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くすみカラーの背景を白で削り取ったような、淡いボタニカルアート。
そんな小洒落たポストカードをまた一枚、壁へと飾りつける。
真白の壁に不規則に貼りつけられたポストカードの前には、明るい色をした木目調のチェストと、石膏像の顔を模した白い花瓶が一つ。
この奇妙で独特な形をした花瓶へたまに一輪だけ花を挿すこともあるけれど、僕は花の世話がそれほど得意というわけではなくて。あまり長持ちさせることなく枯らしてしまうことが多いそれに、なんだか皮肉めいたものを感じてしまう。
彼女にそれを話せばきっと、貴方は飽き性だったのね、と笑ったかもしれない。
だけど一つだけ訂正しておきたい。花が枯れてしまうたび、僕は色とりどりの花たちを咲かせていた貴女のことを思い出す。これは何年経っても変わらないのだから、僕は決して飽き性というわけではないのだと。
それを伝えたい彼女がいる場所は、今はもう遠くて。
僕は壁に貼りつけたポストカードたちをゆっくりと眺める。
気がつけば増えていくポストカード。
行き場のなくなったこのカードたちは全部、僕が描いたもの。
錆びついてしまった初恋から続く、僕の恋の象徴だ。
◇
大学三年生の秋、僕はイタリアに留学した。
イタリアへの留学は、将来的なスキルを磨くために有効だと思ったからだ。
高校生だった僕が大学の第一志望として外国語学部を選んだのは、ヨーロッパ圏の文化に興味深いものが多かったから。大学に入った僕がイタリアという国を専攻したのは、現代の西洋文化とは一線を画す、ローマの文化というものに興味を惹かれたからだ。とはいえ、それほど有名でもない大学の外国語学部でイタリア語を学んだところで、就職に有利になるわけでもなく。せっかく学んだイタリア語を活かすために翻訳ができるような仕事に就きたいと、大学三年生になって漠然と思った。
そうして一年休学し、僕はイタリアへ留学した。
約十三時間もの空の旅。
知り合いのいない未知の土地。
無機質な灰色のビル群とは違う赤煉瓦の街並み。
耳を通り抜けていく流暢な言葉たち。
まるで異世界にでも迷い込んでしまったかのように、日本とは趣きの違う景色に戸惑った。
ホームステイではなく、姉妹校指定のアパートで部屋を借りた。ローマの街中にとけこむそのアパートは、商店街のような場所が近くて、生活の不便を感じることはなさそうだとほっとした。
これから一年。
イタリアの学生として生活をめいっぱい楽しみながらも、自分の将来に繋げよう。
アパートの窓から見下ろすローマの街の赤煉瓦の通りを見て、僕は浮足立った。
イタリアに来て半月ほどで、気さくな友人が何人かできた。さすがに母国語ほど流暢に話すことはできていないようで、友人たちには「話し方が固い! そんなんじゃ可愛い女の子を誘えないぞ!」とからかわれることもしばしば。とはいえヒアリングに関して言えばそこそこ聞き取れるので、復習を怠らなければ大学の授業もついていくことができた。
今日もそんな大学の授業を終えて、アパートに帰っていく途中。ローマの芸術的な街並みを散策するためにふらふらと遠回りで帰っていたのが、人生の転機だったのかもしれない。とある通りでふと、エプロンを着た女性が水浸しになった店の前でため息をついているのを見つけた。
何事もなく通り過ぎようとしたけれど、思わず興味の視線を向けていたのが悪かったのか、僕の視線に女性が気づいた。
にこりと微笑まれて、なんだか居心地が悪くなる。こういうのが、お国柄なのかもしれない。
淡い金髪に惹かれるように、僕はエプロンの女性に歩み寄った。
「なにをしていますか」
「あら? ごめんなさい。呼び止めるつもりじゃなかったのよ。なんでもないわ」
「なんでもない。違うでしょう」
僕は膝をつかないようにしゃがんで、水浸しになっている地面に落ちているものを一つ拾った。
「あなたはお花屋さんですか」
「んふっ、そうよ。そういうあなたは、外国の方かしら」
僕の黒い髪を見ながら、彼女もしゃがんで手を伸ばす。
水浸しの地面に浮かぶのは、色とりどりの花だった。
「ちょっとバケツをひっくり返しちゃってね。やぁね、年を取ると、重いものも持てなくなるの」
「あなたは何歳ですか」
「やだわ、女性に年を尋ねるなんて。紳士じゃないわ」
笑いながら叱られてしまった。
けれど歳をとったなんて言葉が似合わないくらい、彼女が歳をとっているようにも見えないんだから仕方ないと思う。働いてるし、せいぜい二十代後半とかじゃないかな。僕よりは年上のように見えたから。
「どうぞ」
「ありがとう。かなり散らかしちゃったわね」
集めた花をバケツに戻した女性は困ったようにため息をついた。でも僕が見ていることに気がついたからか、すぐに表情は明るいものになる。
「お礼をしなくちゃね。ちょっと待っていて」
「あの」
たいしたことじゃないって言う前に、女性は今拾ったバケツを持ってバタバタと店の奥に戻って行ってしまう。しれっと帰っちゃおうかなって思いながらも、黙っていなくなるのもなんだかもったいなく思えて、律儀に待ってみた。
少しして戻ってきた彼女の手には、小さな花束。
「ふふ。お礼よ。あなたにぴったりの花を選んだつもり」
ふわふわと微笑みながら差し出された花束。さすが花屋だ。それらしいお礼だと思う。とはいえ、僕が花束を受け取る時に微妙な顔をしたことに気がつかれてしまったようで、女性が不安そうな顔になる。
「あら、気に入らなかったかしら?」
「いいえ、違います。僕は花瓶を持っていません」
「まぁ、そうだったの。それは困ってしまうわね。それじゃ、これもあげるわ!」
そう言った女性は、僕がまた声をかけるよりも先に店の奥に戻ってしまう。花瓶を持っていないのは事実だけれど、とはいえただひっくり返ったバケツの中身を拾っただけで、そんな気にすることもないのに。次こそそう言おうと、頭の中でイタリア語の文法を組み立てていたのだけど。
奥から戻ってきた女性の手の中にあるものがちょっと予想外で、イタリア語が全部吹っ飛んだ。
『いや、なにそれ』
「はい、これもどうぞ。ブーケと一緒に紙袋に入れておくわね」
『待って、ちょっと待って、なにそれ』
「あら? ごめんなさい。うまく聞き取れないわ」
「ん、あー、止まってください。えー、貴方が持つものはなんですか」
ちょっと混乱しちゃったせいで、うっかり日本語が飛び出してしまった。なんとかイタリア語をひねり出せば、女性はきょとんとして。
「ミケランジェロよ!」
「ミケランジェロ」
「彼の作る石膏像、おしゃれで素敵よね」
イタリアはおしゃれなイメージがある。わかる。芸術的な国だということも知っている。わかる。ミケランジェロはローマに住んでいたのも知っている。わかる。
とはいえ、石膏像の顔のような形の花瓶を、行きずりの人間に贈る人の感性についていけるほど、僕の芸術的センスは洗練されていなくて。
「ふふ、今度はお花を買いに来てくれると嬉しいわ。イタリアでデートをする時は、お花を用意するのが紳士の嗜みなのよ」
ふわふわと笑う彼女へ、この花瓶のセンスについてどう言えばいいのかと頭の中でぐるぐるとイタリア語を組み立てていたのだけれど、結局のところ、僕は押しつけられるように独特で奇妙な花瓶と小さな花束を受け取ってしまった。
なんというか不思議な人だったなと、アパートへの帰り道にもらった紙袋をのぞき込む。中にはもらった物とは別に、一枚のポストカードが入っていて。
お店の名刺代わりのようなそのカードに描いてあるのは、見たことのない花のイラストと『flos』という店名だった。
僕に花を育てる才能はないようだと気づいたのは、せっかくもらった花束を三日で枯らしてしまった時だった。
まだ始まったばかりの留学生活。帰る時に邪魔になるから私物はあまり増やさないほうが良いと思っていたのに、ひと月も経たずに増えてしまった石膏像の中身をくり抜いたような花瓶を前に悩んだ。
せっかくもらった物だから捨てるのはもったいない。とはいえこのまま置物としてしまうのも、本来の使い方を思えばもったいなくて。自愛に満ちたような表情の花瓶とにらめっこをした僕は、深くため息をついて花瓶の横に置いていたカードを手に取った。
お店の名前をスマホに打ちこむ。お店の場所を念のために確認して、家を出た。
イタリアの気候は、日本とそんなに変わらない。日本に比べて夏は日差しが強いし、冬は雨が多いらしいけれど、ちゃんと四季があって気温的にはそう変わらない。九月始まりの留学だから今は秋の気候で、少し涼しくなる頃合い。上着はいらず、薄い長袖がちょうどいい感じだ。
そんな秋の始まり、冬の準備に入るような頃でも、花屋では彼女が色とりどりの花を咲かせていた。
「いらっしゃ……、あら、この間の!」
「こんにちは。花を買いに来ました」
「まぁまぁまぁ! あなたもすみに置けないのね! どんな子に贈るのかしら? その子のイメージを効かせて頂戴! お姉さん、うんと腕によりをかけて素敵なブーケを作ってあげるわ!」
待って。お願いだから待って。
突然飛躍した話に、耳が一瞬バグったのかと思った。
なんとかヒアリングした言葉たちを繋げて、文章を組み立てて。怒涛だった言葉の意味を汲み取ったものの、やっぱり話が飛躍している。自分がモテないことを認めるようで大変不本意だったけど、訂正した。
「僕のものです。花瓶を使いたいので」
一拍後、とっても爆笑された。
「ごめんなさい! 君ったらシャイなのね。アジアの方はみんなそうなのかしら。恥ずかしがり屋さん?」
「違うと思いますけど……」
「ふふ。どちらの国から来たの?」
「僕は日本から来ました」
「ふふ! お手本みたいなイタリア語だわ」
大学の友人にも言われた。まだまだネイティブのようにはいかないらしい。これでも結構話せるほうだと思ってたんだけど。
ちょっとむすっとした僕に気がついたのか、あの独特な感性の花瓶をくれた女性は、笑うのをやめて店内を見渡した。
「自分用ならそうねぇ……これはどうかしら?」
そう言って渡されたのは、なんだか猫じゃらしを巨大にして濃いピンクにしたような花だった。
「イタリアの秋の花よ。どうかしら?」
「枯れないですか?」
「切り花だもの。枯れてしまうわ。でも、花瓶の花を長持ちさせる方法はあるのよ。教えてあげる」
店の奥に入っていく彼女に着いていく。奥には作業台があって、彼女はそこで持っていた花を広げた。花を長持ちさせるために、家に帰ったあとの手順を教えてくれる。
「毎日花瓶の水を変える時に、茎の先を少し切ってあげて。水切りと言うわ。茎が水を吸いやすいようにしてあげるの。花瓶の水の量も気をつけてね。いっぱいはダメ。茎が腐ってしまうから、ちょうど茎の先がつくくらいで」
話を聞きながらメモをする。知らない単語もあるから、あとから調べなくては。とはいえ、花瓶もこまめに洗ってと言われたときには、あの独特な石膏像の首を洗う自分を想像してしまってメモの手が止まってしまった。なんて洗いにくい花瓶を寄越してくれたんだろうか、この人は。バケツの中身を拾ったお礼にしては分不相応だからなにも言わないけどさ。
「こんな感じかしら。この季節だと保っても十日くらいね。だから枯れてしまっても、あまり気にしないで」
ふわふわと笑う彼女。僕は頷いた。
それから長持ちさせる方法を教えてくれたお礼に少しだけ男手のいるような仕事を手伝って、勧められた花を買って店を出る。
なんというか、やっぱり面白い人だなっていう印象はどうしてもなくならない。
家に帰り、買った花を石膏像の花瓶に挿す。
大きな猫じゃらしのようなピンクの花。
すまし顔でカーニバルを始めたかのような花瓶の姿に、僕は笑った。
花が枯れたらまた買いに行こう。
月に二、三回。僕は花を買いに行く。
秋から冬になっても、花屋の品揃えが衰えることはなくて、何色もの色とりどりの花の中で彼女は笑っていた。
どうして冬でもこんなに花があるのかと聞けば、当たり前のように温室で育てているのだと返ってきた。花は彼女の両親が郊外で育てているそう。直販だから業者で仕入れるよりは安く売れるのだと言うけれど、花の相場が分からない僕にはピンとこなかった。たった数ドルの差でも花束を作る時にはけっこうな金額になるのよ、というのは彼女の談。確かに留学中の苦学生にとって花束の購入はハードルがちょっと高いお値段だった。
「もう少し買っていかない? あの花瓶に一本だけじゃさみしいでしょう」
「あの大きい花瓶をくれたのあなたでしょうが」
「あれね、日本人の好きなワビサビね? だから一本しか買っていかないの? そういうことかしら」
「学生は貧乏なんです」
「ふふ、拗ねないでよ。君におまけ」
僕が買うのは一本だけだ。花束を買うほどのお金がないのも理由だけれど、束になってる花の手入れをするのはなかなか面倒くさいことを最初の頃に学んだから。それなら一本だけで良いと思って、彼女のおすすめの花の中から一本だけ買う。
それなのに、彼女はいつだっておまけだと言って花を一本添えてくれた。
二本に増えた花を、彼女は包む。
「赤字にならないんですか」
「あら、難しい言葉を覚えたのね」
「難しいというか……まぁ、必要なんで」
「偉いわ! ならもう一本、学生さんにおまけしてあげなくちゃね」
遠慮したつもりが増えた。
僕がため息をつけば、彼女はふわふわと笑う。
「イタリアの男の子たちを見習わくちゃね。これだけ私が良いお花の選び方を教えてあげているんだもの。そろそろ一人くらい、声をかける女の子ができてもいいんじゃないかしら」
そう言いながらレジを打つ彼女にお金を渡して、包んでもらった花から僕が最初に選んだ花を抜き取った。
それに気づいた彼女が僕の顔を見る前に、その花を彼女へ差し出す。
早咲きのミモザの花。イタリアでは基本中の基本だと、いつか彼女がおすすめしていたのを僕はしっかり覚えていたから。
嬉しそうに今年の最初のミモザよとおすすめしてくれたはずのブラウンの瞳が大きく見開かれる。
彼女がおまけしてくれたのもミモザの花。僕は緊張で止まりそうになる思考を、唇を湿らせることで動かして。
「愛しています」
たった二語の短い言葉。
日本語なんかよりもよっぽど短いその言葉を言うだけで、喉がカラカラになった。
とはいえ、伝えることがゴールでもないから。
じっと彼女の顔を見つめれば、ほんのりと頬を上気させて、ふわふわと嬉しそうに笑う。
「日本の男の子の告白は誠実で、力強くて、くすぐったくなっちゃうわ」
差し出した黄色いミモザの花に、彼女が触れる。
「でも、ごめんなさい。私の好みはミケランジェロなの」
とんでもない断り方をされた。
僕からしたら一世一代の告白だった。彼女のほうが一枚上手でうまくかわされて、悔しくないわけはなかった。とはいえ、それで気まずくなるなんてことはなく。
むしろ生身の人間の僕より、もう死んでる石膏像の制作者のほうが好きってなに。五百年前の人になんて勝てるわけないじゃないか。いやまて、ミケランジェロなみに有名な石膏像を僕も作ればあるいは? ……そんな対抗心が生まれたくらいで。
「あなたのことを教えてよ」
「あら、情熱的ね?」
「ミケランジェロに負けるのは納得がいかないから」
ミモザの花の見頃をすぎれば春が来る。彼女の営む花屋はいっそう色彩と華やかさを増して、甘い匂いが店の中に満ちていた。
いつものように花を買いに来た僕は、彼女の店に居座っては長話をするようになった。とはいっても、仕事の邪魔にならないように三十分くらいだけなんだけど。
彼女はいつも楽しそうに僕の話に付き合ってくれた。でも僕が一歩踏みこんで彼女のことを知ろうとすると、のらりくらりとかわされてしまう。言葉の端々から知る彼女は、その社交的な雰囲気とは違って、深く他人と繋がらないようにしているようにも見えて。
それがいっそう、僕の胸の中に生まれた感情を刺激してくる。
ゆっくりと育てているこの感情を彼女は気づいているはずで、それをもてあそんでくるのだから意地が悪い。
「ねぇ、デートして」
「イタリアの男の子っぽくなってきたわね。でも仕事中だからだーめ」
「分かってます。今夜、食事に行きませんか。おごります」
「学生さんは貧乏なんでしょう?」
「一食おごるくらいはできます」
「ならその食事代で花束を買って頂戴」
今日も惨敗だ。
ちょっと奮発して花束を買うことをしぶしぶ告げれば、彼女は嬉しそうにふわふわと笑う。店内を見渡した彼女がどの花がいいかしらと聞いてきたから、あなたの好きな花と答えた。少しだけその頬が赤くなった。僕はちょっとだけ満足した。
とはいえ、ゴールにはまだほど遠い。
大学の友人に、もっとスマートに女性をデートに誘う謳い文句を考えてもらわねば。直球勝負で負けてしまったので、もう少しロマンティックな方向で攻めても良いのかもしれない。でもイタリア人ってそういうのがあんまり得意じゃなさそうなイメージがある。直球情熱勝負みたいなイメージといえば偏見になってしまうだろうか。そう、当たって砕けろ的な。
「花束を買うので、一度だけデートしてください」
「あら、女の時間を買収するの?」
「つりあいませんか?」
「そんなに熱心にお誘いされちゃうと、照れちゃうわ」
「僕はエプロン姿以外のあなたを見てみたいんです」
花屋の制服であるエプロンとシャツ。すっかり見慣れたその姿だけれど、逆説的に言えばこの姿以外の彼女を僕は見たことがない。
「エプロンじゃだめ?」
「……好きな人の可愛い姿を見たいんです」
色々と言いたいことはあったのだけれど、うまくイタリア語に変換できなくて、飛び出てきたのは拙い言葉だけ。
これじゃあ子供の駄々と変わらない気がすると、目を合わせるのが気恥ずかしくて視線をそらせば、くすくすと笑われる気配がして。
「お店がお休みの日に出会えたら、お茶しましょうね」
「……お店が休みの日って平日じゃないですか。僕、授業があるんですけど」
「ふふ。学生の本分だもの。がんばって」
綺麗にラッピングされた花束を渡される。
包まれている色とりどりの花は、全部彼女が好きな花。
僕は花束の代金を払うと、花屋をあとにして。
今まで数輪しか咲いていなかった石膏像の花瓶が久々ににぎやかなカーニバルになることを想像しながら、赤煉瓦の街を歩いた。
季節が巡るのは早いもので、花屋だけではなく、街並みのあちこちにブーゲンビリアが咲き乱れ始めた。赤煉瓦の街に差し込んだ紫の色は、夏の暑さに参っている僕らの体温をまた一度引き上げていくようで、青い空とのコントラストがよく映える。
彼女との距離感は近いようで遠いまま。このままでは留学期間が終わり、彼女との交友も断絶してしまいかねない。
なんとか連絡先だけでもと思うのに、彼女はそれすらも許してくれない。僕の気持ちを蔑ろにしているんじゃないかとすら思ってしまうものの、彼女のふわふわとした笑顔を見るだけで満たされてしまうのだから、むしろ僕が僕の気持ちを蔑ろにしてるような気もしてしまう。
「もしかして、私を見つけようとしてくれていたの?」
「もちろんです」
答えてからちょっとストーカーじみていた返事だったかもと思った。嫌われたらどうしようと視線をうろつかせる。
講義が偶然、休みになった。もともと教授の出張で休講だった講義があって、もう一つ別の講義も休みになって、午前中の講義一つだけになったから、僕は意気揚々と街に繰り出した。今日は花屋の休業日。以前彼女がおすすめしてくれた近くのカフェでエスプレッソを頼んだ。暑い中、テラスに自分の席を陣取って街行く人を眺めていたのだけれど、張り込みをしていた甲斐はあったらしい。二時間居座れば、私服姿の彼女を見つけることができた。
声をかけて手招きすれば、苦笑しながらカフェに入ってきてくれた。彼女にメニュー表を渡すと、そのふわふわとした雰囲気に似合わずエスプレッソを頼む。とはいえさすがイタリア人。コーヒーカップが良く似合った。運ばれてきたコーヒーに勢いよく砂糖を投入したのは、思わず二度見しちゃったけれど。
「砂糖、入れ過ぎじゃないですか」
「普通よ。エスプレッソは砂糖を入れて飲むものだもの」
いや、それでもスプーンに山盛りの三杯は多いと思う。もはや原材料がコーヒー豆よりも砂糖のほうが多いような気さえしてしまう。彼女がそれで美味しくいただけるならいいんだけど。
「学校はお休みだったの?」
「午前中だけ。午後からの講義が臨時休講になりました」
「そうだったのね。ランチは食べた?」
「はい。パスタを」
「ここのパスタ、美味しいでしょう。私も週に三回はここでランチをしてるわ。ランチもコーヒーも美味しいし、お店から近いし」
さすがにエスプレッソだけで二時間は申し訳ないので、お昼もここで食べている。前にこのカフェのことを教えてもらった時にはサラッとおすすめメニューだけを教えてもらっただけだったけれど、思ったよりヘビーな常連だったらしい。でも彼女におしゃれなカフェはとても似合う。同意するように頷いておいた。
エスプレッソだけじゃ味気ないと、デザートメニューも注文する。おごります、と言えばむしろおごると言われてしまって、しばらく静かな攻防が続いた。僕が負けた。デザートは彼女持ちになった。
「それでどう? 私の私服姿。君の期待に応えられたかしら」
そうやって笑う彼女はちょっと意地が悪いと思う。
普段は薄い金髪を前髪ごとポニーテールにして、Tシャツとジーンズにエプロンをかけている彼女。それが今日は柔らかそうなブラウスにタイトなロングスカートで、髪もおろしてる。毛並みの良い、上品な家猫のようだ。
「可愛いと思います」
「だーめ。もう少し女の子を口説く言葉を覚えないと」
ダメ出しされてしまった。
僕が肩をすくめると、彼女はいつものようにふわふわと笑った。同じ笑い方のはずなのに、服装のせいか、休みだからという気軽さのせいか、ふわふわと笑う彼女の周りに花がぽんぽんと咲いたようにも見えて。さすが花屋。休みの日にも花に囲まれてるのかと思ってみたりした。僕の幻覚なんだけどさ。
「どうしたら口説かれてくれるんですか? イタリアの人は飾らない言葉が好きだと思ってるんですけど」
「口説きたい人に聞いちゃ、本末転倒よ」
「あなたがそれで落ちてくれるなら、手段なんて選びません」
僕の留学期間も、もうすぐ終わりますし。
そう付け足せば、彼女のブラウンの瞳が寂しそうに細くなって。
「だからだめなのよ」
だから。
今の会話の流れからつながるその言葉が、僕には不満だった。
「留学をやめれば恋人になってくれますか」
「甲斐性のない男性とは結婚できないの」
「イタリアで仕事を見つけてもいいです」
「日本語話せないし」
「僕はイタリア語を話すことができます」
「私、ミケランジェロが好みなの」
「髭を伸ばしましょうか」
「君には似合わないわ!」
大げさなくらい肩を震わせて笑われてしまった。僕はものすごく真面目なんだけど。
空になってしまったエスプレッソのカップを指先でもてあそびながら、自分がもう少し大人になって髭を生やしたのを想像してみる。髭が似合わない気がするのは日本人という民族性のせいにしたい所存。
「どうしたら口説かれてくれるんですか?」
「ふふ。狡はだめよ」
くすくすと笑う彼女は、上品な私服のせいか、普段よりもずっと大人っぽくて、百戦錬磨の恋の魔女のようだった。やっぱり僕は、彼女の掌で弄ばれている気がする。
だけどそれが、僕の興味を惹いてたまらない。
「私のこと、いっぱい考えて頂戴」
今でさえ彼女のことで僕の思考は埋まっているのに、さらにまだこれ以上を望まれて。
僕の体温がまた一度、上がった気がした。
そろそろ、イタリアでの生活にもひと区切りがつく。
もう指折り数えられるくらいの日数しかイタリアにいられない。日本への帰国の準備も始めれば、お世話になった人たちには昼間から飲みに誘われることもしばしば。その流れで、ずいぶんと陽気になってしまった僕がいた。
「こんにちは。お花をください」
「こんな閉店間際に……って、君、お酒飲んだのね? とってもお酒くさいわ」
「イタリアのお酒は美味しいです」
「ふふ、子供のお手本のようなイタリア語ね」
今日は僕がふわふわしているようで、彼女に困ったような呆れたような顔をされてしまった。うん、やっぱり彼女には笑顔が似合う。
「笑って」
「どうしたの、急に」
「笑ってるあなたが好きです」
「さては酔ってるわね?」
だらしなくレジカウンターでとけるように机に伏せってれば、ちょんとつむじを突かれた。触れられたことが嬉しくて顔が蕩けそうだ。
「お花、買うの?」
「買います」
「何が良いかしら。今日はそうねぇ」
いつものように花を見繕ってくれるようとしたのか、声が遠ざかっていく。僕はのっそりと身を起こすと、花に囲まれた彼女のエプロンの裾を引く。
振り向いて。その目をのぞき込む。
僕の影、映りこむブラウンの瞳。とっても近くて。
「薔薇を三百六十五本。日本に送ってほしいです」
「……それは、自分用かしら?」
「僕のものです。あなたを恋しく思う僕のために。あなたが送って」
吐息がかかるくらい近い距離。
熱いのは酒か、花か、彼女か。僕はなにに酔っているのか分からないまま、彼女の身体に腕を回して。
「七日後、日本に帰ります」
「もう、そんな時期?」
「留学期間が終わります。日本の大学を卒業するのに一年かかります。そうしたら」
ぎゅっと一度だけ、彼女を抱きしめる腕に力をこめて。すっぽりと僕の腕に収まる彼女のつむじに、かすめるように口づけを。
「逃がしませんから」
僕の世界を色彩鮮やかな花で埋めつくした彼女。
どうしても僕は、諦めきれない。
「酔っぱらってるのね?」
「そうかも。あなたという美酒に酔わされたんです」
「ちょっとおしゃれすぎるわ。やっぱりだめね」
「あなたのさじ加減は難しい」
「そうよ、私、気難しい女なの。だからそうねぇ……予約しておきましょうか。薔薇を三百六十五本。一年後、君が買いに来て」
それはいつものらりくらりとかわす彼女からの、明確な約束で。
僕は腕の中の彼女を見た。
僕を見上げている彼女のブラウンの瞳が熱で潤んでる。白皙の頬にほんのりと朱が差していて。
「私のことを忘れないで頂戴ね」
はじめて、彼女に望まれた。
花屋の客としてじゃない。それ以上の関係になるための約束事。
それは当然、僕を喜ばせる。
「誓います。一年後、あなたのもとに帰ります」
「おおげさね」
「それくらい本気だから」
そうじゃなきゃ、貧乏学生が花屋になんて来るわけがない。毎日花の世話をして、枯れたら新しいものを活けて、彼女に会うための口実なんて作る理由もない。彼女を口説くために必死にイタリア語を覚えたなんて言ったら、彼女はどう思うだろうか。
でもそれは、今は内緒にとっておく。
一年後、彼女と再会した時に、僕がどれほど想っていたのかをぎゅうっと圧縮して伝えたいから。
だから僕は、彼女の店で三百六十五本の薔薇を一年後に購入する予約をして。
日本に帰国して。
大学を卒業し。
約束を果たすために訪れたイタリアの街で。
彼女の訃報を聞いた。
◇
どうしてあの時、あんな曖昧な約束を明確なものだと思ってしまったんだろう。
交通事故だったらしい。彼女のご両親に初めて会った。約束の三百六十五本の薔薇を受け取った。「想いが伝わるのを祈っているよ」と言葉をかけてもらった。彼女に贈るための薔薇だったとは言えなかった。
突然失ってしまった彼女との未来に、僕はしばらく抜け殻のような日々を過ごした。
学生の頃のような鮮やかな人生観は二度と得られず、ずっと後悔や君への想いが忘れられないまま。
生きることに意味が見いだせないほど、すべての景色が色褪せて。
新しい恋を重ねればいつか思い出に変わっていくからと、彼女じゃない誰かを好きになる努力をしてみたけれど、彼女の面影が錆びついていくだけ。重く僕の心に残ったまま、いつまで経っても思い出になんてなってはくれない。
追憶しながら、壁に飾りつけたポストカードを見つめる。
僕が初めて恋をした彼女の象徴。店の看板にも描かれていた幻想の花が、チェストの上の花瓶に活けられるかのように壁に貼りついている。
その周りには。
沈丁花。
無花果。
菖蒲。
犬槐。
禊萩。
山桃。
青葛。
僕が描いたボタニカルアート。
これらはすべて、花瓶に挿した花のようにあっという間に枯れてしまった僕の恋心の象徴で。
壁に飾られたポストカードを眺めながら、一人で自嘲する。過去の恋人たちからしたら、僕はとんでもないクズだったことだろう。
けれど、やっぱり僕は探してしまう。
幻想の中に飾られた花。もう一度、錆びついた僕の世界を色づけてくれるような、その花を。
だから僕は、何度も同じ夢を見ては花を飾り、縋って、目を覚まして、後悔する。
今も。
僕の部屋の扉が開く。
ブラウンの瞳に、淡い金髪。いつかの彼女よりも精錬な空気をまとっていて、いざとなったら僕よりも男らしく行動ができる潔癖な女性。
その彼女が、独特な形の花瓶に活ける花を持ってきて。
甲斐甲斐しく花に水をやって世話をする彼女の後ろ姿に、錆びついていたはずの彼女の姿が重なる。
この錆がいつか綺麗に落ちた時。
どんな花にも代えがたい僕だけの花を、もう一度手にすることができる筈だと、信じてる。
【vas 完】