北の領地
風太郎が下した決断は、店を畳みできるだけ遠くに旅立つことだった。
グスタフ亡き今、並大抵のことでもなければ維持は困難と判断したこともあるが、風太郎は伯爵に怯えきっていたのだ。そしてそれは皮肉にも、グスタフを失った喪失感を埋め、復讐心を燻らせた。
かなり叩かれはしたが、屋敷の買い手が付いたことは幸いだった。これで町をあとにしても、暫くは食いつなぐことができたからだ。
「これからどう身を処すつもりだい?」
同業の者にそう聞かれた風太郎は
「別にどうもしない」
とだけ答えた。本音であった。
「悲しいね」「そうだな」
しっとりとした短い言葉が交わされた。これが風太郎とエリィ、二人がグスタフの墓前で交わした最後の会話となった。かすれた声がその場に染みこみ、風の音だけが残った。
依頼主であった伯爵夫人の病死の報が耳に入ってきたのは、グスタフの死後三日がすぎてのことだった。訃報を聞き風太郎は目を丸くした。病死などではないことは、分かりきっていた。夫人にまで手を掛けざるを得ない事態だったことに驚いたのだ。
ならばそこまでしておいて、何故自分が始末されなかったのか。腑に落ちなかった。自分を生かすことで何かしらの利益があったのか、はたまた伯爵にも僅かに慈悲があったのか。思案に暮れるも納得できる答えを見出せなかった。
しかし、エリィに手を掛けなかった理由だけは察しがついた。警告である。深入りするな、という意思が込められていたことは明確だった。力の差は歴然。公に訴えたところで身分の差も歴然である。敵するまでもない。風太郎とエリィ、ちっぽけな存在である二人を排除することなど造作もないだろう。グスタフが健在なら搦手を思いつくかもしれないが、風太郎だけでは手詰まりなのは明白だった。できることは一つ。伯爵の言葉通り、急ぎここから離れることだけだったのだ。
ほどなくして二人は町を出た。
エリィには詳細を伝えなかった。秘密を知ることで、彼女までもが標的にされるのではと恐れたのだ。だからといって上手い言い訳を捻り出すこともできなかった。それゆえエリィはグスタフの許を離れることを嫌がり、断固拒否の姿勢を示した。しかし風太郎もそのエリィの考えを頑なに拒んだ。
二年後、二人が流れ着いたさきは王国最北の領土の比較的大きな町であった。風太郎の腕っ節が噂となり、北の領主ヒッタヴァイネン伯の館の衛兵として招かれたのだ。
町から北を眺めると、国境に横たわる山脈の白き峰々が視界の左右の端にまでかかる。この壮大な景観はエリィの顔をほころばせた。しかし風太郎は顰めさせられた。エリィを連れての山越えは不可能と推測し、ここが逃避の終着点と判断したがためであった。
ここに来るまで二年にも及ぶ厳しい逃避生活がそうさせたのだろうか、不器用ではあるものの風太郎の愛情を全身で受けたからであろうか、エリィはこの頃になると子供特有のあどけなさは鳴りを潜め、逞しい美しさを身につけ始めていた。姓を与えられなかった彼女は、いつしかリヒャルヴィとグスタフと同じ姓を名乗るようになっていた。彼を父と認め、そうすることが墓前へと参ることができないグスタフへの弔いと信じてのことだった。
ここで小さな棲家を得た。元は犂牛の小屋だったという木造の古い建物だった。
そこでエリィは毎朝風太郎の出仕を見送り、自身も町へと仕事に出かけた。そして陽の沈む前に帰宅し、家事に勤しみながら風太郎の帰りを待つ日々を送った。
グスタフを失った痛みは、流れる月日と若さゆえの柔軟さが和らげてくれた。だが悲しみの澱は彼女の胸の奥に静かに積もっていた。
年に一度、領主はある客を招いた。近辺の村の長、エリク・ヘディンとその一家だった。とりわけ成年になりつつある末子エドワウにどうも執着しているように見受けられた。ならばそのエドワウとかいう男を呼び寄せ屋敷に住まわせれば済む話ではないか、とも風太郎は思ったが、どうもエドワウ本人が拒絶しているらしく、やむなく村に帰しているのだという。恋焦がれた乙女のような惚れ込みようであるが、それは領主だけにとどまらず、屋敷に出入りする者の殆どが、村長とはいえ一介の農夫の息子であるエドワウにとり憑かれたかのように好意を寄せていた。
風太郎でなくとも興味が湧き、そして薄ら寒いものを感じたであろう。
そんな折だった。
「ヘディン一家が向かっているそうだ。一応護衛はついているはずなのだが、最近は物騒でかなわん。で、頼みとは他でもない。彼らを迎えに行ってはくれぬか」
領主は、蓄えた暗い黄金色の顎髭を撫でながら同色の眉を神妙にひそめ、ビブラートの効いたよく通る低い声を薄い唇から発した。
長身巨躯。彫りの深い顔貌に、落ち窪んだ碧瞳は優しげに見えて、その実、獲物を捉えた肉食獣のような鋭さも持ち合わせている。何も知らぬ人間が対峙すると竦んでしまうであろう出で立ちであるが、これは領主の元来の振舞であり佇まいであり、悪気など微塵もなかった。
その偉丈夫がいてもたってもいられぬとばかりに、そわそわと落ち着きがない。実直な風太郎でもこの姿は滑稽で、こみ上げる意地の悪い笑いを気取られぬよう「畏まりました」と深々と一礼し顔を伏せた。
不安定な都の情勢は、風太郎でも風のうわさで知っていた。領主なら、剪定され余分な枝葉を切り落とした正鵠な情報を得ていたであろう。
それを裏付けるかのように、北の領土でも野盗の仕業と思しき事件が増加し、あたかも都と同調したかのように治安が悪化していた。手をこまねいていたわけではなかったが、辺境が故に圧倒的に手は足りてはいなかった。穏やかならぬ領主の心中も確かに過ぎるとはいうものの、風太郎としては分からないわけではなかった。
その領主の命を受けたは、風太郎の他に一人の兵士の男とそして二人の傭兵だった。兵士は慣用句であるかのように話の度にこれが初陣と何度も口にしながら、道中腰に吊るされた長剣の柄を常に握りしめていた。
「大事なのはわかるが、そろそろ手がふやけるぞ」
胡桃のごとき皺深い顔に、消し炭のように黒髪に白髪が交ざった傭兵が、若い兵士をあげつらいながら高笑いをした。つられて、ざくろの色をした厚い唇の男が哄笑した。嗤い声に拍子を合わせ、そのぼってりとした唇が生き物のように動いた。
風太郎の隣で兵士は、気色ばむ。それをよそに、風太郎の注意は別なところへと注がれていた。
「そのままでいい」
柄から手を離そうとした兵士に小声で告げた。風太郎の雰囲気が、ただならぬものと察したのだろう。二人の傭兵の表情が瞬時に固まり、姿勢が正され足取りが規則的なものと変わった。
「野盗の類、多い。戻って領主にそう伝えろ」
若い兵士はたじろぎ風太郎の言葉を聞き返す素振りを見せた。この場で唯一、今置かれている状況をつかめていなかったのだ。
「愛する者を悲しませたくないのなら従えや」
皺深い傭兵が風太郎の愛想のない言葉を引き取り、薄笑いを兵士へと向けた。兵士も顔を向け返した。その視線には戸惑いと躊躇いがこもっていた。
兵士は責任感からか何らかの矜持なのか、勇気を振り絞ろうとしていた。そのため自身の行動を決めかね、取り敢えず数歩足並みを揃えていた。そんな彼に風太郎は今度は強い口調で咎めた。
「分を弁えろ」
「皆それぞれ役割がある。誰かが戻らなくてはならん。適任は、正規兵であるお前さんだ」
厚い唇の傭兵が、言葉足らずの風太郎に補足を入れ穏やかに説き、自身が引いていた一頭しかいない馬の手綱を差し出した。兵士は黙って一つ首肯し、続いて深く一礼した後、手綱を引きとり馬へとまたがった。
「十六だとよ。若いってのは羨ましいね」
皺のある男が馬上の兵士の背中に向けて、薄い唇を尖らせ口笛を鳴らす仕草を真似た。
エリィと同じくらいか。風太郎は口の中でつぶやいた。