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ヘディンの村

 一月後、風太郎は章介の住まう、ヘディン家の治める村に居た。奇妙な村だった。

 北の領主の館でも章介が来訪するとなると、みな違和感の残る行動をとった。誰しもが章介にへつらい、取り入ろうと躍起となっていたのだ。

 だが、ここは度が過ぎた。住民は例外なく、尊崇と敬愛とが入り混じった恍惚ともとれる表情を向け、章介の全てを肯定し彼を紛うことなき正義とみなした。糸で搦め捕られ身動きがとれなくなってしまったかのような周囲の人間の心情に、不気味なものを感じ取ってしまった。まるで章介を神か天使かそれに類する何かと勘違いしている、いや、実際にそういう存在なのではなかろうかと錯覚した。


 エリィとて例外ではなかった。村に到着してしばらくは、何ら変わる様子は見られなかった。だが次第に、章介を追う視線に熱を帯びてきていることを風太郎は察した。しかし彼女に対して問うべき言葉が見つからず、黙し見守ることを選んだ。

 普段の風太郎なら、間違いなく章介と袂を分かっていた。村の人間の異常とも言える行動もそうだが、章介自身の性質もその一因として挙げられた。エリィのことも憂慮した。しかし日本語を駆使する章介は、己の正体を解き明かすまではいかなくとも、手がかりを知っているのではないかと期待してしまった。ゆえに不穏な空気を感じつつ、この村にとどまることを選ばざるを得なかった。



 さらに月日がたった、とある日のことだった。

 出仕を終え扉を開けた風太郎の目に、しどけない恰好で呆けているエリィの姿が飛び込んできた。咄嗟に彼女は頬を紅潮させ、シーツにくるまり顔を伏せた。

 風太郎は一歩を踏み出せずにいた。このまま踵を返すとどれだけ楽だろうか、と考えた。が

「章介か」

 と、感情の抜けた声でカマをかけてしまった。そうあってほしくないとの願いからだが、明らかに悪手だった。

「うん……」

 弱り切った仔猫のように小さな声だった。感情の抜けた掠れた声だった。

 エリィはどうして正直に打ち明けてしまったのか、分からなかった。不思議だった。

 風太郎は嘔吐(えず)き混じりに咳き込み、抑えきれない怒りに近い独特の感情に渋面をつくりあげ、今しがた入ってきた扉から大股で出て行った。

 一人残されたエリィは、閉じた目蓋の裏に黒い瞳を思い浮かべていた。

 自分の全てを受け入れてくれた章介の黒い瞳は、それでもどこか拒絶していた。今、自分を拒絶した風太郎の黒い瞳は、それでも自分を受け入れてくれているように感じた。似たような色。だがまるで似つかない意志。

 ゆっくりと起き上がった。そして、さらにゆっくりと身なりを整え始めた。一つ一つの仕草が自分を悔いるかのようだった。

 

 風太郎は憤りを鎮めようと、その足で葡萄酒袋を一つ買い、人通りのない外れの暗がりに腰を落とし栓を抜き口をつけた。よく来る場所だった。

 呑んだのは久しぶりのことだった。が、旨味は感じなかった。臓腑に染みることも酔うこともなかった。

 心の内を打ち明けるような相手などいなかった。もともと風太郎はエリィ以外の人間に心を開いてはいなかったし、ここは章介を信奉する村だったからだ。


「ごめんなさい。でも、どうしようもないの」

 エリィの声がした。気づかずにここまで人を近づけてしまったことに、己がいかに心を乱しているかを悟った。

 風太郎は顔を上げ、見下ろすエリィをやおらに見上げた。すでに陽が暮れていたことに、この時気づいた。先ほどまでの憂いを帯びた女ではなく、捨てられた仔猫のような顔だった。打ちひしがれ縋ってきた守るべき者を、一瞬とは言え拒絶してしまった己の浅慮を悔いるに、充分な顔つきだった。

「いや、悪いのは俺だ。こうなることは感づいていた。なのにここに留まった」

 暗がりに長い赤髪が左右に揺れた。探しまわったのだろう、ほっそりとした両肩も上下に揺れていた。

「それにこれは父親としての試練だ。もう少しで乗り越えられるはずだ。帰って待っていてくれ」

 口調に精一杯の優しさを乗せた。エリィは従うことなく、風太郎から人一人分の距離を空け膝を抱え座った。

 二人の間に言葉は消失していた。晩秋の弱々しい虫の音が聞こえた。求愛を示す鈴のような音。だが二人の吐息を隠すには至らず、互いの息遣いが耳に入った。それは柔らかな毛布にくるまれたような心地よい音だった。



 空を滑空する烏に見下ろされているような章介の目つきが風太郎は苦手だった。

『なあ、父親が娘の情事に首を突っ込むことは、無粋だと思わないかい?』

 頭を切り開かれて脳をまじまじと覗かれているような核心的な喩え話が、その感情に追い打ちをかけた。謙虚や尊敬の欠片もない見下す物言いにも辟易した。昨日のエリィの件も大いに癇に障った。いや、もうこうなってしまったら章介の指先が動くだけでも嫌悪していたであろう、と風太郎は思った。

 だがこの戯言が、互いの腹を掻っ捌き、互いのたどった道のりをあけすけに話し合うことの契機にもなった。

『よく言う』

 短い日本語を返した。口を利く心持ちではなかったし、心の深い部分が口から漏れだしてしまうことを恐れてのことだった。

『不思議なんだろ? 俺が。なぜこうも人を惹きつけるか知りたいんだろ? 親切に教えてやろうと言っているんだ』

 そう確信めいた章介だが、当ては外れていた。風太郎の思慮は頑なまでに自分自身とエリィに向いていた。エリィを手篭めにされた事実には敏感だが、興味はそれ以上までには及ばなかった。

 だが章介は返事を待たず、自身の口から発した言葉を自分で引取った。


 いざ章介が語りだすと、それでも風太郎は魅せられ始めた。短い話ではないにも拘らず没頭した。章介として、この世界ではないもう一つの日本という世界での生い立ちに己を投影し、己の正体を探ったのだった。

 母親からぞんざいに扱われたこと、その後に訪れた死の世界、この世界でのエドワウとしての新たな生、出逢い、別れ。章介は感情をも大っぴらに開け放ち、全てを偽りなく、だが風太郎の感心を引くように言葉を慎重に選びながらゆっくりと伝えた。

 ようやく風太郎との邂逅にまで話が及ぶと、聞きなれないが聞き覚えのある単語が混じった。

『チート』

 厳密には不正を働くことを指す言葉だと、陶器のコップに口をつけながら章介は説明した。小一時間、口を動かしていたのだ。喉も乾こうものだった。

 別世界の人間がこの世界に降り立った時に、何らかの能力が付与される事実を、風太郎に出会い確信したのだそうだ。通常、備わるはずもない力であるがゆえに、彼は皮肉を込めてチートと蔑んだ。そして話は、紆余曲折を経て核心へと迫った。

『お前のチートは、人並み外れた身体能力。そして俺のはな、とりあえず魅了(チャーム)と名づけた。お前ならこの単語の意味するところを分かってくれるだろう?』

 風太郎の喉仏が動いた。目蓋は大きく開かれ、まじろぐことを忘れてしまったかのように固定されていた。

 辻褄は合った。理屈の全てが、胸のうちにすとんと滑らかに落ちた。だが、感情が拒絶した。『魅了(チャーム)』、対象を魅了してしまう力。こんな下らないものにエリィは丸め込まれたのかと、怒りを伴う嫌悪感が噴出した。

 風太郎は落ち着こうと、コップの水を一息に飲み干した。だがそれだけで事実を受け止める準備が整うはずもなく、顔に集まる血液も体中に込められた力も、上手く抜くことができなかった。

 これほど感情が振れたことに、風太郎自身がまず驚いた。初めてのことだったからだ。


『そんな顔、できるんだな。驚いた。そして怖いな。今にも屋敷ががたがたと震えそうな迫力だ。それどころか村じゅうまでもが揺れて、崩れてしまいそうだ』

 章介は額に浮かぶ冷や汗を袖で拭いながらも、皮肉のこもった笑みを維持したまま嘯いた。

『お前の話も、聞かせてくれ』

 そして、声を上ずらせながらも落ち着き払った口調で、風太郎を促した。

 だが風太郎は黙った。言葉を探しあぐね考えこむ仕草とは違った。拒絶の意思を示すかのような沈黙であり面相だった。

 章介の作りこまれた笑顔は徐々に歪になった。そして終いには泣くとも怒るともとれない、上手く感情が乗らない面持ちに変わっていった。

 風太郎が分かっていることは、章介がどれだけ悪辣に振る舞っているかにみえても、悪意がないことだった。これまでの彼の様子から、手枷足枷を嵌められ囚われの身であるかのように何かに執着し、それ以外は(めしい)ていると思わせるほど感心を示さないことが窺えた。人を人とも思えない言動も、それが故であると考えていた。

 普段の風太郎であれば、何のことはない自分と同類か、とばかりに、口角が控えめに上を向いていたことだろう。が、エリィの件もある。今はそんな気分ではなかった。

『明日、話す』

 風太郎はそう濁して、この場を収めた。


 翌日、章介は落ち着きがなかった。しきりに右往左往したり、椅子からぶら下がる足をひっきりなしに細かく動かしたりしていた。風太郎の声にも敏感だった。発声と同時に反応し、向き直るとじっと様子をうかがっていた。

 世慣れていない振る舞いもできるのだな。と、風太郎は何となしに微笑ましく感じるほどだった。


『人という生き物は歯車のように互いに噛み合い、無自覚に人類という巨大な台車の車輪を動かしている。だから人類は前に進む。だが、自分とお前だけは、どうやらどことも噛み合わずただ回っている。もともとこの世界のものではないから仕方がない。と、あきらめてはいたが、実際己に似たような人間を間近にすると、哀れと感じてしまう』

 決して大きくも()けるようでもない。だが風太郎の声は昼下がりに訪れた沈黙を終わらせ、狭い部屋全体を満たすように響いた。章介は先ほどまでの忙しなさが一転、傾聴を始めた。微動だにしない秀麗な顔は、白く、どこか冷たく、大理石の彫像のようでもあった。

『ほとんどの人間を、生きていると思えなかった。真実とは程遠い単なる思い上がりなのかもしれない。だが、本当にそう思ったんだ』

 少し長めの前置きのあと、風太郎はオッツォに命を救われたことに始まり、グスタフのこと、エリィのこと。身に起こった様々な出来事を隠すことなく、時に訥々と時に滔々とひとり事のように話した。

 時折不意に記憶が継ぎ足されることに話が及んだ際、身を乗り出して聞き入っていた。章介の元居た世界に酷似していたのだ。

 

 次第に伯爵について話が進んだ。滑らかだった舌が建付の悪い扉のように動きが鈍った。

『何者なんだい?』

 肌の色と対照的な深い黒の瞳で、章介は突き刺すように風太郎を見ていた。

『わからん。だが彼もどことも噛み合っていない歯車の一つ。そのような気がする』

『なるほど。同類かもしれないってことだね』

『わからん。ただ、その男にグスタフは殺された』

『そして、俺と出逢った。その伯爵とやらは、俺にとっては恩人と言えるかもしれないな』

 風太郎の少し色が抜けた黒瞳が、怒れる獣のそれのように鋭さを増した。章介はそれでも、視線を逸らし肩を竦め嫌味な顔で往なした。昨日のこともあり、風太郎がこの程度では取り乱すことがないことを、信用したからこその仕草と言えた。

『ただの若造の失言だ。真に受けるな。王都では役人の粛清が相次いでいると聞く。ひょっとしたら、一枚噛んでいるかもしれないな。それどころか核心かもしれない』

 途端に風太郎の顔貌は今までにない強張りを見せた。覗きこむ章介も不安に駆られ、似たような面持ちとなっていた。


 それでも、高い峰々に囲まれ国境を接し王都から遠く離れた北の領地は、その立地とそして寒冷な気候が故に潤沢とは決して口にできない、支配しようとも旨味のない土地柄がゆえ、噂に伝え聞くものの混乱の影響は緩やかであった。


 二年がたった、その日までではあったが。

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