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章介

 章介も風太郎と同じく元は別世界の人間だった。しかし風太郎とは少し違っていた。元の世界の記憶を保持したまま、この世界に生を享けたのである。

 前世とも言うべき彼の最期、死するときの記憶は、濃い靄がかかったようにはっきりしない。が、自分は一度死んだのだ、ということだけは自覚していた。

 誰も居ない劇場でぽつんと一人映画を観ているかのように、自分の人生を逆再生で辿った。終着点とも言うべき母親の胎内へと戻ったと同時に追体験は終わる。代わりに見慣れない景色が広がった。

 それは油を満たした器に灯芯を載せただけの簡易なランプだったり、庭先の石が積み上げられた深い井戸だったり、ログハウスのような家屋だった。

 そしてそれは竈で鍋を煮たり、床やテーブルを拭いたり、大きな盥で衣類を洗ったりする毎日でもあった。

 しかし、ある日を境にベッドの上から見える窓の外だけが、彼の世界の全てとなった。

 黄泉の世界とは随分穏やかなところだと最初は考えもしたが、自分がもうすぐ産まれなければならないことを、なんとなくだが理解し始めた。

 疑問はあった。だがそういうものだと自然と納得していた。そしてゆりかごのような心地よいこの場所にずっと留まっていたい思いと、捉えどころのない据わりの悪さ、二つの相反する感情がマーブル模様を描いていた。

 急に寒くなった。凍えるようだった。章介の意思に反して口は大きく開き、喉からは大きな声が放出されていた。辺鄙な村の長であるエリク・ヘディンの第四子であり末子、エドワウ・ヘディンとして、章介が再び世に産まれいでた瞬間だった。


 章介はこの世界の仕組み、有り様に、異常なまでの拘りを見せていた。翻弄されていたと言ってもいい。逆に自分自身に対しては無頓着であった。それはエドワウとしてではなく、章介としての生い立ちに起因するものであった。


── お前なんか産まれてこなければ良かった。

 章介の世界での母親の口から、何度となく吐出された言葉である。物心がついた頃には常套句となっていたが、それでも章介の心を蝕んだ。

 章介はアダルトサバイバーであった。切創、擦傷、火傷、打撲に依る紫斑は常に体のどこかしらに存在した。充分な食事は与えられず、そして章介自身も食べることを極力拒んだ。これが彼がとりうる唯一の抵抗だったからかもしれない。

 章介は苦痛を与えられる度に、耐性が付く。五歳にもなると、折檻を受けても泣き喚くどころか、顔を歪ませることすらなくなっていた。が、逆にこれが母親の怒りを買い、行動をエスカレートさせる要因となった。

 次第に章介は人を信ずることができなくなっていた。

 そして運良くと言っていいのか疑問が残るが、十二歳の誕生日を控えたある日、公的機関に保護された。その頃には誰も立ち入ることのない暗い物置にひっそりと放置され、このままだとあとは飢えによる死を、待つばかりの状態だった。発見された時、衰弱し立つこともままならなかった。だが一命だけは繋ぎとめた。


 章介は、新たな世界でエドワウとして新たな命、新たな姿を得た。両親からは無償の愛を享受した。ニ人の兄と一人の姉も、章介を溺愛した。にも拘らず、性根が揺るぐことはなかった。周囲の人間全てを猜疑の天秤にかけ、不吉な臭いを嗅ぎ分けようと絶えず神経を尖らせていた。今自分に向く笑顔は偽りで、じきにその化けの皮が剥げるのではないかと懸念し、恐れた。だから欲した。森羅万象のすべてを見極めることのできる目を。


 章介ことエドワウが、十六歳となったとある日の事だった。

 この季節になると空模様も冬支度とばかりに、厚い雲が太陽を覆い隠す日が続く。だがその日は珍しく、秋晴れの緩やかな陽光が大地に降り注ぎ、北の地特有の刺さる寒さも幾分和らいだ。章介は心地の良さを感じていた。

 麦の収穫が終わると、雪の降る前に家族総出で領主であるヒッタヴァイネン伯の館へと旅することが、ヘディン家の倣わしとなっていた。納税が主なる目的であるのだが、それだけで一家を呼び寄せる必要はない。慰労のため招き饗すと称し、領主はエドワウこと章介を呼び寄せたかっただけなのである。


 その頃には自分に特別な力が宿っていることを、章介自身自覚していた。すべての人間が彼に好意を寄せ、彼の虜となったのである。章介はそれを密かに魅了(チャーム)と名付けた。

 ついぞ誰にも愛されること叶わず人生を終えた章介は、全ての者に愛される能力を生まれながらに身につけていた。皮肉なものだ、と思った。同時に、十六年という歳月を経て小さくだが育っていた愛情の萌芽が、急速に枯れてゆくのを感じた。己に向いた慕情のすべてが魅了に依るものと、結論づけたがためであった。

 魅了は異性に対して、より強い効果を発揮した。人間の本能であり原初の感情の一つ、性欲をも刺激したからである。

 それは肉親にも及んだ。四十路を過ぎた母親は、毎夜章介を求める仕草をとった。七つ離れた姉も例外ではなかった。彼女は章介を積極的に誘惑こそしなかったものの、拒むこともしなかった。


 いつものように姉との情事に耽っていた章介だが、遠くから伝わる僅かな振動と不穏な気配に、姉が艶めかしく横たわる幌馬車を後にした。

 章介は圧倒的ではないにせよ、鋭敏だった。だから事態に気づいたのは彼一人だけだ。そして運動能力、とりわけ固有感覚が同年齢と比較して図抜けてたことも自覚していた。要は器用だったのだ。

 どうしたものかと、考える。少なくない人間が息を潜め、足音を殺しながら近づいてきている。もし野盗のたぐいなら対処できないし、その可能性は高い。

 章介は、(くさむら)に身を潜めやり過ごすことを決めた。逃げたところで捕まると判断したためだ。それに運よく近くには姉がいる。領主に納める穀物も、綿や絹織物もある。賊の注意を惹きつけ満足させ、自分の目を逸らすものなど、そこらじゅうに転がっていた。


 章介の判断は最も正しかったと言えた。

 二十人を超える賊が荷車を取り囲んでいた。不穏な空気に気づいた馬が、いち早くいななき前掻きするも、時すでに遅し。賊はそれを合図とばかりに、一斉に荷車へと取りついた。

 怒声と叫声。鉄がぶつかり合う音と肉を断つ音。雑踏に不快な音が紛れた。

 章介は体を縮め息を潜めた。全身が強張り震えた。時折、溜まった恐怖が胸の奥から突き上げられ、唸声となってロゼの花弁のような薄く瑞々しい唇から漏れた。歯もがちがちと鳴った。周囲の喧騒に比べれば些細な音だ。だが章介はそれを嫌がった。噛みしめ唇を引き結び、自分の細い両肩を抱いて必死で堪えた。


 しかも、この場には不運にも章介の想定外の因子も存在していた。

「どうした、豚」

「げへへ。酸っぱくって苦い臭い。ヤった後かよ」

 男が二人、話をしていた。豚と呼ばれた男の卑しく嗄れた笑声と、枝が擦れる音、草を薙ぐ音がまっすぐ近づいてきた。章介は捕捉されたと判断した。心臓が何度も跳ねた。

 豚と呼ばれた男は恐ろしく鼻が利く。そして豚の鼻は、自分の体に付着した姉の残り香をとらえた。そう考えた章介は、僅かしか陽光が届かない薄暗い茂みで、体を固く丸め微動だにせず、姉と交わした行為を悔いていた。

 いよいよ男二人が章介の許へと辿り着いた。この場を逃れることを諦めたのか、恐怖で混乱していたのか、章介の心に奇妙な疑問が湧いた。自分に生きる価値などあるのだろうか? だとすると今なぜ自分は、生に執着しているのだろうか? 、と。だが、考えることに意味などないことに気づく。その答えを導き出す猶予など、章介には残されていなかったからだ。

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