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饐える行路

 商人風情の男が一人、門番の兵に促され北の館へと通された。男は王宮より王国各地へと逓送の任を仰せつかった者のひとりであり、密かに懐に携えた一通の書状を北の領主ヒッタヴァイネン伯の許へと届けるために来訪したのだ。

 領主は顔をしかめ黙りこくり、暫くはインク壺を羽根ペンで何度も(つつ)き弄んでいた。傍らには各地の諸侯とその全兵力を招集し、王都に攻め上がる旨が書かれていた羊皮紙が拡げられていた。そしてそこには紛うことなき王家の(いん)が焼き付けられていた。

 この檄文が真実か否か。更には仮に偽りであったなら、どこの誰が何を目論んでいるのか。領主と側近は苦慮に耽けた。

「この目で見ぬことには、確かなことは分からぬな」

 が、答えなど直ぐには見いだせようもない。領主は無理に思考を中断させ、結論に辿り着けそうもない家臣を見回し

「各地に伝令を飛ばせ」

 と、静かに告げた。火の粉を避けながら対岸で指をくわえて傍観していた北の領地が、そして王国全土が、火難に巻き込まれた瞬間だった。脇に控え佇む臣下は、その意味を正しく理解し眉をひそめた。



「どうして、今日なんだろうね」

 領主の激を受け出仕の支度を整える風太郎の背中を、エリィは目を逸らさずにいた。

「きっとあいつが呼んでいるんだろ? 大丈夫、墓前に花を供えたららすぐ帰る。赤い花がいい。お前のあいつの髪の色のような綺麗な花を添えよう」

 折しも領主が王都への出陣と定めた日は、グスタフの命日の六日前だった。エリィはこのかくも忌まわしき一致に、風太郎もグスタフと同じ運命をたどってしまうのではないかと勘ぐったのだ。そしてその考えは、風太郎の心の中にも腰を下ろしていた。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「大事なことか?」

「分からない」

 曖昧な返事とは裏腹に、エリィの顔には決意の表れとも言うべき固さがあった。少しはにかむも、それは陶器でできた人形のようなぎこちなさであった。

「あなたって何者? どこで生まれて、今までどうしてきたの?」

 返事を待たず、接ぎ木のように言葉が直接繋がれた。自分を引き取る以前のこと。なぜ自分を娘にしたのか。結婚はしたことがあるのか。もしそうなら相手はどんな人だったのか。問いかけは、好きな食べ物、女性の好みにまでに及んだ。

「何から話せばいいかな」

 このような話を以前したことがあったな、と既視感と懐旧に風太郎は少し笑った。片やエリィは表情を崩せずにいた。

「下着の色から教えようか」

 頃合いか、と定めた風太郎は、まずは場を和ませようと冗談めかした。グスタフに倣っての事だった。これだけではない。風太郎はエリィに対してはグスタフを真似た言動を取ることが多かった。逆に彼女以外にはオッツォのように寡黙に振る舞った。意識してのことかそうではないのか、自分では判断がつかないくらい身に馴染んだ態度だった。

 そうした努力の甲斐もなく、風太郎のそれはグスタフとはほど遠い仕上がりとなっていた。さほど気の利いたものではなく、エリィは半分ほど目蓋を下げ風太郎を呆れたように睨んだ。だがいくばくか顔に緩みもあった。

 それを目にした風太郎は安堵の息を吐き「信じなくてもいい」と前置きした上で、己のことを包み隠さずエリィに伝えた。エリィは言葉一つ一つを噛みしめるかのように、黙り聴き入っていた。



 北伐門と名付けられた巨大な門扉が、軋む音を響かせゆっくりと開け放たれた。古くは北の蛮族を討伐するために、強者が幾度となくここを潜ったことで知られていた。還る者、還らざる者、別け隔てなく多くの兵を北へと送り、北より多くの帰還者を受け入れた。

 だがこの門を通る兵の足は、ヒッタヴァイネン伯を先頭に南の方角、王都へと向けられていた。

 街道脇に並ぶ民衆は、威風堂々とした隊列にこれから起こりうるであろう凶事を重ね、憂慮の眼差しを歓喜の声で隠し見送った。


 章介の駆る馬の手綱を風太郎が引いていた。あどけなさの抜けきれない顔つきに憂色をただよわせ、風太郎を一瞥した。

『果たして信用して良いものなのだろうか』

 章介は、一枚の檄書をして北端の領土の軍勢が総出で王都への街道の石畳を鳴らしたことへの、懐疑と不満を述べた。歴史上初めてのことに、そして対峙するであろうラーゲルクヴィスト伯オリヴェルに思考を巡らせての物言いだった。伯爵の底が見えない恐ろしさを、風太郎から聞いていた。単純な言葉にすれば、彼は怖気づいていたのだ。

『お前よりは信用に足る』

 風太郎の返答は簡潔で粗野で嫌味がかっていた。そして凡そ答えにはなっていなかった。呆れた物言いに章介は

『貴様もたまには冗談を言うのだな』

 と、鼻を鳴らし肩を竦めた。

『冗談のつもりはないのだがな』

『言うようになった』

 嫌味が交差した。だが見方によっては楽観とも映る風太郎の落ち着きように、章介自身も中てられ少し平静を取り戻していた。笑顔になりはしたが、それには苦味がふんだんに混ぜこまれていた。

 片や風太郎は確かにどこか落ち着いていた。それはこの行軍のあいだだけは、エリィの身は安全だとどこか思い込んでいたがためであった。決してそのような保障も理屈もない。核心をついている自信はあるものの、伯爵が王都の混乱にいかに絡んでいるかなど知る由もない。ただ勘ぐっているに過ぎない。だがそれでも安堵が湧き水のように滲み出ていた。

 そして章介の所為に疑わしさも募らせていた。章介の力を以ってすれば、従軍などという危ない橋をわたらずとも北の領地で穏便に過ごせたのではなかろうか、それ以前に北の領主の出兵を阻止できたのではなかろうか、と考えていた。

 それを糺すと章介は

『北の気の抜けたようなどんよりとした空は滅入る。たまには溌剌たる日差しを浴びるのも悪くはなかろう』

と戯け、自嘲気味に笑った。


 当初行軍を阻むべき事柄はなかった。大局を眺めれば上手くことが運んでいた。途中、近隣の領土の軍隊と何度かの合流をはたし、兵の数を三倍に膨れ上がらせながら意気揚々南へ南へと進軍した。

 だが順調すぎた。

 軍組織であるにも拘らず厭戦の気風に陥り、しだいに多くの者は浮かれるようになっていた。不寝番の兵は眠り、哨戒の兵も任務を怠った。隊列と規律が乱れ、酒を口にするものも少なくなかった。そして最大の乱れは、それを咎める声が小さくなってしまったことだった。長らく平和を謳歌していた王国は、歪んだ秩序に対処する方法も、それ以前に糺す意志も存在しなかった。

 おおよそ類を見ない大群だと誰かが吹聴したらしく、そのことに末端の兵は胡座をかいてしまった。兵は死ぬという理屈は理解できていた。だが誰しもが、その中に自分が含まれるという、兵隊なら当然の心構えが鈍くなってしまっていた。


 緩みからの淀みは諍いの種を実らせる豊穣たる畑地となった。

 何万もの人間がいた。そしてその多くは屈強で獣のような兵士であり、住み慣れた土地を離れ慣れない軍の行動に従事している。目の荒いヤスリをかけられたかのように、心はすり減りささくれだつ。当然の成り行きだった。

 暴力が蔓延し、小競り合い程度は幾度となく起きていた。発端など子供の喧嘩のそれであり、ほとんどが些細なものだった。悪口を叩いただの、不公平だの、目つきや態度が気に喰わないだの、そのたぐいのものであった。だが繰り返される度、規模と過激さとが増していった。悪魔というものが居たのなら、舌なめずりをして熟れどきを待ちわびていたであろう。

 

 章介の周囲は彼を中心とした奇妙な一集団が形成されていた。言うまでもなく魅了(チャーム)によるものだ。そこは領地の垣根を越え、身分の差も越え、いや、章介だけが君臨し統治する、他に類を見ない歪で強固な体制が自然と成されつつあった。

 章介はこれを眺め『ただの肉の壁だ』と冷たくふざけたようにあしらった。それだけに注視すれば章介は、皆平等に扱っていたと言えた。

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