最終話
最終話です。
これまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。もう少しだけ、お付き合いください。
悪いこととは続くものだ。
ひとつは言うまでもなく一連の田中についての出来事。
そして二つ目はあのコンビニ店員。もっともユミは「別にどうとも思っちゃいませんぜ」という態度をとっていたが、それが偽りであることは本人が一番よく自覚するところだ。
最後に三つ目であるが、これが一番厄介だった。
田中にホテルに連れ込まれたあの日。ユミは書類仕事を放り出して帰宅してしまった。実はあの中に急ぎのものが紛れており、それはどうしてもその日のうちに仕上げなければならないものだったのだ。
そんなに重要なものなら一声かけてよと言いたいが、あの時電話と私事にかまけ確認を怠ったのは他でもないユミである。
泣きそうな顔で頭を下げる女子社員をなだめ、これから成さねばならぬことを整理した。
今はとにかく、自分で掘った墓穴を埋めなくてはならない。
このままでは最悪、当日の進行に支障が出る。
「あ~も~っ!」
ユミは泣きたくなった。なんだって昔好きだった人に女の大事な部分を見せつけ散々罵倒した翌日に、ハゲオヤジのご機嫌うかがいなんかしなければならないのか。
「これもわたしが三十路になったからか、オイ」
そう天にいる誰かに向かって問い詰めたくもなるというもの。
しかしそんなことをしている暇などあるわけがない。
ユミは一度大きく大きく深呼吸すると、一言「よっし!」と気合を入れ仕事にとりかかった。
穴埋めのために類似企業に片っ端から電話を掛け、その間にも怒涛の如く押し寄せる通常業務をこなし、先日買った服に虫食いがあったというクレームをつけられ最早悲鳴に近い店舗からのSOSに応えて行った。
その働きぶりときたら正に一騎当千。稀代の猛将呂布もかくやの勇猛果敢ぶり。驚異的速さで問題を解決し、同時に現場の指揮監督すら完璧にやってのけたユミは、その日が終わるころにはある種の伝説と化していた。彼女の噂を聞きつけた同業他社の役員連中が見学にかこつけ、数少ない休憩時間にヘッドハンティングに来たと言えば彼女の凄まじさがわかるだろうか。
とにかく、ユミはやり遂げた。
プライベートは湿ったクッキーのようにぼろぼろもさもさの彼女であるが、少なくとも仕事の上では誰にも負けない能力を持っていたのだ。
ここで潔く、「わたしは男なんかいらない。仕事一筋で生きて行く」そう言えたらどんなに楽なことか。あちこち駆けずり回りくたくたになった彼女が考えるのはひとつだけ。
すなわち「マリーナちゃんに会いてえ」である。
――そしていよいよ、イベント当日を迎える。
社の命運を掛けたビッグプロジェクト。数時間後には満員の人で埋め尽くされるであろう会場を見渡し、ユミは一度大きく頷いた。
*
乾杯の音頭を宴会好きの社長がするのを見届けると、ユミはそそくさと端の席に移動した。
今日はプロジェクトの成功を祝っての打ち上げである。と言っても、近所の居酒屋を貸し切って騒ぐだけの至ってシンプルなものだ。
しかし社長と役員連中も同席しする全社あげての催しものであるので、異様に盛り上がる。社長が派手好きだからだろうとユミ勝手に思っていた。
せっかく目立たぬ席に移ったと言うのに周囲の人間は彼女を放ってはおかなかった。
なにせ社の英雄である。さっきなど役員どころか社長まで酒を注ぎに来てはしきりに肩を叩いて行った。
悪い気分ではないが、給料をあげる前に男を紹介してくれと思う自分が情けない。英雄だ伝説だと騒がれても、その実一皮剥けばただの寂しい三十路女なのである。
酒を薦める輩が途切れたところでユミはこっそりと場所を移った。今度こそ誰にも気づかれぬように、若手社員がカラオケを歌わされている間を狙った。
目的の席に辿りつき、そっとビール瓶を手にとる。
「一杯付き合ってくれない?」
「店長⁉ いつの間に!」
「あなたが男の子に見惚れている間に、よ」
いたずらっぽく言ってやると、晴海はいつものクールな表情と打って変わって無様にとり乱した。グラスを激しく揺らし、零れた中身が彼女の膝に落ちる。あわあわとおしぼりで拭きとる姿を見て、ユミはにっこりと笑った。
それを見て「謀られた!」と悟る晴海。表情がいつもの温度に引き下げられる。
もっとも、赤くなった頬は酒のせいだけではないだろう。
それでもツンと澄まして、
「店長。一体なにを言っているのですか」
「あら、ごまかすつもり? いつものあなたらしくないわね。女は潔くなくてはダメよ?」
「そんなこと……わかってますよ。わたしだって」
そう言って視線を向けるのは、いつだったか社長の我がままに振り回されていた若手の男性社員。今は上司数人に肩を組まれマイクに向かって声を張り上げている。
「彼のこと、好き?」
「……はい」
「仕事をがんばってたのはそのせいか。あんまり張り切ってるから、嫌われてるかと思ったわよ。あなた、肩肘張り過ぎ」
晴海の顔が茹でダコのようになった。
彼と晴海は同期らしい。
研修の班が同じで、晴海は一目惚れだったと言う。これから彼と同じ職場で働けると思うと心躍ったが、それが実現することはなかった。告白も出来ぬまま研修を終えた二人は別々の部署に配属され、さらに悪いことに晴海は直営店舗に回されてしまったのだ。
ちなみに彼は経理部で、本社勤務。店舗務めは会社に出向くことはあっても、他部所の人間と関わる機会などほとんどない。会える機会は激減した。
だから晴海はがんばった。
店長になれば、少なくとも月に一度の店長会で、経理の人間と――彼と話すことが出来るのだから。
晴海は一途に彼を思い続けた。その思いだけですべてを乗り越えられた。とても純粋な心を持った頼れる副店長は、ユミの隣で泣いていた。
そんな彼女の肩に腕を回し、ユミはグラスを一気に空けた。手酌で中身を補充し、晴海にも注いでやろうとする。しかし彼女はユミから瓶を奪い取るとそのまま一気にラッパ飲みした。
「おかしい……れすか」
少々呂律が怪しい。酒はあまり強くない方か。
(それに、以外と涙もろい……私と同じね)
「まさか。すごいことだと思う。それどころか、ちょっと羨ましい」
「どうしれ、れすか……」
「だって、そんなに好きでいられる人がいるんですもの。わたしなんて、ずーっと独り身よ? それも四年間! 毎日夜遅く帰っては猫相手に愚痴を言ってる寂しい三十路女よ? そりゃ羨ましくもなるじゃない……そう言えば、あの子に店に連絡入れるように頼んだわね。そしてすぐ後にあなたの談判……まさかあなた、やきもち焼いてプロジェクトに参加させろって言ってきたの?」
腕の中で、晴海はこれでもかと小さくなった。それを見てユミは呆れたと言って呵々大笑した。
まったく、恋する女は怖いもの知らずだ。
「だってだって、彼の声聞いたのだってすっごく久しぶりで、彼が今回のプロジェクトに参加してるってわかったら、いてもたってもいられなくて……」
晴海はまたもめそめそと泣き出した。背中をさすってなだめながら、ユミは声を潜める。
「ねえ、あなた。店長になりたい?」
「え? でも……」
「これはまだ秘密なんだけどね、実はわたし、今度出世するの。さっき社長と話したばかり。ホントは前から上に行けって言われてたんだけど、今回のことで、やっと踏ん切りが付いた。だから、あの店を――わたしの後を――お願いできる?」
優しく語りかけるユミを、晴海は呆然とした表情で見つめていた。
*
『こんばんは。翼でーす。えっと、今度みんなでご飯食べませんか? 実は、比呂美ちゃんがイタリアから帰ってくるらしいんです! それに、なんと舞ちゃんも結婚するらしいのです! 相手の人は前から付き合ってる彼だって言ってました。あ。あと、さやかちゃんも臨月に入る前でタイミングがいいからってことで。みんなでお祝いしようってことになって。えっとえっと……じゃあ、また。お電話お待ちしてまーす!』
ピー。メッセージの再生を終了します。機械的な音声が流れ、電話は沈黙した。
「通信販売じゃないんだから……」
留守電を聞き終えたユミは、聞き慣れた友人の声に苦笑し、次いでほっと肩の力を抜いた。
ただいま、午後七時三〇分。最近の激務を考えると信じられないくらい早い帰宅である。
「ただいまー。マリーナちゃん。――おっとごめんね、スーツ着てるから、抱っこは勘弁してね」
ユミは珍しく服を来ていた。会社から帰った時のままのスーツ姿だ。そんなユミの姿にマリーナちゃんも少々心配そう。
「ナーウ(どうしちまったんだよ、ユミ)」
「なんでもないわよ。……それよりあなた、本格的に口調変わったわね」
マリーナちゃんの頭を優しく撫でる。いつもは帰宅すると即座にもふもふしていたので、こんなふうに触れるのは久しぶりだ。マリーナちゃんはやはり心配そうな視線を向けていたが、すぐに興味を失ったようでひょいと身を翻すとベッドに飛び乗り丸くなってしまった。
つれないわねーなんて言いながら、ユミは冷たい床に腰を降ろす。
(また、おひとりさまになっちゃった)
自分を必要としてくれる人間が、この世にいない。それはとてもとても悲しいことだ。
会社に行けば居場所はあるが、所詮は紛いもの。上っ面だけの関係だ。気を許せる部下がひとりできたけど、彼女ならすぐに彼女を必要としている人と思いを通わせることができるだろう。
やはり独りぼっちなのは、ユミだけなのだ。
膝を抱え、マリーナちゃんの寝息を聞きながら、ユミは泣いた。
大丈夫。ここならいくら泣いても防音の壁が吸い込んでくれる。誰にも邪魔されない、自分だけの空間。だからみっともなく、恥も外聞もなく、声をあげて泣いた。
これが本来のユミの姿だ。
昔から泣き虫で、どうしようもなく見栄っ張り。弱い自分なんて誰にも見せない意地っ張りな女の子。
社会に出てからは絶対泣かないと決めたのに、その誓いをとうとう破ってしまった。
「あーあ。あの子たちに謝らないと」
もちろん嘘をついてきたことである。今さらどの面下げて言えばいいのか見当もつかないが、それでも正直に生きようと彼女は決めていた。
泣いて泣いて泣いて……。いつの間にか眠ってしまったらしい。ふと見れば足元にマリーナちゃんが寄り添っている。
「あなたが人間だったら、間違いなく惚れてるぜ」
笑いながら鼻を突くと豪快にくしゃみした。
もうすぐ九時になろうとしていた。そう言えばお腹減ったなーと思い、眠たげなマリーナちゃんをそのまま自転車のカゴにプットイン。コンビニへと向かう。いつも通りマリーナちゃんをカゴに残し店内へ。
しっかしいつ来てもガラガラだなー。なんて失礼なことを考えながら小ライスと適当に総菜を選んでレジへ。ピッピッと小気味いい音に耳を傾ける。
(寂しいな――)
「どうしたんスか。なんだか今日は落ち込んでるみたいスけど」
ユミは驚愕して顔を上げた。
そこにはあの、おしゃれが空回りしている眼鏡店員の姿。
「あ、あんた、どうしてここにいるのよっ⁉」
「どうしてって、店員だから。今日はジャージじゃないんスね。一瞬誰かわかりませんでしたよ」
顔が赤くなる。
この、いつもの小バカにしたようなもの言い、間違いなく本物だ。
しかし再会の余韻に浸る間もなく、ユミの頭が沸騰した。
「うっさい! そんなことわかってるわよ! どうしてクビになったあんたがまた働いてるのかって聞いてるの!」
「あー、そのことね。店長に泣きつかれたんスよ。新しく入った奴が全然使えないから戻ってくれって。知ってる? 金髪でピアスつけた」
あの好青年のことか。見た目はともかく、なかなか感じのいい印象だったのに、人とはわからないものだ。
というか今さらだが、壊滅的に男を見る目がない。
「で? なんだか暗いですけど、どうしたんスか? 男にふられたとか? あちゃー、やっちゃいましたね。ドンマイ」
「あんた、本気で、心の底からデリカシーないわね。そんなだから客と喧嘩になるのよ」
「それは関係ないでしょ。あれはほら、向こうの言い分がおかしかったから。たかがプリンのスプーン入れ忘れたくらいでキレんなっつの」
「そういうところがダメなのよ。いい加減就職したら?」
「余計なお世話ですー。それに実は俺、この店の店長候補になったんだよねー。うわースゴーイ。拍手拍手~」
「あんたが店長なんかやったら、間違いなく潰れるわね、ここ」
「うわ、ひっで! どうせ毎日来るくせに」
ユミはくすりと笑ってなにも言わずにおいた。
まったく、心配させやがって。そう言いたかったが、今はまだダメ。
「ねえ、あんた名前は?」
「え? 小森ですけど。つか、ここに書いてあるでしょ」
そう言って自分の胸を指差した。そこにはネームプレートがついていて、『トップをねらえ! 店長候補NO1 小森』と書かれていた。
「よし。小森」
「いきなり呼び捨てかよ……。ハイハイ、なんですか。お客様」
ユミはふふんと笑う。
その意地の悪い顔を見て、小森があからさまに顔を顰める。
「これからは敬語使わなくていいわよ。元々あんたのもの言いは不快になるだけだしね」
「あーそう。で? なんの用? さっさとお金払ってよ」
「小森、あんた彼女いる?」
「……いないけど」
「あはっ。やっぱり」
「うるさいなー。ホントなんなの」
ユミはそーだよねー、いるわけないよねー、だってあんたおしゃれの仕方間違ってるもん。そりゃ彼女できないわ――と捲し立てる。それを聞いて小森はへいへいそーでござんすよー、どうせモテませんよ――と不貞腐れる。
するとユミはレジに身を乗り出し、「え、強盗?」と怯える小森を見据え、こう言うのだ。
「あんた、わたしと付き合いなさいよ」
外から待ちくたびれたマリーナちゃんの声が聞える。
店内に最新のポップミュージックが流れ、硬直した時に早く動けと働きかける。
小森はしばし呆然として、「あんたホントに大丈夫か?」と問いかけてきた。それを「なんて失礼な奴だ」と笑い飛ばし、胸を張り、腰に手を当て、武将に喩えられるその威厳をもって、目の前の男を視線で射ぬくのだ。
「そう言えば自己紹介がまだだったわね。わたしの名前は桜井ユミ。独身。大手ファッションブランド勤務。近く出世予定。心配なんかしなくても、あんた一人くらいなら養えるくらい貰ってるキャリアウーマン。そして、」
「あー、そッスか……。とりあえず病院行きましょ。ね?」
――そして、もう一つ。
本気で心配し始めた小森を見て、ユミはにっこりと笑う。どぎまぎする小森を見て、小気味がよくなる。
今度の飲み会では、あの子たちによい報告ができるだろう。
ユミは笑顔で。
自信に満ちたその表情で。
堂々と気高く。
何者にも負けない威厳をもって宣言する。
「わたし、三〇歳になりました!」
了
頑張ってる人の涙って、男女関係なく綺麗ですよね。
元・同僚の男性が仕事で悩み泣いている姿が忘れられません。