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母さん……

 レンは闇の中で声を聞いた。

 

「……起きなさい……レン!」


 目を開けると、そこは一面の白。

 光とも霧ともつかぬ柔らかな輝きが、果てなく広がっていた。

 足元に影はなく、音も匂いも消え、ただ静寂がレンを包む。


「ここは……?」


 首を巡らせた瞬間、背後から猛烈な勢いで何かがぶつかり、そのまま強く抱きしめられた。

 茶色の縞模様が刻まれた腕。

 収められていても分かる鋭く伸びた爪の形。

 それはレンと同じ猫族のものだった。


 ――母さん。


 レンは息を呑み、言葉を失った。

 振り返ることもできず、ただその温もりに身を委ねる。

 母の手が髪を撫でるたび、幼い日に聞いた声、息遣い、忘れていた記憶が鮮やかに甦る。

 瞳が熱くなり、涙が頬を滑った。

 嗚咽を抑えようと唇を噛むが、震えは止まらない。


「母さん……」


「どうしたの、レン?」


 母の声は穏やかで、まるで時間が巻き戻ったかのようだった。

 レンはようやく顔を上げ、母の琥珀色の瞳を見つめる。

 そこには慈愛と、ほのかな悲しみが宿っていた。


「会いたかった……ずっと」


「ごめんね、一人にしてしまって」


「父さんは……?」


 母の表情が一瞬曇る。

 レンは胸が締め付けられるのを感じた。

 直感で会えないと悟り、目を伏せる。


「父さんは……あなたと私がこうして話せるように、全てを魔道具に込めたの。命さえも」


 レンは目を閉じ、母の腕の中で小さく震えた。

 父は、レンと同じ紋章を封じる力があるようでその精度はかなりのものだったようだ。

 レン自身、その才能を受け継いでいるかもしれないと期待していた。

 聞きたいこと、確かめたいことが山ほどあったが、父の姿はもうどこにもない。

 ――父さんに会えない。


「父さんは一つだけ、私に頼んだの」


 母が囁く。

 レンは悲しみを押し殺し、母の腕を強く握り返した。


「『レンのこと、愛してるぞ』って。それだけ伝えてくれって」


「うん……分かってる。父さんと母さんが守ってくれなかったら、オレ、魔物に殺されてた……でも、話したかった!」


 母の手が再びレンの髪を撫でる。

 今だけ、話ができる。

 ――いっぱい……話さなきゃ……!

 レンは堰を切ったように話し始めた。

 リコと出会った時の不思議な感覚。

 魔物との戦いで感じた恐怖。

 サクラと立ち向かった魔法競技祭。

 負けた悔しさを感じた時。

 母は全てを受け止め、否定せず、ただ慈愛の瞳で頷き続けた。


「オレばっか話して、ごめん……」


「いいのよ。このために父さんがこの時間を作ってくれたんだもの。レン、聞いて。一つ大事なことを伝えるわ」


 母の声が低く、厳粛な響きを帯びた。

 レンは背筋を伸ばし、行儀良く座る。


「父さんは魔法技術士だったわ。紋章を刻む魔道具の名手よ。あなたと同じ才能を持っていた。父さんはあなたのために二つの物を遺した。一つは、紋章を封じる力を持つ石の試作品。もう一つはそのレシピ。父さんと母さんが死んでしまう日、そんな状況にも関わらず『試作品だから一度使えば壊れる。だが、レンなら完成させられる』って、父さんは信じてたわ」


「父さんが……オレならできるって?」


 レンの胸が熱く脈動した。

 まるで鉄を打つ槌の音のように、希望が響き合う。

 母は静かに頷く。


「それと……レン、あなたには『特別な魔法』があるかもしれない。リコちゃんの話をしていた時、あなたの魔力はとても強かった。自分を信じて」


 母の姿が薄れ始めた。

 白い空間に亀裂が入り、光が揺らぐ。

 レンは慌てて母を抱きしめる。


「母さん、行かないで!」


 頭に温かな滴が落ちる。

 顔を上げると、母は静かに涙を流していた。


「ごめんね、寂しい思いをさせて。でも、あなたなら大丈夫。リコちゃんやサクラちゃん、頼れる大人たちがいる。母さんは安心したわ。最後に……父さんと私の言葉を贈るわ……」


 ――私たちの元に生まれてきてくれてありがとう。愛してる。


 母の声が遠ざかり、レンの意識は白い光に溶けた。


 §


 「母さん!」


 レンが叫ぶと、周囲の空気が一変していた。

 冷たい土の感触。

 焚き火の匂い。

 レプレの驚いた声が耳に飛び込む。

 既にレンの村から移動しており、野営の準備をしていたようだ。


「うわ! びっくりした! 大丈夫? 急に倒れたから心配したよ! ほら、リコちゃんもサクラちゃんも、こんなに心配してる!」


 レンは父の遺した箱を抱え、涙に濡れた顔を隠さなかった。

 リコがそばに座り、背中をそっと撫でる。


 ――やはり、あの声はレン君のお母様。不思議な魔法で、最後の会話ができたのですね。


 サクラはリコの表情から何かを感じ取り、一歩下がってレプレに視線を向けた。


「レプレ様、仮宿を探しましょう。もうすぐ日が暮れます」


「そうだね! こんな時のために、携帯キャンプセット持ってきたよ!」


「携帯キャンプセット?」


 サクラが首を傾げると、レプレは得意げにカバンから長細い袋を取り出した。

 中には黒い棒状の魔道具が整然と収まり、補助的な魔法で使用者の意図を形にするものだった。

 レプレは棒を並べ、袋を雑に広げる。


「見てて! 『我が魔力に呼応し、決められた形へと変えよ!』」


 魔力が反応し、棒は柱や梁を組み、袋はテントの布へと変形した。

 瞬く間に六畳ほどの空間が生まれ、竈門まで備わっている。

 サクラの目が輝いた。


「すごい! こんな便利な道具が!」


「へへ! 畳むのも魔法で簡単なのさ!まあ、オクトが作ってくれたんだけどね〜」


「オクトさん、ほんとすごい人ですね」


 二人が振り返ると、レンは泣き止み、箱を開けていた。レプレが驚きに目を丸くして駆け寄る。


「どうやって開けたの!?」


「普通に開いた。鍵は……オレだったみたい」


 リコが箱の蓋を手に説明を始める。


「この箱はレン君のお父様が封印したもの。レンの魔力に反応して封印が解ける魔法が施され、他の開錠手段は無効化されるようです」


「母さんに会ったんだ。そこで全部話して……色々分かった」


 レンは箱から空色の石と手紙を取り出した。

 石は魔石とは異なる、柔らかな輝きを放つ。

 レンは石を握りしめ、母の言葉を反芻する。


 ――父さんが信じてた。オレならできるって。


「この石、紋章を封じる力があるんだって。試作品だから一度使えば壊れる。でも、父さんのレシピがあれば……オレ、完成させられるかもしれない」


 レンの声に力が宿る。

 リコが微笑み、サクラが頷く。

 レプレは目を輝かせた。


「それ、めっちゃ面白そう! レンくんならできるよ!」


「そうですね。レン君はきっと……いえ、必ず出来ると私は知っています」


「お〜?可愛い女子に応援されたならやらなきゃ、だね〜」


「……はい!絶対に……父さんと母さんの期待に……みんなの期待に応えてみせるよ……!」

 

 レンは石を見つめ、胸に新たな決意を刻んだ。

 父の遺した試作品は、魔法技術士としての試練であり、母との約束の証だった。

 夜の闇が迫る中、テントの灯りが仲間たちの顔を温かく照らす。

 レンは石を握り、目標のための覚悟を固めた。

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