伯爵の正体
── 伯爵を倒す以外に道はなし。
無意識の章介の小声が辺りの騒がしさに紛れた。伯爵を仕留めれば巨兵も沈黙するやも、と考えてのことだ。
だが今の章介たちでは容易ならざるとも見做していた。伯爵がこの場を去ってしまえばそれだけで、章介達は生き残る方策を失うことを意味していたからだった。
と、砂まじりの微風が章介の顔に当たった。風太郎が動き空気を圧したのだ。落とした長剣を拾い上げ、章介を以って『神速』と言わしめた体捌きで瞬時に片手突きの姿勢をとり、背後の伯爵は捨て置き章介が狙いをつけた虚空へと詰め寄った。
章介の了見を把握したわけではない。彼が動いたならそこに何かがあると信じてのことだった。
だがまたしても不可視の力が阻んだ。剣は甲高い音を上げ、まくられ切っ先が泳いだ。
後先考えずとにかく突く。風太郎はそのことだけに意識を割いていた。そのため体勢が流れつんのめったが、絡まるかのようにもたつく脚を制御しつつ、辛うじて体の安定を取り戻しすぐさま振り返った。
乱れかけた呼吸も一息で立て直した。微かだが麝香の匂いが鼻腔を刺激した。どこかで嗅いだはずの忘れかけていた香りは、別の忘れかけていた記憶に衝突した。グスタフが生きていた頃のこと。最後に二人で受けた依頼であるラーゲルクヴィスト伯爵邸でも、この匂いがしていた。
「なぜ見切られたか、お聞かせ願えませんでしょうか」
依然物言いは虫唾が走るほど丁寧ではあったが、章介にとっては聞きなれない女の声に変わっていた。声だけではない。身につけたものは光沢のある黒を基調としながらも依然として見るからに豪奢ではあったが、突如として顕れた止ん事無き出で立ちは仕草までもが女のそれであった。
端倪すべからざる異変に、慄き言葉どころか呼吸をも詰まらせた章介だったが、それをいいことにそして己の心情を隠すために、この場はだんまりを決め込んだ。
見切ったといえばそうなのかもしれないが、決して見破ったわけではなかった。風太郎が立てた砂塵が女の立つ位置で不自然に消えていたことに気づいただけだったのだ。そして、他にすることを思いつかなかったため、当てずっぽうで剣先を突きつけたに過ぎなかった。
章介のとった沈黙は勘違いしているのならそれでいいとばかりに、己の拙い行動を秘匿し心理的に少しでも上に立たんとする意図があった。
「驚いた」
風太郎は身震いを払拭させるためにぼそり呟いた。その言葉とはうらはらに表情ひとつ変えず、女の温もりの乏しい目を見据えていた。
しかし内心は発した言葉通りだった。不意に顕れたこともそう、女であったこともそう、しかしそれ以上に、目の前の女性が死んだはずのラーゲルクヴィスト伯爵夫人であったことに一驚していた。
数瞬置いてのち、思い出した記憶が切っ掛けであったかのように俄に更なる怒りが噴出した。食いしばらせた歯からぎりぎりと立つ不快な擦過音は、彼の煮えたぎるような真情が流露しているかのようだった。
風太郎は激情任せに剣を両手で握り大きく頭上に振りかぶった。
「グスタフを何故殺った。何故俺達を騙した」
声までも強張り震えていた。そして刃は答えを待つことなく真下へと疾走った。
しかし大きく頑強な盾に往なされたかのように軌道が逸れ、獲物を捕らえることなく地面を叩きつけた。
「ふふふ、凄い。空気も震えてるみたいです。美しい、虫唾が走るほどにね」
夫人の話など耳に入っていないかのように、そのまま風太郎は腰だめに剣を引いた。木こりが大木に斧を打ち込むかの如く充分どころか必要以上の力を込め、薙いだ。
が、またしても女に届くことなく、代わりに岩を強打したような感触にあえなく弾き返され、よろけ一歩後ずさった。掌から伝う衝撃が肘まで痺れさせ、咄嗟に構えをとることを不可能にさせた。
この一連のやり取りを章介は好機と捉えていた。女の額に浮きあがる血管、釣り上がった目尻の皺、薄く尖った口角の向き、細い首の角度、骨ばった指先の動き、やや荒い息遣い。どの所作も僅かな変化であったが見覚えがあった。人が恐怖した時によく見る仕草だ。それは伯爵夫人の余裕が消失していることを教えてくれた。
初撃は風太郎が落とした剣を拾ったぶん、女に猶予を与えた。二撃、三撃はどうにも怒りに任せた不格好な斬撃だった。いずれかが平常の風太郎であったならば、女の体は二つに分かれていたであろう。章介はそのように見当をつけていた。
「本当は貴様と風太郎、一人一人と対峙するはずだったんだよ。見事俺の見当を外し、お前がこんなところまで出しゃばってきたおかげで、予定が狂った」
章介の心臓が不吉な鼓動を打った。間髪入れずに嫌な汗が噴き出し、途端に冷たくなってゆく手足を実感した。
風太郎の背後にいたはずの伯爵と思しき人物が、目の前に忽然と顕れ立ち塞がっていた。ふと眺めると依然伯爵は元居た場所にも佇んでいた。姿形も声質もよく似ていた。が、口調も雰囲気も気怠さを纏い、先ほどまでの折り目正しく振る舞う伯爵とは別人としてしか認識できなかった。
目の前の男は章介の視線を追ったのだろう。章介の内心の疑問に先回りして答えた。
「あれは幻影。我妻の力。なかなかのものだろう? だが、ああも見事に打ち消されるとは思ってもみなかったがな」
苦笑いにも似た表情を作り、呆れたようにおどけた仕草で肩を竦めた。
幻影とは何であろうか? 魔法の類か? それとも章介や風太郎と同じく能力を備えているのだろうか? しかしそんなものを詮索して答えを得たとて、己の行動になんら影響を与えるものではない、と頭を切り替え
「貴様らの目的は何だ」と有意であろうことを問い詰めた。
「我がたった一つの宿願。理想郷の実現。そのためにはお前が要るんだ。本当は同志として迎えたかったが嫌なのだろう? なら無理強いはしない。力だけにする。速やかに済ますよ。妻もそろそろアレを凌ぎきれそうにないのでな」
章介は剣を薙ぎ、後ずさろうとした。しかしまたしても不可視の力に肩を叩き落とされ、右の脚を払われた。子供のようにあしらわれたものの、倒れることを拒み辛うじて片膝を突くにとどまった。
「剣を払うより、無警戒な脚を払う。動くものを受けるより支点となる肩や腰を打つ。術と言えど万能ではない。扱うも効率が大切なのだよ」
章介は長剣を手放し喉を掻きむしった。
「お前の周りの空気を希薄にした。苦しかろうがすぐ楽になる。お前を貰い受けるまでは殺しはしない」
章介はうつ伏せに倒れた。伯爵は腰を屈め、章介の頭部を地面に押し付けた。
『お前で六人目だ』
薄れゆく意識のなか章介の耳の届いたのは日本語だった。幻聴とも思った。伯爵の独白は減圧に伴い小さく不明瞭となったが、なおも途切れなく耳を打った。
わけもわからずこの世界にいたこと。元の世界では政治家だったこと。善意をもってこの国をより良くしようと東奔西走したこと。この国は人々の調和を乱す存在だと気づいたこと。粛清が必要だと思い立ったこと。そして章介の存在が調和を達成させる可能性を秘めていること。
『例えばだ。何故貧富の差ができるか知っているか?』
唐突に問われた。しかし章介は声を出せる状態になく、声を出せたとて答えようがなかった。
『人口密度の差が富める者と窮する者を作り出す。ならばそれを均せばよい。そう思わんか?』
人を均すことが理想とは、実に浅はかで、愚かで、下らない。それがもの言えぬ章介の心を過った。
『力も同じ。とても乱暴なものだ。貴様のそれは一人の人のうちに留めておくは危険なんだよ。だから均す。だから取り除かねばならん。それにあの男とまともにやり合うには、この能力は不可欠なのでな』
自覚していたのか否か、伯爵は風太郎を打ち見したのち、最後さも楽しげにこう締めくくった。
『久しぶりに日本語で会話ができて楽しかった。そろそろ死んでもらう。妻はお前を気に入っていた。とても残念だよ』
章介は背中を押さえこまれ、頭蓋を指が食い込むほどに鷲掴みにされた。
心を諦観が覆いかぶさろうと広がるも、抗おうと咽を震わせ四肢が動くよう辛うじて保つ意志を己の体に伝達した。だが跳ね除けるどころか、指先を動かす程度の力すら湧かない。忸怩に耐えざるも蹂躙されるほかはなかった。
と、背中が軽くなり呼吸も楽になった。肺に空気を目一杯溜め込み息を吐き出した。
風太郎か? と見上げた視界には、深い紫の鎧を纏い、剣を抜き放った女騎士が己に背を向け伯爵に対していた。
「降伏せよ。じきに援軍が来る」
章介は視線を動かした。砂塵の先に、跪く伯爵夫人と彼女を見下ろす風太郎の姿が見て取れた。
「虫唾が走るほど勇敢な女だ。どうしたものかと思ったが、妻を失ってはかなわぬ。よかろう。ここは退く。それに力がお前から引き剥がされ、この身に馴染むまでに時間がかかるのでな。この力が俺のものになるには仕上げが必要だ。時がくればまた会いに来る。ゆめゆめ忘れぬことだ。それもこれも、お前らがこの場を切り抜けたらの話だがな」
そう言うと伯爵の姿は倏忽にして消えて失せた。同時に夫人の姿も見えなくなってしまった。
章介は倒れたまま呼吸を整え、女騎士は驚きに、大きな目を更に大きく見開き立ち竦んだ。
風太郎だけが肩で大きく息をしながら、何度も何度も闇雲に剣を振るっていた。




