北端の砦
英雄とはどこの誰が決めるものなのだろう。
一国の王が宣言すればそれをして英雄足りうるのか、長い糸を紡いでゆくように人々が語り継いでゆくものなのか。
神なんて曖昧なものに託されたり、時の流れに委ねたりなんて大見得を切ってもいいのかもしれないし、後世の歴史家が決めるなんて匙を投げるも、また真実と言えるかもしれない。
とにかく男の分厚く厳つい掌は、ひさしのように目蓋にかざされた。窓から低く差し込む橙の陽光が眩しかったからだろうか、はたまた視線の先に佇む英雄と呼ばれる者の姿に眩んでしまったからだろうか。
この場を去ろうと腰をゆっくりと上げる。一つ嘆息した。
中庭に続く大扉が開け放たれた。途端突風が吹き込まれ、大広間全体に巻いた。砦に吹き下ろす山風は強く冷たい。男の辛気臭い吐息など、口許から吐出されてすぐに、吹き飛ばされてしまったかのようだった。
金属音が三回鳴った。壁際に配置されていた燭台が三台、風に倒され床に転がったのだ。窓はがたがたと音を立て、円天井に吊られたシャンデリアが振り子のように行ったり来たりしていた。
男のすぐ隣では、光沢のある赤髪と涼し気な上布のスカートの裾が掬われていた。咄嗟に手で押さえた女は、男に訝しい顔を向けた。
「そういう時は頬を染めたりして、可愛らしく振る舞うもんだ。だから……」
男は仏頂面で亡き友を模倣したかのように冗談めかしたが、途中で詰まらせた。深紅に染まった透明度の高い虹彩が上を向き、男の黒瞳を鋭く射抜いたからだった。鉾のような視線の意味するものは、羞恥か抗議か、それとも……。男は迷った。が、結論をくだす間もなく、女は口を開いた。
「その言い方、好きじゃない」
男は怯んだ。が、それは一瞬。すぐに彼女の雰囲気は丸みを帯びた。
「たぶん、私は知ってるよ。全部」
快活で柔和な口調だが、男にとっては辛辣だった。男はわずかに硬直した。心情を悟られまいと表情を維持したものの、成功とは到底思えずにいた。
「戻らなきゃ」
女はそう言うと前に向き直った。その先には豪奢な出で立ちの痩身長駆の英雄様と、彼を取り巻く十八人もの女が浮かれた声を互いに重ねあっていた。
「大丈夫か?」
「ありがとう。平気」
男の内心をよそに赤髪の女はそう残し、一歩を進めた。節くれだった男の指が離れゆく細い背を追う。だが届こうとした時、引き下がってしまった。拳が固く握られて、ゆるりと腕が降ろされた。
── みんなを護ってあげてね。
頭の中では、いつぞやの女の言葉が反芻された。その後に投げかけられた「ごめんね」との謝罪とも労りともとれる一言は、どうにも寂しげだった。だがその言葉があったからこそ、風太郎の心に横たわる復讐の念は薄い膜に覆われ平静を保っていられたと言えた。
「わはははは! 良いではないか。良いではないか」
英雄と呼ばれる男、章介の哄笑が耳に突いた。
こんな時に……。と、男はきつく睨みつけた。口ぶりから、いかがわしいことを想像したのである。が、早とちりだった。章介は強要したのではなく称賛したのだ。それでも嫌悪感は男の中に留まり続けた。
大扉から数人がかりで持ち込まれたは、巨大な水晶の結晶と思しきものだった。針の山のような土台に六角柱が五本、半円を描くように配置され、小さな塔のように大人の上背より頭一つ抜けたところまで迫り出していた。そのどれもが清らかな泉のごとく透き通っていて、神秘的とも言えよう。が、睨むように見つめる男、風太郎はとてつもなく下品な代物として捉えていた。
元は人の意思など介在する余地すら与えない造形だったはずだ。だが中心には、自然が織りなす調和を愚弄するかのように、人の手が加えられていた。結晶が取り囲むかのように、水晶で出来た長方形の台座が備え付けてあり、精緻な彫刻が隙間なく施されていた。見事、なのだろう。が、見劣る。
それはまるで椅子……いや、玉座のようであった。
章介は重いマントをさばき、そこへどっしりと腰を下ろした。少し不自由な脚を大げさに組み、仰け反る。うら若き女どもがドレスの裾をひらつかせ、一輪の花に群がる色とりどりの蝶のように、我先にと章介の後を追い、囲み、讃えた。
── 王様気取りか、それとも神になったつもりか。はしゃいでいる場合ではなかろうに。
風太郎は思わず舌打ちをしていた。だが、その小さな破裂音は、女どもが奏でる阿諛追従の声に掻き消されてしまったし、風太郎に注意を払うものなどこの場にはもう誰もいなかった。
赤髪の女、エリィは給仕室へと繋がる扉の前で一人、茶番とも取れる騒ぎを澄ました顔で眺めていた。だが瞳は物欲しげに潤み、男の隣で話をしていた時の様子とは異なっていた。
彼女だけは章介を取り巻く女とは異なり、みすぼらしいナリをしていた。ハーレムの末端はそういう扱いなのだ。章介は王国が認定した英雄として、かなりの禄を与えられていた。とはいえ、無尽蔵とまではいかない。章介の愛情らしきものを見える形で享受されるは、一握の者だけだった。
突貫で建造された城は商人の屋敷をただ大きくしたような代物で、中流貴族の邸宅にすら遠く及ばないことが経済的な苦しさを物語る。無理を重ねていることくらい、誰の目にも明らかなのだが、見栄か虚勢かそれともすでに神経が麻痺しているのか、章介の浪費は留まることがなかった。そして諫言するものなど、誰一人とていなかった。
新たに章介の散財の象徴たりえるものが、高座に鎮座したばかりの偽の玉座である。これは桁が違っていた。今の章介にとってはあまりに釣り合わず、周囲との調和も一切取れてはいなかった。
そして風太郎自身も、この場において場違いといえば場違いだった。煤け解れた外套にくるまれるは、傷だらけの鎧。剃り上げられた頭と皺の深い顔には、いくつもの創痕が刻まれていた。そんな己をこの場における異物と認識していた。どうにも居心地が悪い。風太郎は今度こそ、と踵を返し、倒れたままの燭台の一本を無造作に拾い上げて立てた。そして大扉の脇の勝手口に手をかける。
風太郎は一度振り返ろうとした。その行動は無意識に近く、さして意味もない。だから留めた。それに気分が悪くなることが分かっていたことも、理由の一つだった。
章介は広間を後にする風太郎の大きな背中を、肩越しに無表情で一瞥した。だがすぐに向き直り、品の無い笑みに戻る。手にしていたグラスのワインを一息で呷り、再び取り巻きとの戯れに興じた。
風太郎の年齢はその風貌から四十を過ぎたくらいであろうが、正確には不明である。なぜなら彼の記憶を遡ると、十九年で途絶えてしまっていたからだ。それ以前のことで明確に覚えているものといえば、日本語というこの世界では通用しない言語と、風太郎という自分自身を指し示すであろう単語のみであった。
時折、ふと古い記憶が蘇ることがある。
それは飛行機という鳥のような乗り物であったり、信号機という三色の目が交互に光る物体だったりした。ビルと呼ばれる巨大な城が乱立し、繋ぎ目のない一枚岩を敷いたかのような街道が、それらを碁盤の目のように括る景色が広がる時もある。そこには馬が引かない馬車が行き交ったり、道行く多くの人々の姿もあったりした。古文書に書かれている物見の水晶玉のような景色を映す鏡を手に、それを指で操作しながら歩いているさまが目の前に唐突に広がった時は、楽しい、に近い感情も伴った。
だがそれらは、大凡、この世界には存在し得ないものだった。不思議な世界だった。
自分はどこから来たのか。そして何をなすべきなのか。原因も分からずに、まったく突然この世界の住人になってしまった風太郎は、そのことに囚われた。
最初は業火のように荒れ狂いながら、風太郎の心の大半を独占していた。しかし月日の流れと共に、炎の勢いは徐々に失っていった。疲れてしまったのか、それとも齢を重ねるということはこういうことなのか。行き場のない焦燥はいつしか諦観へと変わり、胸の底の部分にすとんと落ちた。
十年をすぎる頃には業火は燻りとなっていた。
そして今、己の出自や使命などどうでもいいとさえ思うようになっていた。偶に失った記憶の断片が明瞭になることがある。だが、ただそれだけのこと。心が揺さぶられることはなかった。
騒がしい声が扉から漏れる。
「大事な用とはあれのことなんだろうな」
風太郎は眉を少し顰め独りごちた。
いつまでぬるま湯につかっているつもりだ。と、限界まで大声を張り怒鳴ってみたかったが、抑え込んだ。