Pyt
なんて爽快な気分だろうか!
ミケルはうっとりとした顔で浸っていた。砂利の広場とレンタルバイクを背に、木柵の向こうには雄大な飛騨山脈の景色が広がっている。四月にもかかわらず、黒い山肌には粉砂糖のように雪が残っている。
まだ朝が早いせいか、広場に人影はまばらで、世界が自分のものになったみたいだった。両手を広げて目を閉じれば、澄んだ空気が体の中を清めていく。別に祖国デンマークの空気が汚いとは思わない。でも、新しい場所へ訪れなければ──窓を開けなければ換気はできないものだろう。こうやって冷たさに呑まれていると、得体の知れない澱みが消えていく感じがあった。
彼は突然、叫び出したい衝動に襲われた。「やまびこ」という言葉を思い出したのだ。日本に来る前、SNS上でヤマダという人物から教わっていた。
ヤマダは学生時代の友人の、そのまた友人だ。彼の存在自体は知っていたが、普通に生きていれば縁のない存在だった。しかし、日本のホテルを予約してからというもの、どうしても現地の声を聞いておかなければ不安だった。久しぶりに旧友と連絡をとり、アカウントIDを教えてもらった。「おはようございます」と送ると「おはよう!」と返ってきた。
彼はなかなか気さくな人間で、今はドイツのロースクールに留学をしているらしい。人柄はおおよそ想像通りだった。バイタリティがなければ、日本人がデンマーク人と知り合うことなどないだろうし。
『登山なんて懐かしいね。僕なんて小学校のとき以来、全く縁がないよ。さっき言ったやまびこも、みんなで一斉に叫んだものさ』
『ヤマダ、日本アルプスでもやまびこはできる?』
『ああいう岩山でも声は返ってくるのかな。僕の場合、真緑の山でしか経験がないから』
彼は確かめてみたくなった。両手を広げ、目を閉じたまま息を吸い、徐々にのけぞっていく。やがて、手のひらが青天と平行になった頃。ふと、続きの言葉を思い出した。
『やってみる。日本アルプスが楽しみだ』
『ミック、やっぱりやめといた方がいいかもしれない。最近はあの辺りにも外国人観光客が増えてきて、変なことすると睨まれやすいんだ。日本の人間としてもご遠慮願いたいね』
……呼吸が止まる。
肺に溜まった空気は、出口を求めてやるせなく暴れている。彼はそれをなだめるように、ゆっくりと息だけを吐いていった。
ああ、結局は窮屈なものだ。
日本へ来たのは、職場の人間関係に嫌気がさしたからだった。彼の働く商社にて、社長の娘が縁故採用で部署へ入ってきたのだ。かつて軽口を言い合った同僚は、彼女を女王のようにうやうやしく扱うようになった。職場は一晩で王宮と化した。
……馬鹿らしい。ミケルはそう思いながらも、行動には移せなかった。彼もトランプカードの兵士に過ぎない。その事実から目を逸らそうとして、SNSで見た幻想的な日本の景色へ逃げようと思った。有給をとり、フライトの予約をとり……何もかもから解放された気がしていた。
でも、来てみればこれだ。確かに景色は良いし、いい気分転換にはなっているし、食事や人柄にも不満はない。だがそれは、完全な解放を意味しているわけじゃない。日本には日本の法があり、しきたりがあり……おそらく、自分が悩んでいるような呪縛もある。思う存分に叫んで良い場所なんて、この世のどこにもないのかもしれない。
――旅することは生きることだ。
アンデルセンの言葉を思い出す。人生そのものが旅と重なるならば、人生の苦しみも旅の中にあるんだろう。忍耐や、屈辱や、やるせなさ。それらは荷物のように背負わされるものではなく、気づけば背に貼り付いている。降ろそうとすればするほど、皮膚に食い込んで痛む。無理に剥がせば血が滲むだろう。だから人は、上手く折り合いをつけて歩き続けるしかない。
ミケルはゆっくりと目を開けた。
日本アルプスの稜線は、ただそこにあった。何も変わっていないはずなのに、わずかに色合いが違って見える。光の加減か、それとも自分の内側の問題か。多分後者だろう。
彼はふと、可笑しくなった。
叫びたい衝動に駆られ、しかし、それを飲み込んだ自分。その一連の逡巡が、ひどく滑稽に思えたのだ。誰に咎められたわけでもない。ヤマダの言葉だって、単なる忠告に過ぎない。ヤマダが叫んで、自分が叫んではいけない理由はなんだ?
旅することが生きることなら、生き方次第で旅も変わる。
そういうことにしておこう。
ゆっくり、再び息を吸う。
溜まりきった澱を解き放つように、彼は喉を震わせた。
「Haaaalløj!!!」
声は矢のように飛んでいった。澄んだ空気を裂くようにして、鋭く真っ直ぐに伸びていく。だが、遠い岩肌へ届く前にほどけ、尾根の上で風に散らされ、やがてどこへ行ったのかも分からなくなった。
彼は、しばらくそのままの姿勢で立ち尽くしていた。両腕を広げたまま、喉の奥に残る震えだけを確かめるように。耳に入ってくるのは、遠くで鳴く鳥の声と、どこかで擦れる風の音だけだった。自分の声が消えていった方向には何の応答もない。ただ、何事もなかったかのように、山はそこにあり続けている。
ミケルはゆっくりと腕を下ろした。
――こんなものか。
拍子抜けしたというよりも、むしろ腑に落ちたような感覚だった。返ってくるものを期待していたはずなのに、いざ何も返らないとなると、それが当然のようにも思えた。さすがに山が遠すぎるか。山に囲まれている状況じゃないとダメなのか。いや、それ以前に。
誰もいない場所で叫んでも、世界は応じない。
それは別に、この国に限った話ではないのだろう。
彼は木柵に歩み寄り、そこへ手をかけた。冷たい感触が掌に伝わる。視線の先には相変わらずの稜線がある。先ほどよりも少しだけ、輪郭がはっきりして見えた。もう一度、叫ぼうとは思わなかった。その必要もないように感じられたからだ。
代わりに、彼は小さく口を開いた。
「……Pyt」
声が返らなかったからといって、何も起こらなかったわけではない。少なくとも、喉の奥で引っかかっていたものは外へ出た。それで十分じゃないか。旅が人生ならば、華やかな解放なんてものは無く、わずかな発散を積み重ねていくしかない。
ミケルは踵を返し、砂利を踏みしめながら、レンタルバイクの方へと歩き出した。背後で山は、何も言わずに佇んでいる。空に貼り付けられた黒い影のように。
それでいい、と彼は思った。




