り彼女の姿を見、会える機会に臨んだ。
彼女が結婚してしまえば、王城で暮らすことになり、おいそれと会えなくなると解っていたから。
それまでは、盲目でいたかった。
けれど、父親に現実を突き付けられた。眼を背けていたものと向き合わなければならないときが、もう目前まで迫っていた。
私は絶望的な気持ちでパーティーに向かう。だが、今日はイルムヒルト様の誕生日だ。今夜ばかりは彼女のことだけを想って過ごそうと決める。
馬車を出る前、暗い気持ちを吹き飛ばそうと両頬を叩いた。私の突飛な行動に、ヘンリックは眼を丸くした。
ヘンリックのエスコートでホールまで行き、しばらくして一通りの招待客が揃ったのだろうヴォーヴェライト公爵から娘の誕生日を祝ってくれることへの感謝の言葉があり、イルムヒルト様の紹介があった。婚約者のヴィクトール殿下のエスコートで現れたイルムヒルト様は、気品に溢れ、美しかった。
イルムヒルト様が、招待客に来てくれたことへの感謝を述べると、殿下と目配せし、殿下が一歩前へ進み出た。
「この機会に、皆に報せたいことがある」
ざわ、と期待と困惑の混じった声が控えめに響く。
「彼女へのプレゼント、という訳ではないが……、この春に式を挙げることが決まった」
めでたい報告に、一同からわっと歓声が湧いた。
イルムヒルト様の全体への挨拶が終わると、楽団が音楽を奏で始め、招待客たちが挙って彼女に祝いの言葉をかけだす。
私一人が、めでたいはずの事実を死刑宣告のように受け取り、固まっていた。
今夜だけはイルムヒルト様の、そして自分の婚姻のことを考えずに、全力で彼女の誕生日を祝おうと思っていたのに。
主要な招待客との挨拶を一頻り終えたイルムヒルト様が、私の方に気付き、殿下とともにこちらにやってきた。柔らかい月の光のような微笑みで彼女が私に声をかけてくれる。
「ブリギッテ、来てくれたのね」
「……っ勿論です」
イルムヒルト様に暗い表情を見せる訳にはいけないと、私は慌てて表情を引き締めた。
「イルムヒルト様、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。少しの間だけ、ブリギッテより歳上ね」
冗談混じりに笑う彼女が可愛らしいと感じる。出会った頃から、凛として大人びた容姿なのは変わらないが、今は彼女に年相応な面もあると知っている。同じ歳の少女だと感じるとき、美しいだけでなく可愛らしさもある方だと再確認するのだ。
「おめでとうございます。結婚の日取りが決まってよかったですね」
ヘンリックが次いだ言葉に、どくり、と心臓が嫌な音を立てた。彼の言葉を受け、イルムヒルト様と殿下が微笑みをもって答える。
「ありがとう」
「式に向けて、これから忙しくなるな」
「まぁ、ヴィクトール様ったらもうぼやかれますの? このまま行くと、私との婚姻までお嫌になりそうですわね」
「まさか。いよいよ君を妻に迎えられるんだ。その為ならば、どんな面倒なことでもしよう」
「お幸せそうで何よりです」
ヘンリックに同調するべきだ。そう頭では理解しているのに、口ははくりとただ空気を食む。
「そうだ。お二人には及びませんが、俺たちも……」
ヘンリックの言おうとしていることを察知して、私は反射的に彼の袖を強く引いた。小さく驚いて振り向く彼に、私は声を絞り出す。
「……っわ、私から、言うわ」
ヘンリックの瞳に必死な表情の自分が映る。彼は眼を丸くしつつも、私に発言の権利を譲ってくれた。
どくりどくり、と心臓が嫌な音を打ち続ける。イルムヒルト様に向き直ると、彼女は不思議そうにしていた。
いけない。今日は彼女の誕生日なのだ。彼女に笑っていてもらうためにも安心させないと。
一度、深く息を吸って、耳鳴りしそうな心音を無視する。
「実は……、彼、ヘンリックと婚約が決まりそうなんです」
「まぁ、そうなの。彼と親しかったものね。おめでとう」
イルムヒルト様が、自分のことのように表情を綻ばせ、祝いの言葉をくれた。喜ぶべき彼女の言葉が、ずしりと胸にのしかかる。彼女と自分の想いがどれだけ隔絶しているのかを思い知らされた。
そうではないのだ、と心が叫びそうになるのを無理矢理抑え込む。
笑え、と自身に言い聞かせた。今、この場で、彼女のために笑うのだ。
「はい。ありがとう、ござ……」
イルムヒルト様の満月のような瞳が瞠目する。そこに映る自分の笑顔の不恰好さが悲しかった。彼女のために、嘘でも笑えないなんて情けない。
言葉が途切れそうになった瞬間、イルムヒルト様に肩を抱き寄せられた。
「ヘンリック様、ブリギッテは体調が優れないようですわ。彼女をお借りしても?」
「え、それなら俺が……」
「あら、無粋な男性は嫌われてよ?」
自身の胸元に私の顔を隠すように抱きながら、イルムヒルト様はヘンリックがついて来ないようにあしらった。女性だけにしか解らないものとイルムヒルト様によって誤解した彼は、大人しく引き下がる。
そうして、私が戸惑っている間に、イルムヒルト様は殿下もその場に残し、客用の休憩室の一室に私を案内した。
メイドに温かいお茶を用意させたあと、下がるように指示をし、気付けば私と彼女の二人きりになっていた。ソファで隣に座るイルムヒルト様に勧められるまま、淹れられた紅茶に口をつける。
「どう? 少しは落ち着いた?」
「は、い……」
私が紅茶で温まった吐息を一つ零したのと、彼女が気遣いげに声をかけるのは同時だった。私が反射的に首肯すると、真意を確かめるようじっと見つめられた。
見透かされそうな瞳に、私はどういう表情をすればいいのか困惑する。
「ブリギッテ。今回の婚約、貴女の意に沿わないものなの?」
心配してくれる彼女を安心させたくて、私は否定する。
「いえ、彼のことは嫌いでは……」
つぅ、と一筋、私の意に反して涙が伝った。そのことに、私に触れた彼女の指先が濡れたことで気付く。
あとからぼろぼろと溢れる涙に、私は眼を両手で覆った。
「違うんです……っ、彼との結婚が嫌なんじゃないんです……!」
そう、嫌ではない。他の男性ならともかく、ヘンリックは気を許せる数少ない一人だ。昔の私なら、受け入れ、彼への好意を恋と錯覚していたことだろう。
そうだったら幸せだった。
けれど、私は彼女に出逢ってしまった。
相手がいても消せない想いがあると知った。どんなに苦しくても、自身の幸せより克つ想いがあると知った。
私は、この想いに恋以外の名前を付けれなかった。
涙の理由は解っている。
この想いのせいで、彼女の幸せを祝福できないことが苦しい。
そして、何より……
「……イルムヒルト様」
「なあに?」
「イルムヒルト様は、ヴィクトール殿下のことが好き、ですか……?」
ずっと訊けずにいたことを問うと、少し考える素振りを見せて、イルムヒルト様ははにかんだ。
「ええ。幼い頃に決められた相手で、そう思うように仕組まれたのかもしれないけど、それでも……私はヴィクトール様への想いに胸を張れますわ」
「お慕いするイルムヒルト様が、好きな方と結ばれてよかったです」
涙を拭い、本心を告げると、イルムヒルト様が嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。私もブリギッテが好きよ。だから、できれば望む相手と結婚してほしいわ」
ああ、やはり私の想いと彼女の想いは違う。どれだけ私が想いを言葉に乗せても、彼女がそれに気付くことはないのだ。
「大丈夫です。ヘンリックは、どの男性よりも好きな相手です。ただ、急に婚約が決まったので、侯爵になる彼に相応しいのか不安になってしまって……」
叶わない恋に終止符を打つため、精一杯の嘘を吐き、笑ってみせた。少し弱ったような笑みが、照れ笑いに映ればいい。
イルムヒルト様は、納得してくれたのか頷き、励ましの言葉をたくさんくれた。その言葉の一つ一つが胸を刺すが、この痛みごと覚えておこうと心に刻む。
私の眼の腫れが落ち着いた頃、そろそろ戻ろうかと、イルムヒルト様が立ち上がった。彼女が差し出してくれる手に、そっと私の手を乗せた。
「イルムヒルト様、誕生日プレゼントがあるんです」
もう直接渡せる機会がないから、彼女がメイドを呼ぶ前に包装された細長い箱を渡した。
イルムヒルト様は、何かしら、と目の前で開けて中身を見る。
「まぁ、綺麗なリボン」
喜色に満月が輝き、よかったと思うと同時に見惚れる。
彼女が箱から青いシルクのリボンを取り出すと、部屋の照明を反射して銀の糸が煌めいた。
「ハンカチと同じ花ね」
「はい、リナリアの花です」
最初のプレゼントを覚えていてくれたことが、とても嬉しい。彼女は、私がどれだけ喜びにうち震えているか判らないだろう。
「可愛らしくてこの花好きよ。ブリギッテのふわふわの髪を思い出すわ」
伸ばしすぎると、うねってしまうので肩までしかない私の亜麻色の髪をそんな風に言ってくれるとは。この人は、本当にどこまでも私の心の柔らかいところを突いてくる。
最後に手渡したプレゼントで、彼女が私を思い出してくれるなら本望だ。
例え、彼女がリナリアに秘めた想いに気付かなくてもーー
「イルムヒルト様、ご結婚おめでとうございます」
今度こそ、私は笑った。
それに応えてくれた彼女の笑顔があれば、これからも私は生きてゆける。
杏亭リコ先生に捧ぐ