【感謝の言葉】
"香里の視点"
今更言うのも不思議なのだけど、この状態は何て表現したらいいのだろう?
あの女性が消えた後、私は突然意識を失った。
そして、次に目覚めたとき、私の体は、重力という制限から離れ宙にこの身を浮かべている。
ただ、風船の紐のように繋ぎ止める物が私の目下に横たわっていた。佐々木 香里という固有名詞を持った、私の体。
それが私を更なる上空へ昇っていくのを阻止しているかのように見える。
今、この束縛から離れたとしたら、きっと私は本当に死んでしまうのだろう。下の世界には、私を待っている人たちがいる。
だからこそ、私は帰らないといけないと分かっているのに、私という存在は宙に昇っていく快感に浸りたいと感じているようだった。
おかしな矛盾だった。私が本当は何を望み何のために生きたいと思うのか?一度答えの出たものに、再び迷っているなんて・・・。
私はおかしくなったのだろうか。
空を見上げていた私は、再びその視線を下に移す。私が横たわり、その周りには忙しく動く医者の姿。私の存在をこの場所にとどめようと一生懸命になっている。
「何やっているのよ」
彼女だった。私はにっこりと微笑む。
「どうしたんだろ私?あれほど生きていたことがうれしかったのに、今はどうでもよくなってきて・・・」
「ふざけないでね!」
一括。彼女が私の手をとった。
「あんた、そのままじゃ本当に死んでしまうよ」
「私だって死にたくない、でもどうしようもなく私に襲うこの感覚が、私に生きることへの執着をを無くさせるの!」
それは事実。今の私は体が今まで以上に透けているように感じた。そして今まで見ていた彼女の姿が、前以上にはっきりと私の目に映る。
「あなたを助けようとして、たくさんの人が動いているのよ。そんな弱気になったら、あなた自身に眠る死の感覚に支配されてしまうわよ」
「死の感覚?」
「そう。人、いえ生きものはすべて生まれたときから、死と隣り合わせになっているの。私たちはそれに刃向うのではなく、上手に付き合っていかないといけないのよ」
死。私が恐れていた結果。今という現実に戻るためにはそれに支配されてはいけない。それは分かっている。ただ、今の私には生への執着心がかけていた。下の壊れかけた私という入れ物から、それが抜け出てしまったかのように感じる。
「私は・・・」
「死んではいけない・・・」
私は呪文のように繰り返した。
「私は・・このまま死んではいけない」
そして、絶対的な何かが私に、気持ちの整理をつけさせた。
「ねぇ、ちょっと聞いているの?」
彼女は私に不信な顔で覗き込む。
「大丈夫ですよ、もう。すごくすっきりした気分です。だから・・・」
「?」
「あの、今の私があなたにしてあげられることはありませんか?」
私の体は、先ほどと比べはっきりと、彼女の目に映っているだろう。この状態になったことは、私の今までの生涯でもたった一度のことになるはずだ。
「どうしたのよ、一体?」
彼女は少しうろたえているように見えた。
「私感謝しています。こんな不安定な私をここまで導いてくれて・・・。私は今まで見つめられなかったものに、正面から立ち向かうことが出来たんですから・・・」
彼女に私の気持ちがどこまで伝わるか分からない。それでもいい。
この姿になり、私という存在を通り過ぎていった、たくさんの存在。
たった一人だったと思い込んでいた私。そんな私を本当に心配してくれる存在が、たった一人であろうといてくれたことに対する感謝の気持ち。
それだけでも私は、日本に帰ってきた意味がある。
だから、わたしは・・・
「何かあなたのために出来ることは無いですか?」
私は彼女に言った。
私の顔を見た彼女は、しばらく下を向き何かを考えていたようだった。
その沈黙は、しばし続き、次に顔を上げた時はにこやかな笑顔になっている。そして・・・
「じゃあ、一つだけお願いしてもいい?」
「どうぞ」
「じゃあね、私の馬鹿な息子に伝言をお願いできるかしら?」
照れ隠しなのだろうか、頭をかく仕草で、彼女は私に言った。
「はい、せめてもの恩返しですから」
そう、終わりのない現実なんて、存在するはずはないものね・・・
"竜彦の視点"
俺がこの手術室の前で待って一体どれくらい時間がたったんだろう。
人の時間の感覚なんてあやふやなもので、数分かもしれないし、数時間たったかも・・と感じてしまう。
自分の感覚に、不安になってしまう瞬間だった。
誰も会話をせず、無音な空間が広がる。その中で俺は、中にいるだろう彼女、そして父の姿を想像していた。
父は、この中でいい身分で"仕事"をしているのだろう。仕事に生き、家庭を投げ捨て、母を見殺しにした男の仕事。
命と仕事を天秤に乗せた仕事。俺がもっとも嫌悪感を抱く仕事。
俺が言うのも変な話だが、あの男は仕事の出来る男だ。
きっと、佐々木 香里の命を救い、満足げな表情出てくるだろう。その光景が、俺の頭をよぎった。
先ほど感じた母の声はもう聞こえない。あくまで幻聴。ここに来たときから俺は五年前の自分と重なっていたのかもしれない。
俺は自分の心の中に、強く憎悪が吹き出しそうになっていた。黒くゆがんだ心の中。
暗雲に覆われた空の下に、一人自分が立っているように思われた。
「何、つまらない事を考えているの?」
そこに、佐々木 香里がいた。夢でも現実の世界でもない。自分の黒い心の世界の中に彼女の姿があった。
「やっぱりここにいたんだな。でも、いきなりのご挨拶じゃないか。何をいきなり人の心を除くような言葉を、、」
俺は不愉快だった。
「何でって、そんな事も分からないの?」
好き勝手言ってくれる。現実世界で飽きたらず、人の心にまで介入してくるなんて、度がすぎる。
「私は、ひねくれたあなたの心に会いに来たのよ。でもびっくりした、こんなに黒くゆがんだ心だったから・・・」
「お前に何がわかる!こんなところに来ないでさっさと自分の体に戻れよ!」
佐々木 香里は一つため息をつく。そして、キッと俺を睨んだ。
「あなた、ずっとそのままでいるつもりなの?そのままお父さんを憎んで生きていくっていうの・・・」
こいつ何を言っているんだ。いきなりにも程がある。
「・・俺は、俺だ。自分で考えた答えだ。それを否定なんかされたくない」
「否定はしないわ。ただ、そのきっかけ自体が間違ったものだったとしたら、あなたはその考えをどうするのかしら?」
意味がわからない。何故、父のことを知っている?何かしらの方法で俺の心に入ってきたからか?
今の俺を作ったきっかけが、それが一体どうしたというのだろう。
「つまらないことだよ・・・」
「そうやって、自分の中の小さな世界に閉じこもる」
「何様のつもりだ!」
半分声が裏返った。俺の事をどれだけ知っているといる?佐々木 香里は俺の叫びを、自分の髪を邪魔そうに上げる仕草で交わす。
どこかで見覚えのある仕草。なんだろう、とても昔・・・。
「まったく、この男は小さな事で何ぐちぐち言っているのよ!あなたの母さんが死んでしまったのは、事故なのよ。相手にも、もちろん非があるわ。でもね、傷ついているのはあなた一人じゃない。目の前で消えていく命を一人では全て救えない現実を知った、あなたのお父さんの気持ちが分かる?」
この口調は・・・
「いくら実力があって、いくら飛び回っても、自分の一人で抱えきれるものなんて、本当に少ないものよ。事故を起こした方の家族が、その命が救われた事に、どれほど喜ばれたかは分かる?」
ふざけるな!俺の何がわかるという。
「分かりたくも無い。それに俺の・・母さんは死んでしまったんだ!」
「じゃあ、あなたのお母さんに、携わった人たちの事考えたことある?」
静かな口調に変わった。
「どう見ても助からない、瀕死の重症だった。でもね、彼らは本当にそのもてる力全てをつぎ込んでくれた。その結果、死というものが訪れたとしても・・・それは・・・本当に・・・」
違和感。俺は、昨日出会った佐々木 香里とはどう見ても同一人物に思えなかった。
「誰だ、おまえは?」
ここまで俺のこと、五年前の事、知っているはずが無い。
彼女は答えない。
「誰だって言っているんだよ!」
空白。
俺にとって、耐えがたい時間の空間。そして、彼女が口を開く。
「あの人を私は恨んでいない。誰もいなくなった病室で、声を押し殺し泣き崩れたあの人を」
その顔は後悔?それとも深い悲しみといった感情を押し殺したように見えた。
「・・・」
「医者が親類を見てしまうと感情的になってしまい、冷静な仕事が出来なくなるかもしれない。あの人は、自分の感情に誰よりも強い意思で立ち向かい、自分から担当を外れることを言い出したのよ」
そんな話は聞いたことが無い。何のことだ?
あの男にそんな事が出来たというのだろうか?もし本当なら・・
でも、あの男の事を恨んでいるのは、俺だけじゃ・・・
「私は、あの人の事を恨んでいないわ」
瞬間、思考の停止。その一言は十二分にその力があった。
「何を言って・・」
額から冷や汗が流れる。そんなはずは無い、ありえない。
「私が最後にあなたに"ごめんね"と言ったのは、あなたにあの人を恨んでほしいといった気持ちじゃないわ。私は、これだけ私に尽くしてくれたのに、生きることが出来なかった事に対する私の謝罪」
ああ、なんだろう。今になって目の前の彼女が誰か、鈍感な俺でも理解できた。
「母さん・・・」
決定的な一言。理屈なんて昨日から通用しないものだったのかもしれない。
ただ、この真実は変えられそうにも無かった。
「ごめんね、竜彦。この子の今の状態の姿を借りるしか、あなたと会話することさえ出来ないの」
この口調。
「私は、あなたのその暗闇に、今までずっと縛られていたのよ。あまりにも強く悲しい暗闇に」
俺が縛り付けていたのか、まさか俺が母さんを。。
「俺は・・・どうしたら?」
母の言葉は、自分の暗闇に突き刺さる。
「暗闇は私たちみたいな存在をひきつけるのよ、知ってた?」
「じゃあ、俺が佐々木 香里を・・」
「そう、竜彦。あなたがひきつけた。彼女の心にもそれに惹かれるものがあったということも事実だけど。でもね、そろそろ開放して欲しいのよ。あの子も、母さんも」
母の姿が、少し消えかかる。
「ほら、何泣いているの?そんなカッコ悪い男に育ったの?」
「俺は・・・」
目頭が熱い。
この五年という歳月。俺は一体何をしていたんだろう?
「大丈夫、自分を卑下しないこと。定番な台詞かもしれないけど、あんたは私とあの人との子供なのよ。ほらっ!」
肩をたたかれたような感覚。
そこに、佐々木 香里、母の姿は見つけ出せなかった。
俺の暗闇の中にとけってしまったのか?という気持ちになる。
"あなたに出来ることを、無駄にしちゃいけないんだからね"
空間に、声が響く。
何も無い空間。ああ、そうだ。まだ何も無かったんだ。
俺の空間を埋めるものなんて、まだまだたくさんあるんだ。
「わかった、俺は頑張るよ・・・」
俺は、一歩ずつ歩き出す。
今になって、歩き出す俺はおそくは無いか?と、思うのも馬鹿らしい。
「母さん・・・俺が馬鹿だったよ」
"香里の視点"
私という存在が、再び戻る。目の前にはあの女性の姿があった。
「これだけで、よかったんですか?」
「ええ、十分だわ」
自分の息子である彼と出会えた彼女の表情は、死んでいていうのもなんだが生き生きしていた。
「こうして、あの子と会話できるなんて夢にも思わなかった。本当になんて言ったらいいか・・」
「いいえ、私こそ。ここに来たのは私にとって無駄ではなかったから」
見知らぬ土地。見知らぬ人たち。不安定な自分。
そんな私が、何を求めここに来たかという、疑問。
彼に引き寄せられたという、事実もあるだろう。でも、ここにきて感じた私の心の動き。
私の身近な人たち。そして、人としてこの世に生を受けた私自身。一つ一つが大事な、私をつなげているパズルのピースの一つだという現実。
「きっと、あなたに出会い、竜彦さんと出会ったのも、とても大事なことだったんだと思います」
「香里さん・・・」
「でも、ちょっとショックかも。できれば少しは違う形で、あなたたちと会いたかったから」
私は、彼女の髪を上げる仕草を模倣した。
それを見て、彼女は吹き出す。
「本当、そうね。結構仲良がいい友達になれたと思うわ」
「ホントに」
そして、彼女が言う。
「どうやら私を縛るものがなくなったみたいね・・」
手足をぶらつかせながら、彼女は笑った。
「じゃあ・・・」
「ええ、もう良いみたいね、あの子にとっては」
彼女の顔、それは母親の微笑だと私は感じた。
「ここでお別れみたいね・・ん、どうしたの?」
彼女は私の変化に気がついたようだった。隠すこともないだろう。
「実は私・・・」
彼女に嘘はつけなかった。
私の顔を彼女は覗き込む。そして、私に背を向けた。
「どうして、言ってくれなかったの?」
「はは、ちょっと言い出せなくなって」
私は苦笑する。本当に恥ずかしかったのだ。
彼女は振り向かない。
「香里さん・・・本当に、ありがとう」
彼女の最後の言葉。その言葉とともに彼女の姿は見えなくなった。
空高くに、舞い戻ったのだろうか?きっとそうだろう。
彼女はこれから、いつも縛られることなく、彼ら親子を見守っているはずだ。
そして、私は・・。
「みんな、本当にありがとう」
"竜彦の視点"
目の前で明かりが消えた。
俺の空間。一つの明かり。それは"手術中"と書かれた文字の消灯だった。
近くにいた彼女、佐々木 香里の家族がざわめく。
目の前の厚いドアが開いた。
そこから現れたのは、一人の医者の姿。見間違えるはずは無い、親父だ。
薄暗い、廊下には手術室から漏れる明かりで逆光のような状態になっている。父の表情が見えない。
「香里は・・・」
彼女の祖母が、思い沈黙を破った。俺は、それをただ見る傍観者のような気持ちになる。
親父は、何度このような場面に接してきたのだろう。俺が知らない親父。
息子の俺にも本当に気を使い、母の死に際に立ち会えなかった父はどんな気持ちだったのだろう?
俺よりも、誰よりも辛い気持ちだったはずだ。
母を救うため、あえて自分はその場から離れる・・・その心は計り知れない。
父は、ゆっくりと廊下に足を踏み出し、そして・・。
静かに・・・頭を下げた。
「申し訳ありません・・・」
父の言葉。力はそこからは感じない。
彼女の手術に力果たしたのだ。
「ああああ・・・・」
彼女の両親の落胆の声。そして、娘の名前を叫び、手術室の中へに消えた。
彼女の祖母は一人、力ない手で父の手をとり、涙目で
「ありがと・・ございま・・した」
と、つぶやく。
「親父・・・」
俺は、それ以上かける言葉が見つからない。
今、思う。一瞬にして何百人という命を奪った事故。それを目の前にし、救うことが出来なかった父。
そんな絶望の中で、唯一救い出された佐々木 香里は父にとっては小さな希望をつなげる、たった一人だったに違いない。
人の命のもろさは、身にしみて知っている父だからこそ。
親父は、その場に立ちすくみ、俺を見つけた。
「竜彦・・?どうしてここに?」
今の俺に、親父にかけるべき言葉があるだろうか?
あるとすれば、これだけだった。
「ありがとう、親父・・」
同日、十八時四十五分、佐々木 香里の死亡が確認された。