気付き
蚊の一刺のはずだった。なのに魁偉で強靭だった石の巨兵は、砂煙をあげながらあっけなく瓦解し礫の山となった。
そのさまを風太郎はカカシのように立ちながら、焦点が合っていない目で眺めていた。
なにが起こったか理解できずに戸惑いながらも、それでも耳に残る残響と黒瞳に焼き付いた事象とを咀嚼し嚥下を試みた。
首を垂らし黙考しながら、とぼとぼと歩いた。
石の巨兵とは一体何なのか。ラーゲルクヴィスト伯爵の正体は。そもそもチートとは何か。そのチートとやらを具えた己は何者なのか。
思考は絡まり複雑になるに従い、徐々に抽象的で哲学的なものへと変遷した。
だがいくら考えたところで詮なきこと。答えなど出ようものでもない。とにかく試す。もう一度同じ現象が起こったならば、章介が示唆したとおり己には自分でも知らないチートが備わってる。そう思惟に見切りをつけ、残り二体の巨兵に向かい再び一本の弩矢を拾い上げ担いだ。
口を引き結び、歯を食いしばり、目蓋を強く瞑った。余計な迷いを断つ作業だった。
頃合いと断じたところで、二体の巨兵に強い視線で穿った。投げる、と己が体に命じると、その意志に連動したかのように脚が動きはじめた。腰、肩、腕へと無意識の命令が伝播してゆく。そして雲に覆われた黒灰の空に一条の滑らかな曲線が引かれた。風太郎の意識はその曲線の先端に囚われてしまい、双眸を凝らし離せずにいた。
放った弩矢は、期待し恐れていた結果を齎すことはなかった。隻腕の一体に仰臥に押さえこまれた石巨兵の太腿に当たり、跳ね返り、地面に落ちた。
己の放った弩矢が石巨兵を倒さずとも何らかの影響を与えたのなら、この戦いの終止符に繋がったはず。なのに風太郎は、なにも起こらなかったことに安堵のため息を吐いた。
同時に安心したが故に醒めてきた頭は、二度の投擲の相違に思索を巡らせていた。石巨兵の損傷の具合、穂先が当たった場所、投擲した力加減と角度、風向きや気温、どれもが違うとも取れるしどれもが同じとも思える。因子は至って曖昧だった。
とにかく閉ざされかけていた理不尽の扉の開く音がしたのは思い違いではない。容易に答えをだすことに慎重になりながらも、このまま二体の石巨兵が取っ組合いを継続してくれれば、無難にこの場から立ち去ることができるのではないか。風太郎の頭にはそう直感めいた考えが浮かんだ。
牧羊犬こと、トーレ・オースティンもかくも脆く瓦解した石巨兵を目におさめたはずで、風太郎と似たような思考に至ったのであろう。彼と章介のいる丘の辺りでは、紫の鎧を纏った兵士たちの動きが心なしか忙しく見えた。
── 戻ろう。
風太郎は章介の許へと行くために、乗り捨てた馬を探し辺りを見回した。当然ながら否応なく、巨兵が北の軍勢を踏み台に作り上げた惨劇が目に入り、充満した血の臭いが鼻腔から再度意識に侵入した。
彼らとは特に深い縁を結んだわけでもないし、兵士という個体はいかに無残とは言え殺されても文句の言えない立場だ。だが頭の理解とは裏腹に、北の領主の威厳のある奥深い目つきと低く通る声、短いながらも兵士たちと交わした会話など、彼らとの日常が自然と想起された。
巨兵が一体崩れたことで、風太郎の心の波立ちが少し穏やかになっていた。そして、凪いだがゆえにこの光景に、ヒッタバイネン伯爵夫妻や石巨兵と対峙した時とはまた違った波長で揺すられた。
感傷に心が動かされたことに戸惑いつつ短く黙祷をささげると、傍らで草を食む馬に跨がり一つ拍車をかけた。
馬は名残惜しげに首をあげると、来た道をたどり蹄の音を響かせた。
目を覚ました章介の傍らにはエリィがいた。
エリィから聞くに、彼は二週間ものあいだ生命の営みをほぼ眠りにだけに費やしていた。
彼の周囲には彼女と北の残党数人。そして風太郎にその身を救われた牧羊犬配下の女兵士、フロール・トゥルネンがいた。
「風太郎は……?」
章介が不意に誰に問うでもなく口を開いた。目覚めて最初の声は、悲観も混乱もなく、己の置かれた状況や世の趨勢に対し興味も示していなかった。
エリィもフロールも生きていることだけ告げ、あとは口許を引き結んだ。章介は一旦窓外に遠い眼差しを向け、次に二人の縋るように曇った卑屈な瞳に、探るよう目をやると、安堵に顔を和らげ、そのまま目蓋を下ろし再び眠りについた。
幾日か過ぎた頃には、己の置かれた立ち位置をおおよそ把握していた。
章介に付き従ってきた者の話によると、かろうじて退軍した王国北方の大部隊は、その数を三分の一にまで減じていた。
ほとんどの領土は、その維持が困難とだれしもが予期し、とりわけ領主を失った北の領土とほか三つの領土は、崩壊を免れ得ないだろうことが噂にのぼっていた。
北西を治めていたマルムスティン領は、その軍勢をおおよそ後方に控えさせていたために犠牲が少なかった。よって、いつしか紫の軍団が枢軸の任を担い烏合の衆と成り果てた敗軍をまとめていた。
── 国王気取りか。
章介は北の領主にも増して尊大に振る舞う北西の領主を思い浮かべ、これもすべて彼の思惑通りではなかろうか、と錯覚した。しかしすぐに頭を振り、馬鹿なことを、と思い直した。
情勢は章介の想像を越えるものではありはしなかった。だが予想外の出来事もあった。
章介が、古き英雄サミ・サンカリ・サーリの再来ともて囃されていたのだ。思い当たるふしなど微塵もない。己を英雄と崇め、領主を失った悲しみを紛らわす北の兵士達の喜色ばった顔を、奇妙に、つまらなさそうに眺めていた。
ほどなくして体力が回復した章介は、もう一つの事実を知ることとなった。左脚が不自由となっていたのだ。
見た目には以前より細くしなびたものの、なんら変わらない。だが一切の命令が拒絶されたかのように、動かすことがかなわない。打ちひしがれはしたものの、死を覚悟していたため、よくぞこの程度で済んだと悪運のようなものも実感していた。
章介は今一度、風太郎のことも問た。分かったことは、二つの事柄だけだった。一つはここ北の領地には居ないこと。もう一つはその理由として、風太郎は北西の領主マルムスティン侯に付き従っていったことだった。
風太郎の不在は章介を蝕んだ。
行軍以前より、似た境遇の風太郎と己とを重ねあわせ、縋っていたことは自覚していた。しかし風太郎の本人も気づいていないであろう真の力を知ってしまったことで、章介にとって彼はなくてはならない存在へと変わってしまった。
風太郎には『魅了』が効かない。
薄々気付いていたことだった。しかし、ラーゲルクヴィスト伯との接触まで確信には至っていなかった。
あの戦いの折、風太郎が触れた途端、幻影がふっと消えた。章介は伯爵夫人に未知なる力で体をいなされたのに対し、風太郎は常に剣だけがいなされていた。極めつけは、聞くところによると公にはされてはいないが、石の巨兵一体を無力化させたとのことだった。
つじつまが合った。風太郎の本当のチートはチートを否定する力だったのだ。すると新たな疑問が湧きでた。何故風太郎は己のもとに留まっていたのか。
そしてもう一つの感情も生み出された。いや生まれたのではなく『魅了』なしで己と向き合った唯一の人物に、蓋をしていた感情が溢れでたのだ。
章介は依存しきった己を感じ入り、風太郎に対する想いがさらに深く濃く募ってゆくことを自覚した。しかし彼自身はどういうわけかここにはいない。剥き出しになってしまった悲壮は粘膜のように敏感だった。
彼はひとり部屋にこもる日を送った。




