ワンランク上の至福のひとときを、あなたに
よろしくお願いします。
風呂が好きだ。朝から塗りたくった化粧を落として、一日働いた汗を流して、お気に入りの入浴剤を入れた湯船に浸かれば嫌なことも疲労と一緒に流れ出していくような感覚が好きだ。一日のすべてをリセットして、翌日を生きる栄養にする。そんな風呂が好きだ。
しかし、それと同じくらい風呂が嫌いだ。
嫌い、というのは語弊があるかもしれない。簡単に言えば面倒くさい。そう、風呂の中にいる時間以外が面倒くさいのだ。
風呂に入らなきゃなーとぐだぐだしてる時間がまずだるい。帰宅早々に風呂場に直行したとして湯が張られていない。風呂の準備をしているうちに一度座ってしまえば立つのがだるくなる。そうなってしまうと夕食の準備すら億劫になってしまうので、とりあえず夕食を優先するために支度をする。
結果ほぼ毎日、夕食の準備が終わったタイミングで風呂の給湯用魔石を少々熱めの設定で作動させて、夕食後にお茶を一杯飲んでひとやすみしてからちょうどいい温度になった風呂に入ることになる。ただしここでも食後の満腹感でまったりし始めては、だるい、立ち上がりたくない、風呂入らなきゃ……とぐだぐだしてしまう。せめてもの踏ん張りでお茶を淹れるときに食器だけは洗っている。それだけでもララは頑張っていると思う。
そうしてやっと入った風呂は至福の時ではあるが、それが終わればまた面倒くさい。髪と体を拭き上げて、美容液、化粧水、乳液にクリームを顔面に念入りに塗り込んで、全身にはボディクリームを塗り込む。髪をきちんと乾かしてオイルを馴染ませるのも忘れない。細くて癖のつきやすい自分の髪は、生乾きでは翌日大変なことになる。一つにまとめたのに三つ又に分かれるなんて日常茶飯事だ。
なお、保湿を疎かにしてはいけないとは年の離れた姉の教えだ。若いからと驕るなと見たこともないような真顔で言われては頷くほかにない。怖かった。今でも夢に見る。
つまりララの中で風呂前(面倒)、入浴中(至福)、風呂後(面倒)でギリギリ均衡を保っている。だから、好きだけど嫌いなのだ。
「というわけだから、いつかどこかの魔道具士さまが風呂上がり全身ケア魔道具を開発してくれないかと思ってるわけよ。こう、ロッカーみたいな中に入ったら顔も髪も体も全部ケアしてくれるようなやつ」
「あんたどんだけ面倒くさがりなのよ」
目の前で呆れたようにエールのジョッキを傾けるのは幼馴染のシェリー。長い付き合いだけあってララがいかに面倒くさがりかを知っている。しかし待ってほしい。ララは面倒くさがりだが、それは家の中限定だ。
「仕事中はちゃんとしてるもん」
「それは知ってるけど考えがあまりにも無精すぎる」
「だってそれくらい風呂後が面倒くさい……」
「だったら姉さんの言いつけなんか守らないで適当にしたらいいじゃない」
「……シェリー、それ本気で言ってる?姉ちゃんの言いつけ守らないなんてできる?」
「……ごめん。私もルリ姉の言いつけは未だに守ってるわ」
じとりと目線で訴えればスッと目をそらされた。姉、怖い。大人になっても、怖い。幼馴染のシェリーも小さい頃から姉の怖さは知っている。手は出ないが延々と説教されるのだ。何時間でも。特に美容関係に関しては人が変わるので義兄でも止められない。かと言って散財するわけではないのが不幸中の幸いだろうか。
とはいえシェリーは日々のお手入れは億劫ではないらしい。手をかければきちんと反応があるのがわかるから。反してララは乾燥してなければいいんじゃない?程度にしか思っていない。正直言えば化粧のノリが悪いなら化粧しなければいいのでは?という極論を出して件の姉にこんこんと説教を食らったのは忘れられない。あの時はトイレにも立てず人の尊厳の危険を感じた。間に入ってくれた義兄、ありがとう。本当にありがとう。
「あんた本音はお化粧もしたくないんでしょ?」
「……客前に出るからしないわけにもいかないから……」
「あんたが接客業に就いたからギリ年頃の女性らしくしてるのもルリ姉の画策よねぇ」
「姉ちゃんの紹介じゃなかったら絶対裏方にいたのに……!」
姉の紹介で勤めたパン屋。作る側だと思っていたのだが、気づいたら店頭で接客担当だった。お姉さんから言われてね、なんて言われたら断ることも出来ない弱い妹の叫びは誰にも届かないのだ。この世は無情。
「でも本気で全身ケア魔道具が出来たらいいなとは思ってる」
「まだ言うか」
「だって出来たらすごくない?何もしないうちに全部のケアが終わってるなんて夢の魔道具じゃない?」
「出来たとしてもとんでもない値段になるんじゃないかねぇ?」
「……そこはめっっっっっちゃ頑張ってお金貯める」
「変なとこで頑張らないで毎日を頑張りなさいよ……」
今日のシェリーはずっと呆れ顔をしてる気がする。何故だ。きっとララ以外にも望む人はいるはずだ。風呂後が面倒なのはララだけじゃないはずなのに。
「……まぁ、夢の魔道具は出来ないと思うけど」
「えぇ……無理かなぁ?」
「でもその環境はあるわよ、確実に」
「なんですと?」
聞き捨てならないことを。ララが切に望む環境があるだと?
「ど、どこに?!どこにそんな天国のような場所が?!」
テーブルに身を乗り出して掴みかからん勢いでシェリーに詰め寄る。あ、ブラウスの袖に煮込みのソースが付いてしまった。しかし今はそれどころではない!ララの夢の場所があるだなんて!
「落ち着きなさい」
ベシっと額を叩かれて浮いた腰を椅子に戻す。今日一番の呆れ顔の幼馴染は肘をついた片手の甲を頬に当ててこいつどうしようもねぇな、という顔。
「あるわよ。お風呂上がりのケアどころか髪も体も洗ってもらってマッサージまでして全身ピカピカになれる環境」
「だから!それは!?」
「貴族のお屋敷」
「へ……?」
「だから、貴族の奥様やご令嬢ならお付きの使用人がぜーんぶやってくれるわよ」
「…………無理ですやん」
「だから我々庶民は自分でやるしかないのよ」
夢なんて見てないでね。器用に片側だけ唇を持ち上げて意地悪な笑みを浮かべる幼馴染を前にララはテーブルに突っ伏した。由緒正しい庶民のララがそんな環境に身を置くことなんて不可能でしかない。あぁ、この世は無情。
一年後、幼馴染とそんな会話をしたのも忘れたララの元に、ララでも知ってる侯爵家の当主夫人から一通の手紙が届く。手汗で手紙がしっとりする中で読み進めれば、内容は招待状。夫人の始めた新たな事業のモニターになってほしいということらしい。
何故ララに?
名前しか知らないような雲の上の人からの突然の招待にパニックに陥ったララは、真っ青になりながら幼馴染の元へと走る。そこで見たのは、ララと同じく真っ青になって同じ封筒を持ったシェリーの姿だった。
───────
侯爵夫人ミランダはその日お忍びで街歩きをしていた。褒められたものではないが、彼女は度々市井に降りては庶民の生活を堪能している。
しかし決して遊んでいるだけではない。庶民の生活を見て、体験して、そうして事業に取り入れるのだ。貴族向けのものから庶民向けのものまで、手広く事業展開している侯爵家ではいつでも新しい風を取り入れたい、というのが表向き。本音は知らない世界が楽しいので使用人や護衛をつけてでも裕福な商家の妻の設定で街に出てはあれこれと物色…ではなく、視察しているのだ。
その日は街に出た時にたまに寄る食事処にいた。普段口にすることのないグレードの酒や料理は食べ慣れないけれど不思議と進んでしまう。毒でないのなら問題ない、食が進むのなら美味しいということだ。この辺りの考え方が裏で破天荒夫人と呼ばれる所以のひとつなのだろう。
ミランダの席の真後ろで年若い女性が二人、酒を片手にああでもない、こうでもないと盛り上がっていた。どうやら幼馴染らしい二人はお風呂について語り合っている。語り合う、というよりは片方のララと呼ばれている女性が風呂上がりのケアが面倒だという話から発展した『魔道具が開発されそうにないなら、そういう施設ができてほしい』という切実な声での語りだった。
ふむ、確かに。ミランダも娘も貴族の家に生まれて使用人にすべてをしてもらうのが当たり前だ。浴室の準備も、髪も体も洗ってもらって当たり前。オイルを使ったマッサージも、風呂上がりのケアも、髪を乾かすのも、やってもらって当たり前。しかし庶民はそうはいかない。当然だ。
……これは新しい事業に取り入れられないだろうか?下位は違うかもしれないが高位貴族は大体ミランダと同じような環境だろう。そして各家によって使用人の腕も違うだろう。
ちなみに我が家の侍女たちのマッサージの腕は王家出身の義母のお墨付き。その技術を学ばせ、極上の施術を受けられる施設。女性専用完全個室制にして人目を気にせずにリラックスできる空間。庶民でも自分へのご褒美に受けられるくらいの価格設定にして、貴族向けには使用する化粧水やオイルなどで差別化する。うん、これは案外いけるのでは?
安いエールに口をつけながら、その唇がわずかに緩む。細かいことは旦那様とも相談することになるが、きっとこれは形になるだろう。その時には是非ともお礼をしなければと、ミランダは二人の身元の調査を同行した使用人に命じるのだった。
風呂上がりが毎日面倒くさい…特に暑い時期のドライヤーが一番嫌いです。




