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蜂の腰

 比較的大きな河川を前にして、隊列は橋を要に扇型に広がっていた。ただでさえ進軍が阻まれる上に、足並み揃えず我先にとの争いが行軍を遅らせた。

 中心である要に近づくにつれ当然ながら人が密集した。それに伴い怒号や喧騒の密度が増し、怒りが深まっていた。

 人のうねりに耐え切れず兵が足をよろめかせ倒れると、それを多くの人馬が踏みつけた。足元で発せられた悲鳴は騒音にかき消され、誰にも届かず次第に掠れ最後は途切れた。それが彼方此方で幾度となく繰り返された。

 隣り合う者同志でのいざこざも頻繁に起こった。知らぬ者ならいざ知らず、同胞までもが互いに憤怒を湛えた視線を交わし合っていた。あえて隣の足を踏み、あえて周囲を小突いた。それが、いくつもの波紋が重なりあうかのように、またたく間に伝播した。

 後方に控え冷静さを保っていた者の多くは、一触即発とはこの時のためにある言葉なのだろう、と不安定極まる状況を心の内で揶揄した。

 それでも剣を抜くものは居なかった。抜いたが最後、血で血を洗う惨劇が作り出されることを、想像できる程度の分別はかろうじて残されていたからだった。


「数えてなどおらぬよ。それにこの度は様相がどうも違っておる。大きな諍いになるやもしれんて」

 これは「ここにきて何度目の暴動ですかな」との章介の問いに対する、北の領主ヒッタヴァイネン伯の答えであった。互いに身分を弁えた物言いは保たれてはいたが、この遠征まで曖昧だった上下の間柄はいつしか完全に覆り、領主が章介に(こうべ)を垂れる形となっていた。

 興味深い。章介はすでに茶番としか見て取れなくなっていた出兵の帰結を、そう他人事(ひとごと)のように捉えていた。己のやるべきことすら成していないいわゆる烏合の衆に、王都奪還など夢幻に等しい。ならばその幕はどう下ろされるのか。仮にだ、当初の目的を達成できたとして、その後の王国はどのような形を取りうるか。賊としかみえない集団は、果たして王家に従うのだろうか。混乱は不慮の事態を引き起こし、予想を立てさせてはくれない。章介は白地図を眺めているような気分だった。

 近衛のように章介の脇に控えていた風太郎も、面倒だと言わんばかりに先ほど勃発した騒ぎを眺めていた。ヒッタヴァイネン伯の言にあるように、不穏な空気は感じていた。腫れ物に溜まった膿が周囲を壊疽させ、いよいよ一気に溢れ出んとする感覚だ。少し高く速い心拍を自覚した。


 北の領主は混乱を避けるべく、渡河をあきらめ野営の準備を進めるよう指示した。いち早い対応だった。

「血相を変えて略奪している輩を止めに入ると思ったが、見込みが違ったようだな」

 ほどなくして章介に付き従うかのように天幕へと入った風太郎に、北の領主が顎髭をさすりながら告げた。遠征中、殺生をも厭わぬ覚悟で暴行を止めに入り、あわやひと波乱となる事件を引き起こしていたからだ。

 力弱き者の財貨を力で奪い取らんとすることを、風太郎は是としないものの強く否定もせず、見てみぬふりを決め込んでいた。あの時はただ、陵辱されていた娘とエリィとを重ねただけであり、まったくもって個人的な情動からなる行為であった。

 風太郎は鼻白み

「お前たちがこの行軍に参加していることが、俺には不思議だ」

 と、朴訥な物言いで、清廉として知られるヒッタヴァイネン伯がこのような混沌とした軍事行動に自身と家臣を委ねたこと、そして章介が何も得られることがなかろう事柄に首を突っ込んだこと、おおよそ普段ならとりようもない二人の行動に、疑問を呈しながら答えを逸らした。


 王国北西の領地を治めるマルムスティン侯が北の領主の天幕を潜ったのは、陣を築いてから二日後のことだった。

 深紫の長い外套の裾から深紫に塗られた脛当てを覗かせ、頭には円錐形の紫を基調とした兜を、腰に佩いた長剣の柄も鞘もそして長靴(ちょうか)も深紫と、一色にまとめあげられた出で立ちをしていた。彼の士官、兵士も殆どが深紫に誂えられ、領土に比して少数ながらも練度は高く、強固な密集陣形を得手とするさまからコロナリアの鉄床、と王国中に鳴り響いていた。

 また、マルムスティン領は王国随一の銀の産地として知られ、その量質ともに抜きん出ており、創世記と銘打たれた歴史書に記される銀の世代は、明確な叙述はないもののそこを中心に発展したと歴史家や神学者、知識人のあいだでささやかれる程であった。

 その北西の領主はヒッタヴァイネン伯の目を見据え、

「卿までもが腑抜けたか。見込みが違っていたようだ」

 と、早々に天幕を辞した。ヒッタヴァイネン伯は激昂したが、風太郎もマルムスティン侯と同様の思いを抱いていた。章介に魅了されるとどことなく目が曇り、宿っていた覇気が感じられなくなっていたからであった。

 それはエリィにも言えた。風太郎は自分の思い違いのようなものに縋っていたが、マルムスティン侯の来訪でそうではなかったことを思い知らされた。北の領主がラム酒の注がれた酒盃を地面に投げつけた脇で、風太郎はしばし瞑目し下唇を噛み締め、章介は酷薄に喉を鳴らしていた。


 行軍が砂時計を模して三日が過ぎた。

 兵馬は半数ほど橋を渡りきっていたが物資は滞っていたは当然といえた。河の向こうでは行き渡らない分配に、紛擾(ふんじょう)が誰の目にも見て取れた。

と、不自然な煙が立ち昇っていることに風太郎は気がついた。煙自体は別段怪しいことはない。暖を取ったり煮炊きしたりする。異常と捉えたのは、風に乗って僅かに紛れ込んでいた硫黄の臭いだった。一兵士は硫黄を持ち得ないし、硫黄を優先的に運び入れたとは考えにくい。しかもちょうど半数が渡河した頃合いに仕掛けるは、戦術として理にかなっていた。風太郎は、これまでがまるで機を見ていたかのように何もなかったとまで考えが及び、火攻めの言葉が頭によぎった。

 危急で天幕へと戻り北の領主と章介に報告、二人を引き連れるかのように天幕から進みでた。その時にはすでに向こう岸の前線の全容は一変していた。整然としていなかったことは今に始まったことではないが、そこに忙しなさ慌ただしさが加味されていた。蟻の行列を指先で突いたかのように右に左に狼狽していた。

 橋上では進もうとする者と戻ろうとする者の間で、とうとう己を抑制する努力の箍が外され、結果刃を交え血が血を呼ぶ激しい(せめ)ぎ合いに転じていた。低い咆哮と喚声が交じり合い、そこに甲高い嘶きが重なった。荷車が一台、落下していった。大きな水しぶきを上げ荷を散らかしながら馬と御者もろとも流れた。すでに事切れていたのか、馬は藻掻くことをせず腹を晒し浮き沈みを繰り返していた。

 橋台の周囲では、そんな橋上の輻輳(ふくそう)など関せずと言わんばかりに犇めき合い、橋の両端を蓋するかのように進退の膠着の一役を担っていた。一帯は怒りに硬化され、すでにそこは小さな戦場と成り果ててしまっていた。


 章介は終始愉快極まるとばかりに笑顔を作り、錯雑から視線を逸らさず冷淡な日本語を吐き出した。

『恨み、妬み、嫉み、時に諂い時に奢る。だから淀む。そして腐る。だがな風太郎、知っておくといい。それが自然の摂理。人らしい人のありかたと言うものだ』

『人? あれは人の所業ではない。獣だ。そんな汚いものを崇めていい道理はあるまい』

『汚い? 何を寝言を。美しいではないか。美しい獣だ。それにな、崇めてなどいない。拒んでいないだけだ。そこにあって然るべき本質を、ただ受け入れているだけに過ぎないのだよ、俺は』

 章介が周囲を怪訝に顔を歪ませるほど大仰に声高らかに笑って見せた脇で、風太郎は皺ばむ顔で一言放ったのち黙した。章介のあまりに歪んだ道理が、思考を言葉に置き換え声へと変様させる気力を失わせたのだ。

 風太郎のとった沈黙は、章介を助長させさらに興奮させた。唾液が飛び散らん勢いで声の調子が上がり、目も見開いた。体は興奮に僅かに震えていた。

『ずっとそうしてきた。ずっとこの身で真実を受け止めてきたのだよ。あれを否定することは、俺を否定することだ。それでも間違いとほざくなら、別の真実を俺に突きつけろ。さあ、早く』

 理解できたのは風太郎だけであろう。なのに章介は誰ともなしに問いを投げた。対して風太郎は沈んだ面持ちとなり、聞こえるか聞こえないか際どい声量で静かに告げた。

『寂しい男だ。お前は』

 禿頭が垂れた。幾つもの思いから屹立した言葉は、嫌悪ではなく失意に満ちていた。

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