老いた者 若き者
風太郎の双眸が最初にとらえたものは、窓から差し込む夕陽に照らされ橙に染まった天井の木目だった。そしてそれがこの男の一番古い記憶であった。それまでのほとんどを忘却の彼方へと置き去りにしてしまったため、自分の存在すら上手く認識できず、呆け、とりわけ節くれの穴に目を奪われていた。
風太郎が川辺で倒れていたところを目の前の老人に助けられたことを知ったのは、それから半年が過ぎてのことだった。老人は、自分の知っている言葉とは違う言葉を使っていたため、意思の疎通にそれなりの日数を要したためだ。
老人は名をオッツォと言った。集落から少し離れた川の畔に一人住み着き、その川と山と土の恵みを僅かながら分けてもらい、ほそぼそと食いつないでいた。
「いつ迎えが来てもいい」が年老いたオッツォの口癖で「その時が来たらこの家ごと燃やしてくれ」が遺言だった。そしてそのために風太郎を助けたとも言った。
「最初は儂を、あっちに連れて行ってくれる天使だと思ったんだがな」
オッツォが何度となく呟いた言葉だった。だが風太郎はそれに対する回答の持ち合わせはなかった。
「天使かもシレナイ。ダケド、ヤリ方、忘れタ」
感情の乏しい声は、辿々しいが真摯な片言を紡いだ。
とある日のことだった。川底の仕掛けを回収していたオッツォと風太郎の耳に、悲鳴混じりの叫声が届いた。
「放っておくわけにもいくまい」
オッツォの言葉に一つ頷くと、風太郎は無言で駆け出した。案の定、子供が川で溺れていた。四肢で藻掻き必死で何かをつかもうとするも、渓流の流れは速く強く、無情にも体を錐揉みさせながらどんどん流されていた。川畔では同じ年の頃であろう女の子が、必死で駆けていた。助けようとしているのだろう。だが足場の悪さもあり、そしてまだ幼い。追いつこうはずもなく、追いついたとて救ける術はなかった。
風太郎は、見計らい川に飛び込んだ。激流に逆らい滑る子供の体を力任せに抱えた。はたして子供は無事救出され、オッツォと風太郎により集落へと送り届ける運びとなった。
子供の父親は顔を紅潮させ人攫いだのろくでなしだのと、命の恩人とも言うべきオッツォに罵声を浴びせた。それがオッツォの立ち位置であり、彼が人を避けるかのように暮らす理由だった。何故こうなってしまったのか、風太郎には知る由もない。ただいつもどおり変わらぬ表情で、帰り道をまっすぐに見据える皺の深い目蓋が印象に残った。
二年と半年が過ぎた。オッツォの許に今度こそ本当の天使が来訪した。穏やかで、あっけなかった。
冷たくなったオッツォは、どことなく満足気に見えた。風太郎は彼をベッドに寝かせ、体を綺麗に拭い、小屋のような住処をくまなく清掃し、生前の彼との約束通りに火を掛けた。
轟々とした炎を感慨もなしに見つめていた。黒煙を空へとなびかせ火花を散らしていた。風太郎の脳裏にふと昔の記憶が蘇ったのは、その時だった。初めてであり、唐突だった。
そこは斎場だった。喪服を着た人々が火葬炉を半円に囲んでいた。祭壇に棺、剃髪した僧侶がお経を唱えていた。見覚えのない不思議な光景だったが、それ以上に不思議なことに、どれも説明付けることができた。
家と老人が炭と灰へと還った頃、風太郎はこの川辺から離れることを決めた。さしたる理由などなかった。ここを去る理由も、どこかへ行く理由も、ここに留まる理由すらもなかったのだ。
旅と呼べるかどうかはなんとも言えないが、風太郎の当て無き工程は、取り敢えず順調だと言えた。この二年間でオッツォに、生きる術、闘う術を叩きこまれていたからだった。オッツォはこうなることを見越してのことだった。
転機が訪れたのは一年が過ぎたあたりだった。
風太郎はあれからというもの、生きていただけだった。考えなど無い。洞窟や居住跡を見つけても、定住することを拒むかのように数日もせずその場を発った。歩くことに没頭し、多くの時間をそれに費やした。ただ生きて、ただ彷徨いた。
そうしている時だった。きな臭い臭いを察した。狼の群れ。十匹はいた。どうも獲物を仕留めにかかる頃合いのようだった。この彷徨で幾度となく目にした小変。そう珍しいことではなかった。
風太郎は厄介事を避けようと、木々の隙間から遠巻きに見据え、隙を見せぬよう気配を察知されぬよう、気を配りながらじりじりと後退していった。
が、足が止まった。目が大きく開かれた。群れが狙う獲物に強烈に惹かれ、座視することが不可能だった。なぜならそれは、オッツォと死別して以来、初めて目にした人だったからだ。
なんの前触れもなく躍り出て、狼の大きく開かれた顎に杭をうつ。
風太郎はオッツォより剣やナイフの手ほどきを受けていた。だが、耐久力があり手入れの要らない、先の尖った棒状の得物を好んで使っていた。
唸りが一斉に咆哮へと変わった。だが風太郎には、悲鳴のように聞こえていた。
群れを退かせるに、それから三つの命を要した。風太郎は得物にこびり付いた血痕を拭いながら、獲物となっていた男を見下ろした。へたり込んでいた。
「助かった。恩に着る。だが、腰が抜けてこの有り様だ」
若い男だった。彼の声はまだ恐怖が抜けきらず、不規則に震えていた。風太郎は何かを問おうとしたが、オッツォ以外の人間を初めて目にしたため心が定まらない。今、何を問うべきかが思い浮かばない。やむなくじっとしていた。と、男は再び口を開いた。
「名乗らせてくれ。俺はグスタフ、グスタフ・リヒャルヴィ。赤髪のグスタフなんて呼ばれているしがない商人さ。人に頼まれてなぁ、危ない橋を渡ったらこのザマだ。本当に助かったよ。身の丈に合わんことはするもんではないというのが、よおく分かった。なあ恩人。礼をしたい。まずは、お前さんの名も教えてくれないか」
グスタフは餌をねだる雛鳥のように饒舌だった。少し落ち着きを取り戻したのだろうと風太郎は考えたが、真相は逆だ。彼は急かされながら舌を動かすことで、どうにか精神の均衡を保っていたのだ。それを証拠に、未だ手足は小刻みに揺れていた。
どうしたものか迷い、風太郎は黙った。対してグスタフは沈黙を嫌った。
「ナリに似合わず随分と恥ずかしがり屋なんだな、ってのは冗談だ。訳ありなんだろ? あんたほど腕が立つ男は見たことがない。それなのに身につけているのはボロだ。真っ当な生き方をしてるとは思えねぇがどうだ? って悪い悪い、詮索はもうお終いにするよ。けど詮索しねぇが、頼みたいことならある。お前さんのことはもう何んにも訊かねぇし、誰にも言わねぇ。だから、俺を安全なところまで連れて行ってくれ。命の恩人にこんなことは言いたかないが、折角拾った命なんでな。こっちも必死なんだよ」
そして、グスタフは黙って風太郎を見上げた。交差した視線から、彼の真剣さと怯えとが伝わった。しかしグスタフは、すぐに視線を逸らし、足元へと向けた。降参とばかりに両手を上げ、無理にニヤついてみせた。
「悪かったよ。狼を追っ払ってくれただけで充分なのによ、恥知らずもいいとこだ。俺はまあ大丈夫だ。気にしな……」
「風太郎」
「はぁ?」
間の抜けた声がグスタフから漏れた。風太郎が声を発するとは思っていなかったためと、風太郎という単語を彼の名前と認識できなかったためだ。
「風太郎。俺の名だ。珍しいのだそうだ」
風太郎は己の素性を、包み隠さず話した。そして最後に、グスタフと行動を共にすることを告げた。風太郎は漠然とであるが、何かが変わると直感した。それによって、何らかの凶事が齎されるかもしれないことも。だが不安はそれほどなかった。
話を聞き終えたグスタフは、
「出鱈目もいいとこだ。こんな話、酒の肴くらいにしかなりやしない」
と長い呼気を鼻から漏らし、ゆっくりと立ち上がった。臀部に付いた土をほろうと、風太郎に近づいた。
「だが信じてしまいたくなった。どうも今の俺は、泥酔しているかのようにまともじゃないらしい。ってことでな相棒、よろしく頼む。あんたが一体何者なのか、折角なんで一緒に解き明かそうや」
グスタフの言葉が、風太郎のこめかみの辺りに電流を走らせた。己が何者か、今まで考えもしなかったことだ。人は母親から産まれ、大人になり、老いて、死んでゆく。その程度の知識はあった。だが出自の怪しい自分は、オッツォのように老いて死ぬことになるのだろうか。生と死の螺旋に組み込まれているのだろうか。興味が湧いた。