分かつ道
曙光が土塁を照らし、黒ずんだ灰鼠がほのかに白む。
「ごめんなさい」
下草が芽吹いたばかりの街道を並んで歩きながら、アーチを潜る。
砦を後に戦地へと向かう風太郎に、エリィは神妙に詫言を述べた。
「謝る必要などない。お前の選択は正しい」
起こったことは起こったこととして受け入れる。風太郎は章介の許へ留まるエリィの選択を咀嚼し飲み下す。
それは、章介に対しても同じだった。
元来の章介は物欲がなく粗樸であった。華美に振る舞うことに感興を示さず、美食を求めること、女に現を抜かすこともしなかった。
しかし再び相まみえた彼は『魅了』にかこつけ、栄耀に奢り女をはべらかす。まるで己自身をまやかしているかのごとき振る舞いに思えた。何を意図しているのか解し得ることができず、風太郎は一度は虫唾が走る思いに駆られた。
だがそれも必要なこと、己の考えが至らぬだけと思い切る。さらには今己に振りかからんとしている皮肉な運命をも自然と了得していた。
街道とはいうもののさほど整地されていない足元を、風太郎はゆっくりと踏みしめる。そして前を見据えたままエリィに告げた。
「俺はこの世界に来た時、何もなかった。空っぽの器だったんだ。オッツオとグスタフはそこに大事なものやらガラクタやら、いろんなものを詰め込んでいった。だけどな、たぶんそれでも人を理解するには足りてなかった。俺はな、お前が育ってゆくさまを見て人ってものを知った。幼子が歩き出し、言葉を覚え、自我を獲得する。人を愛し感情に振り回され、打ちひしがれ、それでも立ち上がり前へ進む。人間として生きていくってことはこういうことなんだと、お前を通して知った。ありがとうな」
普段は言葉足らずで心の内など滅多なことでは口にすることがない風太郎が、己の心持ちを訥々と語る。エリィは驚きに数瞬黙す。不安にかられ、外套が靡く風太郎の背を見つめる。逆光で表情は読み取れなかったものの、風太郎はまっすぐに向いたままだった。
陽光が目に入り、たまらず額に手をかざす。そして数瞬のち首の角度を変えた。規則的に動くつま先を眺める。苦味を混ぜつつはにかんだ。
「その言い方。なんか私、幸せじゃないみたい」
「すまん」
風太郎の眉間に皺が浅く寄る。エリィは堪えきれないとばかりに足を止めた。
「帰ってきて」
「わからん」
「帰ってきて」
「期待はするな。期待するだけ、悲しみが深くなる」
「絶対に、帰ってきて」
普段通りの簡潔な返答に、同じ文言を被せる。徐々に声音を上げながら。
風太郎は軽く振り返りながら頭を掻き「ああ、善処しよう」とどこかそっけなく、だがあくまで優しく告げた。それがエリィの不安をさらに煽った。今生の別れの予感を、そして風太郎がそれを覚悟していることを、否応なく突きつけられたのだ。
エリィは足を止めたまま。しかし風太郎は歩みを止めない。
エリィは、風太郎に遠くへ行こうと誘われた日を思い出す。
人を恨むことも妬むこともない。奢ることも卑しむこともない。風太郎は強い人のはずだった。
だがあの日の彼は、落胆と諦念とが入り混じった顔で、頼りなく縋るように笑っていた。滅多に見せることのない弱々しさに、彼女は優越感みたいなものを感じてしまった。
今、エリィは改めて思う。逃げることをやめ、世界に対しけじめをつけることを選んだ風太郎は、やはり強いのだと。
風太郎が遠ざかる。迷いは感じない。彼の進める足取りの一つ一つは自分のためだということを、彼女は知っている。
エリィはだからこそ、そんな風太郎に意地を張る。足を止めたまま、追いたい気持ちを堪え、大きな背中を見送る。
風太郎はついぞ立ち止まることも、振り返ることもしなかった。そうすることで決心が揺らぐのを恐れてのこと。彼もまた同じ。意地で弱さを糊塗したのだった。
人気のない大広間。
衣擦れの音さえ響きそうな静寂。
章介は水晶の玉座に蹲るよう座し、ただ黙していた。
口から浅い呼吸音が漏れ反響し耳に残る。
哀しいといえば哀しいのだろう。しかし以前とは違い心は揺らぐことなく、泡立つこともなく、静かに凪いでいた。
自分は与えられた役割を、粛々と遂行するのみ。風太郎が照らした道筋は、己の輪郭をも明確にさせる。
「重い。重いな」
章介は、この初めての感覚に戸惑い、独り言つ。そして心の内で呟いた。
── だがこの重みこそが愉悦。存分に味わおう ──
それは同時に、彼にゆりかごのごとき心地を齎していた。
顔に恍惚が浮かぶ。
静かに浸っていた。




