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第五話

ユミはいい女だと思います。

 気が付けば、都内でも上位に位置する高級ホテルでシャワーを浴びていた。


 ちらりと目に入った時計は午後一一時を指していて、マリーナちゃんお腹空かせてるだろうなとぼんやり考えた。


 バスローブに身を包み戻ると、田中はベッドの縁に腰かけユミを待っていた。彼もまた、すでにシャワーを浴びている。


 部屋に入った瞬間から見つめ合い、近づいて行くとグラスを差し出された。


「ロゼだ。飲むといい」


 不思議と緊張はない。


 もちろんユミだって初めてではないが、それにしたって冷静すぎる自分の心に疑問を感じずにはいられなかった。


 体温すら感じられる距離に、自分の好きな人が座っている。テーブルを挟んで向かい合った時でさえ、あれほどドキドキしていたというのに、今はどうだ。


 空になったグラスを田中は静かに奪い取った。あまりに優しかったので、少しの間手からグラスが消えたのに気づかなかったほどだ。


 腰に手を回され、そっと背中がベッドに堕ちると、「ああ、わたしこの人に抱かれるんだ」と思った。


(思えば最後にエッチしたのいつだっけ。少なくともオリンピックイヤーより前で、それははて、誰だったかしら)


 田中の唇が鎖骨をなぞった。


(そう言えば最近肌が渇いてたなー。女は歳とって男がいないとすぐ乾くからなー。総務の池田さん、確か旦那さんと別れてからすっごい勢いで老けてったもんなー。肌なんて紙やすりみたいで。わたしも、傍から見たらあんなだったのかなー)


 田中の手がユミの裾を割った。

 直に肌に触れられくすぐったくなった。


「あはは」


 つい笑ってしまった。


 感じる演技も出来ずにくすぐったがるなんて、まるで処女みたいだと思ったのだ。

 これだからモテない女はイヤになる。あんまり久しぶり過ぎて男に触られる感触なんて覚えていない。


「どうしたの?」

「ううん、なんだかおかしくって」

「なにが? 僕を慰めてくれないの?」


 ちょっとムッ。自分ばっかりイヤなとこを押し付けておきながら、なんて勝手な男だ。


(でも、苦しんでるなら仕方ないか。そう言えば子供っぽいところもあったし)


 ユミはなにも言わずに田中を胸に抱いた。


 そうすればきっと、言葉より多くのものが、速く伝わると思ったから。


 どうやら成功したらしく、田中は表情を和らげ愛撫を再開した。首や胸元を舌で舐め、手で体を探る。 バスローブが取り払われ、産まれたままの姿にされた時、田中が唇を寄せて来た。


(彼とキスする日が来るなんて、想像もしてなかった)


 頬に手が添えられ、そこにユミも手を重ねた。迫る唇に目が釘付けになる。このまま触れてしまえば、もう後には戻れなくなる。しかしなにがわたしたちを押し止められようか。体の芯が熱くなり、ユミは恍惚の中に意識を委ね、最後の数センチを縮めようとした。


 しかし――。


 カチン。唐突な金属音。見ればマリーナちゃんとおそろいの指輪が田中の結婚指輪とバッティングしていた。


 急速に頭がクリアになる。間近に迫った田中の顔をよく見ることができた。


 田中は笑っていた。


 そこに優しさとか悲しみとかの感情は見られない。


 彼の瞳にあったのは、純粋な悦楽。これから女を抱く男のイヤらしい下心だ。


 ユミはとっさに顔を背け、田中のキスをかわした。


「あ? なに」


 笑ってはいる。

 しかし同時に、滲み出るような苛立ちがはっきり見えた。


「えっとあの……ごめんなさい。やっぱ無理」

「は? ナニソレ。意味分かんない」

「ホントごめんなさい。でも、田中先輩とはできない。ていうかしたくない」


 今や田中の顔は醜く歪み、今まで気づかなかったのが不思議なくらいいやらしさに満ちていた。


 田中は大きく舌打ちして再びユミの体を撫で回した。どうやら無理矢理ヤッてしまおうということらしい。


 田中の力は強く、抵抗しようにもどうにもならない。このままではいけない。


 昔――そう、例えば田中と知り合った頃。まだ十代後半くらいの年齢だったなら、ユミは成す術もなく田中の自由となり、酷く傷ついていたことだろう。


 しかし今のユミは三〇歳である。乙女の恥じらいとか初心な恋心とかいう崇高のものとは別次元に生きる無敵の三十路女である。


 こんなの初めての一人メシに比べたら軽い軽い。マリーナちゃんのひげより軽い。


 まずは体を撫でまわす田中を冷静に観察する。気持ち悪いとは思わなかった。

 というかなにも感じなかった。


 ユミは不敵に笑い、小声で、しかし田中の耳に届くようこう言った。


「ぷっ。ヘッタクソ」


 田中の動きが止まる。顔を見ると、愕然とした表情でユミを見ていた。


 あー、この人女に酷いこと言われたことないんだー。そーだよねー。だってカッコイイもんねー。そりゃ仕方ないよね――と、悟ったユミは妙な興奮を覚えながら、視線を下にずらし、今度はこう言ってやった。


「ちっちゃ(笑)。それマックス?」


 強めにデコピン。堅さもイマイチ。


「ひぃ!」


 田中は面白いくらいに動揺した。股間を手で隠し、慌ててシーツの中に隠れユミから逃れるのだ。

 対するユミは肩を竦めて柔らかなカーペットの上に降り立つ。


 無論体を隠すことなどせず、全裸のままである。それどころかシーツに包まり震えている田中を見降ろし、腰に手を当て仁王立ちするのだ。


「アンタが奥さんに愛想尽かされるのわかるよ。アンタマジでヘタ過ぎ。それ以前にがっつき過ぎ。みっともないったらありゃしない」

「う、うううううるさぁい! おおおおまえだって喜んでついて来たじゃねえか!」

「そりゃ途中までは抱かれてやってもいいかなって思ったよ。昔のよしみもあるし。でも気が変わった。アンタ相手じゃ濡れないのよ」


 そう言ってユミは自分の股間を開いて見せた。

 彼女の言う通り、そこは砂漠地帯もかくやというほどかっさかさだった。


 目の前の光景に愕然としている田中の髪を鷲掴みにする。前髪がぶちぶちと音を立てたが知るもんか。

 こんな奴禿げればいい。ぐいっと引き寄せられ、恐怖に見開かれた顔に、過去の面影は微塵も残っていなかった。


 ユミは大きく息を吸い込むと、その鼻先に向かって力の限り叫んだ。


「三十路女舐めんなよっ!」


         *


「もしもアンタが奥さんと寄り戻して、んでもってちったぁマシになったらあたしんとこ来な。そんときゃ抱いてやってもいいぜ」


 これが去り際のセリフであった。前髪を引き抜かれ男としての尊厳を木端微塵に砕かれた田中を置去りに、ユミはさっさと服を身につけるとなるたけ余裕を持ってますというふうを装ってホテルを出たのだった。


 そのまま駅まで歩き、電車に乗って最寄りの駅へ。駐輪場でいつものおじさんに「お。ねーちゃん今日は機嫌よさそうだね」なんて言われるのに片手を上げて応え、夜の街を自転車に乗って家まで帰った。


 鍵を開け、ヒールを脱いで、すたすたと部屋に入りスーツをさっさと脱いで下着姿になった。


 ストッキングを注意深く引き抜いて、髪止めも外す。ブラもとっちゃう。

 パンツ一丁になったところで大きく息を吸い込んだ。


 そして目一杯口を開いて、


「うそだぁああああああああああ―――っ!」


 それは魂の叫びだった。頭を抱え髪をぐしゃぐしゃにかき乱して喚き散らすのだ。


「うそだうそだうそなんだよ! ホントはエッチしたかった! もう四年してないの! 潤いとかめっちゃ欲しかったの! 心の底からはむっちゃヤリタイ! 田中先輩とかホントいいなーって思う! ちょっとくらいヘタでもちっちゃくてもマジでどうでもいいの! ホントは濡れなかったんじゃないの、多分わたし枯れちゃったの! あっ! マリーナちゃんただいま~」


 世にも珍しいオスの三毛猫も、飼い主のあまりのご乱心ぶりにさすがに不憫になったようだ。マリーナちゃんは手を差し出して来るユミを前足で制し、「ナア? ナーオーオー(おまえマジで大丈夫か)?」と問いかける。


 それに「ダメなのよ~」と答え、さっさとベッドの上へ。そして怒涛の愚痴が始まった。


「あのね、わたしね、今日男の人に誘われたの。多分四年ぶりにマリーナちゃん以外の男におっぱい触らせちゃったの。でもね? でもね? 最後までしなかったの。キスだって避けちゃったの。だってね、田中先輩たらね、わたしで遊ぼうとしたんだよ? 酷いと思わない? 奥さんも子供もいるのにね。それでね、あなたのおかげで直前にそれに気づいてね、ヘタクソとかちっちゃいとか言ってやったの。ホントは人並みくらいだと思うんだけど、田中先輩ったらすっごく傷ついたみたいで悲しい目で見て来たの。だからね? わたしってばいつかのマリーナちゃんの真似してスケバンっぽくカッコつけて『いつか抱いてやるよ』なんて言っちゃったの! もう、ホンット恥ずかしい!」

「ナーア(まあ人生いろいろだよ)」

「うぅ……慰めてくれるのマリーナちゃん。わたしはあなたを売ろうとしたのよ?」

「ナン。ナーァ(仕方ないから許してやるよ)」

「ありがとうございます。ご主人様……」


 ユミは深く頭を垂れて感謝の意を示した。


「ナー(いいからメシくれ)」

「はい。わかりました。……ていうかマリーナちゃん、口調変わってない?」


 ユミはマリーナちゃんを抱いたまま台所へ。いつものように棚を探るが猫缶は見つからなかった。


 ――現在、午前〇時一五分。


「あのー、マリーナちゃん? さすがにこんな時間に外に出るのはちょっと……」

「ナー(さっさと準備しろ)」

「ですよねー……」


 と言うわけで、ネコに使役される三十路女はノーブラきっちりメイクのままスウェットを着込むと、自転車の前カゴにマリーナちゃんを座らせ夜の街へと漕ぎ出した。


 さすがに日付を越えると少々ビビる。濃い闇はねっとり纏わりついてくるような気がするし、街灯の光が届かない植え込みの陰なんかには、怖いものが潜んでいるように思えて仕方がない。


「マリーナちゃん。いざって時は守ってね」

「……」

「え。まさかの無反応?」


 そうこうするうちにコンビニへ到着。人工的な光にほっと息をつく。


 て言うかわたし働き過ぎじゃない? 会社終わってからバーで愚痴聞いて、その次はホテル行って先輩を散々バカにして、最後はマリーナちゃんのごはん求めて深夜のコンビニって……。やっぱり売っちゃおうかな。

 なんて思うのも無理もないこと。


(これも三十路になっちゃったからかなあ。誕生日迎えた途端にこれだもん)


 思わず溜息。おっといけない。こんな姿あの店員に見られたらまたバカにされる。そう思いレジに目を遣る。


 しかし見慣れたあの眼鏡の姿はなかった。いつもはいる時間なのに、今日に限ってオフなのだろうか。


 手早く猫缶をカゴに放り込み、さっさとレジへ。


「いらっしゃいませー」

「あの、今日は眼鏡の店員さんはおやすみ?」


 ついつい口を突いて出てしまった質問に、ユミ自身が驚いた。


 しかし言ってしまったものは今さら取り消せない。金髪ピアスの店員はちょっと驚いたようだが、すぐに笑顔で応えてくれた。見た目に反し中身は好青年のようだ。


「あー、あの人。よくお客さんに軽口言ってたでしょ。この前とうとう喧嘩になっちゃいましてね。店長も結構注意してたらしいんだけど全然言うこと聞かないから、クビになりました」


 あっけらかんと言ってのける男の子を見て、なんだか遣り切れない気持ちになった


次回、最終話です。

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