第四話
最近、誰かといる時に寂しさを感じます。
一人メシに優越感を持ち始めたのはいつからだろう。
昼時で賑わう店内。
オシャレな内装に気の効いた音楽。
そこにいるのはほとんどがOLグループや昼食を共にする社会人カップルである。当然席には限りがあるので、そういう人たちは長いこと待たされる。待ちあい席は人であふれ、あまりの人の多さにうんざり顔の人もちらほら。
「ただいまカウンターの席が空きましたので、そちらから先にご案内させていただきます。お一人でお待ちの桜井様~」
ユミは人の群れをしり目に澄まし顔で店員の後を行く。カウンター席はテーブル席と違いほとんど人がいなかった。
(フフン。一人メシが恥ずかしかったのはせいぜい二六までの話よ。今は待たずに人気店のお昼にありつける優越感を満喫しているわ)
一人でメニューを開きながら悦に浸る。おひとりさまだから味わえる数少ない特権である。
注文を済ませ、喧騒と入り混じるBGMを聞くともなしに聞いていると、先日の田中との再会を思い出した。
「うふふ。楽しみ」
田中は既婚者だった。可愛い娘さんまでいる。
ユミはポケットに入れていた名刺を取り出した。そこには彼の勤め先と肩書き。今は係長とある。
大手商社に勤め、この年齢で係長ならかなりのやり手なのだろう。ひょいと名刺を裏返した。
「連絡。しろってことよね」
そこには彼のプライベートな番号が書かれていた。運ばれてきた料理に舌鼓を打ちながら、田中について思いを巡らす。
あの後、この名刺を渡され食事に誘われた。「今度一緒にどう?」そう言われただけなので社交辞令ともとれるが、あの正直者で有名だった田中先輩のことだ。なんの他意もなく「一緒にメシ食おうぜ!」と言ったに決まっている。
相手は年上、妻子持ち――。
男女の仲はあり得ない。その代わり、学生に戻ったような清々しい気分を味わえる。あの人はなにも変わっていなかった。
自分に向けられる視線も、照れくさそうに頭を掻く仕草も……。
「あーあー。なんで結婚なんかしてんのよ、バカ」
おひとりさまの食事は寂しい。そう思うのは随分久しぶりだった。
*
仕事はひと段落といったところだった。各種発注は済ませた。運営の段取りは既にできあがっているし、どの部門においても特にこれといった問題も起きていない。後は企画通りにプロジェクトを進めていけばオールオッケー。
……なのだが、ここに来て酷く個人的な問題が発生した。
晴海がイベントの運営スタッフに混ぜろとごねてきたのだ。当日は大々的な宣伝が功を奏し、各店舗にもかなりの集客が見込まれる。店舗内にモニターを設置し、イベントの模様を生中継するのだ。会場に入れなかった人々が、大袈裟でなく店に押し寄せることも充分考えられる。
そうなると、当然必要になるのが場をしきる優秀な指揮官だ。
ユミは当日会場に足止めされる。店舗は少数の社員と多数のパートタイマーで切り盛りするしかない。彼らをまとめあげる力を持った者が必要になるのだ。
ユミはその件に関し、さほど心配をしていなかった。社員はみな強者ぞろいであるし、アルバイトで入っている子だって、高い時給と有名ブランドの看板を背負っていることを自覚し、よく働いてくれているからだ。
なので、当日副店長である晴海が抜けることは許されない。
彼女はとても優秀だ。
それは普段の仕事ぶりを見ていてもわかる。店舗運営をほとんど任せているのだし、若くても社員。自分の仕事はわかっているはずだった。
しかし、だからこそ、ここに来て彼女のプライドのようなものが我慢できずに顔を出してしまったのだろう。
自分が優秀だとわかっているから、これからの行く末を考えれば、このような大きな仕事の一端に関わり、将来の礎にすべきだ。そんなふうに考えたのだろう。
もちろんそれは間違いではない。彼女の成長を促すにはまたのない機会なのだから。
――しかしそれは、あくまで彼女個人に対してのみの話である。
今回の仕事は会社創設以来の巨大プロジェクトだ。社の命運すら左右する一大事なのだ。いかに晴海が優秀であっても、入社して間もない彼女を使うわけにはいかない。どんな些細なミスが発端となって大問題に発展するかわからないし、彼女は責任のとりかただって知らないのだから。
晴海には経験がない。
会社にすら、あるか疑わしい。懸念材料は取り除いておくにこしたことはないのだ。
以上のようなことをオブラートに包んで諭したユミであるが、それがすぐによい効果をもたらさなかったことを知った。
なんと説明を終えた直後、晴海が声もなく涙を流したのだ。
ユミは驚愕して、数秒の間まじまじと晴海の顔を見つめてしまった。口を真一文字に結び、見開かれた目は真っ直ぐユミを見つめ、鋭い。しかし滲み出る涙はどうすることもできず頬を伝うのだ。
「ど、どうしたの? わたし、なにか気に障ること、言ったかしら?」
おろおろするユミを見て、晴海は小さく首を振った。
「いえ。気になさらないでください。店長の言うことは、きっと正しいのでしょう。わたしにはまだ早い。そういうことなのでしょう。それが店長の、社の判断なのでしょう……それと、わたしは大丈夫です」
何も言えずに呆然とするユミをおいて、晴海は事務所を後にした。
一人残されたユミは一度深々と椅子にもたれかかると、「ウォオオ……」と小さく呻き声を発した。
「マリーナちゃんに会いてぇ……」
*
一度掛け直すと言われ、着信があったのは一〇分後。ユミが仕事あがりで近くの喫茶店にいると言うと、田中は三〇分で行くと言って電話を切った。
時刻は午後七時。商社で働く彼にとってはまだ仕事の残る時間だろう。旧友との再会を優先してくれたということだろうか。そんなふうに考え少し機嫌がよくなった。
「ごめんごめん。出がけに部長に捕まっちゃって」そう言いながら現れた彼は三分遅刻。
ひとしきり笑い合ったところで店を出た。近くにおいしいフレンチを出す店を知っているとかで、歩いて向かうことに。道中お互いの近況を報告しあっていると、自然と昼間の話題になった。
「それでね、その子ったら突然泣きだしちゃったの。強さの塊みたいな子だと思ってたんだけど、一体どうしちゃったのかしら」
「そっか。彼女も思うところがあったんだろうね。でも、今は桜井の方が心配だよ」
「ええ? どういうこと?」
「なんだか無理してるような気がして」
そう言った田中は柔和な笑みを浮かべていた。
久しく忘れていた女の部分が顔を出す。それを確かに感じながら、ユミは恐る恐る、期待を込めて田中の腕に絡みついた。
拒否はされなかった。
レストランは素敵なところだった。照明の光は柔らかで、流れる音楽は夜の雰囲気を演出している。出される料理はどれも美しく、もちろん味も申し分なかった。
ユミは喋り続けた。仕事のこと、友人のこと、買っているネコのこと、いけすかないコンビニ店員のこと……。
静寂を恐れたのはなぜか。
きっと、その時に向けられるであろう彼の笑顔が、なにより怖かったに違いない。
もし、ユミがしゃべるのを止めて、その時彼が目の前で、あの、柔らかな笑顔を浮かべたら……。そう思うとユミは話さずにはいられなかった。
「今度は、いつ会えるかな」
食事を終え、タクシーを拾った田中はユミにそう訊ねた。真っ直ぐな視線に射竦められ、ユミは一瞬答えに詰まる。
そして、田中はその一瞬の隙を見逃さなかった。
ふっと、蝶が通り過ぎたかのような微風。
彼は微笑み、ユミは恋に落ちた。
*
イベントまで一週間を切り、ユミは再び忙しくなった。社長を始め、各部署の責任者クラスが会場やスポンサーの間を行き来し、ユミも八面六臂の活躍を魅せた。朝から晩まで仕事詰めの日々が続き毎日疲労でくたくただったが、ほどよい高揚感にふわふわ包まれとてもよい気分だった。
つまり、「充実してるー」とか、「生きてるー」と心から思えたのだ。
唯一心配していたのは晴海のことであるが、あの日、涙を見せてから後も彼女は獅子奮迅の働きぶりを見せ、むしろ以前より頼もしく思えたほどだ。
まあ、これは恐らく空元気だとは思うが、ヘタに落ち込まれるよりはずっといい。空元気も長く続ければ本物になる。それが男もなく長年働き続け、同時に凹み続けて来たユミの出した結論である。彼女はきっと、いい女になるだろう。
田中とは週に一、二度食事に行く。それは決まって夜で、彼はワインが好きらしくとても詳しくて、それについて語るときはすごく活き活きしていて、なんだか子供みたい、なんて思うのだ。
「ワインは製造法や原材料によって大きく四つに分けられるんだ。ひとつはスティルワイン。非発泡性で一般的にワインと言ったらこれを指す。赤ワイン、白ワイン、ロゼワインがそうだ。二つ目はスパークリング・ワイン。炭酸ガスを封じ込めた発泡性のワインだ。フランスのシャンパーニュ地方は知ってる? ――そう、聞いたことはあるんだね。そこで造られたシャンパンが代表的なものなんだ。三つ目はフォーティワイド・ワイン。これはスティルワインの発酵中、または発酵終了後にブランデーなどの強いお酒を加えてアルコール度数をあげるんだ。こうすることでコクや保存性を高める。最後の四つ目。フレーヴァード・ワイン。その名の通りスティルワインに薬草や香辛料、果汁、甘味料をなんかを加えて独特の風味を与えたワインだ。イタリアのベルモットが有名かな」
ユミが小さく笑うと、彼はなんで笑うのさ? とちょっと拗ねたように文句を言ったりする。
その時の彼は少年のようにかわいくて、大人の雰囲気の漂うお店にミスマッチだ。
これまで爽やかで清潔な彼しか知らなかったユミにとって、その子供のような表情、仕草は新鮮な驚きをもって受け入れられた。もっと彼を知りたいと思うようになり、それは度重なるデートにより叶えられたのだ。
「なんだか最近機嫌いいみたいッスね」
「うふふ。わっかるー?」
「うわっ。うふふだって。キモチワルー」
あのコンビニ店員の軽口だって軽くいなせるようになった。
「やっぱいいわよねー。誰かと共に時を過ごすって。あんたもいい年なんだから、ちょっとは考えなさいよ」
「心の底から余計なお世話です。あのね、僕はね、自由に生きるって決めたの。好きでフリーターやってるの。これが一番自分には合ってるの」
「あらあらそれはごめんなさいね。わたしったら自分に余裕(強調)ができたもんだから、ついつい他の人に口出しまでしちゃって。では、ごめんあそばせ~」
ユミはオホホホと優雅に笑いながら店を出た。遅れて聞えて来るありがとうございました~の声がやけにねちっこく思えるが構うもんか。
「ああ、わたしってば幸せかも」
などと夜な夜なマリーナちゃん相手に語りかける始末である。
もちろん田中と深い仲になろうなんて考えてはいない。
(嘘。ちょっとだけ期待している)
でも相手は妻子持ちだ。きっと自分と頻繁に会うのも昔を懐かしんでいるか、仕事や家庭に疲れての息抜きのようなものだろう。
そう考えるとなんだかいいように利用されている気もするが、それも当然というもの。ユミだって田中と遊んでいるのだ。子供のように無邪気に笑い、無駄話に精を出す。
(いいじゃん、遊び仲間)
「しかもいい男だし。ねー? マリーナちゃーん」
マリーナちゃんは未だ機嫌が直らず黙々と皿に盛られた猫缶を食べている。機嫌直してよ~ともふもふするが、なにも語りかけてはくれない。でも、以前のように悩みを聞いてもらっているわけではないのでどうということはなかった。ただ自慢したいだけ。異性と触れあい充実した毎日を過ごしてますって言いたいだけなのだ。
「四年のブランクがなんじゃーい!」
食事を終えたマリーナちゃんを抱きしめ、ユミはベッドに転がった。
(恋人とか結婚とかどうでもいいや。だって、わたしってばまだ(気持ちの上では)二十代なんだもの。年上の男性に片思いなんて、ちょっと素敵)
ユミは笑いながらベッドの上を転がった。胸に抱いたマリーナちゃんが迷惑そうな顔をしているが気づいてもいない。
なんだか若返った気分だわー。いいえきっと本当に若返ってる、わたし。今肌年齢測定したらきっと十代ね、うん。そーだ、ワインの勉強してみよっかな。ソムリエの資格取るのもいいかも。そうしたら彼も喜んでくれるはず。ワインを一口飲んで、『うん、この香りとコク。フランスのなんとか地方のほにゃらら年物で間違いないわ』『すごいよ桜井。いつの間にソムリエの資格を?』『うふふ。おひとりさまには時間があるのよ』『まいったな完敗だよ』『ワインだけに?』『HAHAHAHA!』
「ぐへへへへ」
「ゥナー(うわー)……」
マリーナちゃんどん引き。
不気味に笑いながら、ユミはこの恋が報われることのないものであるとわかっていた。相手は既婚者妻子持ち。初めから報われるなんて思っちゃいない。ただ、恋に身をやつしていたいだけ。あまりに男日照りが続いたために田中と言う一滴の雨で狂喜乱舞している砂漠の民がユミなのだ。
それも仕方がないことなのだろう。四年と言う期間はおひとりさまには長すぎたのだ。
「今度、おいしいイタリアン(巻き舌)に連れてってくれるんだってさー。楽しみだねー? マリーナちゃーん」
「ナーナー(ネコには関係ないだろ)」
こうしておひとりさまの夜は更けて行く。
久しぶりに訪れた充実したひと時。ユミの笑い声は深夜まで途切れることはなかった。
*
イベントまで三日と迫り、ユミは最後の調整に追われていた。スポンサーや協賛企業との打ち合わせが予想以上に長引き、会場に設える広告の搬入が遅れたことを除けば順調と言えた。
その日も時計を見る間もなく仕事に追われ、気づけば午後一〇時を回っている。電話を肩に挟んだままパソコンを叩いていると、デスクの前に人が立った。
顔を上げると、女子社員が書類を差し出している。
大急ぎで届けてくれたようで軽く息が乱れ額に汗が滲んでいた。目と手振りで礼を言って、彼女に帰宅するよう伝える。フロアにはユミと数人の社員だけが残った。
書類は意外と分厚い。ざっと目を通すと、予想通り遅れていた広告に関するものであった。
「御社の製品に関する謳い文句に、我が社を誹謗するくだりが見受けられる」
なんてイチャモンつけられて変更を余儀なくされた事案であったが、はたしてどうなったのか。ユミはこの件に関してはノータッチだったので、裏で誰がどれだけ駆けずり回ったのか知らない。
やれやれと思いながら目を通していると私物の携帯が鳴った。
メールだ。
見れば田中であり、今夜会いたいと書かれていた。うれしい反面少し困惑する。
こんな遅い時間に、しかも理由もつけずに一方的に呼びだすなど彼らしくない。なにかあったのだろうか。ユミはそわそわと落ち着かなくなった。
断ることは可能だ。向こうもビジネスマンである。ユミが今忙しいことは百も承知している。現に仕事中であるし、説明すればわかってもらえるだろう。
しかし携帯を握りしめたまま、ユミは返信することができなかった。
なぜなら田中の要求に応じ抜けだすこともまた、可能であったからだ。仕事は残っているが、どれも簡単なものでしかない。書類に目を通し、確認のサイン一つで済む。
数秒の葛藤の末、ユミは田中をとった。読みかけの書類を明日に回し、さっさと荷物をまとめると、未だ残業に追われる同僚たちに声をかけて社を後にした。
一体、彼になにがあったのか。漠然とした不安を胸に、ユミは田中が待っているというバーに向かった。
カウンターに座る田中を見て、ユミは悪い予想が当たったのを知った。
彼の左隣に座り、同じものを注文すると、ユミはそっと彼の肩に手を置きなにがあったかを訊ねた。
奥さんとうまくいっていないと彼は言った。毎日のように喧嘩が絶えず、自分がなにを言ってもヒステリーを起こすばかりで話さえできない。原因はわからない。仕事で遅くなったことや休日にまで家を空けることをなにか言われた気もするが、それ以上は聞き出せなかった
実を言うと、夜な夜なユミを誘って食事をしていたのも、なるべく遅い時間に帰りたかったからだ。
どうせ顔を見合わせれば喧嘩ばかりだし、それならばみなが寝静まった頃に帰宅した方がいい。娘と会えないのは寂しいが、寝顔だけは毎日欠かさず見ている――と。
「もう、疲れちゃったよ」
「疲れたって……。どうするつもりなんですか」
田中は黙って首を振った。こんなに追い詰められた田中を見るのは初めてだった。
悩みなんかひとつもなくて、いつだって笑顔を振りまいて周囲を明るくするような人だと思っていた。
(そんなはず、ないのに)
たった数週間だが、ユミは田中にとって最も近しい女性であった。
間近で田中のことを見ていたはずなのに、どうして今まで彼の苦悩に気づいてあげられなかったのか。
ユミは自分を責めた。
気づけなかったのは、自分が単なる遊びとして彼と付き合っていたからだと気づいた。
田中は家庭でもなく会社でもなく、ユミに安らぎを求めていたのだ。
「側にいてくれるかい」
ユミは応えられない。その言葉の意味するところは、彼の破滅へと繋がっている。
戸惑いを隠し切れず、沈黙してしまったユミの手に、田中は自分の左手を重ねてきた。
ハッとして顔を上げる。
鋭い視線に貫かれた。
あの日再会した彼とはまるで別人。蝶が舞う柔和な笑みも、輝くような清潔感もない。野生味を帯びたオスが目の前にいた。
「頼む」
手が握られた。
ズキリと、その痛みが刺激となって鼓動を速める。
「おまえしか、頼れる人がいないんだ」
暗い照明の光が映り込み、田中の目は青色に光って見えた。
それがなんだかとても悲しく思えて、ユミは意図せず頷いていた。
慣れたなら、結構楽しい一人メシ。