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【短編・コミカライズ原作】心恋し、おもひでの君

「盗られたの?」

 街で一番大きな橋の近く。

 川が流れ、黄色の花がたくさん咲く綺麗な場所で、撫子は不思議な服を着ている少年に声を掛けた。

 大人の洋装は街で見かけるようになったが、同じくらいの年齢の子が着ている姿は初めてだ。

 

「こんなヒラヒラをつけてさ、女みたいだろ」

 セーラー服の少年から奪ったスカーフを振り回しながらニヤニヤ笑う着物の少年。

 

「ステキだと思うわ」

 撫子はスカーフを返してと手のひらを差し出した。


「ハイカラって言うのよ。知らないの?」

「ふんっ、女に助けてもらうなんて情けないやつ!」

 いつもより綺麗な着物を着た撫子がジッと見つめると、着物の少年は捨て台詞を言いながらあっという間に姿を消した。


「……ありがとう」

 スカーフを受け取り、腕で涙を拭いながらお礼を言う少年に撫子はふわっと微笑む。

 その花のような笑顔に少年は釘付けになった。


「ねぇ、これってどうやって着るの?」

「上から被るんだ」

「これはなぁに?」

「これは紐釦ボタンっていうもので、ここに通すんだよ」

 紐釦をつけてみせると、撫子は「わぁ!」と目を輝かせた。


「セーラー服っていうんだ」

 少年は返してもらったスカーフを慣れない手つきで服に付け直す。

 

「セーラー服?」

「うん。イギリスの服なんだって」

「ふぅん」

 イギリスってなんだろう?

 撫子は不思議そうに首を傾げた。

 

「あ、おかあさまの用事が終わったから行くね」

 呉服屋から出てきた母に気づいた撫子は、あっさりと少年に別れを告げる。

 

「あっ、待って!」

 少年は慌ててセーラー服の袖から紐釦を取った。

 

「いつかまた会いたいから、目印にこの紐釦を持っていてくれないかな?」

 少年は紐釦を差し出しながら名残惜しそうに撫子を見つめる。

 

「もらっていいの?」

 花のようにふわっと笑う撫子の笑顔に、少年の頬は赤くなった。


「君を守れるくらい強くなったら会いに行くから」

 揶揄われたくらいで泣いていてはダメだ。

 この子は自分よりも大きい相手にだって堂々と「返して」と言っていた。

 僕だって言えるようになりたい。

 早く父上みたいに強い大人になって、彼女を守れるようになりたい。

 

「大きくなったら僕と結婚して」

「け、結婚!? なんで?」

「だって君、可愛いし、格好いいから!」

「えぇっ?」

「約束だよ!」

 少年は撫子の手に紐釦を握らせると、答えは聞かずに大橋を渡っていく。

 撫子は紐釦を握りしめながら走り去る少年の後ろ姿を見つめた。

 

「撫子、どうしたの?」

 娘の真っ赤な顔に母は首を傾げる。

 

「今ね、結婚しようって言われたの」

「あらあら。5歳のお誕生日のお祝いにお父様からいただいた可愛い着物のおかげね」

 ふふっと笑う母に撫子は紐釦を見せた。


「これを持っていると会いに来てくれるんだって」

「楽しみね」

 いつか本当に撫子を迎えに来てくれたらいいのに。

 撫子の母は切なそうに微笑むと、撫子と手を繋いで音羽邸へと戻った。

 

 この日はとても楽しかったのに。

 母と出かけたのはこの日が最後。

 わずか10日後、撫子に残されたのは小さな紐釦と母との思い出だけになったーー。


    ◇


「この、愚図!」

 腹違いの姉、百合子に突き飛ばされた撫子は、髪飾りを抱えたまま音羽家の玄関で盛大に転んだ。


 クスクスと笑う女中たち、助けるか躊躇している下男たち。

 音羽家では見慣れた光景だ。

 

「申し訳ありません、お姉様」

 撫子は急いで立ち上がり、百合子の綺麗に整えられた髪に飾りをつける。


「鏡!」

「は、はい」

 髪飾りに満足した百合子はふんっと鼻を鳴らすと、ようやく女学校へと出発した。


 ホッと一息つく間もなく、撫子は鏡を元の場所に戻し、洗濯場へ向かう。

 井戸から水を何度も汲み、あかぎれだらけの手を冷たい水に突っ込んだ。


「冷っ」

 すぐにかじかむ手。

 何度も息を吹きかけたが、手が温かくなることはなかった。


 女学校に通う姉、百合子の着物は華やかで遊び心のある色柄の最高級品。

 袴も美しい色合いで華族のお嬢様にふさわしい仕立ての良い物だ。

 先染めの絹織物なので、丁寧に洗わなくてはいけない。


 それに引き換え、撫子は着古した単衣の木綿着物。

 ペラペラすぎて寒さをしのぐこともできない。

 

 歳は半年しか違わないが、百合子は正妻の子、撫子は妾の子。

 待遇の差は誰の目にも明らかだった。


 撫子は懐から小さな巾着袋を取り出した。

 

「……元気かな?」

 巾着袋の中身は小さな紐釦が1つ。

 子供の頃、大橋の近くでセーラー服の少年にもらった物だ。

 母の遺品や撫子の私物はすべて父に処分されたが、肌身離さず持っていたこの紐釦だけは処分を免れた。


「もう覚えていないよね」

 結婚の約束をしたなんて。

 名前も知らないけれど、いつか迎えに来てくれると夢を見ることくらいは許されるよね。

 撫子は寂しそうに微笑むと紐釦を入れた巾着袋を懐にしまい、洗濯の続きを行った。


「撫子!」

「お姉様、おかえりな……」

 廊下の雑巾がけをしていた撫子は鬼のような形相の百合子に驚いた。

 

 大きく振りかざされる手は、撫子の頬を盛大な音を立てて通り過ぎていく。

 なぜ叩かれたのかわからない撫子は頬を押さえながら呆然とした。


「あんたのせいで恥をかいたわ!」

 百合子は女学校の荷物の中から巾着袋を取り出し、撫子に投げつける。


「こんなみすぼらしいものをよくも!」

 百合子の代わりに作った巾着袋。

 着物にもできるくらい染めが美しい手紡ぎ糸の布で作ったのに、みすぼらしいとはどういうこと?

 撫子は巾着袋を拾うと丁寧に両手で持った。


「みんなはレースを使ったハイカラな巾着だったのに、何よ、こんなの!」

「レース……とは何ですか?」

「あんた、レースも知らないの?」

 回答が気に入らない百合子は再び撫子の頬を叩いた。


 宿題は横4寸の巾着袋を作ることだと聞いていた。

 指定の材料があるなんて百合子は言っていなかったのに。


「うっ、」

 口の中に広がる血の味に撫子が顔をしかめる。


「百合子様。その辺で、どうかお許しを」

 普段は助けるか躊躇している下男があまりの不憫さに声を掛けると、ようやく百合子の手は止まった。


「下男まで誑かして! さすが妾の子ね」

 百合子は悔しそうに唇を噛む。

 

「明日までに作り直しなさい! いいわね!」

 最後にドンッと勢いよく撫子を突き飛ばし、百合子は去っていった。


「大丈夫ですか? 撫子お嬢様」

「そんな風に私を呼んでは叱られます。でも、お姉様を止めてくれてありがとう」

 下男に差し伸べられた手を取らずに、撫子は俯きながら立ち上がった。


 叩かれた頬が痛い。

 だが早くレースというものを買いに行かなくては店が閉まってしまう。


「行ってまいります」

「頬を冷やしてから、」

「いいえ、時間がないので」

 撫子は巾着をギュッと手に持ったまま、呉服店へ急いだ。


 あまりにも赤く腫れあがった酷い顔に、すれ違う人が二度見する。

 恥ずかしかったが、撫子はできるだけ気にせず小走りした。


    ◇


「酷くやられたねぇ」

 呉服屋の女将は赤く腫れあがった撫子の顔に溜息をついた。

 

「女将さん、レースを売ってください。私、明日までにレースで巾着を作り直さないといけないんです」

 息を切らせながら必死に訴える撫子。

 女将は困った顔をしながら撫子を椅子に座らせた。

 

「レースっていうのは異国の飾りだよ。うちでは取り扱っていないんだ」

「異国……! ど、どこで買えますか?」

 花模様のようにレースという模様だと思っていた撫子は異国の飾りと聞き、顔面蒼白になる。

 

「高級品でね、この辺りの店では買えないよ」

「そんな、どうしたら……」

 カタカタと震える撫子の背中を女将はそっと撫でた。


「失礼、父が頼んだ帯が届いたと……」

 暖簾をくぐった男性の声に撫子はビクッと身体を揺らした。

 こんなみっともない顔を呉服屋のお客様には見せられない。

 巾着袋をギュッと握ったまま撫子は俯く。

 

「あらま、北条の若旦那。駆逐艦からいつお戻りに?」

「昨日戻ったばかりなのに、早速父にこき使われている」

 やれやれと肩をすくめながら男性は海軍の帽子を脱いだ。

 

「まぁまぁ! 1年お会いしないうちに、ますます色男になって!」

「世辞はいい」

「帯をお持ちしますね。少々お待ちを」

 笑いながら奥に向かう女将の背中を見た後、男性は視線を撫子に移した。


 顔は見えない。

 呉服屋の客には見えない貧相な着物。

 後ろで適当に縛っただけの手入れされていない髪。

 だが彼女の手には高級な布が握られている。


「その布を見せてくれないか?」

 スッと男性の手が目の前に現れた撫子は、震える手で巾着を男性の手の上に乗せた。


 綺麗な縫い目。

 上布で柄も申し分なく、とてもこのような身なりの娘が持つ物とは思えない。

 娘の頬は赤く腫れあがっているが、盗んで叩かれたのか?


「なぜこのような高級品を持っている?」

 目の前にいる青年の服装は軍服。

 でも街にいる陸軍の人とは違う服だ。

 女将が駆逐艦と言っていたからきっと海軍の軍人さんだろう。

 もしかして盗んだと疑われている……?

 

「私が縫ったものです。布はここで買いました」

 顔を上げ、目を逸らさずはっきり答える撫子。

 その凛とした態度に、青年は撫子が本当のことを言っていると確信した。


「……そうか。誤解してすまない」

 青年は巾着を返すと、少し屈んで撫子の赤くなった頬にそっと触れる。


「この頬はどうした?」

「……転びました」

 目を伏せ、ぎこちなく微笑んだのでこれはおそらく嘘。

 だが、見知らぬ男に理由は話したくないのだろう。

 

「冷やした方が良い。腫れているぞ」

 痩せ細った顔。

 荒れた手。

 腕には痣。

 一体何があったのだろうか?


「若旦那、お待たせしました」

 女将の声で青年はあわてて撫子の頬から手を離す。

 

「勝手に触れてすまない」

「い、いえ」

 初々しい二人の姿に女将はくすっと笑った。

 案外、お似合いかもしれない。


「そうだわ! 若旦那、レースをお持ちではないですか?」

「女性の洋装に付いている?」

「そうです。巾着につけたいので少しで良いのですが」

 女将が撫子の巾着袋に視線を移すと、青年も撫子の手元に視線を向けた。


「まぁ、あるにはあるが……」

 巾着にレース?

 青年が困惑しながら答えると、撫子は急に椅子から床に座った。

 

「お願いします! レースを譲ってください」

 そのまま土下座をする撫子。


「何でもします。どうかお願いします」

 冷たい床に頭を付けた撫子の腕を掴むと、青年はグイッと撫子を引っ張り上げた。


「そんなことはしなくていい」

「どうしても必要なんです」

「わかった、わかった」

 必死な撫子に呆れながら青年は溜息をついた。


「俺は北条麟太郎、お前は?」

「お、音羽、撫子と申します」

「音羽……」

 音羽家は華族。

 それなのに女中以下の姿はおかしくないだろうか?


「レースが欲しいならついてこい」

「ありがとうございます」

 帯を受け取った麟太郎は帽子を被ると、豪華な馬車に撫子を乗せ屋敷へと向かった。


 撫子は音羽家よりも遥かに大きな北条家の屋敷に圧倒された。

 はじめて入る洋風建築。

 内装も日本家屋と全く違う。


「まずは治療からだな。沁みるかもしれない」

 撫子をソファーに座らせた麟太郎は、跪きながら冷たい布を撫子の頬に添えた。


「痣にならないと良いが……」

 撫子に左手で布を押さえさせると、今度は塗り薬を掬い取る。

 

「あの、北条様。お薬がもったいないので」

 困惑する撫子を気にすることなく、麟太郎は撫子のあかぎれだらけの手に薬を塗りはじめた。

 

「……働き者の手だな」

 これは水仕事をしている者の手だ。

 なぜ音羽の令嬢がこのような手をしているのかはわからないけれど。


「毎日塗れば、少しは痛みが減るだろう」

 左手にも薬を塗り終わると麟太郎は薬を撫子の手に握らせる。

 

「こんな高価なものを……」

「呉服屋で失礼なことを言った詫びだ」

 盗んだと疑って悪かったと謝罪しながら麟太郎は向かいのソファーに腰かけた。

 

「これは何という飲み物でしょうか?」

「紅茶だ」

 どうしてお椀形の湯飲みがお皿の上に乗っているのだろうか?

 緑茶とは色も香りも違う。


「こちらの四角いものは……」

「ビスケットという菓子だ」

「美味しい」

 固そうなのに、サクッとした歯触りのお菓子。

 甘くて美味しい。


「レースとは糸で編まれた飾りなのですね」

 繊細で不思議な模様が編まれたレースに撫子は目を輝かせる。

 丸いもの、四角いもの、ひも状。

 形や柄のことをレースというわけではないようだ。


「好きなだけ持っていけばいい」

「ありがとうございます」

 撫子はひも状のレースをそっと手に取った。

 巾着の縛り口の下に置いてみると、一気に華やかさが増す。


 あぁ、百合子は華やかさが足りないから怒ったのだ。


「こちらをいただきたいです」

「それだけでいいのか?」

 撫子が手に取ったのは短いひも状のレース1本。

 もっと華やかな物もあるのに。

 

「はい。本当にありがとうございます」

 初めて見せた撫子の心からの笑顔に、紅茶を飲んでいた麟太郎の手が止まった。


 ……似ている?

 昔、大橋で求婚した少女に。


「お礼に何をすれば……」

「礼は不要だ。屋敷まで馬車で送らせよう」

「いえ、歩いて帰ります」

 北条様にご迷惑をおかけしたことがバレたら大変だ。

 父にも、百合子にも。

 ギュッと膝の上で手を握った撫子を見た麟太郎は溜息をついた。


「では呉服屋まで」

「ありがとうございます」

 深々とお辞儀をして去っていく撫子の後ろ姿が、あの日の少女と重なる。

 

 彼女の笑顔を見た瞬間、急に初恋のあの子を思い出した。

 だが、きっと気のせいだ。

 10年以上探したがあの子は見つからなかったのだから。

 麟太郎は考えを打ち消すかのように首を軽く横に振った。



 屋敷に戻った撫子は急いで巾着にレースを縫いつけ、翌朝、百合子に手渡した。

 女学校から帰ってきた百合子は「上品で素晴らしいと褒められた」と上機嫌だった。

 朝はあんなにレースが小さいと怒っていたのに。

 

 1日の仕事を終えた撫子は物置の床に座りながら麟太郎にもらった薬を眺めた。


 ……優しい人だったな。


 最初は少し怖い人なのかと思ったけれど、とても紳士的だった。

 撫子は綺麗な三日月を見上げながら麟太郎への感謝の気持ちを呟いた。


    ◇

 

「麟太郎様、彼女は不憫な生活をしているようです」

 家令から報告を受けた麟太郎は眉間にシワを寄せた。

 

 12年前、母が病気で他界し、女中のように働かされているが給金は一切なし。

 食事も残り物で、自分用の食事はない。

 物置に住み、屋敷の掃除と洗濯を一人でやっているという報告に麟太郎は大きく息を吐いた。


「彼女の母親は正妻ではありませんでしたが、母親が生きている頃は姉と同じように令嬢として過ごしていたそうです」

「……そうか」

 では、あの時綺麗な着物を着ていた少女が彼女だったとしても不思議ではないということ。

 

 あの日、少女の心の強さと笑顔に惚れ、慌てて求婚したが返事も聞かずに走り去った。

 せめて名前だけでも聞いておけばよかったのに。

 麟太郎は幼い自分の行動に苦笑する。

 

「もう少し様子を見てくれ」

「かしこまりました」

 

 なぜこんなにも彼女のことが気になるのか。

 彼女が紐釦を持っていたらいいのにと考えてしまうのはなぜなのか。

 たとえ本人だったとしても一方的にした結婚の約束など覚えていないかもしれないのに。

 

 麟太郎は溜息をつきながら髪をかき上げると、ソファーから窓の外の三日月を眺めた。


    ◇


「え? レースをですか?」

「そうよ。女学校のお友達にレースを贈ると約束したの」

「む、無理です」

 百合子のアリエナイ要望に、撫子の声は裏返った。


「5枚ほしいわ。この前より大きいものがいいわね」

「売っていないので無理です」

「この前は準備したじゃない!」

 百合子に突き飛ばされた撫子は、よろけて尻餅をついた。


「今週中に準備しなさい」

 ふんっと鼻を鳴らし、廊下を歩いていく百合子。


「……どうしよう」

 撫子は冷たい廊下に座ったまま、途方に暮れた。


 翌日、撫子は洗濯や雑巾掛けを終えたあと、レースを探しに街へ出た。

 数件の店で尋ねたが、どこにもレースは売っていなかった。

 

 二日目からはあてもなく街をふらふら歩き、橋のたもとで休憩する。

 風で揺れる黄色い花をぼんやりと眺めて撫子は、ふいに紐釦の男の子を思い出した。

 

 ……本当に迎えに来てくれたらいいのに。

 北条様のような紳士になった彼が、あの家から連れ出してくれたら幸せなのに。


「おい、そんな恰好では風邪をひくぞ。早く帰れ」

 橋のたもとでうずくまっていた撫子は街の警備をしている軍人に声をかけられ、慌てて立ち上がった。


「あんた百合子さんの……」

 あぁ、この人を見たことがある。

 先週、百合子に求婚をしにきていた軍人さんだ。


「すぐ帰ります。すみません」

 お辞儀をし、歩き出した撫子の腕を軍人はグッと掴む。


「なぁ、百合子さんは俺のこと何か言っていなかったか?」

「いえ。私には何も」

「聞いてないか? 久我だ。久我幸助と結婚すると父親に言っていなかったか?」

「申し訳ありません、私ではわかりません」

 困った顔の撫子を見た久我はゆっくりと撫子の手を離した。


「……そうだよな、お前が知っているわけないよな」

 悪かったと頭をボリボリ掻きながら謝罪する久我。

 お辞儀をした撫子は屋敷まで走って帰った。


「久我様まで撫子を……」

 偶然、大橋を馬車で渡った百合子は唇を噛みながら馬車を降りた。


「酷いわ、私に求婚なさったのに。こそこそ二人で逢引しているなんて!」

「誤解だ! あの子がうずくまっていて、早く帰るように……」

 必死で説明する久我に百合子は涙を浮かべる。


「あの子が誘惑したのね」

「あ、いや、えっと」

 煮え切らない態度の久我に、百合子はわざとよろけてしがみついた。


「あっ、ごめんなさい。あなたまで取られてしまうのかと思ったら急にめまいが……」

「俺が好きなのは百合子さんだけだ、本当にあの子とは」

「私の事が好きなら証明して」

「え?」

「ねぇ、久我様。私のお願いを聞いてくださるでしょう?」

 目を泳がせながらも承諾する久我に、百合子はニヤリと微笑んだ。


    ◇


「麟太郎様、例のご令嬢が最近、毎日街を徘徊しているようです」

「徘徊?」

「店に入るわけでもなく、同じ道をぐるぐると歩き、まるで時間を潰しているようだと」

 屋敷に居づらいのか?

 家令の報告に麟太郎は手をアゴにあてながら考え込む。


「今日は警備中の陸軍兵に話しかけられていたそうです」

「知人か?」

「うずくまっていたので、陸軍兵が心配したのではないでしょうか?」

 軍人なら困っている人に声を掛けるのは当然だ。

 士官である前に、紳士であれ。

 それが教えだからだ。


「明日、参謀本部の帰りに街へ行く」

「かしこまりました」

 麟太郎は撫子の歩いている道とおおよその時間が書かれた紙を家令から受け取った。

 

 彼女に会って確かめたい。

 昔、大橋の近くで誰かを助けたことがあるか、と。

 その時、紐釦をもらわなかったか? と。

 彼女が大橋を渡るのは、未の刻(午後2時頃)。

 この時間なら仕事帰りに会えるだろう。


 なぜあの笑顔をもう一度見たいと思うのだろうか。

 呉服屋で見せた凛とした態度も物怖じしない初恋の少女と似ていると、こじつけてしまうのはどうしてなのか。

 答えの出ない悩みを胸に麟太郎は半月が浮かぶ酒盃の清酒をグイッと飲み干した。


    ◇


 今朝はなぜか百合子の機嫌が良かった。

 撫子はいつものように洗濯をし、掃除をしてから屋敷を出る。

 手に入るはずがないレースを求めて街を歩き、休憩し、また歩く。

 一体いつまでこの生活が続くのだろうかと、撫子は溜息をついた。


「麟太郎様、あちらにご令嬢が」

 大橋を渡ったと下男が報告すると、麟太郎は思い出の場所で「そうか」と頷いた。

 

 ここは大橋の近く。

 すぐ横には川が流れ、黄色の花が咲いている。

 

 早くここに来てくれ。

 麟太郎はまだ少し遠い撫子を切なそうな表情で見つめた。

 

「久我様、昨日はありがとうございました」

 昨日と同じ大橋のたもとで警備中の久我と目が合った撫子は頭を下げた。


「あぁ、いや、別に。風邪はひかなかったようだな」

「はい。おかげさまで。では、失礼します」

「待て」

 久我は歩き出した撫子の手首を慌てて掴んだ。


「なんだ、あいつは」

「麟太郎様、お待ちください!」

 足早に撫子の方へ向かう麟太郎を下男は慌てて追いかける。


「あの、久我様? 何か?」

「……悪いな、あんたに恨みはないんだ」

 久我から小声で告げられる言葉に撫子は目を見開く。


「それは、どういう……」

 答えを聞く間もなく、撫子は久我に川へドンッと突き落とされた。


 落ちる瞬間、大橋の上でニヤリと笑う百合子の姿が目に入る。


 お姉様がどうしてここに?

 女学校の時間ではないの?


 久我の申し訳なさそうな顔。

 

 命令されたって事?

 どうして?


「助け……」

 冷たい川の水はすぐに撫子の体温を奪っていく。

 足が届かない川の中で撫子は必死にもがいた。


「おい、誰かが川へ落ちたぞ!」

「軍人さん、早く助けてやってくれ」

 野次馬に指名された久我は助けて良いのか百合子の顔を見る。


「いい気味だわ! 妾の子のくせに、男に色目を使った天罰よ! こうなる運命だったんだわ!」

 高笑いする百合子の姿は淑女には程遠い。

 こんな娘を好きだったなんて。

 久我は後悔の念に駆られ、その場にへたり込んだ。


「麟太郎様! ダメです、この時期の水は!」

 下男の静止も聞かず、麟太郎は川に飛び込む。

 溺れる撫子を抱きしめ、岸へ引き上げると民衆から拍手が鳴り響いた。


「大丈夫か! しっかりしろ」

「……北……条さま?」

 濡れた着物と冷たい気温が撫子の体温をどんどん奪っていく。

 青紫になった唇は寒さで震え、顔色も悪い。

 下男が馬車から急いで持ってきた赤いブランケットで撫子を包むと麟太郎は撫子を抱えて立ち上がった。


「守るべき民を川へ突き飛ばすとは一体どういうことだ。陸軍二等兵!」

 麟太郎に睨まれた久我は真っ青な顔でゴクッと唾を飲み込む。

 

 ずぶ濡れの男が着ているのは海軍の軍服。

 襟や袖の装飾品からわかる階級は少尉。

 久我は顔面蒼白のまま俯いた。


「そこの女はなぜ川に落ちた彼女を嬉しそうに見ていたのか」

 麟太郎が尋ねると民衆の視線は一斉に百合子に。


「百合子さん、川に落ちたのは運命だと笑っていましたよね?」

「私は別に」

「まるでこうなるってわかっていたみたいでしたけど、あなたの策なんじゃないですか?」

「言いがかりをつける気!?」

呉服屋の女将の証言に狼狽える百合子と放心状態の久我は、駆けつけた陸軍の軍人たちにあっという間に拘束される。


「離しなさいよ、私を誰だと思っているの!」

 手に縄をかけられた百合子は麟太郎に抱きかかえられている撫子をキッと睨んだ。

 

「私に求婚をしにくる男たちはね、いつもあんたを気にしていたわ。女中のあんたがついてくるかって何人にも聞かれたわよ」

「なんのことでしょうか?」

 百合子の言葉に撫子は全く心当たりがなかった。

 百合子に贈り物をしにきた男性たちとは、話すことも目を合わせることもなかったのに。


「あんた男なら誰でもいいんでしょ!」

「誰でもなんて。私には結婚を……」

 ハッとした撫子は慌てて懐に手を入れた。


「北条様、すみません。降ろして頂けますか?」

 赤いブランケットに包まれたままそっと降ろしてもらった撫子は急いで着物の中から巾着を探す。

 もし川の中に落としてしまっていたら……。

 そんな最悪の予想とは裏腹に、紐釦を入れた巾着が無事に見つかりホッとする。


「良かった……」

 泣きそうな顔で巾着から紐釦を取り出し、ギュッと握りしめる撫子に麟太郎は驚いた。


「それは」

「私の宝物です」

「見せてもらっても?」

 ただの古い紐釦ですよと困った顔で微笑みながら撫子は麟太郎に紐釦を手渡した。


 紐釦には北条家の藤の柄。

 

 あぁ、気のせいではなかった。

 彼女が初恋のあの子だ。


 麟太郎はスッと撫子の前に跪くと、紐釦を差し出しながら微笑んだ。


「いつかまた会いたいから、目印にこの紐釦を持っていてくれないかな?」

「えっ?」

 麟太郎の言葉に撫子は目を見開いた。

 その言葉はあの少年しか知らないはずなのに。

 

「君を守れるくらい強くなったら会いにいくから」

 少年の顔が記憶の中から蘇る。

 だが目の前の麟太郎は立派な青年になりすぎて実感が湧かない。


「ずっと探していた」

「まさか、北条様があの時の……」

 紐釦を撫子に握らせながら、麟太郎は大きな手でギュッと撫子の細い手を包み込む。


「結婚してほしい」

「でも身分が」

「問題ない」

 川に落ちて冷え切った身体と手が、麟太郎の手で温められていく。


「結婚しよう」

 突然の告白に興味津々の人々。


「あぁ、こんな濡れた姿では求婚を受けてはもらえないか」

「そ、そんなことは」

 呉服屋の女将と目が合った撫子は女将の笑顔に後押しされ、真っ赤な顔で微笑んだ。


「よろしくお願いします」

 ワッと盛り上がる野次馬たち。

 麟太郎は幸せそうに微笑むと、撫子を抱きしめた。


「さぁ、俺達の屋敷へ帰ろう」

「でも私、音羽の家に戻らないと」

「あんな家に君を置いてはおけない。連絡を入れておくから何も心配しなくていい」

 麟太郎の言葉にホッとした表情をする撫子。


「二度と撫子に近づくな」

 麟太郎に睨まれた百合子と久我は震えながら頷いた。


 その後、連行された久我は百合子に依頼されたと暴露した。

 音羽家と久我家の信用は地の底に落ち、事業は困窮。

 誰も助ける者はおらず、没落の危機に瀕していると言われている。


 そして私達は――。

 

「綺麗だよ。撫子」

「麟太郎様、これ、足が、」

 初めて洋装をした撫子は恥ずかしいと頬を赤らめた。

 着物とは違い、足元がスースーする。


「着物も似合うけれど洋装もいいな」

 何を着ても似合うと微笑むと麟太郎は撫子に手を差し伸べた。


「さぁ、世界中を見に行こう」

 新婚旅行は世界一周。

 案内は任せろと笑う麟太郎は、あの日泣いていた少年からは想像できないくらい逞しい青年になった。

 

「紐釦は屋敷に置いてくればよかったのに」

「宝物なので」

 小さな巾着に入れた紐釦を洋服のポケットにしまいながら微笑む撫子は、あの日と同じ花のような笑顔。


 心恋しおもひでの君の隣に居られる幸せを、どれだけ語れば伝えられるだろうか。

 麟太郎は船の甲板で撫子を抱き寄せると「もう離さない」と呟いた。


 END

多くの作品の中から見つけてくださってありがとうございます。

コミックではページの都合上、姉の婚約者の久我(川へ突き落とした人)が存在せず、下男が代わりに犯人になっています(笑)

原作もコミックも両方楽しんでいただけると嬉しいです(^^)

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― 新着の感想 ―
とても綺麗な物語でした。 明治大正ロマンの作品はなろうでは珍しいので 興味深く読ませていただき有難うございました。 また別の作品も読ませていただきます。
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