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石の巨人

 風太郎が目を向けた対岸は、互いに競うように巻き上がる幾つもの黒煙が、日の光をも遮るほど濃く厚く一帯を覆っていた。紅蓮の火柱は岸まで迫る勢いで攻め寄り、羽虫のように逃げ惑う人々を無慈悲に舐めまわした。

 名誉や勝利と引き換えの命。少なくともひと月前はそうだったはずだ。今、彼らの命の対価は何かと問われても、思いつくものなど何一つなかった。

 なのに風太郎はそれを目にしてもなお、表情一つ変えなかった。目の前で起こっていることの理解はできた。だが、のたうち回る人々に、怨嗟の声に、鼻につく臭いに、顔に当たる熱気に、あまりの現実味のない光景にまるで実感が湧かず、感情を切り離されてしまったからだ。


 とりあえず戻ろう。風太郎の呆けた思考はそう結論づけた。未だへたり込み体を震わせながら、崩れ落ちた橋を凝視する女兵士をその場に残し踵を返した。走りだそうと身構えたとき、足元が揺れ落雷のような音が轟いた。

 ざわめく胸騒ぎに従い、風太郎は己の向かおうとした北を見据えた。名も知らぬ仲間たちも、同じものを見ていた。そしてその多くが目を剥いていた。

 地響きを立ててゆっくりと近づいてくるそれは、到底理解の及ぶものではなかった。

 最初は山に見えた。遠くの山が蠢いているのだと。だが違った。岩だ。人の形を模した巨大な岩が三つ、砂煙を立てながら老人のように遅々とした歩調をとっていた。

 この場でいち早く動きを見せたのは、牧羊犬ことトーレ・クリステンセン率いる濃紫の一団だった。彼らは規律のとれた勇敢さを見せつけた。橋の破壊という大役を終え、その一部、騎馬の一隊を縦列に隊形をとらせた。そして動く岩の巨像へと弾むように駆け出した。


 風太郎も駆けていた。

 向こう岸の狂乱に比べればまだ静かだ。だがあれは比較にならないほど、威圧的で荒唐無稽だった。

 こんなものが何の役に立とうかと考えながらも、習性なのだろう剣を抜き体に力を込めた。指が震え全身に鳥肌が立っていることを自覚した。本能はすでにあの未知のものを敵と判じていたのだ。

 風太郎は渡河しなかったことに己の悪運の強さを感じた。しかし、決してそうではなかったと思い知らされた。


 風太郎が北の領主の陣につく頃には、僅か地を這う振動だった石の巨人の足音は、地響きを思わせるほどになっていた。いまや輪郭のはっきりした体躯を見上げ、額から噴き出す汗を拭った。

 章介は風太郎を見るなり、硬い表情ながらも鼻で嗤った。抜き放ったままの剣を指さして

「伸びた爪でも切ってやるつもりか? 親切な奴だな」

 と皮肉った。

 風太郎は軽い怒りを一息で飲み込み、いつものぞんざいな口調で尋ねた。

「あれは何だ。分かるか?」

「お前が知っていることとそう変わらんよ。退路を断たれたこと、それと仲良くする気がないこと、その程度だ」

 当然、風太郎の望んだ答えは返ってくることはなかった。


 傲岸不遜に振る舞い無敗と言わしめた紫の軍団も、為すすべがなかった。得意の鉄床の陣形は、機動力が低く密集しているがゆえ石の巨人に対しては誰が見ても下策であった。

 とった方策は、馬で近づき槍を投擲し矢を放つ。そしてそのまま反転し離脱。それをただ愚直に繰り返すだけだった。

 しかし石の巨人の皮膚に矢も槍も通らず、進行を遅らすことすらできない。兵は繰り返す度、疲労と焦燥、そして神にひれ伏すかのような深い畏怖が募っていった。隊列は乱れ始め、飛びゆく尖刃の勢いも削がれた。


『投げ槍とは、このようなことを言うのだろうな』

 章介は自分で発した皮肉に喉を鳴らした。

 北の兵はおしなべて、ここから遠ざかろうと躍起になっていた。それは領主ヒッタバイネン伯も例外ではなかった。

 だが、

「逃げるなっ」

 章介の一言には常に魅了(チャーム)のスキルが付き纏う。途端、彼らの行動に楔が打ちこまれた。

「どうせ退路は断たれている。どこへも逃げられん。そうでありましょう? ヒッタバイネン伯」

「そうだな。章介の言いようは正しいな」

 北の領主の振る舞いは主の立場と言う薄いベールに包まれてはいたものの、その裏に隠された本質は臣下のそれに近かった。


 火山雷のような轟音が鳴った。

 風太郎の肌が粟立ち、一瞬にして喉が渇いた。悲鳴を上げずに済んだのは、そのせいかもしれなかった。

 大地は大きく鳴動し、ほとんどの馬は棹立ち嘶いた。逆に人は沈黙した。皆が固唾を飲んだ。

 多くの兵の視線の先には、拳を振り下ろした恰好の石の巨人がいた。石臼のような擦れる音を立てながら、ゆっくりと腕が持ち上がった。その下の窪んだ地面には、拉げた幾つもの紫の鎧が鮮血を滴らせていた。誰一人として助けに向かおうとはしない。退こうともしない。己が取りうる行動を決めかねていた。


「死兵だからこその戦い方もある。そう思わんか」

 章介はこの異様な戦場を眺めながら同意を求めたが、それはまるで己に言い聞かせるかのようでもあった。

 緊張に上ずるもどこか酷薄な声に、風太郎は黙した。彼が何を言わんとしたか、断じることができなかったのだ。

 章介の答えは彼の持つスキル、魅了(チャーム)同様慈悲のないものだった。章介は、ヒッタバイネン伯に天幕の縄を全て解き、それを何人もの騎手に括りつけさせるよう指示した。そしてあろうことか石の巨人へ突撃を命じた。

「それで縛り付けて足を止めろ。別にあれを御す必要もないし、それができるとも思えん。多少撹乱してくれればそれでいい」

 まるで用事を言いつけるように付け加えながら。そして日本語で呟いた。

『煩わしかろうと他の部隊と距離を置いていたのだがな。裏目だ』

 理由はどうあれ、章介は魅了(チャーム)の影響を極力抑えていたのだということを、風太郎はこの時まで気づいてはいなかった。

 だが確かに思い当たるフシは幾つもあった。章介は人と会うことを嫌がっていた。特定の人物のみを侍らせ、ヘディンの村の屋敷の奥にこもり、静かに暮らしていた。

 村を出ることもあまりなかった。魅了(チャーム)に感化され、皆が常に章介に歓心を寄せていた。尻の据わりが、よかろうはずもない。それなのにだ。


「何をしている。死にたくなくば去れ。離れよ」

 投槍、弓矢による抵抗が止まった。

 北の領主ヒッタバイネン伯自らが率いる騎馬の一団は無言を貫き、戸惑いひっきりなしに罵声を浴びせる紫の部隊と、抵抗を苦もせず押し寄せる石の巨人との間へと割り入っていた。


 章介とともに陣に残った風太郎は、彼の胸ぐらを強く握りこんでいた。章介の言った死兵の意味を悟ったが故だった。

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