決意と再会
クロノベリ峡谷に建造された砦を訪れた風太郎を最初に迎えたのは、必要最小限だけが隠された鎧のようなものを装備した見知った女だった。
腰に細身の剣を吊ってはいるものの、騎士としての面影が綺麗に削ぎ落とされたフロール・トゥルネンの落魄に、まず唖然とし、ほどなくして憮然となった。
巨大な悪意に一人で立ち向かった。阿鼻叫喚に泣いた。己に付き従い巨大な敵に立ち向かった。そしてなにも成せない悔しさに膝をつき項垂れた。
己に近い匂いを嗅ぎつけ、愛おしさすらあった。しかしたった一年と半年で、そのどれもが見る影もなく失せていた。
そして改めて『魅了』の恐ろしさを肌で感じ身震いした。
吹き下ろしの冷たい風が、風太郎の剥き出しの頭皮を撫でた。
領主の館まで案内すると己の三歩前を歩くフロールは、あらわに露出された肌に鳥肌を立てていた。
「寒く……ないのか?」
本当はこんなことを訊きたかったわけではなかった。章介のこと、エリィのこと、フロール自身のこと、訊きたいことは山ほどあった。しかし言葉にできずにいた。
「問題ありません」
彼女は一切の淀みなく快活に答えた。胸の奥がチクリとした。
章介も変わっていた。
それほど広くはない暗がりの部屋に寝台が一つ。薄汚れたシーツの上に章介は横たわっていた。
均整のとれたしなやかな体躯はやせ細り、白く艷やかだった肌も木の皮のようだった。
歯は黄ばみ、口の周囲は汚れ、髪も整えられていなかった。
香を炷いてなお鼻をつく饐えた悪臭に、風太郎は嘔吐きを堪え目を細めた。
以前宵闇の深い黒だった瞳は少し灰色がかかり、その奥には静かな怒りの炎が見て取れた。
「俺のこのような姿を貴様に見せつけるとは、紫侯爵、いや違ったな。国王陛下様も残酷なことをなさる」
章介はやおらに起き上がると、立てかけていた杖を手に取り、それを支えによろつきながら立ち上がった。不自由な左脚を引きずり、佇んだままの風太郎の許へと近づいた。
風太郎は章介と認識してなお──この男は誰だ?──と思わずにはいられなかった。
体中の肌膚が余すところなく剥げ落ちたかのような痛々しい姿だった。
緘黙し佇立する風太郎の頬を、章介は愛おしむように撫でた。
「何故、俺の許を離れた?」
口を開くと同調したかのように、瞋恚の目で風太郎を睨め上げた。頬に爪を立てた。奥歯を強く噛みしめギリギリと音を立てた。
風太郎は黙したままだった。表情を失し、反応も薄い。
この振る舞いを哀れみと受け取った章介は、胸ぐらをつかみあげ顔を近づけた。激昂に震えていた。
「仕方がなかった」
「何がだ」
風太郎は低く篭った声で必要最低限の返答をし、章介はそれにかぶせるよう問い詰めた。
「意識のなかったお前を救うよう頼んだ。俺が陛下に帰順することが条件だった」
「違うっ! 奴は貴様が頼まなくとも俺を助けた。石巨兵に何があったか知りたかったからだ」
「だが確証はない」
「石巨兵の情報を取引材料にすれば、難なくことが運んだ。貴様の人の良さには呆れるっ!」
互いの鼻先が触れるほどの距離で睨みつけると、章介は力を抜いて振り返り、またもよろけながらベッドへと戻り腰を掛けた。
「もういい。過ぎたことだ。貴様にしては上出来かもしれんしな。それで、戦況はどうだ? 陛下には伯爵を討つ何らかの策があるのか?」
「ない。おそらく負ける」
「やはりな」
「三人の重鎮が『魅了』にかかっていた。一人は牧羊犬ことトーレ・クリステンセン卿だった。三人共処刑されたよ。末端まで含めると、どれほどの者が敵側となったのか正直わからん」
章介は「ここも似たようなものだろう」と言いかけて言葉を飲んだ。おそらくは風太郎も同じ結論に至っていると考えてのことだった。
「どうするつもりだ?」
全く同じ言葉が二人の口から同時に漏れた。
「どうもせん、お前は?」
章介が逸早く答え、今一度訊き返した。
「別れを言いに来た。エリィを連れて王国の手の届かないところで静かに暮らす」
「俺を連れて行け」
「ダメだ。貴様の力は派手過ぎる。ラーゲルクヴィスト伯に勘付かれるかもしれん」
「嫌だっ!」
章介は杖を床に叩きつけ項垂れた。風太郎は動くことなく見下ろしていた。
しばし沈黙していた。二人分の呼吸音だけが耳に入ってくる程の静寂だった。
「世話になった。礼を言う。そして楽しかった」
頃合いを悟り見切りをつけ、風太郎は厳しい表情を維持したまま踵を返し部屋を後にした。
章介は顔をあげることはしなかった。俯いたまま口は半ば開かれ、そこから涎が糸を引いた。それは重力に耐え切ることができずに、ゆっくりと落下していき音も立てずに足元に滴った。
章介の居室の前では、娼婦のように露わなナリのフロールが近衛騎士のように直立していた。
風太郎が彼女にエリィの居場所を訊くと、案内すると返答された。
風太郎は「いやいい。場所だけ教えてくれ。お前はここに居ろ。章介を護ってやってくれ」と固辞した。と、彼女は深くお辞儀をした。
フロールから教わった場所は給仕室だった。扉の前に立ちノックを三回した。軽やかな返事と向かってくる足音が扉の向こうから漏れた。
扉が開かれた。そこにはエリィがいた。
「痩せたか?」
一拍置いて風太郎が声をかけるも、見上げる赤い瞳からは何の意志も汲み取ることができなかった。彼女は呆けていたのだ。
「髪、伸びたな」
弛緩していた表情筋に感情が伝達され始めたことが見て取れた。
「元気だったか?」
「うんっ!」
彼女の両腕が風太郎の背中に回された。そして顔は胸板に埋められた。
風太郎は両腕をだらりと下ろしたまま抱き返すこともせずに、ただ赤く艷やかな彼女の髪を見下ろしていた。
久しぶりに味わう充足感だった。
エリィを連れ立って出奔することに、僅かだが迷いもあった。しかし彼女と再会したことで、己のすべきことの輪郭が明確になっていった。
── エリィを護り抜く。
決意が固く強靭なものへと変わった。




