【逃避】
閑静な街の中、そこに居る者と居ない者、二人が出会った。
"女性の視点"
なら、私は一体どうしたのだろう?
この人が言う言葉が真実かどうかはわからない。
でも、この人も自分の置かれている状況に戸惑いが隠せないようだ。言葉の区切りに不自然さがある。
でも嘘を言っている顔には見えなかった。
そして彼の視線に気がついた。私という者の全体を見ている。
私は初めて気が付いた。
私の体が"うっすら"と透けている。太陽にかざした手が、残像ではなくはっきりと太陽の光を通している。
どうやらおかしな状態なのは私の方らしい。不思議に自分を冷静に観察している。
「ねぇ、私は死んでいるの?」
私は冷静だからこそ、彼を更に惑わす言葉をかけることしかできなかった。
"竜彦の視点"
一体何なんだ?
俺にも何が何だかわからない。何が真実なんて理解すらできない。
彼女の問いに答える術なんて、俺が持っているはずもなかった。
「死んでいるかどうかなんて俺にはわからない。でも君の体は不自然に透け、その向こうの景色がはっきりと見える。普通でないとしか、俺には言うことができないよ」
動揺していた。
その言葉を出すまでに数分の時間を要求それていたからだ。
俺の言葉を彼女はじっと聞き、何かを考えているようだった。
何が起きたのだろう。俺は何故こんなところで、こんなことに遭遇し、戸惑いを感じているのだろう。俺は、ここから逃げ出したい気持ちになった。
そして、
俺は走り出した。逃げ出したというのが正解だ。
彼女はそんな俺に声をかけるでもなく、その場にじっとしているようだった。俺は振り返ることはできなかったが、その視線を背中に一心に受けているように感じた。
だからこそ俺はその視線からも逃げたい一身で走った。
"女性の視点"
普通じゃない状態。
それが今私が置かれている立場だと彼は言った。確かに体が透けている。
でも、変にここに自分がいるという感覚だけは消えてはいない。
私はもう一度考え直した。
確かにあの時、私の乗っていた飛行機の角度が変わり乗客の悲鳴が響いていた。そして、その後、どうしたのだろう?
私の記憶はそこから途絶え、今に至る。
”私は死んだの?”
一瞬体に寒気が走る。認めたくない事実に体を背けた。
私は、ゆっくりと歩き出す。でも、地面を踏みつけている感覚がない。重力という柵からだけは開放されたようだ。
私の横を子供たちが通り過ぎる。誰も"私"という存在に気づかない。
子供の一人が私の体をすり抜けたとき、私は驚きよりも悲しみが襲った。
今私に残されている、ちっぽけな物さえも奪われてしまう気がしたからだ。私の存在に誰が気づいているのだろう?先ほどであった彼だけが私の存在に気づき、言葉を交わすこともできた。
私は、一人ここに誰も気づかれずいる自分を、ひどく哀れに感じられずにいられなかった。
"竜彦の視点"
あれから、どれほど走ったのだろう。
今の俺の目の前には、駅の改札が映っている。
さすがに、電車に乗り別の地域まで行こうとする気もしなかった。あれから、彼女は俺の姿をじっと見つめてはいたが、追いかけてはこなかったのだ。
でも、引き返すことはすぐはできない。また、出会ってしまうかもしれない。
俺は自分のこんなときの臆病さを情けなく思った。しかし、現に俺の目の前に映ったあの姿は”普通”ではなかった。何を普通かなんて、つまらないと事を言う気はない。
ただ、あの姿は普通ではなかった。
俺はのどの渇きに思わず唸る。
あの時、彼女に出会ったせいで、俺はのどに潤いを与えることができずにさらに渇きを与えてしまった。
俺は、ふと近所にマックがあったことを思い出した。
崩れるように店内に入り、機械のように注文をする。
二人がけのテーブルにやっと席に座った俺の前には、バーカー1つにジュースとポテト。ありきたりなセットだ。
喉の渇きと共に空腹に襲われた俺は、かぶりつき胃の中に流し込んでいく。
「竜彦君、こんにちわ」
振り返ると、そこにはよく知った顔があった。
彼女は長い髪を自然に下に流し、薄手のシャツをラフに着ている。
高崎 祥子さん。親父の病院で看護婦をしている女性だ。
年は30手前だったはず、でも俺の目からはもっと若く見えた。彼女はどちらかというと美人と称されるタイプだ。
「祥子さん、こんなところでどうしたの?」
俺は先少しがつぶれたストローを口から離し、聞いた。
「今日は臨時休業なのよ。あなたのお父さん行ってしまったでしょ?」
子供のような笑みを浮かべながら彼女は、俺の目の前に座った。
「そうでしたね。でも、突然休みにするなんて祥子さんも迷惑でしょ?」
祥子さんは少し微妙な表情を浮かべた。
「確かにね。でも今回のような事故ならしかたないと思うわ。だってあんな大惨事なんだから、あなたのお父さんはじっとしていられないわよ。」
俺は、その言葉が苦痛だった。
しかし、どんな事故だったのだろう?飛行機事故だったのはテレビを見て知っている。だけど、詳しい内容については全くと言っていいほど知らなすぎた。
だから俺は祥子さんに事故内容を聞いた。
彼女は私が知っている程度ならと、話し出す。
「落ちたのは、アメリカからの日本に向かうボーイング機。乗客が524人、現在は墜落現場が判明し救助の最中のはずよ。でも・・・」
祥子さんは口元をゆがめる。
「ニュースではまだ生存者が見つからないらしいわ。機体の損傷がとてもひどくて、見つかった乗客も原形をとどめないぐらいにぼろぼろで・・。あっ、ごめんなさい。そんなことまで言うことなかったわね。」
祥子さんはそれだけを言って、口を閉じた。
つまり、その惨状へあの男は向かったのだ。あの男の偽善も、その場所ではどうすることもできないだろう。
自分の力のなさをもっと知ればいいと、俺は心の中で願った。
「ねぇ竜彦君、やっぱり気分を悪くしたよね、本当にごめんなさい。普通の人が実際の現場の様子なんて聞きたくもないだろうし・・・」
祥子さんなりの気遣い。でもそのな祥子さんの言葉も建前にしか聞こえない。でも俺はそれに関しては何も感じなかった。
別に興味はそれ以上湧かなかったからだ。
「でもね竜彦君、そろそろお父さんのことを・・・・」
俺は、祥子さんの言葉を聞き終わることなく、立ち上がり、近くのゴミ箱に手元の食いかけをトレーごとごみ箱に叩き込んだ。
「祥子さん、すみません。夏ばてのせいか、食欲が出ないんです」
俺は、祥子さんからそれ以上の言葉を聞きたくない。
だから、俺はここから立ち去ることにした。祥子さんには悪いと思ったが、俺には俺の考えがあり変える必要はないのだから。
マックを出た俺に、再び強い日差しが照りつけた。
このままだと、すぐにまたのどが乾く。
それにまたぶらぶらしていたら今日は何に出会うかわかったものじゃない。だから俺は帰って横になることにした。これで変な一日は今日で終わると信じて。
"女性の視点"
何処をどう歩いたのか覚えていない。ここは土地感もなければ、知り合いがすんでいるはずもない。
いつしか私は閑静な住宅街に入り込んでいることに気が付いた。物静かに夏の景色が溶け込み、遊びに行く子供や外回りのサラリーマンなど、あくまで普通な人々がこの中央通と思しき道を交差していく。
自分の居場所もわからず、自分の存在もわからない私はただこの交差点の中心でぽつんと一人立っている。そんな私を車や人が通り過ぎて行く。
無くなってしまった感覚、でもそんな感覚が一瞬蘇ったかのように全身を走った。人に触れた感覚、長い間感じていなかったと思うような感覚。
「こんなところでどうしたの、もしかして迷子?」
大人の女性の声だった。
振り返った私の目には、愛嬌のある顔をした大人女性の姿が映っていた。
年は30代ぐらいだろうか。ゆったりとした衣服を身にまとい、ソバージュのかかった長い髪を軽く払いのけた。
そんな彼女に私は救われた気がした。
「わっ、私の姿が見えるんですか?」
私は少し躊躇をしながらその女性に話し掛けた。その女性は口元をニッと子供のような笑った口の形を作り上げる。
「目に見えるから、それに手を伸ばすことができ、それに触れようとする。そして、そこにあるから触れることができる。それってすごく単純なことじゃないかしら?」
口元は変わっていないが、彼女の目だけは笑っていない。
自分は嘘を言っていないという事を私に伝えているのだろう。その女性はそれだけ言うと、私の言葉を待っていた。
「それって、私がここに存在しているということですよね。でもどうして?
他の人からは私の姿を捉えることができない普通ではない状態が、どうして私がそんなことに」
自分で何を言っているかわからなかった。ただ思いつく言葉を口から出すしかなかった。
それがわかるほどに私は動揺している。今の私には言葉を整理し、自分の意見を相手に伝える思考が働いていない。
言いたいことはたくさんある。でもその伝達の手段を私は行使することができなかった。
私は、歯がゆかった。
「確かに一般的な普通の状態じゃないわよね。私自身もあなたの言う普通の状態にあるわけではないし、ただ私とあなたがいる世界においての普通という常識ならおかしくないことなんだけどね。」
彼女は相変わらず目が笑っていない。
彼女の話を私なりになりに判断すれば、この人も私と同じ状態ということなんだろうか?
同じ状態だから、互いに認識し合う事ができるというのだろうか。自分一人でないといった安堵感と共に、孤立していく自分の存在を再認識しなければならなかった。
「戻ることはできないんですよね、私の今までいた場所に」
私の声を聞いた彼女の口も、今度は笑っていなかった。
「どうかな?それはまだ分からないわ、あなたはまだとても不安定な状態の立場だからね。このままの姿でいるかもしれないし、消えてしまうかもしれない。それとも私のような存在になってしまうのか・・・」
彼女は目を細くし、遠くを見つめるいるようだった。彼女と私は同じ立場ではないということなのだろうか?
不安定、何が不安定なのだろう?
「今のあなたは、私以外の人に見られたことはあるの?」
続けて質問が続く。今度は、彼女の目が笑っていた。
「一人だけ」
私は短く答えた。
この夏の日差しの下、彼は私を見て何を思ったのだろう。普通じゃない状態の私に恐怖を感じたのだろうか?
分かっていることは、彼が私から逃げ出したということだけだった。
でもそれも当然のことだ。私だってきっと逃げ出すに違いない。
「まだ救いがあるかもね、あなた。この存在で普通の人間から黙示できるなら、元に戻ることができるかもしれない」
彼女は私の顔を母親というべき顔で見つめた。
そういうものなのだろうか?この状態が初心者の私にとって、果たしてそれが救いになるかどうかさえ分からない。
彼女は歩き出した。
ゆっくりと住宅街の坂道を歩いていく。私は、それに付いて行くしかなかった。
「この辺はね、静かで落ち着くんだよね。今の自分の存在も忘れるぐらいに。この夏が過ぎれ秋を迎え、冬が訪れ、新しい年を迎える。ここは私にとって、ごく自然な季節の移り変わりを楽しむことができる場所」
何処へ行くのか不安になった私に、彼女は言った。
「心配そうな顔しているね、まあ仕方ないよね。慣れていないんだし・・・」
続けてそう言う。
ということは、彼女はこの状態のまま長い時間を過ごしてきたというのだろうか?
いくつもの季節の移り変わりを感じるぐらいに。
「あの・・」
私は少しうつむき、考え込む。そして不意に顔を上げたとき、そこに彼女の姿がなかった。
辺りを見回すが、やはりあの女性の姿を見つけることができなかった。溶けた氷のように、その姿は消えてしまった。滴る水の後も残さずに。
そんな私の耳に、坂道を後ろからあがってくる足音が聞こえた。