懇願
ひとり、章介の居室へと向かう風太郎の足取りは心なしか鈍っていた。鼻に侵入してきたウニコの煙を嫌がり目を細めた。
もう訪れることはないだろうと、決断に近い想いを抱いていた扉の前で立ち止まり、深く呼吸を繰り返した。
と、中庭から小鳥の囀りに雑じり、雉の啼声が耳に入った。雉鳴は甲高く不気味ともとれるが、雉が狩猟に向いているが故に実りの少ない北の地では吉兆を意味している。それでも風太郎の気をわずかでも晴らすことはなかった。
踏ん切りをつけると、風太郎は扉を叩き返事が返る前に勢いよく開けた。圧された空気が微風となり、章介の漆黒の蓬髪をわずかに靡かせた。
この部屋の主の恰好は別れ際と違わず、項垂れ寝台に腰を下ろしていた。昨日から微動だにしていないのではないかと、風太郎に思わせる姿だった。
「何故俺の前からいなくなろうとする。何故貴様は」
一歩を踏み入れた途端、乾いた唇が辿々しく動き、言葉半ばに止まった。風太郎は最後まで聞き届けようと足を止め、息を殺し章介を見下ろした。
「俺から、遠ざかる」
絞りだすような愁訴だった。それは吐息雑じりのとてもか細いものだったが、風太郎には叫んでいるかのように錯覚した。
「あの退屈な日々はよかった、戻りたいものだな」
風太郎は有り体の前置きを挟んだ。躊躇し言うべきことを先送りにした己を自覚し、一瞬苦笑いを浮かべた。
強く目蓋を閉じ、今一度躊躇いがちに目を、そして口を開いた。
「頼みが、ある」
章介は俯けた首をやおらに上げた。窺う瞳は昨日にも増して虚ろで、感情をどこかに置き去りにしていたかのようだった。
風太郎は一方的に、昨夜エリィと交わしたやりとりを偽りなく話し始めた。
風太郎は章介に宣言したとおり、エリィにここを出てどこか静かな場所で暮らそうと誘いかけた。
彼女は最初は黙り、一呼吸置いて断りの言葉を述べた。これは風太郎も予期していた。『魅了』が彼女を蝕み、彼女を章介の許へと留まるよう仕向けていると考えてのことだった。だから無理矢理にでも連れてゆく腹づもりで手首を握った。旅支度などは些末事。今はとにかく章介から一刻も早く遠ざけようとしたのだ。
「私は全部知っているんだよ」
何を言われても、どれほど拒絶されても、聞く耳は持たないはずだった。しかしエリィのこの一言は予想外で、引く力が緩んだ。
「何をだ?」と問いかけた風太郎に、彼女は、章介も風太郎と同じ世界の人間であり、自分の章介への想いは何らかの『力』に依るものだと言った。
「それを分かっていて何故!」と怒声をあげ、彼女の想いは偽りのものであり、時が経てば治まると諭した。
エリィは首を横に振り、
「もし私がここからいなくなったら、あなたが章介様の近くにいてくれる?」と笑顔を見せた。寂しげな笑顔だった。
答えに窮していると「あの人はとても寂しい人」とエリィは言葉を継いだ。
「同情か?」と返すと「あなたと同じ寂しい人。だけどあなたにはオッツィオやグスタフがいた。そして私がいる。だから大丈夫。だけどあの人には誰も居ない。この世界に留まる理由がない。私はあの人に求められていないかもしれない。だけど傍にいたいの。そばにいて繋ぎ止めたいの」
エリィは、泣き出しそうに顰めた笑顔に変わっていた。涙を必死で堪え、強がっていることが見て取れた。
強くなったと思った。『魅了』に絡め取られてなお、逞しく成長を遂げたのだと思った。
そしてとうに己から巣立っていたのだと悟った。
もう己がエリィにしてやれることは、それほど多くはないことを自認し、これからすべきことを見極めようと思惟した。
翌朝、眠りの浅い一夜を過ごした風太郎は、心を決め意を決し章介の許へ訪れることを決めた。それがエリィを護るための最善だと判断してのことだった。
話が章介に届いていたかどうか、表情からは読み取ることができなかった。
風太郎は後ろ手に扉を閉めた。丁番の軋む音が響き、そして部屋全体が小さく振動した。
香炉から昇り揺らぎ消えゆく煙を、なんとなしに眺めた。己を射抜く章介の視線を、受け止めきれずにいたからだった。
「貴様が俺に懇願する。初めてだな。悪くない気分だ」
風太郎は視線を声の主へと向け直した。未だ目には力が感じられなかったが、口元はかつての彼を思わせるような皮肉めいた笑みが浮かんでいた。
「了承した。それで俺は何をすればいい」
「内容も訊かずに、いいのか?」
「ああ、それでいい」
僅かに怪訝し僅かに顔を歪める風太郎。対して章介はさも当然とばかりの返答だった。風太郎はひと呼吸分だけためらうと、話を継いだ。
「半年後雪解けを待って、軍は再び南征する。大規模なものだ。俺も征かねばならん。その間、エリィを頼みたい」
「俺にその力があると思うか?」
答えに窮し黙す風太郎。察した章介が掠れた声で怜悧に笑った。
「そうか、そうだな。だが風太郎、貴様は肉の壁は嫌いではなかったのか? 貴様の願いを叶えるためには、多くの命が失われることになるが」
「やむを得ん。頼む」
「念の為確認しただけだ。断るつもりなど毛頭ない」
「すまん」
風太郎に頭頂を向けられた章介は、満足そうに
「謝罪は不要。謝意だけを示せ」と言った。
「ああ、そうだな。恩に着る」
風太郎は噛みしめるように呟くと、章介を見据え綻んだ。
三日が経った。
風太郎はしばらくの間砦に逗留することとなっていた。
その日の朝、充てがわれた客室にフロールが訪れ、急遽礼式が執り行われると懐疑的に告げた。だがその表情と声音、足取りや所作からは、漲りが感じられた。
章介の館の前の広場に、砦の人々が集められるだけ集められた。
儀礼めいたものに慣れていない風太郎は恰好こそ正装であるものの、人の群れからは離れ所在なげに塀に凭れ、腕を組み俯き瞑目していた。据わりの悪さもあるが、場の空気を壊さない配慮でもあった。
初老の男が形式ばった挨拶をそらんじると、続いて章介が不自由な左脚を引きずりながら登壇した。
光沢のある黒髪はうなじで一本に結わえられ髭もきれいに剃られていた。痩せたからであろうか、その身になじまぬ少し大きめの儀礼服を纏い、それでも威風堂々と振舞っていた。何より目に力があった。
面白くなさそうに眉を寄せ見下ろすと
「かつて国境の蛮族どもを蹴散らし王国に並ぶものなしと謳っていた北方の軍勢はかくも脆く潰走した」と宣った。
集った群衆は、祭らしき雰囲気も漂わせていた。それが風太郎は気に食わなかった。ここは最前線であるからだ。
しかしそんな厭戦気分に刺さる事実を章介につきつけられ、至るところでどよめきが起きた。
「じきにここも戦場となろう。こんな見窄らしい砦などどうでもよかったのだが、そうもいかなくなった。王国の行く末などは知ったことではない。が、ここは護る。以上だ。死力を尽くせ」
章介は『魅了』に絡められた者たちに明確な方向性を打ち出したのだ。
翌日から砦の様相が変わった。『魅了』の影響を受けていない者も少なからずいた。しかし彼らも急流に身を委ねるかのように、風潮に飲まれていった。
風太郎は「近いうちにまた来る」と約束し砦を後にした。
「私たちのことは大丈夫。だからみんなを守ってあげてね」
別れ際、そうとしか生きることができない風太郎を慮って、エリィは気丈に振る舞った。彼女のどこか湿り気のある声は、風太郎の耳から離れようとはしなかった。
そして、その約束が果たされたは、三か月が過ぎる頃だった。
風太郎は章介の品行に、今度は辟易した。




