グスタフ・リヒャルヴィ
グスタフは、物を売るたぐいの商人ではなかった。町から町へと流浪し、そこで危険とされる依頼をこなしていたのだ。
「売り物はこの身とここの中だ」
と、グスタフは頭を指でとんとんと叩いて笑った。
風太郎との邂逅以来、グスタフの商売は軌道に乗りそれなりの財貨を蓄えていた。情報収集、依頼主との交渉、計画の立案をグスタフが担い、それを風太郎が主に実行した。追い風だった。
が、それに反して風太郎自身は己の正体、そして時折湧き出す不可思議な記憶の断片に囚われ始めていた。
風太郎は、いつしか自分は人とは違うことを強く実感するようになっていった。
普通の人間が到達し得ないほど腕っ節が強く、高く跳び、疾く走った。ただこれはもう一つの違和感に比べれば、些末事であった。
死を受け入れ、いつしかその日の来ることを粛々と覚悟していたオッツォは、静かに、だが確かに生きていた。しかし町の奴らはどうも違った。腑抜けた笑い声で、中身のない言葉を交わし合う。生に執着するわけでもなく、死を自覚するわけでもない。味覚は敏感で旨いものを求めるくせに、生命を食べている感覚にはとてつもなく鈍感だ。こいつらは本当に生きているのか? 疑念が横たわった。同時に、明らかに人とは違う思考をする自分は何者か? 予てより燻っていた思いが、日に日に強さ激しさを増していった。
ささくれ立った気持ちを、砂漠に降る雨の如く潤してくれた出来事もあった。
王都近郊の比較的大きな町に長いこと滞在していた風太郎とグスタフは、仕事がなくなってきたころを見計らい、国境に向けて旅立つことにした。
出立したその日の夜、ほど近い宿場町で一夜を明かそうと立ち寄った二人は、ここで小さな事件に出くわした。
宿を探すグスタフの背に、不意に何かがぶつかりよろめかされた。風太郎は右腕でグスタフを支えた。もう一方の左腕にはボロを纏った女が抱えられていた。見ると女の右頬には焼印が刻まれていた。誰かの所有物である印、つまり女は奴隷だった。
── 何故こんなところに。
風太郎の脳が反射的に軽い疑問を呈してきた。奴隷が一人町をうろつく。普通は考えられないことだったからだ。同時に彼は驚いた。女の胸には二歳に満たないほどの子供が抱かれていたからであった。
「夜ももう遅い。お前さんの連れも心配してることだろうよ。何があったかは知らないが、帰ったほうが身のためだ。夜道が怖いなら、不肖わたくしめが送って差し上げるとしよう。さあご婦人」
グスタフは恭しく右手を差し出した。グスタフはこのように常に道化を演じていた。これは、人に取り入るための彼なりの方便だった。
「この子をお願いします」
「お前の子か?」
女は一つ頷いた。
「なら悪いことは言わん、この子を連れて戻るんだ。今のお前を助けられる者は、おそらくはただ一人だけと見ていい。このまま逃げても、二人で行き倒れるだけだ。それが望みとあれば言うことはない。だがこの子をそうさせたくはないんだろ? 咎められ相当の罰を与えられるかもしれん。それでもお前はお前の主人に守られている。自覚したほうがいい」
逃亡奴隷に対して、町の人間は冷ややかであった。逃亡奴隷自体がすでに厄介事であり、首を突っ込む者といえば、余程の物好きか、良からぬことを企んでいるような者のたぐいだけ。グスタフのように悪念抜きで相手にする人間など稀であった。
だが女は説得に頷く代わりに、二人を見上げた。落ち窪んだ眼窩の中心に潤んだ目は苦悩に満ちていた。
「何故逃げる」
風太郎はグスタフとは対照をなすように、まったく飾り気のない言葉で問た。女は黙考する。が、しばしの逡巡のあとおどおどと口を開いた。
「この子の髪が赤いからです」
風太郎にとっては雲を掴むかのようなとらえどころのない話だったが、グスタフは得心がいった。近くに赤髪の貴族の邸宅があったことを、思い出したからだった。
「奴隷の腹から産まれた子はどう足掻こうが奴隷だよ。安心していい。それとも嫉妬を買ったか? だとしてもだ、奴隷も安くはない。少なくともその子の命は問題ないと思うのだがなぁ」
グスタフの言葉に、女は頭を振った。ことはそう単純ではないらしい。
奴隷が主人の子を身籠ることは、よく耳にする話であった。だが不文律ではあるがグスタフが述べたように、奴隷の子は庶子として認められることはない。これは家の継承による騒動が起こらぬよう自己防衛の類のしきたりではあるが、副作用として産まれた子の命を守ることにも繋がっていた。
グスタフは困り顔に眉を歪めながらも、滑らかな口調で告げた。
「色々事情はあるようだが、残念ながら俺たち庶民ができるようなことは何もない。貴族様の恨みを買っちゃあ、商売上がったりどころか自分の身が危ないんでな。他をあたってくれ。なんて言いたいところだが、さっきも言ったようにまともな奴は相手にしてくれん。戻るのが一番マシな選択肢だと思うのだが……」
と、ここで風太郎が横槍を入れた。
「事情があるなら話してみろ」
グスタフは呆れたとばかりに、肩を竦め口笛を一つ鳴らした。
女が言うには、当主は六十を過ぎて未だ妻を娶らず養子も取らず、世継ぎすら決めていないという放蕩ぶりである。そこにきての血の繋がる子の誕生。家督を継ぐ権利は無いものの、爵位を狙う者にとっては心穏やかではいられないのも事実であり、そういう事情から命を狙われる羽目になったという。
女が話を終え三者三様の理由で沈黙した。しばらくすると二人分の足音が近づく。追手のものだった。
「仕舞え。お前は浮世に無頓着すぎる」
瞬時に敵意を察知し、腰に吊るした直刀を抜いた風太郎をグスタフは比較的大きな声で制した。敢えて相手に聞かせ、こちらの思惑を知らせる意図もあったからだ。続けてグスタフは小声で諭した。
「お前ほどの力があれば一人でも生きて行けるだろうが、それはお前一人だけだ。世間を相手どり、俺という相棒を守りきれるのか? 俺だけならまだどうにかなるかも知れん。が、もう一人お前には守らなければならない人間ができただろう?」
そう言い、グスタフは前へと踊りでた。
男二人と正対した。グスタフは身なりから中流階級と判断した。
「俺はグスタフ・リヒャルヴィ。商いを営んでいる。男爵家の者で相違なかろうか」
さすがに剣を抜いてはいないものの、柄には手が掛けられ顔もきつい。二人は男爵家ではなく、女の言う家を乗っ取ろうと画策している者から雇われたであろうことを確信したグスタフは、敢えて知らぬふりを決め込みカマをかけた。
二人は今にも抜きそうな所作で黙していた。視線が鋭い。一介の商人であれば畏怖するであろう状況で、さも気づかぬそぶりで堂々と振る舞う。風太郎は改めて彼の肝の据わりように感嘆した。
「折り入って頼みがある。この子を買い取りたい。お前らのご主人に取り入ってもらえないだろうか?」
金属が擦れる僅かな音が暗がりに染みこむ。風太郎の体が危険を察知し緊張した。
「こんな身の上話をされても困るだろうが、まあ聞いてくれ。この子はなあ、俺の子なんだ」
だがグスタフはまるで世間話をするかのように、子どもと似た赤い色の髪をひとふさ摘み上げた。同時に袖に隠れていたブレスレットを、自然な仕草を装ってちらりと覗かせた。純金にエメラルドの宝玉がいくつも嵌めこまれ、あからさまに高価なものだった。
「見てみろ、同じ赤毛だ。今、大きなヤマを片付けたところで懐がパンパンなんだ。男爵様の所有物に無断で手を付けた見返りもさせてもらうし、取次いでくれるんならお礼ははずむつもりだ。親心に免じてなんとか頼むよ」
賄賂を示唆したのだ。
男の一人は柄から手を離し、応じる姿勢を見せた。だがもう一人の男の右腕の筋肉が隆起した。風太郎の気配に中てられ、構えを解けずにいたのだ。
その瞬間だった。風太郎が躍り出て、今にも抜き放たれそうだった剣の柄頭を掌で押さえ込んだ。風太郎の目に映った男の顔は、蒼白で強ばっていた。そこで趨勢は決した。
翌日二人は男爵家へと訪れ、子供は正式にグスタフが買い入れることを申し入れた。値は張ったものの取引は成立した。しかし母親は男爵家に留まることとなった。男爵が執心していたがためだった。母親は別れを惜しみながらも礼を言い、大事に育ててくれるよう願いを述べた。
風太郎は
「承った」
とだけ返した。この短い一言が安心を齎したのだろう。母親の涙顔は綻びをみせた。グスタフは不思議な男だ、と薄く笑いながら風太郎に眼差しを送っていた。
「偽善でなければ道楽か酔狂だ。ここんとこ羽振りのいい俺は、幼女の奴隷を買った。事実はただそれだけだ。気に食わんか?」
子供を抱いたグスタフが、終始黙る風太郎の顔色を窺いながら告げた。
「いや、むしろお前らしいと思った」
相変わらずの短い返答。だがなるほど母親の気も少しは分かる。この男になら大事なものを委ねてもいいと思ってしまう。グスタフはそのような気分となった。一方の風太郎は、この件でグスタフに対する信頼を深めることとなり、また父性のようなものが芽生え始めていた。