ボスとおれ
今日もおれはボスのジョギングにつきあうことになった。
早朝の一時間、ボスはいつも決まったコースを走る。コースはいちいち変えてもらいたいところだが、おれの口からそんな忠告はできない。ボスは自分を待ちかまえる危険に無頓着すぎる。おれは気が気じゃないが、ボスをあらゆる障害から守るのがおれの役目だから、ベストを尽くすまでだ。
朝の六時、ボスがおれの部屋をのぞきにきた。おれはもう少し休んでいたかったが、ボスの催促とあらばしかたない。
おれは眠い目をしばたたかせながら顔を上げた。
ボスと目が合った。面差しには幼さが残るものの、年齢はおれの倍以上もある。このところボスの元気がないのが、おれは気がかりだった。不安にゆらめく目が、心のうちを雄弁に物語っているように感じた。
外はまだ薄暗かった。風は生ぬるく、雨の匂いが鼻についた。きのうはものすごい雨で、おれは一晩中、まんじりともしなかった。いまも天気は不穏で、なにもこんな日にまで出かけなくてもと思うが、病気にでもならないかぎり、ボスは日課を欠かそうとしない。そこは見かけによらず頑固なんだ。
ボスがゆるやかなペースで走りだした。おれはそのあとからついていく。ボスは細身で上背があり、おれとは対照的に色が白い。スエットの上下がよく似合っている。おれが身につけているのはかさばるセーターだ。いざというとき動きが鈍くなるのが困りものだが、ボスからの贈り物だから我慢して着ている。おれのすばやい一撃には同業の誰もが一目おいていた。
脅迫状らしきものが舞い込んできたのは先週だった。
それを受け取ったボスの態度から、おれは脅迫状だと判断したが、その内容を実際に見たわけじゃない。ボスはボディガードのおれにさえ、その紙切れについて説明しなかった。ファミリーの誰にも隠しているようだ。
ボスがその数枚の紙切れを受け取った日のことは、よく覚えている。ひと目見るなり、ボスの顔色が変わった。白い顔が赤みをおび、唇が引き結ばれ、額に脂汗がにじみだした。紙を持つ指がふるえていたようだ。その日からボスはふさぎこんでしまった。ジョギングをしているいまも、不安そうな表情をしている。
ジョギングコースは川原にそった遊歩道だった。コースの右手から芝草の斜面が川岸までのびている。ここからだと幅の広い川の対岸がよくうかがえる。昨夜の雨で増水し、どす黒い水が渦を巻き、うなりをあげていた。遠くで鉄橋が川をまたぎ、その上を、電車が単調な音をたてて通過していった。
ふいにボスがおれに合図した。川原に下りようというのだ。おれはあまりいい気持がしなかった。遊歩道から川原までは急なスロープになっていて、川岸のこちら側は遊歩道からまったく見えない。完全な死角だった。
おれはボスにうながされて芝草の斜面を下りていった。
川原には人っ子ひとりいなかった。空は明るみだしていたが、いまにもひと雨きそうな雲合いだ。おれはますます嫌な気持ちになった。
おれたちは並んで川岸に座った。このあたりの芝草は丈が高く、座ると、ふたりの姿は完全に隠されてしまう。まるで敵に襲ってくれと言わんばかりじゃないか。おれはすばやく周囲に目を配った。芝草が視界をさえぎり、目はあまり役に立たなかった。おれは感覚を研ぎ澄まし、あたりの様子をうかがった。
ボスはポケットから取り出した紙を広げ、ゆううつな眼差しで凝視している。あの脅迫状だ。おれがのぞきこもうとすると、ものすごい目でにらまれた。
再び遠くで、電車の音が通り過ぎていった。
ボスは不安げに紙を見つめつづけている。いつまでこんな場所にいるつもりなんだ。コースは半ばまでしか来ていない。走るつもりがないなら、さっさと帰ってくれればいいのに、と文句も言いたくなる。
さっきから尿意を感じていた。さすがにもう限界だ。しかし、こんな場所でするわけにはいかない。おれが窮状をうったえると、ボスが黙ってうなずいた。
自由になったおれは、近くで用を足した。
そのとき、ボスの切羽つまった声が聞こえてきた。おれは急いで斜面を駆け下りた。とがった草葉が顔を打ち、濡れた芝草が足にからみつく。ふいに草むらが割れた。荒くれた男とボスとが格闘していた。
それは見上げるような大男だった。ボスより頭ひとつぶんはでかい。短く刈った髪に凶暴な面構え、目は冷酷に細く、頬には傷があった。鼻もちならねえやつだ。男の手には例の紙切れが握られ、ボスがそれを取り返そうとしている。
草むらから現われたおれに、大男はふいをつかれたようだ。一瞬、ぎくりと身体を強ばらせた。ボスはそのすきを見逃さなかった。すばやく相手の腕をねじりあげ、男はたまらず紙切れを離した。
数枚の紙片が舞い上がる。ボスは反射的にそれを追った。ボスの目にはその紙切れしか映っていないようだ。
危ない――おれは驚愕に目を見開いた。
足がぬかるみに滑ったのだろう、ボスが短い叫び声をあげて川に落ちた。草むらごしに、濁流に押し流されていく姿が見える。
おれは猛然と走った。これほど全力で走ったことはないだろう。
川岸からさほど離されず、ボスは流されていく。ほどなく追いつくと、ボスと平行に岸を走った。おれは近くにいると知らせるため、声をはりあげた。ボスがおれに気づいた。両手で水をかき、岸に近づこうともがく。川はあまりに荒れていた。奔流にむなしくボスの顔が浮き沈みする。
そのときボスの身体が川の中心部に運ばれだした。川は少し先で大きく左に湾曲し、ボスはカーブの外側に向かって流される。
おれはつい冷静さをうしない、すぐさま川に飛び込もうとした。だめだ。それでは追いつけない。泳ぐより走ったほうがはるかに速いのだ。まずはボスより先行し、距離をかせいだうえで川に入り、追いかけるより他に手はなかった。
おれは足にさらに力をこめた。筋肉がつりそうだったが、たとえこの足が千切れようとかまわなかった。
じゅうぶんに距離をとったうえで、おれは川に飛び込んだ。
ボスはおれの後方、やや右よりに流されている。ボスに追いついたところで、岸まで無事に運べるかどうかは難しいところだ。おれは手足に力をこめて泳いだ。水をふくんだセーターが邪魔だった。身体にはりつき、重く前進をはばもうとする。
くそいまいましいセーターだ――おれは、ほえた。
ボスの顔が向いた。大きく目が見開かれ、小さな黒目がまっすぐおれに助けを求めている。ボスの顔が渦巻く濁流にのみこまれそうになる。ボスがもがき、いつもおれを抱いてくれる手を伸ばそうとする。おれは声をあげつづけた。ボスを励まし、少しでも流れに抵抗してもらいたかった。
ボスとの間隔が縮まりだした。ボスも流れに逆らって泳ごうとしているのだ。おれは泳ぐ手足にさらに力をこめた。もうすぐボスを助けられる。
だがボスの体力にも限りがあるようだ。あきらかに動きが鈍くなっている。ボスの手が荒れた川面をたたき、濁流がボスの上におおいかぶさる。ボスの顔がのみこまれようとした瞬間、おれはボスの着ているスエットのえりをとらえた。
ボスがしがみついてきて、おれは泳ぐ余裕がなくなった。それまでだ。とてもボスを岸まで運べそうにない。それでもおれはボスの身体を決して離すつもりはなかった。浮いているのが精一杯だ。おれの体力が尽きるのも時間の問題だろう。それならそれでかまわない。ボスとともに川底に沈むまでだ。
そのとき力強い手が、おれのえりくびをつかんだ。流れからぐいぐい引きずり出そうとする。振り返ると、ライフジャケットを身につけた男だ。
おれたちは岸まで運ばれていった。岸には男の仲間がいて、そこからロープが伸びていた。おれは救助の邪魔にならないよう、ボスをその男の腕にゆだね、ロープにかじりついた。おれたちはしだいにたぐり寄せられていく。岸から歓声があがった。おれはそれに答えて吠え、ロープを離して流されていく――なんてオチを演じるつもりはない。おれはコメディアンじゃないからな。
そいつらは水難救助を専門にする、近くの大学のライフガードチームだった。川が雨で増水しているのを受けて巡回していたところ、おれの吠え声を聞いた。それで異常に気づき、駆けつけたのだという。
「えらいぞ。ワン公」
ボスを助けた男が、おれの頭を乱暴になでた。
なにがワン公だ。汚い手で触りやがって――。おれは濡れた身体を振るって、水しぶきをぶっかけてやった。おれにはちゃんとした名前があるんだ。
「クロお。クロお」
ボスが呼んでいる。おれは尻尾を振って駆け寄った。
救助されても、ボスは泣いてしがみついてくる。おれは生まれてすぐ捨てられた。ボスに拾われてから4年間、ボスとともに過ごしてきた。名づけてくれたのもボスだ。それでも、クロはないよな。おれの見たまんまじゃないか。ボスのセンスを疑いたくなる。
「クロお。クロお」
まあ、わかりやすくていいか。
あとでわかったのだが、おれが脅迫状だと思い込んでいた紙は、答案用紙というものだった。それは川に流されてしまったが、その点数について、担任がわが家を訪れた。ボスは小学校の4年生なのだという。担任の言葉は、ボスの母親の逆鱗にふれたらしい。ボスは学習塾に行かされ、現在も服役中だ。
答案用紙を奪おうとしたのは、同じクラスのガキ大将だ。そいつはイタズラが過ぎたことで、担任から大目玉をくらったという。親に連れられて、わが家に謝りに来た。川原の草で切ったのだろう、頬に貼られた絆創膏が痛々しかった。
ボスはまだ泣いている。
ライフガードたちが慰めようとするが、ボスはおれを離そうとしない。おれの身体に顔をうずめ、しきりにおれの名前を呼んでいる。おれは愛しさがこみあげ、ボスの涙に濡れた顔をべろべろとなめてやった。
終




