衰頽
宵の帳。
秋虫の鳴声が、開け放たれた窓から風と共に侵入する。
かつては暴君のごときに振舞っていた章介の舌と唇と指先。だが今は違う。エリィを気遣うように動く。
対して彼女は報恩とばかりによがる。シーツを固く握りしめ、枕を噛み、声を殺す。
そしてしきりに章介の骨ばった不自由な左脚をさすっていた。
静まる北の砦。
章介の令によりすでに多くの者が去った。今や人の気配は薄い。
白月の煌々とした明かりが、開かれた窓を型取り床に落ちる。
エリィは寝台に横たわっている。赤く火照る体をうつ伏せ、呼吸に合わせ背を大きく上下させていた。
傍らにはヘッドボードに凭れ窓外を眺める章介がいた。否応なく情事の余韻を味合わされていたエリィに構うことなく、章介は一方的に、だが穏やかに口を動かし始めた。
「万物の真実なんてものをいつも考えていた。表面上の姿に興味はない。二つの世界は俺を拒んだ。皆俺を憎み、無視して、蔑ろにする。俺が不必要な人間なのは分かっていた。だがそれが俺だけだなんて許しがたかった」
脈絡も無い唐突な独白。エリィは枕に顔をうずめたまま傾聴した。
「だから俺はこの世界こそが不必要だと思うことにした。世界をもっと深く知ることで、その裏付けが得られると思い込んでいた。浅はかな考えだということは承知だった。が、あのときはそうとしか出来ようがなかった」
わずかに衣擦れの音がした。未だ潤みを残したエリィの双瞳が章介を見上げていた。
章介は踏み込み過ぎた話に懸念しエリィの視線を横目で覗く。そしてわずかな安堵を覚えた。
「多くの人間が憎しみ合う光景を何度も見た。その度に高揚した。俺の望むべき答えだったからだ」
エリィはそやすことなく抑えることなく、ただ黙した。それを聞き入る意志ととらえた章介はさらに口を滑らかにする。
「だが風太郎はそんな俺を諌めた。いつもいつもだ。ヤツは俺を嫌がっていた。が、拒絶はしなかった。俺には不思議だったよ」
しかしそれでも言葉が途切れる。そのたびに彼女の視線に励まされるように己の言葉で継いでゆく。
「魅了のスキルも良し悪しだ。俺はこれのおかげでさらに孤独に苛まれた。だが、寂しさや人恋しさなんてものを感じることはなかった。当然だ。そんなもの誰にも教わってなんかいなかった」
章介は感情の沸き立ちを覚えた。しかし御する。殊更慎重に言葉を選び、口調を整える。
「奴に魅了が届いていないと確信したとき、ずっしりと寄り添っていた孤独が明瞭に姿を現した。驚いた。そんな感情を自覚するなんて思わなかったし、俺自身に興味を持つ人間なんているとは思わなかったからだ。おかげで俺はヤツに執着することになった。一挙手一投足を目で追い、僅かな声音にも耳を攲てた。表情を窺い、いちいち含意を汲もうとした。そしてあえて反発してみせた。憎まれ口を叩き、蔑むようふるまった。まるで初恋に焦がれる歳半ばの少女のように映っただったろう。滑稽だ」
章介は己をあざ笑うかのように口許を歪めた。それでもエリィの表情は変わらない。
「俺はいつしか世界に理由を求めなくなっていた。知る必要がなくなったってのもあるが、風太郎を熟思し、そんな暇がなくなった」
しばしの沈黙。
エリィは話の終わりと判断し、呼吸を整えゆっくりと口を開く。
「寂しそうでしたから。あの人もそう。だから私達はあなたから離れることができませんでした。私達も寂しかった。いろいろありましたので」
「憐憫か。哀れだな」
「そうではない、と、思います。あの人はある物をただあるがままに見る人。肯定もしないし否定もしない。疑問もない。空が青い理由を誰かに尋ねたりなんかしない人です。無機質で、無垢で、だから孤独で、とても寂しい人。だから自分と似ている章介様に惹かれたのだと思うのです」
「俺がか? 似ていると?」
「はい。すごく似ています」
「そうか。そうかもな。凄いな」
エリィは俯き加減で頷いた。
「違う。お前のことだ。話の真偽は俺にはわからん。だがそうやってお前は全てを受け入れる。死に方をしくじった俺や生き方をしくじった風太郎のような者でさえ。優しいな、お前は」
エリィは首を振った。
翌朝、目を覚ましたエリィは傍らにいる章介を見上げた。へッドボードに凭れたまま昨晩と寸部違わぬ姿勢を保ち、エリィを穏やかに見下ろしていた。
「そろそろ終わりだ。名残惜しいが、じきに招かれざる客が来る。わかるんだ。元来は己の身のうちにあった力だ」
「眠れなかったのですか?」
エリィは問う。しかし返すことなく
「ここを去れ。できるだけ遠くに。託したぞ」
と、話を逸らした。
『託す』の真意を計りかね呆けるエリィに、章介は意を汲み話を続けた。
「全てだ。俺の真意を余すことなく風太郎に語れ。僅かでも漏らすな」
「重すぎる、かもしれません」
とりとめのない控えめな反論だった。だが魅了に搦め取られた人間から吐出されるはずのない言葉だった。章介はいよいよ己の力の衰耗を確信した。
「笑わせる。貴様ごときが考えうる重みより遥かに重い。心せよ」
言は厳しいものの声音と表情は終始穏やかで優しさが感じられた。エリィは命令ではなく嘆願と受け取った。
「さあ、行け」
「どこへ?」
「己に従え。生涯で唯一愛した女、エリィ・リヒャルヴィ。俺が存在した証を風太郎に届けるまで生きよ」
あくまで驕傲だった。しかしエリィは真摯に告げられたと感じた。こうとしか生きようのない章介の不器用さが痛々しかった。
以前のエリィなら魅了が働き、ここで全ての感情が遮られた。だが今はそうならなかった。章介の命令はどう足掻こうとも抗することはできない。しかし感情は溢れたままだった。
翌朝、どんよりとした空の下、揃いの厚手の外套を羽織った二人の女が砦をあとにした。
一人はエリィ。もう一人は騎士フロール・トゥルネンだった。
章介はこの日のために最後までフロールを砦に逗留させていた。
終始うつむき涙ぐんでいたフロールに、エリィは気丈に振る舞った。
「お付きの命を授かったのは私の方だというのにこの体たらく。お許しください」
謝辞を繰り返すフロールの生真面目さに、エリィも恐縮していた。
幾日が過ぎた。
ずっと寝台で過ごしていた章介は、おもむろに足をおろした。杖を取り、不自由な左脚を引きずりながら扉にたどり着く。緩慢に扉を開くも閉めることを面倒くさがり、そのまま部屋を後にした。
ふらつき時折倒れながらも、壁づたいに独り大広間へと向かった。
杖ををつくたびに硬質な音が、左脚を摺るたびに掠れた音が響く。
砦に音を発する存在はすでに章介しかいなかった。
壇上の水晶の座を見据える。玉座に似たそれは、章介のほかに誰も居ないこの砦で然許り滑稽なものだった。
腰を下ろし背を預ける。足を組み膝に両手を乗せる。首を前に擡げ目蓋を閉じる。
そして彼は動くことを止めた。
章介の姿は、廃墟に一体だけ残された陶器人形のようだった。




