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湿気る北の地

 英雄視され信仰にも似た想いを寄せられたことは、やがて消え行くであろうごとく日々弱まっていた『魅了(チャーム)』の効果を図らずも後押しした。

 眼差しが曇り、陰り、夢見がちに弱々しくなるさまは、『魅了(チャーム)』に心を絡め取られた人間特有の症状と言えた。大きく引いた振り子は反動が強い。章介に対し清流のような尊崇を向けたものほど淀んだ沼地にずぶずぶと沈むかのように、心を囚われていった。

 その様子を章介は寝たきりになったベッドの上で目敏く見抜いていた。


 章介は孤独に親しみ、心の底から冷えている感覚に慣れていた。人に無関心であることも、逆に関心を寄せられないことにもありふれた日常だった。他者に干渉されても必要以上に踏み込むことはなく、利用するものと自然と割り切り行動していた。

 だが『魅了(チャーム)』を介さずに己へ差し出された手に対しては、驚くほど無防備だった。どのような理由で差し出されたものであろうと、その手を欲してしまう。だから風太郎に拘った。

 章介は新たに芽生えた心情、風太郎に会えないことで生じた心の内奥の空虚に、立ち向かわなければならなかった。飢える苦痛に近かった。

 代替行為として、満たされないことを知りつつも欲情に飲まれていった。風太郎と出会う以前の、あやふやでつかみどころのない世界の理なんてものを渇望していた頃と、どことなく似ていた。


 領主ヒッタバイネン伯が亡くなった今、章介の居館がおのずと北の領土の中心となっていた。錯綜する情報はすべてここに集められ、章介の許へと届けられた。しかしそこは領主の館として政治を司る機能とは、おおよそかけ離れているものだった。

 不自由な体でエリィを抱いた。それがきっかけとなった。

 となりで「可哀想……」と蝋が固まったかのような章介の体をさすり、かすれた声を出した彼女の顔は、自分なんかよりも可哀想に見えた。悲しさが泡だった。

 直後、追い打ちをかけるように「私は全部知ってるのですよ」と投げかけられた。その言葉が、粘膜のように敏感になっていた部分に触れた。章介は激しい悪心をもよおし、盛大に嘔吐した。

 以来、館の様相は変わった。カーテンは白昼でも閉めきられ、至るところで幻覚作用を齎すウニコの樹脂が四六時中焚かれた。館全体が薄暗く煙っていた。

 判断力の脱漏は『魅了(チャーム)』の格好の餌食となることを章介は知っていた。そして思惑通りの結果を誘起した。

 ほどなくして、館は章介の寂しさを慰めるだけの、幽棲の場と成り果てた。

 代わる代わる、時には複数の女が、夜な夜な章介と寝所を共にした。

 そこには遠征以来同道し、徐々に随従するようになっていた女騎士、フロール・トゥルネンの姿もあった。彼女は「私はあなたを悦ばせるがためにここにいるのです。なんの義務も責任も生じません。自由に扱って頂きたい」と、とろりと潤んだ目つきながらも毅然とした物腰で宣い、章介の要求に娼婦のごとく応じた。

 しかしエリィだけは、あの日以来、章介の寝所の扉を開けることはなかった。章介もエリィも互いに近づくことも離れることもなく、連星のごとく一定の距離を保っていた。




 北西の領主マルムスティン候が、自身を王家の正統な継承者と宣言したのは、遠征から帰還して半年が経った冬の終わりの頃だった。

 周囲の諸侯は、已む無く追従の意を示さざるをえなかった。遠征で疲弊していたため歯向かう力を有してはおらず、かといって王都は未だ実態を掴ませることなく暗躍。動向が掴みきれずにいたためだ。

 報せを聞いた章介は家臣に向かい

「これがあの男の幕の引き方か。陳腐極まりない」

 と、皮肉げに口角を上げた。が、蔑みはしたものの、内心では閉幕なのではなくいよいよラーゲルクヴィスト伯オリヴェルと対峙し、王国全土を簒奪する算段が立ったのだと見据えていた。そして彼の盤上で己はどう振る舞うことになるであろうかと、思索を巡らせていた。


 さらに半月が経ったある日のことだった。王国の使者と名乗る二人の騎士と十五人の護衛からなる一団が、章介の屋敷の門をくぐった。

 この頃になると、章介の体はほぼ回復していた。が、左脚だけは感覚がなく動かせる気配もなかった。


「これはこれは高邁な僭王陛下の御使者とあろう御方が、何を世迷い言を仰るのですかな。無理難題に弥栄(いやさか)と両手を上げよとは」

 ここから南に位置するクロノベリ峡谷周辺の領地を下賜する、との下知状を読み上げた騎士に、章介は痛烈な皮肉を浴びせた。

 章介は北の領土を実質治めてはいるものの、立場としては辺境であるヘディンの村の村長(むらおさ)であったし、しかも領主ヒッタバイネン亡きの今となっては、その高くない身分も曖昧で、有り体に言えば根無し草も同然であった。その章介に対し領土を与えることは、爵位こそないものの、王国の認めた一貴族としての身分を保障されたことを意味した。表向き、破格の厚遇と言えた。

 しかしその実、クロノベリ峡谷は人など住まぬ不毛の地。収入など見込めようもなく、さらにそこは王都からだと最前線となりうる地でもあった。ラーゲルクヴィスト伯が大軍をもって攻めてきたのなら、己を晒して打破、もしくは釘を打つ役割を担うであろうことは明白であった。

 騎士は呆れた顔で「お立場を弁えなされ」と高慢に見下すと

「弁えるのはどちらであろうか。英雄なんだろ、俺は」

 と、己を祀り上げたことを揶揄し「考えておく」と棚上げした。


 使者は二人。相対したのは一人だけで、もう一人は顔を見せることなく用意した客室に居座った。

 このことで章介は、彼らが『魅了(チャーム)』のことを知っていると目算した。一人が呪縛されてしまおうが、もう一人が帰還すればいいと踏んでのことと憶測した。

 浅はかさに口角を歪に上げながらも、もしそうであれば情報の出処は風太郎であろうと、確信に近い考えが浮かんでいた。


 結局章介は、体のいい盾となることを受けざるを得なかった。

 様々な方策を模索した。すべてを投げ出し隠遁することも考えた。ラーゲルクヴィスト伯に鞍替えすることも考えた。

 マルムスティン侯の掌の上で踊ることに屈辱感もあった。しかし思いつく限りでは、他のどれよりも幾分マシだと判断した。

 譲歩したのは章介だけではなかった。子爵の身分と、それにそぐわないほど巨額な報酬を要求し、ほぼ要求のまま与えられることとなった。

 切ったカードは『魅了(みりょう)』だった。章介には一つしかない手札を有効に使った。

 『魅了(みりょう)』は、その全貌を知らないマルムスティン侯爵側の人間にとっては、畏怖してしまうべき力だった。しかも前の遠征で、石巨兵の一体を虜にしたことを多くの将兵が目撃していた。

「俺がいないと石巨兵は止まるまい」

 子供を諭すように語る章介の短い言葉が、決め手となった。

 そしてもう一つ、章介は自治権をも手に入れた。

 実利のない口約束であろうことは承知だった。しかし今は建前が重要と考えていた。


 三月ほど経った。

 章介はクロノベリ砦の完成を待ち、手を振るたくさんの領民、新たな領主となろう紫の儀礼服を纏った貴族、その彼を守護するように囲繞(イジョウ)する紫の一団に見送られながら、北伐門をくぐり北の領地を後にした。門が開いたのは、王都遠征以来一年ぶりのことだった。

 多くの取り巻きが付き従った。そしてそこには、紫の鎧ではなく黄色の華やかなドレスで着飾ったフロール・トゥルネンと、地味な黒のドレスに麻のエプロンを身に着けたエリィの姿もあった。

 章介は、満面の笑みを振りまくフロールの傍らで、一瞬だけ見えたエリィの俯いた横顔を気にしていた。

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