遠大な志
またしても銀色の剣身は一切の抵抗を得ることなく、伯爵の体をすり抜けていった。だがそれは覚悟の上。風太郎は伯爵の足元へと向かう刃を制動させ、体中の関節を軋ませながら無理矢理に剣の軌道を左へ薙ぎ払いへと変えた。
薙いだというよりは、そのまま横に動かしたに過ぎない。切っ先が一瞬地面をこすり、剣の軌道を追随しながら土埃が舞った。
「章介様、あなたが示したその力、普通の人間のものとお思いでしょうか。世界に何を望むかは存じ上げません。ですがその異能の才を受け入れるほど、世界は寛容ではありません。狡知に長けたあなたのこと、とっくに気づいているはずです。強くてか弱いあなたの居場所を寄贈させていただこうというのです。悪い話ではありますまい」
「なるほど、一理はある」
伯爵は迫る風太郎に対してまるで気に留めることなく、なおも章介へと意識を傾けていた。
章介は目の前で起こった不可思議な出来事に驚愕した。それでも目を凝らし、今起こっていることが何かに思考を巡らせた。ラーゲルクヴィスト伯に剣は効かないと風太郎から聞かされていた。それがなければ、ただただ眺めていただけだったであろう。
風太郎はこうなることを予期していたのか、焦ることなく左下手に剣を構えなおし、伯爵の表情、視線、口の動き、手、脚、体の至る箇所に次々と視線を巡らせ手がかりを探っていた。しかし当の伯爵は何ら変わることなく柔和で落ち着いた顔付きのまま、風太郎の目線をそよ風のごとく流し、洗練された所作で微動だにせず直立していた。
なおも独白は続いた。
「常に何が正しいか、何を為すべきかを探しておりました。どうすれば人は幸せになるのか。どうすれば平和が訪れるのか。どうすれば人は真理に近づけるのか。人は成長の階段を登っているとばかり思っておりました。優しさを、知恵を、正義を積み重ねてゆけば、万人が幸福を得られる世界が訪れるとばかり思っておりました。万物は産まれ枯れゆき、そしてまた産まれゆきます。ですがこのままではいくら世代を重ねようとも、何ら変わることはないことを知ってしまいました。上から覗けば同じ場所を回っているだけ。まるで螺旋です。だのに世界は幸せだと皆妄執しています。愚かの極みとは思いませんか。そこで私は一つの結論に辿り着きました。現状を維持しようとする最大の要因であり理想郷の障害、現存する国家群を滅ぼし、後ろ向きなしがらみを断ち切る。その上でまったく新たな社会を構築し人を導き救済せねばならぬと。聡明なあなたのこと。現実をお解りいただけるかと」
章介は風太郎とは違う方法をとっていた。伯爵に意識を集中させることを風太郎に任せ、自分は辺りを広く見渡し大局を見据えることに意識を割いた。と、河底に沈むひと粒の砂金のような僅かな違和感を見いだした。
章介は、己の感覚とそこから導き出された結論を信じ、ゆっくりと一歩を踏み出した。ざすりと鳴る靴の音が不快だった。
「で、臆病者の戯言にいつまで付き合えばいいのかな」
「これはまた手厳しい。何をもって臆病と断じるのか聞かせてもらってもよろしいでしょうか?」
伯爵に向かい歩みを進めながら、細剣を抜剣しようと柄に手をかけ右上に引いた。が、途中で引っかかった。己が緊張していることは承知していた。喉が渇き、視線も呼吸も落ち着かない。肚に油が溜まったかのようにニヤつく。
しかし、身に馴染んだ動作に狂いが生じるほど、体が強ばっていたことを、この時初めて自覚した。
── 臆病者は自分か。
己にのみ振りかかる災いなら、これほどの恐怖を掻き立てられることはなかったであろう。
章介は弱さを自嘲しながらも、虚勢を張り平然を装った。そして一息で捲し立てた。
「こっちこそ教えて欲しいものだな。こそこそ隠れ己に危害の及ばない所から、持論をこねくり回しのうのうと能書きを垂れることを、臆病と言わずして何と表現すればいい」
声が僅かに上ずっていた。もともと章介は反論する気はなかった。だが口走ってしまった。思春期のようにあまりに青臭く軽薄な理想を、大真面目に掲げる伯爵に嫌気が差したのだった。
章介は戸惑いながらも肚を据え、大きく鼻から息を吸い込み、肺腑に溜まった空気とさらなる言葉を吐き出した。
「貴様は世の中の有り様が嫌いだと言えばそれでよかった。だが悪趣味な言葉で飾り、薄っぺらな理屈で糊塗した。歪んだ秩序だからといって、全てをひっくり返そうなんてやり方も、理想を掲げ行動を起こす胆力は見上げたものだが、はっきり言えば気に食わない。本当は俺の邪魔さえしなければ、世界がどうなろうとも、己がどこへ行こうとも構わんと思っていた。が、貴様のその態度で気が変わった。それに、悪いが居場所には困っていないのでな」
章介は一瞬だけ風太郎に視線を向け伯爵に向き直った。
それを風太郎は合図と取ったのだろう。一気に踏み込んだ。図ったかのように同じくして章介も駆け出した。
風太郎が横薙ぎに振った刃は確かに伯爵の腹部を捉えていた。が、またしても手応えが得られない。まるで見ているもの全てが夢のように現実感がわかない。すでに己が剣を握って振っていることすら怪しいとさえ思い始めていた。
だからであろう、普通なら考えられないほど隙を晒す行動にも躊躇いがなかった。
風太郎は柄を手放した。剣は浅い放物線を描き落下、からんと音を鳴らした。風太郎は、そのまま体をあずけ、抱きつくように伯爵の体を両腕で抱え込んだ。極めて無防備で投げやりだった。
その瞬間だった。伯爵はふっと霞み、消えた。初めて伯爵と対した路地裏のときと同じだった。
同時に燻り続けていた憤怒や焦燥も、ランプの油が切れたかのようにすうっと消失した。そして為す術なしと本能が悟ってしまったのか、完全に動きを止め、呆け、虚空を掴むことしか成し得なかった両手に視線を落としていた。
章介は構わず切っ先を突き出していた。風太郎と伯爵の対峙する十数歩離れた、何もない空間へ。しかし思いもよらぬ反応を得て、章介は確信した。
見えない力が章介の両膝の裏を勢い良く押したのだ。堪らずよろけた。二の腕も見えない力に払われ、剣の軌道が大きくぶれた。
「よくぞ見切られました。やはりあなた方は危険です」
風太郎の背後からの突然の穏やかな声は、またしても伯爵のものだった。
穏やかが故の迫力を受けながらも、章介は食えぬ男だと小さく舌打ちし、そして首を横に振った。ここで風太郎が自分に追随していたなら、伯爵を捕らえることができただろうことを悔み、すぐさまその考えを否定したのだ。否、これはこれでマシな結果だったかもしれない、と。
状況は芳しいとは言えなかった。伯爵がこの場に現れた最低限の目的は、すでに達成していると章介は踏んでいた。聳立する三体の巨兵は、未だ歩みを封じられたままだったが、軛が解かれるは時間の問題だった。
そして風太郎、章介の二人は伯爵と対峙したことによって、この場から離脱する機会を失ってしまっていた。




