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第一話 Bad City

どうも皆さま、YTAです。

漸く第一話まで漕ぎつけました(笑)

今回も、ほぼ書き下ろしとなっております。

評価、感想、お気に入り登録など、大変励みになりますので、お気軽に頂けたらと思います。

では、どうぞ!








 今日は、朝からやけに昔の事を思い出す。

 数年前なら、何かの前兆かと胸をざわつかせて一日を過ごしていた所だが、晩度(ばんたび)そんな事をしていては神経がすり減ってしまう事もまた事実だったから、随分と自制心を養える様になった。

 北郷一刀は、窓の外から押し寄せる熱気にドライヤーを使う気にもなれず、濡れた髪をバスタオルで拭きつつ、冷蔵庫からペットボトルのコーラを一本取り出して一気に三分の一ほどを飲んでしまうと、ベッドに座って煙草に火を点け、紫煙を吐き出した。


 スマートフォンのロックキー・ボタンを押して画面を点灯させ時計を見ると、“事務所”に顔を出すには、まだ少し余裕があるようだった。

 ハムか何かを乗せたトーストを二・三枚作ってパクつく位の時間はあるだろう。

 一刀はそう考えて、着替える前にオーブントースターをセットしてしまおうと、もう一度、キッチンへ向かった。







 一刀が経営する探偵事務所は、新宿の中心地に程近い小さな三階建てのビルの二階部分にあり、三階の居住スペースと併せて、立地を考えれば格安と言える値段で借り受け、営業していた。

 大家は、数軒先のマンションに住みながら、一刀の住むビルの一階部分を使って殆ど趣味で喫茶店を開いているという裕福な老夫婦で、自分達の頭上に“私立探偵”なる非現実的な世界の住人が寝起きしているのが面白いらしく、一刀自身も家賃の滞納もせず部屋やその設備に口うるさく言わない良い店子なので、良好な関係を築けている。


 アメリカでの一刀の雇い主であるレイモンド・ミッチャムとジェイコブ・ベイカーは、『勝手な都合で辞めて貰うのだから』と、一刀に対して過分とも言える額の退職金を払ってくれていたし、東京に戻るまでの五年の間は鹿児島の祖父の家で生活していたので生活費は殆ど掛からなかった。

 それに、週に数日、祖父の知人の骨董屋で在庫整理やら店番やらをして働かせて貰って得たバイト代があれば特に小遣い銭に不自由も無かったので、アメリカ時代の貯蓄に殆ど手を付けなかっただけでなく、退職金も全額を投資信託に任せたままにしてた。


 その結果、いざ東京に帰る頃になると、幸運な事に、自営業者として生活を軌道に乗せるまでの間に多少の贅沢が許される程度には纏まった額の資産が、一刀の手元に入って来ていたのである。

 カーキ色のスーツに着替えを済ませた一刀は、錆の浮いた外階段を降りて一階へ向かい、大家夫妻への挨拶がてら、二つのタンブラーにアイスコーヒーとアイスカフェラテを、それぞれたっぷりと入れて貰う。

 今や習慣になっているので、代金は纏めて月末払いだ。


 世間話を終え、再び外階段を上がって、事務所のドアに掛かったCIOSEの札をOPENにひっくり返してから、二つ付いた鍵を順に開けてノブを回す。

 部屋の中に入って、更に以前の居住者たちの名残である受付の待合スペースから扉を開けて奥に進むと、途端にエアコンからの冷気を含んだ風と僅かな酒精の匂い、そして紫煙の残り香が鼻を突いた。


「まったく……」

 一刀が溜息を吐いて来客用のソファーを覗き込むと、そこには案の定、タブレットPCを縫いぐるみのように抱えたまま健やかに寝息を立てる旧友、及川祐の姿があった。

 テーブルに置かれたバランタイン・ファイネストの瓶の中身の減り具合と、灰皿に積まれたLARK100sの吸い殻を見るに、また昨夜も眠りに落ちるまでダラダラと仕事をしていたのだろう。


 一刀が額を軽く引っ叩くと、「んがッ!!?」と言う様な頓狂な声と共に、及川が目を覚ます。

「お?おぉ、一刀か。おはようさん」

 一刀は、呑気に欠伸をして身体を伸ばす及川に呆れた様な視線を向けながら、テーブルに及川の分のタンブラーを置いてから、自分の仕事机(及川曰く所長席)の奥にある窓を開け広げて、背もたれ付きの椅子に腰を下ろした。


「何がおはようさんだ。寝るなら奥の部屋を使えって何度言えば分るんだよ、お前は。仮眠用のベッドだってあるだろ」

 一刀の言う奥の部屋とは、これまた前の入居者が資料室として使っていたスペースだった。とは言え、今のご時世、個人営業者の事業規模で部屋一つを占領する程の紙資料など扱う事もないので、仕事が立て込んだ時の為に、折り畳みベッドなどを置いて仮眠室(という名目の及川の私室)として使っているのである。

「そうなんだけどさぁ。このソファー気持ち良くて、つい……」

 及川は悪びれもせずに笑ってそう言うと、冷えたコーヒーをブラックのままガブガブと半分がた飲み干してから、億劫そうに立ち上がってテーブルを片付け始める。

 一刀が、旧友であるこの及川祐との交流を再開したのは、祖父の家で世話になり始めてから一年以上が経ってからの事になる。


 クラス会を開くと言うので、幹事だった及川が連絡を取って来たのだ。

 なんでも、出席予定だった当時の担任から一刀の実家の連絡先を聞き、そこから更に祖父の家の電話番号を聞き出すと言う面倒な手間まで掛けて探したのだそうである。

 その時は、わざわざ酒を飲む為だけに東京まで出ていく心算(つもり)など更々無かったので、携帯番号やSNSのアカウントを交換して世間話をしただけで終わったのだが、それ以降、何を思ったのか、折りに触れて及川の方から連絡をして来たので、自然と近況を語り合う程度には旧交を温める様になったのだった。


 そんな関係を続ける内に、一刀の修行も終わりの時期を迎える事になり、自活の手段として、経歴を活かす事が出来、尚且つ、ある程度の自由な時間が確保できる可能性がある職業として私立探偵と言う選択肢を考え出したのだが、如何せん、十年以上、まともに東京に寄り付かなかった事に加え、事業を始めるにしろ、事務所の確保の仕方やら客の呼び方やら、基礎の基礎が何も分からなかった一刀は、既に社会人として先輩で東京にも住み続けている及川に、ダメ元で相談してみた。


 すると、及川は、今、一刀が借りているこの事務所を探し出してくれたばかりか、腕の良いHPの製作会社まで見つけてくれただけでなく、事業を始めるにあたっての世話を何くれとなく焼いてくれたのである。

 と言っても、別に及川の方でも、なんの損得も無く一刀の世話を焼いた訳ではなった。

 当時、東京の新聞社でスポーツ新聞の記者として働いていた及川は、その職業を望んで選択した訳ではなかったのだ。


 及川が大学の三年に進級して直ぐの時期に、父が病で倒れた。しかも、難病指定の稀なものであった為、保険と母の稼ぎだけでは治療費を贖い切れず、大学の卒業と同時に父のツテを頼って入社したのが、新聞社だったのである。

 及川本人は、大学時代に民俗学を専攻していた事もあり、将来はその方面の研究者になる事を望んでいたらしいのだが、現実に屈せざるを得なかったのだった。


 だが、一刀が修行を始めて三年目の年、とうとう父が逝き、丁度、一刀が東京に戻る云々の相談の電話をした半年前には、母も父を追うようにして乳がんで夭折すると言う悲劇が重なった事もあり、及川自身、心機一転を図りたいと考えていた時期だったので、新聞社を辞めてフリーのライターになろうと思い立ったのである。

 そんな訳で、『アメリカで元軍人と共に賞金稼ぎをしていた元幹部自衛官候補の若き私立探偵』という属性マシマシの人生を送ってきた旧友は、及川にとって絶好のネタ元だったのだ。

 結局のところ、一刀へのインタヴューを口実に事務所に入り浸っていた及川は、次第にそこで自分の仕事をする様になり、事務所の電話取りやら、一刀の仕事に同行して助手紛いの手伝いやらをするようになり、遂には自分のアパートを引き払い、居候同然に事務所で寝起きをする様になって今に至っていると言うのが現状だった。


 尤も、一刀にした所で、給料も払っていないのに従業員並みに仕事を手伝わせている手前もあって、水道光熱費を余分に支払う程度で給料の代わりになっている現状は、決して悪い取引でもなかった為、それなりに満足のいく関係であると言えた。

「で、今はどれをやってるんだ?この前に話してたネット記事か?」


 一刀が自分のマールボロに火を点けながら給湯室に向かって声を掛けると、グラスやら何やらを洗っている及川の声が飛んでくる。

「いや、それは一昨日、終わって、もうクライアントに送った。今はサイトの方」

「あぁ、趣味枠ね」


 一刀はそう呟いて、自分のタンブラーから冷たいカフェラテをちびりと啜り、製作途中の報告書(ちなみに内容は、よくある浮気調査だった)をやっつけてしまおうと、自分のデスクトップの電源を入れる。

 及川の“仕事”は大きく分けて四つあり、一刀の仕事の手伝いの他に、生業としてのネットや雑誌への寄稿、一刀へのインタビューを元にしてのルポルタージュ(本人はこれを、本格ルポライターとしてのデビュー作にすると息巻いていた)の執筆、そして学生時代からのライフワークである都市伝説を扱ったサイトの運営、がその内容だった。


 と言っても、一刀の仕事の手伝いは、ルポルタージュを執筆するに当たって、一刀の仕事への造詣を深めると言う意味合いもあるとの事なのだそうで、それぞれを単独の仕事と考えるべきか微妙な所ではあるだろうが。

「ほーいへははー」


 一刀がwordを起動させていると、給湯室から口を泡だらけにして歯ブラシを咥えた及川が顔を出した。

「口を空にしてからにしろよ。聞き取り辛い」

 一刀が視線も向けずにそう言うと、及川は素直に顔を引っ込め、口を(ゆす)ぐ音をさせた後で、改めて顔を出す。




「そう言えばさ。お前、今日は暇だよな?」

依頼人(クライアント)とのアポの予定がないって意味ならな。あと、午後からは道場に行くぞ。それが?」

「もし、稽古の後も暇なら、フィールドワークに付きあってくれないか?」

「このクソ熱いのに、趣味の為にご苦労なこったな」


 一刀が呆れの感情を顔に出すと、及川はLARKに火を点けて肩を竦めた。

「別に良いだろ。この手の事だって、将来ルポライターとして食っていける様になったら、仕事のタネにだって出来るんだし。ほら、好きこそものの上手なれって言うじゃん?」

「下手の横好きともな。別に構わないけど、まさかまた、三十路男が雁首揃えて、伊豆辺りまで夜のドライブなんて事は――」


「まさかまさか、近所だよ」

 及川は苦笑いを浮かべて、コーヒーに口を付ける。

「中央公園だ。どうも、本格的な“事件”ってヤツかも知れないぞ」

「なんだそりゃ」


 一刀は、報告書を暫し諦めて、どっかとソファーに腰を下ろした及川の方に顔を向ける。

「うん。何でも、あの周辺のホームレスが何人か、行方不明になってるんだってさ」

 嘗てはホームレスの聖地などと言われていた新宿中央公園ではあるが、今、敷地内にその住居の陰は無い。とは言え、ホームレスの存在自体が消滅した訳ではないから、夜に寝る場所を変えただけに過ぎないし、夜、涼しくなるまで中央公園をうろついているホームレスとて当然、居る。


「それ、間違いないのか?本田のおっちゃんとかムネさんとかにも裏取ったんだよな?」

 一刀が、自分も顔見知りのホームレスのまとめ役たちの名前を出して確認すると、及川は小さく頷いた。

「モチさ。ホームレスは文字通り浮浪者だから、二人みたいな地域の“顔役”に訊かないと、ただ河岸を変えてただけ、なんてオチになりかねないだろ」


「で、確実だったと」

「あぁ。しかも、今月に入って五人だってよ」

「五人!?居なくなったのがホームレスじゃなきゃ、とっくにニュースになってるレベルじゃなか、それ」

「その通り。しかも、コレ見てみろ」





 及川は自分のラップトップのスリープを解除して、一刀のデスクの上に置いた。

「お前のサイトの投稿記事だよな?どれどれ――」

 一刀が画面を覗いて見ると、そこにはサイトの利用者たちからの投稿が、投稿日時順に書かれている。

 曰く、日暮れ時の“区民の森”で毛むくじゃらで猫背の巨大な人影が凄まじい速さで遊歩道を横切って行くのを見たとか、深夜の“水の広場”で水浴びをする半魚人を見たとか、雑木林の中から巨大な昆虫の様な生物がこっちを見ていたとか、何とも統一感に欠ける話なのだが、関連ダグには全て『新宿中央公園』という文字が並んでいる。


 しかも、投稿が寄せられている時期も、先月の半ばを過ぎた辺りから昨日の深夜までに集中してた。

「文体も句読点の位置も違うから、同一人物がネカフェ周って違うPCから書き込んでるって訳でもなさそうだな」

「はは。ウチのサイトにゃ、そんなアイドルのストーカーみたいな連中は居ないって。そもそもマイナーな都市伝説のサイトでそんな事したって、旨味がないしな」


 及川が一刀の疑念を笑顔で一蹴すると、一刀は芝居がかった笑みを浮かべる。

「どんなに有り得無さそうでも、論理的に完全否定できないなら可能性の範疇なのだよ、ワトスン君。神や悪魔や――君の大好きな妖怪やら怨霊やらと同じでね」

「ご高説ありがとうよ、イギリスになんか一回も行った事ないホームズ。だがまぁ、奇妙な話だろ?」


「しかし、これだけ目撃証言があるのに、誰も被害にはあってないようだな」

 一刀が名探偵ごっこを止めてカフェラテを啜りながら片眉を吊り上げてそう尋ねると、及川はラップトップを持ってテーブルに戻り、自分もアイスコーヒーを啜る。

「“足が着くから”かも知れないぞ。噂になる程度ならまだしも、生活基盤のある人間を襲ったら警察が動き出すって事もあり得るし」


「……妖怪だか新宿の雪男(ビッグフット)だかが、襲う人間を見定めてるって?服装やら持ち物で?しかも、警察がおっかないからって理由でか」

「警察だってバカに出来ないぞ。噂じゃ、警視庁の地下には、科学捜査じゃ解決できない事件を専門に扱う部署があるとかないとか――」


「親父からは、そんな話聞いた事ないけどな」

 一刀がそう言って肩を竦めると、及川は不貞腐れた子供の様な顔をして煙草に火を点けた。

「そりゃお前、そんな部署があるとしたら極秘事項だからな。日本は近代化した時、名目上、オカルトと国事は決別すべしって正式に決めたんだし。刑事局局長なんて超絶エリートともなれば、子供にも話せない国家機密くらい、いくらでもあるって」


「そんなもんかねぇ」

 一刀はまたも苦笑いを浮かべて、ゴキゴキと首を鳴らす。

 一刀にとって、父が警視総監の地位すら視野に入るほどのエリート官僚だなどと言う事は、いい年になった今ですら実感の湧かない事だった。


 確かに浅草の実家は、マンションやアパートの場合の多かった同級生たちの実家に比べれば、比較的大きい一戸建てだったし、当時にしては珍しい監視カメラも付いていた。父も、他の家庭の父親たちの様に駅に向かうのではなく、毎朝迎えに来る黒塗りの車に乗って出勤していたものだ。

 だが、一般家庭との違いと言えばそれぐらいで、過分な小遣いを貰った事もなければ、英才教育を施された記憶もない。


 例外的に有無を言わせずにやらされたのは剣道くらいのものだが、それは祖父の意向もあっての事だったろうし、一人娘の入り婿であった父の立場上、『当家のしきたり』という言葉を振り翳されれば、選択肢などなかったのではないだろうか。あとは精々、幼い頃、父に仕事の内容を尋ねた時に、子供でも分かりやすい様に犯罪の予防法だとかを噛み砕いて教えて貰ったくらいであり、それこそ小学校を出る年になるまで、刑事局に努める父の仕事が、実際には刑事ではないと言う事すら知らなかった程度なのだ。

 父自身も、警察官僚の家系と言う訳でもなかった為、一刀を“跡取り”とは見ていなかったからと言うのも、大きな理由の一つではあるのだろうが。


 とは言え、父の“治安維持”と言う概念に対する基礎の基礎とも言える教えが、曹操こと華琳の元での一刀の地位をどれだけ支えてくれていたかを考えれば、実にありがたい事ではあった。

「兎に角さ」

 及川は、灰皿に吸い差しを押し込むと、のんびりと立ち上がった。


「そう考えれば、公園の北側に目撃談が集中してるのも辻褄が合うんだよ」

「まぁ、子供とホームレスじゃ、行方不明になったとしても世間の注目度がケタ違いだし、理性があって、尚且つ子供に対して執着もないなら、子供を遊ばせる為のスペースが集中してる南側をうろつくのは確かにリスキーだと分かるだろうが……」


「だろ?子供が多い分、親の目も光ってるし、そう言う意味もあって、うろついてるだけで通報されるおそれもあるから、ホームレスもあんまり南側には近づかないしな」

 及川は、そう言って仮眠室に姿を消すと、シャンプーやら石鹸やらが入っているプラスチックの桶と着替えを抱えて出て来る。




「そんな訳でな。俺はシャワー貰ってから夜まで次の記事の取材だし、中央公園の近くで落ち合おうぜ」

「分かった。十二社通りと南通りの交差点にあるコーヒーショップでどうだ?コインパーキングも近いし」

「O.K.だ。じゃ、後でな」

 及川は機嫌よくそう言って、鼻歌を歌いながら事務所を出て行った。


 一刀は、すっかり仕事をする気を無くしてwordを閉じると、グーグルクロームのショートカットをクリックしてブックマークを呼び出し、リンクから及川のサイトに飛んで、先程、及川が見せてくれたページを流し読み始める。

 半魚人やら巨大な昆虫やらには覚えはない。だが――。


「『毛むくじゃらで猫背の巨大な人影』ね――ふぅん」

 一刀はその文字を何度も読み返してから(かぶり)を振って、“記憶の宮殿”の中で書籍でも漁ろうと、静かに目を閉じる。

 記憶の宮殿とは、中世の学者や修道士たちが、当時はまだ貴重であった羊皮紙や紙に書かれた書物を記憶する為に編み出した(すべ)だ。


 自身の脳内に出来得る限り巨大で、精巧に思い描ける建造物を作り出し、その各所に引き金となるオブジェクトや部屋を配置する事で、自在且つ鮮明に記憶を呼び起こせるようになる、という記憶術である。

 (たま)さかペーパーバックのスリラー小説でその事を知った一刀は、直ぐに方法を調べて、実際の建造物と同様に、何年も掛けて自分の頭の中に、今は懐かしい都の宮殿を建造して来た。


 そうして、例えば、曹操こと華琳が喜びそうな詩や芸術の知識は彼女の私室に、内政に関する知識は諸葛亮こと朱里の執務室に、料理のレシピは食堂の調理場に、農業に関する知識は、献帝・劉協こと白湯の部屋に、と言った具合に、少しずつ記憶を溜め込んで来たのだ。

 今、精神の中の一刀は、自分の楽しみとしてだけでなく、物語を愛する文官たちに話してやろうと考えて、多くの物語を記憶している書庫へと足を運んでいた。


 部屋の意匠に反して、現代的な背表紙の装丁に英文で題名(タイトル)が書かれたものの中から、スティーヴン・キングの中編小説を一冊、手に取る。

 だが、何時もは直ぐに訪れてくれる筈の没入感は中々、訪れてはくれず、書棚の影の中から、獣の――以前、漆黒の空の下で見た、あの(おぞ)ましい獣の唸り声が聞こえて来る様な気がして、何度も顔を上げなければならなかった。











「もう、皆伝相当だねぇ」

 とは、祖父の剣友にして小野派一刀流の高弟の一人、中村光雄師範の言葉だ。

 『古来、継承者は他の道場に預け、そこで皆伝を頂戴する事で修行の完成としたもの。東京でも剣を振る場所は必要だろう』と祖父が紹介してくれたのが、半世紀以上の付き合いになる中村氏が、宗家の道場とは別に自宅に持っている道場だった。


 中村氏は、祖父からの連絡を快く受け、一刀の用意して来た謝礼も、中々、受け取ってくれぬ程の厚遇で、門弟として迎えてくれた。

 一刀自身、現代剣道の源流とも言われる小野派一刀流がすんなりと身体に馴染んだ事もあって、まだろくに仕事の依頼が来なかった時期は、毎日の様に一日中、入り浸って教えを請うていた事もあり、メキメキと腕を上げていたのだった。


「流石は、達人さんの鍛えたお孫さんだ。たった三年で、もう高上極意五点を納める程になるとは」

 稽古の汗を洗い流し、自宅の居間で相対して麦茶を飲んでいた中村氏が、微笑んでそう言った。

 年は祖父よりも僅かに若いが、それでも九十に手が届く年齢であるのに、背筋は棒を差し込んだ様に伸び、足運びも、修練を積んだ剣士が見れば、怖気を振るう程の達人である事がすぐさま分かるだろう。


「いえ、皆伝だなんて、そんな。自分ではまだまだ、祖父や中村先生の域には到底、及びません」

「いやいや、そもそも本来、免許皆伝と言うのは、『その流派で教えられる技術を皆伝(みなつた)えた』という免状を渡される事で、それ以上でも以下でもない。一刀君の様に、子供の頃から剣を学んで来た昔の侍の子息たちの中には、二十歳そこそこで皆伝を貰う者は珍しくもなかった。子供の頃から大学まで一刀流の末裔である剣道に触れて来て、腕前も確かな君であれば、三十を過ぎての皆伝など遅すぎる位なんだから。それでも、本格的に始めて三年は、やはり大したものだ」


「はい、恐縮です。先生。しかし、先生に立ち合って頂くと、まだまだ未熟だと痛感します」

 一刀が頭を下げると、中村氏は笑って、自分の麦茶を飲み干した。

「そういう、剣の話をすると目が熱を帯びるのは、達人さんの血筋だね。まぁ、皆伝を貰った後は、もう自分で考えて腕と心を磨くしかない。その気持ちを絶やさない事だ。で、今日は夕食は食べていくかい?」


「あぁ、いえ。折角のご厚意ですが、どうしても外せない仕事の用がありまして」

 一刀が、そう言ってもう一度、頭を下げると、中村氏はうんうんと頷いた。

「あぁ、また何時でもいらっしゃい。稽古だけじゃなく、顔を見せに来るだけでもね」

「はい。ありがとうございました」


 一刀は、暇乞いをして愛車のミニクーパーに乗り込むと、一路、新宿への道を急ぐ。

 そうして、途中の信号待ちの時間に随分と考えた末、一旦、事務所に戻る事に決めると、ウィンカーを出して右折レーンに乗った。







 一刀は、夏の夕日の薄明かりに照らされて朱に染まった事務所に入ると、自分のデスクの横の本棚に並んでいる六法全書やらなにやらの分厚い書籍を取り除いた。

 元より、依頼人に安心感を与える為の飾りの様な物だが、用途はそれだけではなかった。


 本棚の奥には本棚の裏面の一部ごと壁をくり抜いて(大家夫妻が知ったら何と言うかはこの際、考えない)金庫が設えられていて、一刀はそのダイヤルを左右に回転させると、キーチェーンから小型の鍵を抜き取り、鍵穴に差し込んで右に回した。

 カチリ、という玩具じみた音と共に金庫が空いたのを確認し、その中から、プラスチック製の薄い箱を取り出す。


 表面には、彼の有名なロゴデザインであしらわれた“Walther”という文字が刻印されている。

 一刀は一つ息を吐いてから箱を開け、中に入っていたワルサーP99と、そのアクセサリ一式を取り出して、テーブルに置いた。

 それは、アメリカから去る時、伝手のあった非合法な運び屋を通じて日本に送ってもらったものだった。


 まず、銃口(マズル)減音機(サプレッサー)を取り付けてみて具合を確認し、また逆の手順を辿って元に戻す。

 次に、純正のレーザーサイトを取り付けて、電源を確認。最後に、弾倉(マガジン)を挿入して遊底(スライド)を引き、もう一度軽く引いて見て、排莢口イジェクション・ポートから薬室(チャンバー)を覗き、弾丸がきちんと装填されたかを目視した。


 一刀は、昔の通り迷いなくスムーズに一連の動作を完了できた事に安堵を覚えながら、ベルトにヒップホルスターを通して、ワルサーをそこに差し込む。

そうして箱を金庫に戻して扉を閉めようとして考え直し、まだ中に残っていた予備の弾倉を三つ全部出してしまうと、数冊の本を詰め込んでデスクの下に置いてある豚皮の丈夫なアタッシュケースの蓋を開けて、減音機と共にそこに仕舞う。


「まぁ、万が一って事もあるしな、うん」

 そう独り言ちた自分自身すら、万が一を望んですらいるのではないかという考えが浮かんでから、一刀は直ぐにそれを打ち払って全てを元に戻すと、事務所の扉を開けて鍵を締め――そうして、二度と戻る事はなかった。







「いよぉ、遅かったな」

 一刀が注文したアイスコーヒーを受け取って階段を上がり、コーヒーショップの二階にある喫煙席に顔を出すと、二人掛けのテーブル席に陣取っていた及川が手を挙げながら声を掛けて来た。

「お前が早過ぎるんだよ」


 一刀は、LARKの吸い殻で死屍累々の様相を呈しているテーブルの上に苦笑交じりの視線を送ると、向いの席に腰を下ろす。

「別に急ぐ様な時間じゃないだろ。まだ明るいし」

「そうだけど、気が急いちゃってさ。新しい都市伝説の伝播の初期段階に出くわしたのかも知れないし」


「けど、学者先生なんかは、ネットに新しい都市伝説の雛型を流して、伝播の仕方を観察したりしてるって話じゃないか。別に、新しい都市伝説なんて珍しくもないだろうに」

 一刀がそう言うと、及川はチッチッと指を振る。

「ただ新しいだけじゃない。天然物だよ天然物。しかも、伝播の初期段階の筈なのに、バリエーションが多過ぎる。面白すぎるだろって」





「まぁ良く分からんが、お前が楽しそうで何よりだよ」

 一刀はそう言って笑うと、それから三十分近くの間、何時もならばさっさと切り上げさせてしまう及川の民俗学談義に耳を傾け、すっかり外が宵闇に包まれた頃になってからコーピーショップを後にした。

 外に出ると、夏の熱気が一挙に全身を包み込み、冷房とアイスコーヒーで冷やした身体の熱を、すっかり元に戻してしまう。


 一刀は、コインパーキングに停めておいた車のトランクから、図面を持運ぶ為のアジャスターケースを取り出して肩に担いだ。その姿を見た及川が眉を(しか)める。

「おい、かずぴー、なんぞそれ」

「その呼び方やめろっつってんだろ。見たら分かるだろうよ」


「夜の公園でプレゼンの練習でもすんの?」

「用心だよ、用心。気にすんな。ほれ、お前はコレ持ってろ」

「お、おう」

 及川は、何時もならば大いに嫌がる高校時代の呼び名にもおざなりな反応しか示さずに、自分に豚革のアタッシュケースを押し付ける様に渡してミニクーパーの鍵を締め直す一刀の背中を暫く見詰めてから、妙な不安を覚えて頭を掻いた。


 当の一刀は、そんな及川の様子を気にする事もなく肩にアジャスターケースを担ぎ直して、横断歩道を見遣る。

「お、もう直ぐ青だぞ。こっちから渡った方が楽そうだ。行こう及川」

「へいへい。まったく、お前も十分に楽しそうじゃねぇの」


 及川は苦笑を浮かべて、さっさと歩いて行ってしまった一刀の後を小走りに追う。

 だが、及川は分かっていなかった。

 北郷一刀の高揚は、無邪気な知的好奇心などではなく、戦うべき相手を前にした戦士のそれなのだと言う事を。

 それから程なくして、二人は芝生広場の区民の森寄りの一画に設えられたベンチに腰を落ち着けていた。


 周囲には、及川が持参して身体に振りかけた虫よけスプレーの匂いが微かに漂っている。

 都心も都心、そのど真ん中だと言うのに、喧噪がやけに遠く感じられた。

 街灯の光源が白熱電球の時代であったなら、フィラメントが赤熱するジリジリという音が聞き取れるのではないかとすら思える。




「なぁ、一刀さんよ」

「なんだ?」

 一刀は、静かに目を閉じたまま、及川の落ち着かな気な呼びかけに応えた。

 及川は、恐らく、また記憶の宮殿とやらに意識を飛ばしているのだろうと思いながら言葉を継ぐ。

「こんなベッタベタな台詞もどうかと思うけどさ……静かすぎない?」


「何を今更。どう考えたって、この時間の新宿の静かさじゃないだろ。大体、まだ宵の口だってのに、この辺りに人っ子一人いないなんて、普通じゃない」

「ですよねー。まさか、もう噂の伝播速度が劇的に跳ね上がって、とか……」

「お前のサイトのビュー数が、あと二桁違えば有り得るかもな」


「オカルト系のどマイナー投稿サイトがそんな事になるレベルなら、今日日(きょうび)はなんとかチューバーとかが動画でも撮りに来るのが先じゃねぇかな」

「じゃ、そういう事だろ。良いから集中してろ。どうも首筋がチクチクするんだ――お前が思ってるより、面倒な事になるかも知れないぞ」

「俺は民俗学が好きなんであって、オカルト信奉者じゃないんだけどなぁ」


 及川は大きく溜息を吐くと、この周囲の様子では見咎められる事もないだろうと、携帯灰皿を取り出して蓋を開け、自分の煙草に火を点けるのだった。







 次に一刀は目を開けた時、及川は暇を潰す為に、音を消した携帯アプリのゲームでステージ周回に励んでいる所だった。だが、友人の声に今まで聞いた事もない様な硬質な響きを聞き取って、驚きと共に顔を上げる。

「聴こえたか?」

「は?何が?」


 一刀は、及川の声など耳に届いていないかの様に周囲の物音に耳をそばたてていたが、やがて豚革のアタッシュケースの蓋を開けて中から金属で出来た棒の様なものを何本か取り出すと、それをポケットに突っ込んで、アジャスターケースを肩に担ぎながらたち上がった。

「此処に居て、荷物を見てろ」

「は?あ、おい、一刀!!」

 及川の戸惑った様な声を背に、一刀は区民の森の方角に走り出す。

 頭の中では、今は遥か昔に管理者を名乗る人物たちから聞かされた話が渦を巻いていた。

 『制御を失った怪物たちは、正史の世界にも散発的な干渉を始めた』彼らは、そう言ってはいなかったか。


 迎えよりも敵襲が先とはまさか考えても居なかったが、もし、万が一、そうであるならば、戦うのが自分の使命だと、己の内に猛る声が叫んでいた。

 場所や時代など関係あるものか。

 自分は誓ったのだ。戦うと。


 管理者たちに、自分自身に、そして何より、命を懸けて愛し、また自分を愛してくれた女たちに。


 はい、今回のお話は如何だったでしょうか?

 オリジナルを書いた当初から、もっと探偵の一刀を書きたい言う欲はあったのですが、今回もそれを抑えるのに苦労しまして(笑)

 そのせいか、コンパクトに纏めようとし過ぎて、ちょっとダイジェストっぽくなってしまっている部分もありますが、ご容赦頂ければと思います。


 さて、今回のサブタイ元ネタは


 Bad City/Shogun


 でした。

 謂わずと知れた。和製ハードボイルドの代名詞的なバンドさんですね。

 大好きな曲がたくさんあります。


 では、また次回、お会いしましょう!

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