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魅了

「やっと落ち着いたか。取り乱しおって」

 章介は遠くを見据えながら、風太郎にひと声かけた。喘鳴交じりに繰り返される深い呼吸、時折挟む咳き込み、そして無言が返るだけだった。

 章介の目線の先からは、肚の中まで震わせるほどの重く低い擦過音が響いていた。石の巨兵の関節が動き軋んだのだった。

 巨大な足元では、絡みついていた拘束が次々と外れ、引き千切られ、役目を終え散らかっていた。

 ヒッタバイネン伯率いる北の兵のそのほとんどが、倒れる者、跪く者、(もた)れる者、と各々が各々の体勢ですでに動きを止めていた。しかし、そのように人の形を留めているものは、まだましな部類であった。伯爵自身も確認はとれていないが、どうやらその中の一つであるのだろう。

 ある意味では無残ととれたし、ある意味では狂気から解放されようやく自由を手にしたともとれた。

 落ちた縄を拾い上げ果敢に巨兵へと向かう者も僅かに残ってはいた。が、巨兵の前では虫けらも同然。彼らはあまりに従順で愚直で無謀だった。


 石の巨兵の歩みの進む先では、匆々と作業を進める紫の一団の姿があった。再度矢が放たれはじめた後方で、五台の(いしゆみ)が組み立てられ槍のように巨大な矢がつがえられようとしていた。

「マルムスティン候め。よくもあんなものを持ち歩いていたものだ。この上ないほど準備がいい。だが、迂遠であることくらい当の本人も理解しているであろうに」

 巨兵に見合った兵器を目にしてもなお潮時と心得た章介だが、過る諦めと怖れとを一息で蹴飛ばし、風太郎が乗るはずだった馬に跨った。

 風太郎が「どうするつもりだ」と問うと、章介ははぐらかすかのように己のチートである魅了(チャームの話をもちだした。


 魅了チャームには、欠点ともとれる特性があった。魅了が完了されるまでにある程度の期間を要するのだ。それは対象の性質にも影響された。とりわけ自分に好意を寄せているか否かが、大きく作用する因子であった。そして性差も影響するであろうことを章介は理解していた。女は彼が元居た世界の言葉で表すと『チョロい』のだ。

 ここまでは風太郎も感づいてはいた。しかしもう一つ。章介が言うには、力を集中させることで魅了させる時間を大幅に短縮させられることができるとのことだった。この告白はさすがに疑わしさを拭えず真偽に迷った。

「何度か試してみた。その影響なのだろう、こうなってしまったのは。おそらく代償ってやつだ。全くもって不完全で理不尽で歪なチートだよ。貴様が羨ましい」

 と、章介は己を皮肉るように微笑し、証拠と言わぬばかりに左掌を見せつけ開いたり握ったりを繰り返した。その小指は曲がったまま拘縮し動かせないようだった。


 章介は手綱を勢いよく振った。くつわが引かれ拍車を入れられた馬は、竿立ち、嘶き、巨兵へと馬体を向けた。

 彼の行動を理解した風太郎は「いくら身を削ろうとも、あんなものを魅了できるわけがない。それにチートはもう……」と声を張り、引きとめようと剣を鞘におさめ馬上に坐る章介の背後に手を伸ばした。が、すんでのところで届かなかった。

「たぶん問題はない。馴染むまでに時間がかかると言っていた。ここまで話すつもりはなかったのだが、あの夢見がちな伯爵には到底及ばぬものの、俺も人並みに感傷的になってしまったようだ。チートを賜りし異世界の住人とて所詮は俗物。それもこれも貴様のせいだろうな」

 背を向けたままに言い残した声と規則的に鳴る蹄の音、上下に靡く黒烏(ヴァリス)の羽根のような黒髪が遠のいていった。風太郎は辺りを見回し自分の乗る馬がないことを改めて確認すると、後を追い駆け出した。

 石巨兵が踏み出すと稲妻を思わせる轟が空気を伝い、近づくほど強烈に風太郎の鼓膜を震わせた。その都度寒気がぞっと背筋を這い上がり、不快感と疲労とで何度か嘔吐(えず)いた。

 一人になった女騎士は、慮外なやり取りを目の当たりにしたことで思考の鮮鋭度が低下していた。だが虚ろに曇った目が走りゆく風太郎の背中を捉えると半ば我に返り、一歩、二歩と交互に脚を動かし始めた。未だ信じ難い心持ちを表しているかのように、何度となく足がもつれ左に右によろめいた。その度に立て直し緩徐とした足取りであるものの後へと続いた。


 小高い場所を選びそこで下乗した章介は、のこり数人にまで減らした魅了(チャーム)に囚われた者達を呼び戻した。しかしヒッタバイネン伯の姿はなかった。

 章介は彼らに付き従われながら、三体の巨兵に睨むかのような厳しい目つきを注ぎ

「奈落の淵沿いを散歩するってのはこんな気分なのかもしれんな。飼いならされた犬のごとく、なんら苦悩もせずに盲従する貴様らが少し羨ましい」

 と、嘯いた。それぞれの仕草で同意を示す兵たちを面白くなさ気に見回すと、意を決したかのようにもう一度巨兵に強い目線を向け、大きく一つ息を吸い止めた。

 章介の顔がみるみる紅潮していった。固く結んだ唇と血走った目は小刻みに震え、顔の至る所から青白い血管が浮かんだ。

 だが章介はなおも呼吸を止めていた。

 刻々と時間が過ぎ行く。胸打つ激しい鼓動。冷えてゆく末端。

 赤らんだ顔は蒼白となり、見開いていた瞼は徐々に落ちていった。力強く握りしめていた拳もだらりと開き、引き結んでいた口許からは涎が垂れ糸を引いていた。


── まだか。まだか。

 輪郭が曖昧になり暗闇に沈んでゆく視界で巨兵を捉えた。未だ足並みを揃え弩へと向かっていたことだけは見て取れた。

── 退屈しのぎだった。こんなことができるなどと知らねばよかったのだがな。

 薄れぼやける意識の中で、弱音とも取れる愚痴だけが明確に残っていた。

 章介は十年以上もの間数多くの検証を重ねていた。地道な作業を繰り返し、その結果、息を止め従わせたい一人に魅了(チャーム)を集中させることで、本来何日もかけて完了する魅了の時間が大幅に短縮できることを知った。

 その検証中何度も倒れた。そして小指の麻痺が残った。空気が足りず、脳の一部が壊死したのだろうと章介は結論づけた。それ以来、この検証はお蔵入りとなった。

 今それを確証のないまま、石の巨兵に試していた。

 魅了(チャーム)が急速に伝播してゆく感覚はあった。だが依然変わらぬ状況に焦燥を覚えた。焦燥は章介の中に燻る諦観を促し、諦観はこの苦悶から己を開放せよという本能を(つつ)いた。


── 奴になんか会わなければよかった。

── そして奴の本当の力に気づかなければよかった。

── このような世界に迷い込まずに消えてなくなってしまえばよかった。

── そもそも己など存在しなければよかった。

 次々と後悔の念が浮かびあがり、胸の内に逗留した。

 章介はすでに全身の力を失い、倒れていた。何も見えない。何も聞こえない。何も感じることができない。

 だが耐えた。耐えて魅了(チャーム)を続けた。何故このように苦しみ抗っているか、目的すら理解できなくなっていた。

 意識を完全に手放す寸前、不意に魅了(チャーム)が完了したことを知らせる、静電気に似た独特の感覚がした。章介はそのはずみで微睡(まどろ)みから一瞬正気を取り戻した。


── いや、これでよかった。

 

 章介は力尽きた。




 前を歩いている一体の巨兵が、足を止めた。振り返り、後続の一体にめがけて左拳を突き出した。

 噴火したかのような音がした。礫が飛び散った。

 後続の巨兵の無防備な胸元に、巨兵の(かいな)が巨大な杭を打ったかのように食い込んでいた。

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