花葬
風太郎の皺立ち奥まった目についたは、暗紫色の人だかりだった。似たような色に染められた孔雀の長い羽根が、彼らの頭上で右左と細かく揺れ動いていた。馬上に跨る牧羊犬とも呼ばれる老将が、どことなく居心地が悪そうに羽根兜のぐあいを直していたのだ。
風太郎には何ひとつの確信はなかった。しかしマルムスティン侯のことである。無意味に兵を動かすことはしない。人を配したならそこには何かがあるはずだし、緊迫にひりついた空気も感じ取れた。あわよくば章介もなにかに関与しているとの考えが自然と頭をよぎり、小高い丘を駆け上った。
傍らで章介の馬が黒毛の尾と鼻面を巨兵へ向け、今にも逃げる構えをとっていた。だが鞍上は空き、そこにいるはずの主の姿はなかった。
紫がかった人波を、時に掻き分け時に摺り避け、導かれるようにその先へと進んだ。
果たして欲するものはそこにあった。打ち捨てられた狩りの獲物を値踏みしているかのように振る舞う将兵が数人、章介は彼らに囲まれ横たわっていた。顔は骨の色をなし唇は深い滅紫に塗られ、瞼は獲物を取り込んだ食虫植物のように隙間なく黒瞳を覆い隠していた。
魂は抜け落ち、空き家のようにがらんどうな肉体。風太郎の目にはそう映った。
風太郎は不規則で荒い息をたて、倒れこむように駆け寄った。
微動だにしない。胸郭の動きがない。風太郎の頭の奥に未だ宿存するグスタフの最期の姿が、彰々と蘇り章介と重なった。
「貴様までも冥府の門を叩くつもりか。そうはさせん。行かせるものか。行かせるものか」
叫んで、章介の肩を鷲掴み揺すった。弛緩し垂れた両腕と据わらない首が、ふらふらと揺れた。
そのとき現実が半分薄れ、忘れていた記憶の錯視がそこへと重なる、いわゆる二重映しがいつものごとく唐突に訪れた。
── よりにもよって、こんなときに。
煩わしさに首を左右に大きく振った風太郎だが、すぐに思い直し心に描かれた情景を見逃さぬよう気構えた。
「何が起こっているか、知っておるのですかな?」
牧羊犬ことトーレ・クリステンセンの悠揚な声が、夢境にたゆたう風太郎を現つへと引き戻した。
「知らん。だから答えようがない」
面倒と言わんばかりに一瞥もくれず、にべもなく返した。章介を見据え、今頭に浮かび消えた過去の記憶の欠片が、何を齎すのかを考えた。
それは、歩行者が横断歩道を歩くことができることを知らせる、童謡のメロディの電子音だった。
それは、救急車が向かってくることを知らせるサイレンだった。
それは、冬のひんやりとした硬いアスファルトの感触だった。
それは、咽そうになる車の排気ガスの臭いだった。
最初はオッツォが他界したときだった。それから似たようなことが幾度となく起きた。お陰でどうもこれには何か意味するものがあるのだと、風太郎は漠然とだが思うようになっていた。
幾つもの心象が断片的に映しだされ、そこからすべきことの端緒を見出した。いや、単にそう思い込んだだけなのかもしれないが、途方に暮れるなか縋る指針となった。
それは、己の口を塞ぎ空気を送り込み、拍子を刻み何度も胸を圧迫してくる人の姿だった。
記憶の残滓をもとに見様見真似で、章介の鼻を摘み、己の口で章介の口を塞ぎつつ呼気を吹き込んだ。口を離し、両手を章介の胸に添え規則的に数回強く押す。それを何度となく繰り返した。
周囲の男たちは奇矯な目を向け侮蔑じみた気色をあからさまにしたが、しばらくして章介が息を吹き返し「かはっ、かはっ」と咳き込むと難色が薄れ、唸り声をあげる者、好奇に覗きこもうとする者、目と口とを開き黙りこくる者、それぞれがそれぞれの仕草で驚愕と感嘆の意を示した。
風太郎は、疲労と充足と何とも言葉にしようもない奇妙な思いとで、呆然とした。数拍おいてのち我に返り、立ち膝のまま奇跡を為した己の掌を見下ろした。
不思議だった。本当に章介が生き返ったことは勿論、記憶の蘇りが何らかの啓示であったとしたならなぜグスタフの死の間際には顕現しなかったのか。そして、なぜ己がこれほどまで章介の生に拘ったのだろうかと。良心とも違うし、好意を寄せているわけでもない。そうではない自分でも説明のつかない何かしらの情意に囚われていたようだった。
己の内に宿る自覚のない思いを探ろうにも、理屈では切っ掛けすらつかめない。一度詮なきことと割り切り、死に顔より戻り微かに生気の篭った寝顔から目を切り細め、遠くを睨めた。それでようやっとマルムスティン侯の部隊がここで屯し、先ほどの牧羊犬の「何が起こっているか」の問いを理することとなった。風太郎は戦況を見渡し、彼に生返事しかしなかったことを僅かに恥じいた。
弩から放たれた大きな矢が、風切る音を引き石の巨兵の一体に吸い込まれた。矢は黒灰色の膚を稍削り弾かれ、硬質ながらもさほど響かない音と薄い白煙を立てた。
その巨兵はというと、続いていた前進を止めていた。右の二の腕から先が失せた一体が、残りの二体と対峙していたのだ。
その腕は別の一体のみぞおちに突き刺さり背中を抜け、近傍に地割れに似た深い亀裂を這わせていた。
どのような方法を取ったかは見当もつかないが、一体の巨兵の反乱と章介の昏睡を魅了の所為と当たりをつけ、
「腕のない一体が味方だとしたら、どうすれば勝てる?」と、トーレ・クリステンセンに問を投げた。
無表情に引き締めた老いた顔貌から返ってきた最初の答えは「分かりかねますな」の一言だったが、罅割れた一体に弩を放てば果たして、と曖昧な返答が続いた。だが、他の二体に隠れていくら撃ちこめども弩矢が当たらないと憂え窮していた。
風太郎は水の入った革袋の蓋を開け、章介の顔に撒いた。僅かに目が開いたことを確認すると、その革袋を口許に差し出した。
「飲めるか」
「飲めん」
掠れか弱い声が返った。愁眉を開いた風太郎は、危急に問うべきことを問た。
「ならいい。様子がおかしい。お前はあれを手懐けたのか?」
章介は散らかった感覚を一箇所に集めるよう努めるも、未だ瞭然とまでは程遠い。しかし風太郎の言はかろうじて理解できた。
頭が重く、胸が激しく痛い。全身にくまなく巡る倦怠感と虚脱感。しかしそれらに抗い皮肉をたれた。強がってみせたのだ。
「内輪もめで盛り上がっているなら、そうだ」
「あれに命令を下せるか?」
「初対面なのでな。どうだか」
繰り返される詰問に、胸元を押さえ煩わしいとばかりに軽口を返す章介に、風太郎は正視と沈黙をもって答えを促した。章介はそれを受け止めつつも、己の惨めさに子供じみた余計な憎まれ口も付け加えずにはいられなかった。
「俺のか弱い声が届くところなら、どうにかなるかもしれん。まずはあのがらくたに耳があるか見てきてくれ」
「そんな暇はない。連れてゆくぞ」
「吐き気が酷い。乱暴にするな」
「急ぐ。我慢しろ」
毒気を含んだ物言いをまるで相手にすることなく、風太郎は章介を無理矢理に抱え上げ、乱暴に馬背に腹ばいの恰好で「しっかり握れ」とぶっきらぼうな言葉を添え手綱を握らせた。章介の顔が苦痛に歪み皮膚がよれた。歯を食い縛るだけの力もなく口許を開けたまま呻いた。だが目つきだけは、どこか穏やかで満ち足りていたようでもあった。
小一時間前までのこの場は、ただ混乱していたに過ぎなかった。その後の幾つも立て続ける天変地異のごとき人為による急変。だが人が逼迫してようとも、素知らぬふうに佇む周囲の木々と茂る下草。風太郎は辺りの閑やか景色を目にして、違和感に似た奇妙な感覚に苛まれた。そうでありながらも、己を先頭に章介と彼を護らんがために集った北の兵士とで形成した決死隊とも呼べる小さな一団を率い、細く曲がりくねった道を辿り死地へと馬を走らせた。
巨兵が足を踏むたび大地は揺れた。
元は北の軍隊だった巨多の肉塊が人馬の区別なく所狭しと打ち棄てられ、血が満開の花のように辺り一面に散り乱れた。それはまるで盛大な花葬を思わせた。
なかに見知った顔が幾つもあった。風太郎は竦み上がり、二、三度嘔吐いた。




