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ラーゲルクヴィスト伯オリヴェル

 赤毛の子供はエリィと名付けられた。

 風太郎とグスタフは、これまでのような流浪の生活を捨て定住を余儀なくされた。長旅は幼いエリィにとっては、それだけで安危にかかわる。野盗、野獣といった危殆にも瀕する。困難と判断したためだ。


 王都にほど近い小高い丘の麓の町、その裏通りに人の住んでいないさびれ朽ちていた建物があったことをグスタフは憶えていた。その佇まいから胸の内で幽霊屋敷と呼んでいたため、印象に深かったのだ。

 その屋敷を買い取った。今のグスタフにしては懐が傷むほどではない出費であったが、店舗を兼ねた屋敷として改装をするにはそれなりの額を支払う必要があった。

「確かに何か良からぬものが潜んでいそうな構えだ」

 張り巡らされた蔦に隙間なく覆われた外壁。見上げた風太郎は意識せずに呟いた。その言葉を受け取ったグスタフは苦笑いを返すにとどまった。


 風太郎は屋敷の禍々しさとは別に、据わりの悪さを感じていた。居着くことと安寧は風太郎の身におよそ馴染んではいなかったのだ。

 だからと言っていざこざや流血のたぐいを好んでもいない。ならどこが己の棲家となりうるのか、否、この世界自体が安住の地ではないのか。定住は心の内に語りかけるきっかけとなった。

 次第に思考の深くにまで踏み込んでゆく。己は一体何者で何を為すべきなのか、と。だが当然、はぐらかされたかのように答えが定まることはなかった。


 思索の迷路から風太郎を絡めとったものは、友の存在であり、守るべきものであり、日々の煩雑さであった。

 背中をひやりとさせられる仕事からは足を洗い、真っ当な商人に鞍替えする準備も整えられていた。グスタフの考えた新たな商売は、地歩の傾きかけた貴族や羽振りの悪くなり始めた商人から財産となりうるものを買い叩き、それを流すというものだった。

 そのためにはまず、それなりの財が必要だった。

 風太郎、グスタフ共に東奔西走を余儀なくされることとなった。

 この時期、風太郎は身を粉にして労働をし対価を得ることに、楽しみを見出していた。それが鬱屈を緩和させた。


 新たな事業は、それなりの成果を齎した。グスタフの情勢を捉える鬣犬(ハイエナ)のような嗅覚と、酸味と甘味とを絶妙に使い分ける交渉術、そしてなにより風太郎の厳つい容貌と、それに見合った腕っ節、いくつもの要因が巧みに絡み合うことで結実したものであった。

「最後は力が物を言う。場所が変わって時代が進んでも、本質は変わらんものだな」

 グスタフは自嘲した。しかしグスタフが場を整えなければ、力を発揮しようがないことくらい風太郎は分かっていた。



 エリィも成長した。

 十年の歳月は可愛らしい幼女を、わずかだが魅惑を湛えた少女へと変貌させていった。一路順風と言っても良かった。だが風太郎一行に吹く風向きが不吉に変わったのは、そんな折だった。


 並行して依頼も安全なもの、信頼の置けるものに限定して受けていた。情勢を探る意図と、信頼を得る目的とを兼ねての事だった。

 その日の依頼は、とある伯爵家当主の身辺調査だった。名をラーゲルクヴィスト伯オリヴェル。夜な夜な逢瀬を繰り返している徴候があり、尻尾を掴むことが依頼主であるラーゲルクヴィスト伯爵夫人から求められた。

 貴族の浮気など当たり前の世間であるが、今回はその相手が悪いなどと夫人は言った。そもそもその当の相手が分からずじまいであったのにである。麝香の匂いがただようなか、ヒステリックに苦し紛れの言い逃れをする夫人の姿に、風太郎は顔をしかめ、グスタフは吹き出す笑いを必死で堪えた。


「下らん」

 あまりに浮ついた依頼に、風太郎は倦厭をあからさまにした。この態度にグスタフは

「恋焦がれ嫉妬に狂う女ってのは、得てしてそんなもんだ。それにああいう時の女は、膿んだ腫れ物のように扱いに気を使う。下手な言動は謹んだほうがいい。なにより大事なお客様だ。そう言ってやるな」

 と、(たしな)めた。が、笑ってはいるものの、口端は少しばかり地面を指していた。


 三日が過ぎた。

 手燭を片手に風太郎とグスタフは、舗石の敷き詰められた夜の街道を歩いていた。石畳が二人分の足音を鳴らした。揺らめく橙の光に炙りだされた二つの顔からは、焦慮が浮き上がっていた。さほど苦慮せず依頼は達成できる、そう高をくくっていたが、三日間の張り込みと尾行を終え一筋縄ではいかないことを思い知らされたからだ。風太郎は黙すしかなく、グスタフはぼやくしかなかった。

「恥ずかしがりやってなら、度が過ぎている。煙に巻かれ、狐につままれ、狸に化かされた気分だ」

 二人に尾けられていることに、伯爵は気づく様子は窺えなかった。まるで無防備だったと言っていい。だが神隠しにでもあったかのように、足取りがふっと途絶えた。初日は、こんなこともあろうかと肩を竦めた二人だったが、三日も続くと事態の異常さに、グスタフは正気を疑い風太郎は何事が起こったか理解できずにいた。


 翌日、風太郎はひとり暗い路地裏にいた。息を潜め気配を殺し身を隠した。そこは袋小路で、立ち止まる伯爵の心音が聞こえてきそうなほど静まっていた。生唾を飲み込むことを躊躇し口内に溜まった。それが不快だった。

 風が吹き落ち葉が舞った。ラーゲルクヴィスト伯を凝視していた風太郎の注意が逸れた。それはほんの一瞬だった。伯爵は風太郎の目の前から消えてしまっていた。

 風太郎はしばらく思案にふけた。だが何が起っているかは皆目見当がつかない。黙っていても埒があかないとばかりに、唾液を飲み下すと足元の手頃な小石を拾い上げ親指で弾いた。一回、二回、三回と繰り返した。姿が見えていないだけではないか、と疑ったのだ。しかしそのどれもが宙を貫き、石壁にこつんとぶつかった。

 上か、と考え夜空を見上げるも、漆黒の闇が広がるばかり。ならば下か、と伯爵が佇んでいた周辺を探ろうと一歩を踏み出した。

 その時だった。背後から場違いなほど穏やかで丁寧な男の声がしたのだ。

「そのへんで止した方がいいでしょう。深追いするとあなたにまで、手を掛けねばならなくなってしまいます」

 風太郎は間髪入れずに腰を落とし振り返る。同時に鞘の先端が上から下へと流れるように弧を描き、敷石の一つを軽く叩いた。勢いのまま左腰に吊るされた剣を抜いたのだ。

 鞘走りの甲高い擦過音に続き、右足が踏む音と刃が空気を疾走る音がたった。続けて、暗闇に銀光が縦一線に引かれ火花が這った。刃は切り捨てるべきものを捉えることなく、敷石に跳ね返っただけだったのだ。

 低く構えた風太郎が見据えたものは、先ほど消えた目的の人物、伯爵本人であった。彼は口調同様、穏やかに薄っすら笑っていた。

 今まで感じたこともない異質な気配に、汗腺から冷や汗が噴出した。鳥肌が立ち産毛が逆立った。鼓動も激しく不規則に打たれ、呼吸が乱れた。本能が警鐘を鳴らしているかのようだった。

 彼我の距離は大股で三歩。一歩で仕留められる。だが風太郎は引き足をじりっと半歩後退させていた。無意識だった。目の前の男は伯爵と同一人物なのだろうかと普段なら疑ったろうが、その程度の思考をも巡らす余裕はなかった。

 と、伯爵は右手を突き出し、掌を風太郎の顔へと向けた。風太郎は驚きに痙攣し体が跳ねようとする動作を、強張らせ一息で堪えた。

「お宅に戻られたほうがよろしいかと。そしてこの町から出て行っていただけると助かります。そうそう赤髪の娘さん、お綺麗ですね。おそらく今、あなたの帰りを一人寂しく待たれていることでしょう。私のことはお構いなく、お早めに行ってあげてください」

 伯爵はつきだした右手を腹に当て慇懃に一礼した。体に馴染んだであろう違和感のない優雅な所作で、またも穏やかで落ち着いた言動。そしてそれは大げさで芝居がかっていた。だが内容は冷嘲的なものだった。伯爵のこのバカに丁寧すぎる振る舞いを、風太郎は最上級の侮蔑そして最も下品な挑発ととらえ、怒りが迸った。血液が一瞬で沸騰したかのように、体中が火照った。鋭い眼差しの奥では眼球が血走る。顔は紅潮し額からは血管が浮き出て、脈打っていた。

 それでも体に馴染んだ動きは冷静さを保っていた。力みを抜き、必要な筋肉へ必要なだけ筋力を与えた。

 低い姿勢で踏み込む風太郎と腰を屈曲させたまま佇立する伯爵、瞬時に二人の距離が詰まり、そして交差した。風太郎はそのまま振り返ることなく、逃げるように走り去った。

 すれ違いざま、風太郎は左から右へと剣を薙ぎ上げた。目視では刃が伯爵の右わき腹を捉えていた。だが、またしても手応えがなかった。


 繁華街に灯されるいくつもの灯が、四方八方から風太郎の苦みばしった顔を照らした。道端では日銭を稼ごうと吟遊詩人が拍子のとれた韻を踏み、どこぞの英雄の頌詩(しょうし)を朗々と謡い上げていた。普段ならコインの一枚でも投げ入れるところなのだが、見向きもせず通り過ぎた。

 街角の暗がりには貞操観念の希薄な恰好の女が横目を流していた。春を売ることを生業としているのだろう。

 泥酔し千鳥足でふらふらと歩く男が風太郎を冷やかした。肩がぶつかり、ろれつの回らない口調で因縁を吹っかける下級兵士もいたし、何が気に喰わないのか、足を掛けてくる男もいた。だが脇目を振ることはなかった。エリィとグスタフを危惧していたこともそうだが、伯爵との一連のやり取りで混乱をきたしかけていたのだ。人間模様を風刺する夜の街が風太郎の足取りを邪魔立てしたが、周囲に感ける余裕などなかった。


 風太郎によって乱暴に開け放たれた扉の先には、真っ赤な花がしおれたかのように頭を垂れ跪き泣きじゃくるエリィと、床に倒れ微動だにしないグスタフの姿があった。

 エリィの垂れた赤髪にグスタフの赤髪が溶け込むかのように重なっていた。風太郎はその隙間からグスタフの目を覗く。毛先が掠めるものの、瞬きもせず開かれたまま、まるで生気が感じられなかった。傍らに詰め寄り胸元に耳を当てた。心音が聞こえない。口と鼻に手を当てた。吐息の感触もない。だが触れた肌から温もりが伝わった。

「何が起こった」

 風太郎は静かに問いかけた。

「死んじゃったの?」

 だがエリィは震える声で問い返した。

 この時、風太郎は自分の呼吸と心拍が荒いことを自覚し、黙って何度か深呼吸を繰り返した。そして再度グスタフの生死を確かめた。エリィは涙も拭わず、風太郎の行動を縋るように見つめていた。

 風太郎は倉皇としてグスタフを仰向けに肩で担ぎ、扉から駆け出た。急ぎ神殿にいる医術者の許へ行くためと、ワインの樽に背中を乗せ揺らす蘇生法を知識として知っていたからだ。

 だが道半ばで風太郎は足を止めた。医術者によって生き返った人間など、記憶になかったし聞いたこともなかった。死者を弄ぶことに既得権を得た者達によって、おかしな医事を施され、無残な姿で返ってくるのが想像に易かったからだ。


 少ししてエリィが追いついた。息を切らした彼女は、肩を上下に揺らしながら黙って見上げるだけだった。

 涙こそ流さぬものの痛いほど悔しげに夜空を仰ぐ風太郎と、彼の肩で表情をもなくしてしまったグスタフ。そして二人を覆う群青の(そら)と瞬く星。エリィの視界に映る全てが朧気に滲み揺れていた。

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