第一話
原稿用紙100枚ほどの短編です。
三〇歳になりました。
その言葉を合図に三つのクラッカーが弾けた。飛び出した細いリボンが宙に舞い、そのいくつかは頭に引っかかり、目の前にぶら下がった。
火薬のにおいがツンと香るなか、ムードメイカーの中原舞が盛大に拍手をした。
「おめでとうございます。ユミさん」
「ありがとう。でも、今日の主役はもう一人いるじゃない」
ユミはそう言うと隣に座る羽原さやかの肩に手を乗せ、にっこりと微笑んだ。
「あはは。わたしなんてついででいいんですよ。だってまだ三カ月ですもん」
そう言って手を振る彼女のお腹は既に大きくなり始めている。こんなになるまで気がつかないなんて、この子はなんて鈍いのかしら。そう思いながらも、向けられる笑顔を見ているとすべて許せてしまう。
今日は桜井ユミの誕生日。晴れて三十路を迎える彼女を祝うため、三人の後輩が集まった。さやかの懐妊報告も兼ねているが、それは本人も言うようにオマケ程度だ。本番は出産してから盛大にやってやろうと、ここにいる全員が手ぐすね引いて待っているのだから。
「ユミさん三〇歳か~。やっぱりなんか、大人……って感じですよね」
まるで十代の女の子のような視線を送って来るのは専業主婦の田村翼だ。大学を出ると同時に結婚したせいか、どこか世間知らずなところがある。きっと安易に結婚などをせずに働き続けるユミをカッコイイな~とか考えているのだろう――と、ちょっと苦笑してしまう。
「こらこら。あんまりさんじゅうさんじゅう言わないでちょうだい。これでも気にしてるんだから」
「あはは。ごめんなさーい」
後輩と言っても気の置けない仲である。出会った頃こそ学生だったので先輩後輩と呼び合っていたが、社会に出た今、そんな括りに彼女たちを置きたくはない。
「本当は比呂美も来られればよかったんですけどね」
そう言って肩を竦める舞は未婚のOLだ。取引先で知り合った彼と三年付き合っていて、結婚も近いかもとのこと。
「仕方ないわよ。彼女今、イタリアでしょう? 簡単にはいかないわよ」
「イタリアか~。行ってみたいなぁ」
夢見る少女の翼。
「連れてってもらえばいーじゃん。旦那、外資系でしょ? たっぷりコレ、もらってんじゃないの~」
さやかが悪い顔をしながら指で輪を作った。悪ノリするところは昔から変わらない。
「や~ね~、さやかったら。翼、相手しないほうがいいよ」
諌めながらも楽しむ舞。
「あはは。わたしよくわかんない」
「まあ、そんな生臭い話は置いといて、コッチのほうはどうなのよ、正直。そろそろ三人目がほしい頃合いじゃないのぉ?」
さやかが肘でつつくと、翼の顔に赤みがさした。えへへと笑いごまかそうとするが、さやかはしつこく訊ねてくる。
翼は二人の子持ちだ。ユミの記憶が正しければ、今年で六歳と三歳になる一姫二太郎。何度か会わせてもらったことがあるが、母親譲りの愛らしさにメロメロになった。
困り顔の翼は頭をかきながら遠慮がちに、
「う~ん、今は無理かな。ケンくんね、今すっごく忙しいらしくて。帰ってきても子供の顔見てすぐ寝ちゃうの」
「ハハーン。すると大分ご無沙汰であると」舞が便乗する。
「もうやめてよ二人ともー! 一体なんの話? 恥ずかしいよ~」
「ほらほら。あんまり翼ちゃんをいじめないの。それにさやかちゃんだって、もうすぐお母さんじゃない。こうしてみんなで会うことだってできなくなるわよ?」
「あはは。そーでした。なんかイマイチ実感湧かなくて。妊娠に気づいたのも先週だし」
「つわりは? あんまり酷くなかったの?」と、お腹を見ながら翼。
「うん。てーかまったくと言っていいほどなかった。お母さんに聞いたらウチはそういう家系らしいんだよね。あたしやお姉ちゃんの時も、気づいたら産まれてたって話だし」
全員が爆笑した。
「すごーい。いいなぁさやかちゃん。わたしなんてすっごく気持ち悪くてなんにも食べられなかったもん」
「へへへ。悪いね」
「でもさ、やっぱ食べないと赤ちゃん大きくならないんでしょ? そう言う時ってどうするの?」
訊ねたのは舞である。このメンバーではユミ同様、未婚の独身女なので、そういった話題には興味があるのだろう。
「わたしの場合水飲んでも吐いちゃったからなぁ。調子いい時に詰め込んでたよ」
「ひぇー。出産も体力だねえ」
「翼はそうは見えないけど、以外とタフだよねえ」
「いやあ、照れますなあ」
再び爆笑。さやかなぞはテーブルをべしべし叩いて大笑いした。舞が行儀悪いよと注意するが、それでも大口を開けて大笑する。その様子がまたおかしいので翼と舞が小鳥の囀りのように可愛く笑う。ユミはそんな年下の友を見ながら、一人優雅に口を押さえて笑っていた。この愛すべき友人たちを見守る慈母でいたい。そんなことを思う今日この頃。
その後も各々近況を報告したり、イケメン俳優の話で盛り上がった。そして宴もたけなわにさしかかった頃、場に携帯電話の着信音が鳴り響いた。
「あ。いけない、わたしだわ」
ユミが携帯を取り出し確認すると、皆の眼が鋭く光った。
「あー。彼氏だ」
舞が囃したてた。
それを聞いてさやかと翼も目を輝かせてユミに迫る。
「そうなんですか? ユミさん」
「いーなー。今度紹介してくださいよ」
そう言う彼女たちの視線は時折ユミの左手薬指に向けられる。そこにはオシャレな彫刻を施されたリングが。
「うん。今度時間があったらね」
「もう! いーっつもそうやって逃げる~。ユミさんの彼氏見たーい。きっと素敵な人なんですよねえ」
「だよねえ。絶対優しくてかっこよさそう」
「馬とか乗ってそう」
「それは逆に引くっしょ。今の時代スポーツカーとかじゃない? フェラーリとかBMWとか」
「あんまり期待しないでちょうだい。彼は普通よ、普通」
三人に笑いかけながら、ユミは荷物をまとめ始めた。今日は最初から午後九時までと断っていたのだ。この後は愛する彼氏と過ごす予定と話してある。
「じゃ、ごめんね。中途半端になっちゃって。今日は本当にうれしかった。それと、さやかちゃん、改めてご懐妊おめでとう」
「いやはは、改めて言われると照れちゃうな」
珍しく殊勝なさやか。天真爛漫な彼女だが、同じ女性としてユミを慕っているのだ。
「またお話し聞かせてくださいね」
「うん。翼ちゃんも、お子さんたちにまた会わせてね」
「今度はお互い彼氏同伴でごはん食べましょうね」
「うふふ、それは楽しみ。舞ちゃんの彼、馬に乗ってくる?」
笑顔で別れを惜しみ、ユミはその場を後にした。ちょっと罪悪感が残るが、みんな長い付き合いだ、変に遠慮なんてしないほうがいい。
ユミは酔いを醒ますためゆっくり駅に向かった。定期で改札を通り、ホームに降りると丁度電車が滑り込んできた。乗車率はやや高め。当然のように座れない。いつものことだと諦めオヤジ二人の間に陣取った。二〇分の道のりを経た後、駅を出て駐輪場へ。番をしているおっちゃんにおかえり~と声をかけられ笑顔で会釈。自転車に跨る。正直スーツスカートでこの姿はいただけないが、機能性重視ってことで妥協している。決して女を捨てたわけじゃない(ここ重要)。
そういや飲酒運転だな~なんて考えているとアパートに到着した。都心の1DK。家賃九万五千円なり。他にもいい物件はあるが、あえてここを選んだわけがある。
鍵を開け、ヒールを脱いで、すたすたと部屋に入りスーツをさっさと脱いで下着姿になった。
ストッキングを注意深く引き抜いて、髪止めも外す。ブラもとっちゃう。パンツ一丁になったところで大きく息を吸い込んだ。
そして目一杯口を開いて、
「うそだぁああああああああああ―――っ!」
それは魂の叫びだった。頭を抱え髪をぐしゃぐしゃにかき乱して喚き散らすのだ。
その姿はどう見てもヤバイねーちゃんだがそんなのまったくもって気にしちゃいない。この部屋は防音設備が整っているし、自分で言うのはなんだが外面はいいほうだ。こんな姿を見せるのは部屋のなかだけなのだ。
「うそだうそだうそなんだよ! ホントは彼氏とかいないの! 四年いないの! さっきも携帯のアラーム鳴らしただけなの! みんなの前で見栄張ってるだけなのよ! ホントはむっちゃ羨ましい! 翼ちゃんとかさやかちゃんとかホンットいいなーって思う! わたしだって結婚したい! 男と子供が欲しいの仕事とかもう、マジでどうでもいいの! そんなことより幸せが欲しい! あっ! マリーナちゃんただいま~」
醜い雄叫びをあげた三十路女は足元にすり寄ってきた三毛猫を抱き上げると、その腹に顔を押し付けた。
そのままもふもふーっ! とその柔らかさを満喫する。一度母に見られ汚いとか気管に悪いわよなんて言われたが構うもんか。しがらみから解き放たれたユミは無抵抗のネコを抱きしめたままクッションの上に腰を降ろした。
マリーナちゃんの首輪にぶらさがったタグがちゃりりと鳴る。
実はこれ、ユミが左手につけているものとお揃いだったりする。要はネコを恋人代わりにしているのだ。愛すべき友人たちが知ればあまりの寂しさ悲しさにむせび泣くことだろう。
「マリーナちゃん聞いてよ。わたしね、今日誕生日なの。三〇歳になったの。さっきまで、お友達がお祝いしてくれてたの。でもね? わたしったら見栄っ張りなもんだから嘘ついちゃったの」
「ナーオ(そっか。それはつらかったね)」←こんなふうに聞こえてる。
「うん。そうなの。つらいの。彼氏なんて四年もいないのに、この後彼と予定があるから~なんて言って出てきちゃったの。わたしってば最低よ……」
「ナァーア(大丈夫。みんなわかってくれるって)」
「うん、そうだよね。みんなホントにいい子だもんね。でもね、わたしに勇気がないの。どうしても言いだせないの。言ったとしても『あ、この前の彼? もう別れちゃったわよホホホ』なんてまた見栄張っちゃうのよ~。もうわたしってホントバカ!」
「ナアー(そんなに気にしないで)」
ユミはその後三〇分に渡り懺悔を続けた。ネコ相手に。
ご覧のようにユミは独り身である。
男の影なんて四年間欠片もありはしない正真正銘のおひとりさまである。
毎日猫相手に愚痴を言っては心の傷を癒し、寂しさを紛わせている可哀そうな女なのである。しかも、その事実を受け入れられず、先のような見栄を張ることもしばしばという救いのなさだ。
本当はわかってる。マリーナちゃん相手に相談したってなにも解決しない。
彼氏のことにしたって、いつまでも騙し通せるものでもない。そんなことをするくらいなら、友人に男性の一人も紹介してもらったほうがずっといいに決まっているのだ。
――でも、できない。彼女のプライドがそれを許さないのだ。
ユミの友達は今日会った三人と、今はイタリアにいる一人を合わせた四人だけ。それも全員自分より年下である。
そんな彼女たちに男を当てがってもらうなどできるわけがない。
もちろん優しく清廉な心を持った彼女たちだ。助けを求めれば一も二もなく手を差し伸べてくれるに違いない。ユミを見下すような気持など一切なく、無償の愛をもって救済を申し出てくれるのだ。
でも、だからこそ、できない……! あんな身も心もきれいな女の子たちに自分の醜い本性をさらけ出すなど不可能だ。
そんなことをするくらいならずっとマリーナちゃんと二人でいたほうがマシだい! と、そう考えるのがユミなのである。
マリーナちゃんが「ナーアーウー(ご~は~ん~)!」と言ってきたので台所へ。胸にマリーナちゃんを抱えたままシンクの下をのぞきこんだ。
「あれ~? どこでちょうねマリーナちゃん~」
「ナウ(早く)」
がさごそとなかを漁るが餌は見当たらなかった。マリーナちゃんはユミがどろんどろんに甘やかしたので決まった高級猫缶しか食べない。一度猫まんまを出したら引っ掻かれ、その後まる一日口をきいてくれなかったことがある。ないでは済まされないのだ。
「うーん、どうやら切らしちゃったみたい」
ユミはそろ~っとマリーナちゃんに視線を送る。
「ねえ、マリーナちゃん。あなた最近太ったんじゃ――ぎゃあ!」
言い終わる前にマリーナちゃんが「フシャーッ!」と毛を逆立てその鋭い爪でユミの手を狙った。
ご機嫌を損ねてしまったと悟ったユミは危うく血まみれになりかけた手を胸に抱き、ぶるぶると震えた。
「うぅ。許して下さいご主人様……」
「ノーゥ(ダメ)」
「でも、こんな時間にコンビニに行くのはちょっと……。わたくしめも一応、女ですし」
「ンナーア。ナーナー(仕方ないな。ついてってやるよ)」
「ああ、ありがとうございます……」
ユミは床に手を付き頭を垂れ、感謝の意を示した。
*
――と、いうわけでユミはさっさとノーブラの上に部屋着のスウェットを着こむとマリーナちゃんを自転車のカゴに入れて家を出た。
時刻は午後一〇時をとうに過ぎ、闇に包まれた道に人通りはまばらだ。たまに遠くからけたたましいエンジン音が聞えて来るのがまた怖い。もしも悪漢に襲われでもしたら。そう思うと背筋が凍る思いだが、いかんせんマリーナちゃんには逆らえない。しかし最寄りのコンビニにまで徒歩五分。自転車なら二分もかからない。危険なことなどなにもないまま到着した。
「では行ってきます。マリーナちゃんはここで待っててね」
「ナー(OK)」
店に入ると同時、「いらっしゃーせー」と、なんともやる気のない声が出迎えた。
見ずともわかる。いつもの店員だ。他に客の姿はなかった。
買い物カゴを肘にぶら下げ猫缶コーナーへ。さっさといつものブランドの物を買い込み、そう言えばおりものがなかったっけと思い出し、それもカゴに入れる。明日の朝食に小ライスと惣菜を一品だけ選んでレジへと向かった。
「いらっしゃーせー。――お。また猫缶ですか。お客さん好きですね」
この店員はいやに馴れ馴れしい。歳は二十代後半から三十代前半。お洒落を気取りたいのか今時黒ぶちの眼鏡をかけて、髪形はどっかの雑誌から抜き出したようにセットされている。初めて来店した時から、支払いの時にやたらめったら話しかけてきて正直面倒臭い。しかも言うことがいちいち勘に障るのだ。
「わたしが好きなわけじゃないわよ。ウチのネコちゃんが食べるの」
「わかってますよそんくらい。しかし今日はやけに遅いですね。いつもはもっと早く来るでしょ」
「うっさいわねー。わたしにだって予定があるのよ」
「予定ってどんな? ネコの世話とか?」
イヤミを言ってケラケラ笑う。
「カァーッ! いちいちうっさいのよこの勘違いお洒落メガネ! 黙ってレジ打ってろ!」
と内心では罵倒するが、実際には引きつった笑みを浮かべて、
「お生憎様。実はわたし、今日が誕生日でして。お友達がお祝いしてくださったのオーッホッホッホ!」
と、無理に笑ってみせたのだった。ホント見栄っ張りだ。
「あ。そうなんですか。オメットーゴザーマス」
「どうも」
(ぜってえコイツ祝ってねえ)
「ちなみにいくつんなったんですか?」
「あんたホンット、デリカシーないわね」
「うーん、三二くらい?」
「違いますー。二九ですー」
また無意味に見栄を張ってしまった。
いけすかない店員がレジを打ち終え、表示されたお金を払って店を出る。
背中に「ありあとやしたー」と声を掛けられながらマリーナちゃんの下へ。さすが、マリーナちゃんは別れ際と寸分違わぬ姿勢でユミを出迎えた。
「お待たせしちゃったねー。さー帰りましょうね~」
猫撫で声で話しかけながら、ユミは自転車をこぎ出した。
全六話を予定しています。