皐月ノ巻 躑躅夜叉
皐月ノ巻執筆者:藤波真夏
時代は混沌としていた。
本来権力は一本なはずだった。しかし、そう天下は揺らぎを止めてくれなかった。
帝の権力争いが激化し、新しい権力者を擁立した。その瞬間に、この世界に二人の帝が存在する異常事態になってしまった。互いに歩み寄ることもなく、互いを刃で傷つけてしまう。対立関係は激化し、修復は困難な状態まで追い込まれてしまった。
日本は、北領と南領に分かれそれぞれの独立国家を築いていくのであった。
ここは南領。
南領を治める、南領帝は一人部屋にいた。屋敷の廊下を走る人物がいる。淡い青の袿に真っ赤な袴。真っ黒な髪の毛を一つに結っていた。
「…佐野か」
「帝。ご所望の品をお渡しします」
「うむ。ご苦労だった」
南領帝に女官として仕えている伊賀佐野は、深く頭を下げた。彼女は、ずっと南領で暮らしており、帝に忠義を尽くす真面目な女官だった。つまり、南領から出たことはほとんど無いということになる。
なぜなら佐野は北領には野蛮な人間しかいないと信じてやまないのだ。その不安感や恐怖心から南領から出ることはほとんどない。
佐野は南領帝への用事を済まし、部屋を後にした。佐野にとって毎日が穏やかな日々だった。北と南に分かれた時は佐野が生まれるずっと前ではあるが、佐野が生まれてからもまだ平和とは程遠い不安定な日々が続き、明日をも知れぬ毎日だった。
それに比べれば平和な日々が続いている。北と南に権力が二分しているのは現状としてはあまり宜しい状態ではないが、平和が維持している時点で佐野は満足していた。
そんなある日のことだった。
佐野は屋敷の中庭で洗濯物を干していた。真っ白な着物を干している。今日は少し風が強いが、陽は暖かい。洗濯物を干すには絶好の機会だった。たくさんの洗濯物を干し、佐野は満足していた。
額に滲んだ汗を拭っていると突風が吹きつけた。その風が佐野が干した洗濯物を天高く舞い上がらせる。洗濯物は屋敷の塀を悠々と越えて飛んで行ってしまった。
「ああ! 洗濯物が!」
佐野はそう言いながら屋敷を出て、飛んだ洗濯物を追いかけた。佐野は飛んでいく洗濯物から目を離さずに追いかける。気づけば屋敷からかなり離れた森の中まで追いかけていた。
洗濯物はひらひらと草原に落ち、佐野はそこへ向かった。
「全く…、こんなところまで来てしまったわ…」
佐野は息を吐きながら洗濯物を掴んで皺を伸ばすために、空気を含ませてバサリ、バサリと力の限り振り、なびかせた。
その時だった。佐野の耳に小さな声が聞こえてきた。まるで風の中に消え入りそうなその呟きに佐野は振り返った。
そこには、若い男性が立っていた。着物からして若武者だ。佐野と若武者の目があった。若武者は目を見開いていた。まるでこの世のものではない、天女を見ているかのような眼差しに佐野は目をパチクリさせていた。
「白妙の…天女…?」
「あの…、どちら様でございますか?」
「あ?! いや! 怪しい者ではございません! 体力がないもので…ここで鍛錬を…!」
若武者は佐野に対して弁明した。佐野はあまり深くは追求しなかったが、佐野は洗濯物を持ち、立ち去ろうとする。それを若武者が止める。
まだ何か御用ですか? と佐野が訝しげに聞く。すると若武者は我に返って、少し慌てながらも言った。
「そんな深い意味はないんですが! この森は一人でやってくるには険しいはず。しかも女子であるあなたならば尚更…」
「ああ…そんなことですか」
「そんなことって…」
「物好きの父が私に体術、武術を仕込んだ。ただそれだけのことです。この森が険しいなんて思ったことは一度もありません」
佐野は言い切った。
佐野の生家である伊賀家は北領でも有名な武家。佐野の父は物好きとして有名で、女性である佐野に武術や体術を教えたのだった。佐野は幼い頃から父親の教育方針で野山を駆け巡って体力を身につけた為に、少し険しい野山も疲弊しない体を手にいれたのだった。
その才能は、佐野が南領帝に女官として仕えた際も、彼女の軽い身のこなしで幾度となく窮地を救われている。佐野は南領帝から「勇女」と讃えられている。
佐野は若武者に背を向けて洗濯物を持って屋敷へそそくさと帰ってしまった。佐野が若武者と出会ったその森は、南領と北領のちょうど境界線だった。
北領に暮らす人物たちは野蛮な人物しかいないと思っている佐野には、今すぐこの場から立ち去りたい気持ちが強い。その為に、若武者に名前を聞くこともなく帰って行ってしまった。
一人残された若武者は残念そうにため息を吐いて森の中を歩いた。向かったのは南領とは反対側。つまり、北領だった。
若武者は森を抜けてとある屋敷へやってくる。屋敷の扉を開けると、そこには若武者よりも幼い少年が立っていた。若武者は静かに歩き、青年の前へ行き跪いた。
「正儀! おかえりなさい!」
「ただいま戻りました、北領帝」
少年の正体は北領を治める若き帝。そして若武者の正体は、北領の有力武家である楠田家の三男・楠田正儀だった。
まだ佐野も正儀も知らない。真っ二つに分かれたこの状況が二人を悲劇へと追い込んでいくことを---。
南領帝の屋敷内。
佐野は昨日のことを思い出していた。名前を聞かれる前にそそくさと佐野は帰ってしまった。しかし、北と南の境界線であるあの森は、いつ北領の人間と出くわすか分からない。それを佐野は一番警戒していた。
いつものように仕事をしていると南領帝がやってきた。南領帝は空を見上げながら佐野に言った。
「佐野は働き者だな」
「私は帝を仕えお支えする女官でございます。役に立たなければ、死人同然でございます」
「佐野は己に厳しいな。お前の父上とは大違いだな」
「私の父と一緒にしないでください。まあ、父のおかげで今の私はいますから…」
南領帝は笑っていた。佐野はため息をついた。南領帝は物好きな佐野の父を知っている。娘に護身術を教える佐野の父は南領帝の耳にも物好きで変わり者と聞き及んでいる。しかし、佐野がその技術を会得していることで、南領帝は幾度の窮地を救われてきていた。
それこそ、南領帝は命の危機を常に抱えている。接近してくる敵に対して退くほどの力を佐野は持っている。しかも、真面目で仕事熱心で忠誠心も厚い。父譲りの忠誠心を、南領帝は信頼していた。
南領帝はあまり側に女官を置かない。それは様々な事件を避けるため。女性は間者として送られる可能性が高いからだ。しかし、佐野は生まれも育ちも南領で、彼女の父の伊賀氏は古くから南領帝に仕えている有名な武士の家だ。
伊賀の娘である佐野は、その類いまれなく技術力で信頼を勝ち取り、南領帝唯一の女官になったのだった。
「北領のことどう思う?」
南領帝が聞くと、佐野は俯いて静かに笑った。何故笑う? と南領帝が聞くと佐野は南領帝に向かって言った。
「どうとも思いませんし、行こうなどとも思いません。北領には野蛮な人間ばかりいると聞いています。そんなところに自ら足を運ぼうとなど思えません」
「そうか…」
南領帝は静かに頷いた。
その後、佐野は屋敷を出て森へやってきていた。森の中には山菜があり、それを摘む。女官が少ないからこそ、佐野の仕事になったのだ。伊賀氏から様々な技術を仕込まれている佐野であれば危険なことがあっても多少は回避できるという考えがある。その考えを佐野も理解しており、佐野は仕事ができることを誇りに思っていた。
いつものように佐野は森で山菜を摘み、籠に入れていた。木漏れ日の差す暖かい昼下がりだった。少し薄暗い森も木漏れ日が差して明るくなり、美しい風景に佐野も心が洗われた。
佐野の持つ籠は山菜で山盛りになり、森を降りようとした次の瞬間だった。佐野の耳に声が聞こえてきた。唸り声だ。佐野は察した。誰かが怪我をして動けないでいると。佐野は籠を持ち、耳をすませ、唸り声のする場所を特定していく。森は広い。手がかりはかすかに聞こえる唸り声だけだ。
佐野は全神経を耳に集中させて、場所を特定する。だんだんと唸り声が近くなっていく。佐野が茂みから顔を出すと、佐野は驚いた。そこでは顔見知りの人物が腕から血を流していたからだ。
「あなたは?!」
「あ?! この前の天女?!」
正儀だった。
腕から血を流している正儀に、佐野が近づく。その怪我は一体何があったのか? と聞くと稽古中に怪我をしてしまい、痛みで滅入っていたというのだ。正儀の近くには木刀と、血が付着した岩が。
正儀は稽古中に足を滑らせ岩に腕を激突。その衝撃で腕を切り、怪我をしてしまったのだった。佐野は籠の中にある山菜を探り、ある山菜を取り出した。その山菜は蓬だ。傷に効くことを思い出し、佐野は蓬を潰しその蓬汁を布に湿らせて正儀の傷に当てた。
「くっ?!」
「痛いでしょうけど我慢してください。蓬は傷にいいんですよ。これをしておけば、化膿しないで治りも早くなるはず」
「…すまない」
正儀は頭を下げて礼を言った。こんな森の中で一体何をしていたのか、と佐野が問う。すると正儀は少し恥ずかしそうに言った。
「恥ずかしい話、私は武士の息子であるにも関わらず、武術が苦手で…。こうして隠れて稽古を積んでいたんですよ!」
「…そうでしたか。私にはそんな風には見えなかったです」
佐野は静かに笑った。その表情を正儀は静かに見つめていた。すると佐野は視線を感じてなんですか? と聞いた。正儀は少しはにかみながらなんでもない、と返した。
佐野は手際良く傷の手当てを終わらせた。佐野は山菜の入った籠を持って立ち上がった。正儀は佐野に名前を聞いた。しかし、佐野は答えなかった。見ず知らずの男に名前を明かすな。当時の女性にとって常識だった。名前を明かすのは、まだ早い。
佐野が黙っていると、正儀は自らの名前を明かした。
「私は、楠田正儀です。天女、私はあなたを皐月姫と呼ぶことにします」
「皐月姫? 何故…?」
「天女って呼ぶとあなたは顔をしかめる。天女と呼ばれると抵抗があると思って、今は皐月の頃。皐月に出会った娘御だから…皐月姫と」
それを聞いた佐野は笑った。声をあげて高らかに笑った。それを見た正儀は目を見開いた。佐野の笑っている姿に目を奪われてしまったのだ。佐野は笑いながら言った。
私をそんな風に呼ぶなんておかしいし、初めてだ、と。
佐野は結局正儀に名前を告げることはなく帰ってしまった。その途中で、正儀は去る佐野を見えなくなるまで見送った。向かった先は、南領の方向だ。それを知った途端、正儀は複雑な心境になった。
同時に浮かんだのは、武術が苦手と言った時に彼女は蔑むことはなかった。ただ何も言わずに話を聞いてくれた。そんな女性と出会ったのは初めてだった。
「皐月姫…。私はまた貴女に会いたい…。だが、何故、そちら側なのか…?」
正儀は呟いた。
そして森から戻った佐野は、実家に戻っていた。実家には佐野の父である伊賀氏がいた。佐野はぼーっとしていて、伊賀氏の声にも反応が薄い。いつもの娘ではないと感づいた伊賀氏は何があったのか聞いた。
佐野は伊賀氏に森での出来事を話した。伊賀氏に正儀のことを話す佐野は何故か楽しそうに見えた。伊賀氏は、その表情に一抹の不安を覚え、佐野にさらに深く聞いた。
「佐野。その若武者の名は?」
「楠田正儀さまとおっしゃってましたよ」
「楠田だと?! 佐野! 今、楠田と言ったか?!」
「え?! ええ…言いましたけど、何でそんなに反応しているのです、父上」
正儀の名前を聞いた瞬間に伊賀氏は動揺した。どうしてそこまで動揺するのか佐野は理解できなかった。佐野はその理由を伊賀氏に聞いた。
伊賀氏は佐野をまっすぐ見つめて、今後その若武者に会うことは許さぬ、と。佐野はその理由を聞く。伊賀氏は立ち上がり、佐野に背中を向けた。伊賀氏は肩を震わせていた。
佐野は察し始める。伊賀氏が肩を震わせているのは怒りと驚きの感情が作用した際に現れる。佐野が話した正儀の名前が、伊賀氏の中の何かに引っかかったと考えるのが普通だ。
「楠田正儀は北領の北領帝に仕える楠田家の三男だ。あの男は敵対する北領の者だ」
「え…? 北領…?」
「そうだ。もう金輪際その若武者と会うな。内通者と言われて南領帝から非難されるぞ。佐野、分かっているな?」
「…はい」
伊賀氏に言われた佐野は一人部屋に戻った。思い出すのは、正儀の優しい顔と声。佐野は言われ続けていた。「北領の人間は野蛮で恐ろしい」と。その印象は正儀のおかげで一気に打ち砕かれた。佐野は大粒の涙を流した。しかし、何故涙を流しているのか佐野はわからなかった。
拭っても拭ってもとめどなく涙が溢れてくる。頭の中に浮かぶのは、正儀の純粋な笑顔と「皐月姫」と呼ぶ彼の声。佐野は畳に額を擦り付けるくらいに激しく心を乱し、涙を流した。
「なんで?! 何故、私の心をかき乱す?! 私は…楠田さまのことを…好いて…?!」
佐野は自問自答をずっと繰り返していた。
北領。北領帝の屋敷の中庭。
北領帝はまだ幼い幼帝だ。屋敷の中でじっとはしていられない。毎日こうして中庭に出て鞠を蹴って遊んでいる。その遊び相手はいつも正儀だ。正儀は佐野と出会った森の方をずっと見つめていた。
すると北領帝が話しかける。
「正儀! どうしたの?」
「え?」
「ずっと森の方ばっかり見て…。向こうは南領の方だよね?」
「…そうですね」
北領帝の言葉にも浮ついた返事しかできない。頭の中は佐野のことでいっぱいだ。どことなく気になる女性がまさか南領の人間であったという衝撃にまだ拭えていないのである。頭の中に浮かぶのは「皐月姫にもう一度会いたい」ということだけだった。
きっともう一度だけ会えば、この気持ちの正体に気づくかもしれないと。
北領帝は正儀に言った。
「正儀。どうしてこの国は、北と南に真っ二つに分かれているんだ?」
「…それは、昔に争いがあって考えの相違…、考えが違うことによってこのようなことになったと…」
「私は、この国を一つにしたい。そうすれば、みんな笑って過ごせるだろ?」
「…そうですね」
正儀は頷いた。どうしてこの国は二つに分かれているのか。鋭い質問だった。もし、二つに分かれていなければ、佐野との出会いも特別なものになり、名前も教えてくれたにちがいないと。
そして夜は更けた。
正儀は北領を抜けて一人あの森へやってきた。明かり一つない場所を勘を頼りに進んで行く。夜の森ほど恐ろしいものはない。獣に襲われる危険性も承知で正儀は進む。正儀は無我夢中で進んで行く。
もう一度北領と南領の境界線へ行けば、またあの娘に会えるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて正儀は進む。
正儀は息を整えた。そこで周辺を見渡す。しかし、その場には佐野の姿はなかった。正儀は僅かな希望にすがる為に、森の木に背中を任せて座り込んだ。待っていればもしかしたら来るのかもしれない。淡い期待だ。叶う確率はほぼ零に近い。
美しい星空の下、正儀は待ち続けた。
どれくらいの時間が経過しただろうか。星は流れ、月が顔を見せ始める。佐野は現れなかった。正儀も諦めて腰を上げた次の瞬間だった。
息を切らす音が聞こえてきた。そしてこちらへ向かってくる足音。そして木の葉が揺れる音。その音に耳を澄ませてゆっくりと振り返る。すると、小さい真っ赤な炎がメラメラと燃えている。小さな蝋燭の光だ。その光がその正体を照らした。
「…皐月姫!」
やってきたのは佐野だった。佐野は乱れた息を整えて、正儀を見た。揺らめく蝋燭の炎に映し出された正儀の顔はとても美しかった。佐野は森の中でしかもこんな深夜に正儀がいるなど、想像もしていなかった。
佐野も淡い希望を胸に森の中を駆けてやってきたのだった。佐野は蝋燭の炎をフッと吹き消した。すると、佐野の体に圧が走る。気づいた時には、正儀の腕の中にいたからだ。
「…皐月姫。また会えた!」
「…楠田さま」
「皐月姫! 私は…武士の家に生まれながら武術が苦手で、劣等感を抱いておりました。しかし、あなたは私を蔑むことをしなかった。ただ、私の話を聞いてくれた。そんな人は初めてだったのです。だから…私は、貴女にこの感情を覚えるようになったんだと…思うのです」
正儀は激しく佐野の体を掻き抱いた。力強いその腕に佐野は囚われたまま、しゃがみこんだ。蝋燭の炎が消された今、二人を照らすのは月の光。正儀の顔が至近距離まで迫っていることに気づいた佐野は、顔を赤くして俯いた。
佐野は小さな声で、正儀だけに聞こえる声で言った。
「北領は…野蛮で、恐ろしいと教わってきました。楠田さま、あなたさまに出会ったことで私の心は乱されています。どうしてくれるのです! この想いは、決して赦されるものではないというのに! この想いを口にすれば…私はもう…! 帝を…父上を…裏切ることに…!」
「皐月姫! その想いを告げるのが罪だと裏切ることだと仰るならば、先に私から罪を犯しましょう。皐月姫、私は貴女に惚れています。初めて会ったあの日から…、この森に来れば、また貴女に会えるのではないかと淡い期待を抱いて…」
正儀の長い指が佐野の腰骨を捉えてなぞる。それがどこかくすぐったくて佐野は身をよじった。しかし、どこか不快に思わない。むしろ、もっと触って欲しい。もっと奪って欲しい。いっそのことここから攫って欲しい。様々な欲望が佐野の心から溢れてくる。今まで、考えたこともなかった欲望たちが、正儀に出会ったことによってとめどなく流れてくる。
「楠田さま…。私は…貴方を…好いているのです…! どうして貴方さまは北領の人間なのでしょうか。私たちは…結ばれることを赦されない」
「それでも、こうなるのは運命だったのです。皐月姫…、お願いです。私に真の名前を教えてください。皐月姫という偽りの名前でなく、真の名前を呼んで貴女を愛し抜きたい」
正儀の胸元に佐野は顔を埋めた。佐野の耳に聞こえてきたのは正儀の鼓動。心臓の打ち鳴らす力強い鼓動は、早かった。正儀が緊張している証だ。どうやら、正儀の気持ちは本心のようだ。
その鼓動の音の心地よさを佐野は初めて知った。恋をすれば、鼓動すら愛しくなってしまうと。一種の呪いのような呪縛性に佐野は囚われてしまった。
正儀は佐野の黒髪に触れてさらに距離を詰める。そして佐野は正儀の鼓動を聞きながら、口を動かした。
「私の名は、伊賀佐野です。南領帝の女官でございます」
「…そうでしたか。佐野!」
正儀は佐野の名前を何度も連呼し、佐野の体を奪い去った。佐野は正儀の強い腕に抱かれながら、されるがままに受け入れた。初めて知る男性のぬくもりと、愛しさ。
正儀は佐野に激しく口付けながら、着物の襟に手を伸ばす。佐野の肩があらわになり、そこから正儀は佐野の肌に触れる。佐野は顔を赤くしながら、生まれたままの姿を晒し、正儀はそんな佐野をどんどん乱していく。
汗、涙、露。全てが愛おしくてたまらない。二人は互いの蜜を吸い尽くした。そして生まれる背徳感に涙を流した。どうして、愛した人間が敵なのかと。互いにこの事実が知れれば、身の破滅は避けられない。しかし、互いが愛しくて離れがたくて仕方ない。
森の中では鳥のさえずりのような佐野の声が聞こえてきた。その鳥のさえずりを覆い隠すように抱く正儀。秘密の逢瀬は終わりを知らずに続けられた。
冷たい温度を背中に感じながら、二人は互いを求め合い、月しか知らない逢瀬を続けていくのであった。
数日後のこと。
佐野は南領帝に呼ばれた。南領帝は佐野を訝しげに見ている。一体何があったのか不安を抱きながら佐野は南領帝の前へやってくる。するとどこからともなく兵士たちが現れ、佐野を捉えた。佐野の腕を乱暴に掴み、動けないように捕縛する。
突然の出来事に佐野は思考が追いつかず、混乱する。佐野は南領帝にどういうことか問いただす。すると、南領帝は言った。
「佐野。お前が北領の若武者と通じているという告げ口があった。それは、真か?」
「南領帝! それはでまかせです! 私は断じてそんなことしておりません!」
「…フフッ。もはや、佐野の言葉など戯言にか聞こえぬ」
南領帝は笑い、佐野の目の前に一枚の書状を広げた。佐野はそれを見る。そこには、伊賀佐野が北領の有力武士・楠田氏の子息と恋愛関係にあるという内容が書かれた書状だった。その書状の送り主は、他でもない佐野の父・伊賀氏であった。
それを知った佐野は絶望の底へ叩きつけられた。父の言いつけを守らず、あの夜屋敷を抜け出して逢瀬を重ねた。しかし、屋敷を抜け出したところを伊賀氏は知っており、告げ口として南領帝へ提出したのだった。
兵士は女性の佐野に容赦なく力でねじ伏せ、佐野の体は畳に組み敷かれ、弁明の時間を与えてくれなかった。佐野は南領帝に告げ口をした父は一体どうなるのか? 伊賀家はどうなってしまうのか? と矢継ぎ早に聞いた。兵士の力が緩んだわずかな時間を見つけて口を動かした。
すると南領帝は言った。
「伊賀氏は責任を取ると言い残し、今朝切腹した。そして伊賀家はお前の代で取り潰し。そしてお前は処分が下るまで、牢に幽閉じゃ」
「そ、そんな…。何故、父上が?! お答えください! 何故父までこのような! 私たち伊賀家は南領帝に古くからお仕えしてきたはずです! それなのに何故、この仕打ち!」
「伊賀佐野! 全てはお前の犯した失態だ! 敵の若武者と不義密通をし、父を殺したのは伊賀佐野、お前の失態だ。さあ、この女を牢へ繋げ!」
南領帝は佐野を牢屋に閉じ込めるように兵士に命じた。佐野は涙を流しながら引き立てられた。そして兵士は佐野に足枷をはめ、薄暗い牢屋に入れた。佐野は地面に突っ伏して泣き崩れた。
偉大な父・伊賀氏を自分のせいで切腹に追い込んで殺してしまった、と。佐野は泣きながら謝罪の言葉をつぶやいていた。足枷で擦れて足からは血が出た。しかし、悲しみに落ちた佐野にとって痛みは感じなかった。
佐野は一人牢屋の中で絶望したのであった。
一方北領でも、正儀が北領帝に呼び出されていた。その内容は、南領の女性と密通していたのではないか? という疑惑を確かめるためだった。
「正儀。本当のことを教えてください」
「…この楠田正儀は、南領の娘御と恋仲であったことは間違いございません。しかし、北領のことを話したことは一度たりともありません! しかし、赦されないことをしたことには変わりない。北領帝のいかなる処罰も受けます。どうぞ、ご自由になされませ」
正儀は深く頭を下げた。北領帝は迷っていた。自分の一言で一人の人間の生死を決めてしまうからだ。まだ幼い幼帝には判断は難しかった。周囲からは裏切り者は断罪すべきという強い声が上がる。すると北領帝はすくっと立ち上がった。そして、正儀の前へやってきた。そして北領帝は小さな声で正儀に耳打ちをした。
それを聞いた正儀は驚き、深く頭を下げた。北領帝はこれまで、とこの場を切り上げて部屋へ戻った。
正儀は一人屋敷から出て行った。その瞬間に、正義に跪く部下が急いでやってきた。
「正儀さま! 一大事でございます!」
「一大事? それは?」
「南領の有力武士である伊賀氏が切腹あそばされたとのこと!」
「何?! 伊賀氏が?! 他に情報はないのか?!」
「伊賀氏には南領帝に仕えるご息女がいたそうですが、ご息女も捕縛されているとのことです!」
それを聞いた正儀は膝から崩れ落ちた。そして急いで佐野を奪還しなければならないと考えた。しかし、佐野を奪還するには南領へ侵入しなくてはならない。全てを欺かなくてはならないからだ。
そして夜になった。北領帝の前に正儀が跪いている。北領帝は言った。
「やっぱり行くのですか?」
「はい。私にとって大切な存在なのです。それが敵であっても…」
「正儀。私があのとき言ったこと、覚えていますか?」
北領帝が聞くと覚えてないわけがない、と正儀は言った。北領帝が正儀に耳打ちした言葉はこれだった。
「南領に行くなら、今夜もう一度私のところへ」
正儀はそれに従ってもう一度北領帝の元へやってきた。北領帝は正儀を見て寂しそうに笑った。北領の人間が南領に乗り込む意味を幼い北領帝でも、その意味を理解している。未だ収束が掴めないこの分離政権。敵方へ飛び込むのはすなわち死を意味する。
正儀を引き止めたい。出来ることなら死なせに行かせたくない。しかし、正儀の意志は固く、その意志を北領帝が覆すことなどできなかった。
「北領帝。私は禁断の恋に落ちました。もう私は人間ではありません」
「え? どういうことです?」
「私は南領有力武士・伊賀氏の娘である伊賀佐野に、ありのままの自分を見てもらい、それを貶すことなどなかった。今まで出会ったことのない女性だったのです。彼女のいない世界でなど、生きてはいけません。敵方と恋に落ちる。まさにこれは、夜叉の所業ですよ」
夜叉。
人の血肉を喰らう恐ろしい化け物。禁断の恋に落ちると、人間ではなく夜叉と呼ばれる。それがこの国の古くから語られる伝承だ。
正儀は立ち上がって進み出す。夜の闇に乗じて佐野を奪還するため動きだす。北領帝は正儀の名前を呼んで呼び止めた。しかし、正儀は私は夜叉に身を堕としたから、気安くそんな風に呼んでは神聖な北領帝に仇なすと告げた。
しかし、そんなことを北領帝はどうでもよかった。夜叉に身を堕としても、正儀は尊敬するべき人間であること。北領帝は流れる涙を堪えながら、北領を統べる人間として正儀に言った。
「必ず生きて戻ってきて! もし、死する場合は屍を必ず北領へ持ち帰る! そして、伊賀佐野も私が責任を持って丁重にもてなす! だから…必ず帰ってきて!」
「北領帝…。我儘を汲んでいただき、感謝感激です。では、行ってまいります!」
正儀は刀を持ち、森の中へ走って行った。闇夜に消えて行く正儀を北領帝は静かに見守り、その小さな手で祈り続けた。
一方南領では、南領帝が動き始めていた。南領帝にとってみれば、佐野はすでに裏切り者として扱われている。今までの優しい偉大な南領帝の姿はどこにもなかった。南領帝は佐野の処刑を考えていた。女性という恩賞は一切なしで、父である伊賀氏と同じような悲惨な最期を与えようと画策していた。
北領帝はいつかこの分離政権を一つにしたいという考えではあるが、南領帝はそれに反対の考えを持っていた。北領に関係すれば極刑に処す。それが南領帝の考え方だった。そして、南領帝はついに命令を下す。
「伊賀佐野をここへ連れて参れ!」
南領帝の命令により、牢屋に監禁されていた佐野が牢屋から引っ立てられた。白い着物に真っ赤な血を滲ませた足。重い足枷を引きずり、兵士に周りを包囲されながら歩く。佐野にはもう生きる希望などなかった。
もう自分は生きていても生き恥を晒すだけだと。いっそのこと一思いに斬り殺して欲しいと思うのだった。しかし、心残りは正儀のことだ。あの夜の逢瀬を佐野は忘れない。想いの正体を恋情だと教えてくれた正儀に、最期に一目で良いから会いたかった。それだけが、佐野の後悔だった。
佐野はそんなのは甘い幻想だと現実を強制的に見る。真っ暗な闇の中を松明を持った兵士たちに囲まれながら歩いた。
しかし、次の瞬間だった。兵士の一人がギャッ! と断末魔をあげた。佐野が振り返ると、その兵士の喉元に矢が刺さり、絶命していた。佐野は咄嗟に身をかがめた。奇襲に兵士たちは慌てて対応に追われる。佐野は重い足枷と戦いながら、兵士たちの間をかいくぐる。
佐野は体術にも武術にも優れている。身のこなしなど女性の佐野にしてみれば容易いことだ。佐野は矢という見えない恐怖に怯えながらも必死に、抜け出した。佐野が抜け出して矢が射られないように建物を盾にして身を隠した。
佐野の耳に聞こえてくるのは兵士たちの断末魔。一体誰が狙っているのだろうか? と思案する。しかし、佐野の命を狙う人間などこの状況になってからとても多い。佐野は反撃する何かを持っていない。大人しく隠れるしかなかった。
兵士たちの断末魔がなくなり、佐野は建物の影から抜け出した。戻るとそこには大量の兵士の屍体が無造作に転がっていた。血が大量に流れ、目が開いたまま死んでいた。そして松明の火が屍体を燃やさんとしている。
人間の肉が燃える生々しい匂いが佐野の鼻を刺激し、顔をしかめる。すると、佐野の背後に人影が現れ、佐野の口を押さえ佐野の体を浮かばせた。佐野は必死に抵抗する。しかし、牢屋に入れられ弱った佐野には抵抗しても無駄だった。
すると佐野の耳に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「手荒なことをして申し訳ない。皐月姫、大事はないか?」
「…その声は」
佐野が振り返る。佐野のことを「皐月姫」と呼ぶのは、この世界でただ一人。松明の明かりに照らされて映った顔は、佐野が今一番会いたい人だった。鎧に身を固めた、楠田正儀だった。
「楠田さま…? どうして…?!」
「あなたが捕縛されたと聞いて、助けに参りました。こんなに窶れて…、美しい顔が台無しですね。本当に…許せない」
「私などどうでもいいのです。私のせいで父は…。私が楠田さまに会ったから…!」
「皐月姫。お父上はあなたを守る為に切腹したのです。私たちが出会うのは避けられなかった。魂が惹かれるものを拒むことなどできないのです」
佐野の温もりを確かめるかのように正儀は抱きしめた。あの時の体とは明らかに違う。華奢な体だった。正儀は佐野に言った。
私はあなたを助けに来た、と。北領帝はあなたを受け入れると承諾してくれたと話す。それには佐野は驚いたが、そんな命知らずなことをどうしてするのかと佐野は聞いた。
正儀は静かに笑った。
「私は夜叉です。絶対に好きになってはいけない人に恋い焦がれた。私は、人を辞めたのですよ。皐月姫、あなたがいれば…私はそれでいい…。地獄の業火に焼かれようと…」
「では私も夜叉ですね…。私も、あなたさえいればそれでいい…。あなたと共に地獄へ行けるなら本望です」
佐野はそう返した。
しかし悠長に再会を喜び逢瀬を重ねさせてはくれなかった。正儀は死んだ兵士の懐から足枷の鍵を見つけ、佐野の足枷を解錠した。追っ手が来るのも時間の問題である。正儀は佐野を連れて森の中へ逃げ込んだ。佐野を北領へ連れていく為の近道だからだ。窶れたからだでヘトヘトになりながら、佐野は正儀の護衛の元付いて行った。
二人が逃げ去った後、兵士たちの屍体を見た南領帝は怒りに震えた。そして、佐野の足を拘束していた足枷まで捨てられている。南領帝は兵士たちに指示を出す。
「伊賀佐野と楠田を殺せ! 見つけ次第殺せ!」
南領帝が指示を出すと兵士たちは森の中へ入っていった。正儀と佐野は暗い森の中を逃げる。北領へ進んでいるだろうがどこまで進んでいるかは分からない。佐野は追っ手がやってきたことを悟り、正儀に言った。
「追っ手が来た!」
「ここは私が応戦します!」
「楠田さま! 武術苦手じゃ!」
「武術は苦手です。しかし、やらねばならない時があるのですよ! 我々は夜叉に身を堕としたんですよ。化け物に慄いてそう簡単に襲わない…」
正儀と佐野は逃げたがあっという間に兵士に囲まれた。佐野は正儀の後ろに隠れた。正儀は刀を抜いて見合う。
「伊賀佐野! 覚悟せよ!」
兵士が襲いかかると、正儀が応戦し斬りつける。刀には血が付着し、ドロっと滴り落ちる。正儀は自分が北領の武士であることを明かし、佐野を奪還しに来たことを伝えた。佐野を守りながらなんとか応戦するが、正儀も斬り付けられて死がちらつく。
佐野も体術を駆使して刀を避けながら、兵士を退いていく。丸腰だからこそ疾走感のある動きに兵士たちにも慄いた。
正儀は佐野の援助を受けながら、応戦していく。
正儀の体には大量の傷。致命傷もある。佐野も無事ではなく、怪我をし、血が流れている。真っ白な着物は鶴のように赤く染まった。そして、二人の周りには正儀が斬り殺した兵士の屍体がゴロゴロと転がっていた。森の中が凄惨な現場になり、背中が悪寒するような光景だった。
正儀が膝をつくとそれを佐野が支えた。佐野が支えながら歩いていくが、佐野も限界が来て足が止まってしまった。歩いてきた地面には正儀から流れた血の跡が残っていた。
「皐月姫…。私はもう…限界かもしれません」
「そんなこと…言わないでください!」
「私は…武術が苦手で…、武士なのにって散々言われてきました。しかし…、皐月姫、貴女だけは違った…。貴女は蔑むどころか、笑って…慰めてくれた…。そんな貴女に…、私はいつしか…全てを奪い去りたいと…思うほど恋い焦がれていた…。まさに…天女だった…」
正儀の手は血に染まり、もう刀を握る力は残っていない。佐野はその手に触れて額に当てた。正儀は弱々しいその手で佐野の目に浮かんだ涙をぬぐった。
正儀は横たわり、佐野の膝を枕に仰向けになり、佐野は正儀の顔を覗き込むような形になった。正儀はすでに虫の息で、いつあの世に旅立ってしまうか分からない。佐野は必死にこの世につなぎ止めようと、声をかけ続けた。
しかし、佐野もまた怪我を負い、意識が朦朧としてきている。佐野の体がぐらりと揺れて正儀に覆いかぶさる。正儀は佐野の体を揺らし、佐野の意識を戻させる。佐野は目を開けた。
正儀は言った。
「皐月姫、いや…佐野。貴女が愛しくてたまらない。愛しの佐野…」
「どうして敵同士だったのか…。今度は戦のない平和な世で…会えたら…。その時は…」
「その時は…私の、妻に…」
「…勿論です。正儀さま…!」
佐野は自ら正儀に口付ける。それは雲が触れるような優しいものだ。離れたと思った次の瞬間だった。それでは物足りないと思ったのか、正儀が佐野の顔を掴んで再び近づけさせ、口付けた。
「?!」
佐野は驚くが、正儀が解放してくれなかった。吐息が絡み合い、佐野が逃げれば正儀が追いかけ、佐野のものを捕まえて、強引に絡ませていく。二人は、死に際の最期の逢瀬を重ねたのだった。
まるで血を貪り、互いを激しく求める夜叉のように求め合った。痛みは感じなかった。触れ合った時の鋭い痛みは、甘さに負けて無くなっていた。二人は人知れず、血まみれになりながら互いを求め合った。
そして翌朝。
森の中で北領の武士が発見したのは大量の兵士の屍体。そしてそのそばで、楠田正儀と伊賀佐野の屍体も発見された。二人は血まみれで目を覆いたくなる無残さだったが、表情は安らかでどこか、安心したかのようにも見えた。正儀は佐野の体をしっかり支えており、どこにも逃さまいと思わせているかのようでもあった。
このことは北領帝の元へすぐに知らされた。北領帝は、最悪の想定になってしまったことに嘆き、悲しみに暮れた。北領帝は生前の正儀との約束を果たすため、正儀と佐野の屍体を、丁重に北領へ運ぶように指示を出し、二人は丁重に運ばれた。
正儀の屍体を目にした北領帝は正儀の屍体にすがって泣き崩れた。
「正儀! 戻ってくると約束してくれたではないか!」
そして佐野の屍体にも手を合わせ、佐野の手に優しく触れた。そして物言わぬ佐野の屍体にも言葉をかけた。
「佐野さま。あの世で…正儀をよろしく頼むぞ」
北領帝の指示で二人の葬儀が厳かに神聖に行われた。しかし、二人は敵同士で禁断の恋をしたということもあり、夜叉として噂が広がってしまった。いつしか二人は、悲劇の恋人から、禁断の恋に溺れた夜叉という化け物へ成り果ててしまったのだった。しかし、そう言われていたのは数カ月程度で二人の記憶は時とともに風化して忘れ去られてしまっていくのであった。
それから十年後。
北領帝の屋敷に次の南領帝がやってきた。
「これからは北と南を合併し、一つの政権の元、政治を行うこととする。これに異はありませんか?」
「いいえ。ございません。全ては平和のためです」
立派に成長した北領帝が締結したのが、北と南の合併だ。これは北領帝の悲願だった。これで戦のない平和な世を作れると北領帝は確信した。
締結の後、北領帝は南領帝を連れてある場所へ向かった。
「ここは?」
「十年前に亡くなった楠田正儀と伊賀佐野の墓です」
「伊賀佐野は…南領の…」
「そうです。この二人は…北と南に分かれていながら禁断の恋に落ち、夜叉と呼ばれた者たちです」
北領帝はそう教えた。南領帝は静かに手を合わせて冥福を祈った。そして北領帝も同じように手を合わせたが、合わせて花を手向けた。それは綺麗な躑躅の花だった。
「正儀。佐野さま。必ずや平和な世にしてみせる。見守っていてくれ」
北領帝と南領帝は何度も墓に対して頭を下げて、戻っていった。
北領帝は平和の礎になった二人に敬意を払い、二人に新しい名前を与えたたのでございます。それは、「躑躅夜叉」。二人が出会った皐月の頃に咲く花で、皐月の頃になれば森の中の躑躅の花がいっぺんに咲き乱れることから、北領帝が命名されたのでございます。
北と南が合併しても北領帝は晩年まで、墓参りを欠かすことなく行い、皐月の頃になると墓にはたくさんの躑躅の花が献花されるようになったのでございます。
記憶の彼方に飛ばされた悲しい物語は美しい美談として語られ、後世にまで語り継がれていくのでございます。
これが、北と南に分かれた異様な時代を生き抜いた、躑躅夜叉の物語の終幕でございます。
完