9th day.-1/裏切りの聖者/ISCARIOT
―――悠久な空の下。最後に見たものは何だっただろう。
あの日のことは、よく覚えている。暁の空、いつも傍にいたはずの彼はいなくて、いつも聞こえていたはずの天使様の声はなかった。自らに与えられた運命は、ここまでなんだと理解した。あの塔の中からでは、沈み行く月を眺めることしかできないけれど。そうして、その日の明け方、一つ目の人生に幕を下ろした。
―――いつも見ていた空。黒い哀しみに覆われた大地に対面して広がる、蒼い空。広大な大地の上を、さも自由に流れる白い雲に目を奪われた。
その空を見て思う。あの時、いったい何を見ていたのだろうと。あの時、いったい何を目指していたのだろうと。幾星霜の時を越え、再び地に立つことになった今では、彼との誓いを成し遂げることができただろうか。
「―――お前は今もなお、"声"を聞いているのか?」
男が尋ねた。今となっては、その"声"のことはよく覚えていない。何を言われ、何を目指したのか。今となっては、過ぎ去りし出来事だ。
「その"信託"は、我々に勝利を導いた。その声により、我々は王を護る事が出来た」
寡黙の男が口を開く。大柄の男が、手に持った厚手の本を閉じ、静かにそう言った。
「お前の聞くその"声"には、非常に興味が沸く。なんせ魔術に徹する身故、天の声を聞くことが出来ることは夢のそれだ。尤も、世界が正反対にひっくり返ろうとも、私にはその声を聞くことは出来ないだろうがな」
謙虚に唱えた言葉でも、男の表情はどこか違っていた。信頼して背中を任せていた男だ。その男の表情には、正直驚いた。
「それでも、時々思うのだよ。お前が生きているのは、その声の加護によるものだとな。先ほどの戦いでも、お前はどこか先を急いでいるように見えた。神の加護か。或いは。お前の力量か。今となっては、確かめる術はない。ただ、私には生き急いでいるようにしか思えない」
「・・・・・・心配はするさ。なんせ、お前はまだ若い」
よほど、こちらの表情が印象的だったのだろう。暫しの沈黙の後、男は言葉を続けた。
「やはり、私はお前が戦っている姿は見たくない」
何度目の言葉だろう。初めて会った日から、幾度となく言われてきた言葉だ。
初めはこの身を馬鹿にしたものだった。次第に男はこちらを認め始め、それでもその言葉を紡ぎ続けた。今の男の言葉は、この身を想ってのこと。その声を容易に聞くこともできたはずだ。
それでも、この身に語りかけられる声が途切れるまで、立ち止まることは許されない。使命を遂行するその日まで戦い続けると、すでに誓いは立てた。
「・・・・・・そうだろうな。お前なら、そう言うと思っていた」
なら、なぜ問いかけるのか。男にとってのささやかな願いは、決して叶うことはない。男自身もそれに気付いているはずだ。それを知っていて、なぜ男は問うのか。
「戦いに身を置く者同士、やはり答えは決まっている。騎士から剣を奪うことなど、無礼もいいところだ」
意外とあっさりと男は言葉を受け入れた。それはきっと、先のこの身を知ってのことか。魔法にとって『未来』とは、不確定なものであり、そして変動的なものだ。不確定だからこそ、崩れやすい。変動的だからこそ、永遠がない。それ故に、あの丘で処刑されるその日まで、この身を戦いに置かせてくれたのかもしれない。
「お前がそうありたいのなら、そうあるのが一番だ。私にとって、お前は世界の全てだ。その世界を否定できるほど、私に力はない。ただ、そんな諦めの悪い女の身を案じていた莫迦な男がいたというだけの話だ。その男が、世界のために心を殺したに過ぎんよ」
哀愁に暮れ、遠くに広がる赤い空を眺めながら男は呟いた。
「お前が望む世界を、私も望んでいる。―――これは、そのための戦いだ」
男が深い空に向かって手を伸ばす。男とはそれっきり、その後に姿を見た日はない。
―――悠久な空の下。戦友と交わした最後の誓い。叶えたければ、望め。望むのなら、叶えよう。決して覆ることのない、争いのない未来のために。
彼と共に望んだ世界のために、―――
裏切りの聖者/9th day.
―――気付けば、電灯の光が目に痛かった。左腕を上げて光を遮る。それでも光は否応無しに覆いかぶさってきた。仕方なく、右腕も上げて光を遮る。それでやっと眩しさが消えた。
身体を起こす。そこでようやく、自分が居間で横になっていたことに気付いた。立ち上がろうとして、身体に違和感を覚えた。戦いはとうに終了しているはず。全身にかかっていた緊張が解けているからだろうか、身体の妙な軽さが気持ち悪い。
「っ―――」
ようやく思考がまともになったところで、左腕の痛みを感じた。見れば、―――先程であったはずの左腕 がない。
―――ああ、なんだ。そういうことか。
戦いの記憶が脳内を奔る。
―――簡単なことだ。亡いのなら、失っただけじゃないか。
「五体満足でなくなる経験は初めてですね。なるほど、これでは厳しい戦いにもなるはずです」
失った腕を見て、頭を振って未練を振り払った。亡くなったことに後悔していれば、きっとこの先余計に辛くなるだけだ。ならさっさと受け入れたほうが、自分のためになることは明らかだ。
「ん―――」
隣で静かに寝息を立てている存在に気付いた。居間のテーブルに汚れた格好で頭を預けて眠っている。傍には水の張った桶とタオルが置かれていた。
「アオイ・・・・・・」
誓いがあった。彼女を護り通すと。誓いがあった。我々の敵を討つと。誓いがあった。誓いがあった、はずなのに―――
「くっ―――」
頬を涙が濡らしていた。傷こそは残っていない。しかし、彼女との誓いを達成できなかったことに涙した。悔しい、という感情とは少し違う。例えるのなら、それは―――
「―――目が覚めたみたいッスね」
アルスが居間の扉を開けて入ってきた。アルスに気付かれぬよう涙を拭う。
「ええ、先ほど。どうやら暫く気を失っていたようですね」
あれだけの傷だ。起き抜けとはいえ、あの衝撃は脳を焦がした。刺すような熱さ。熔けるような痛み。身を徹して彼女をかばったことで受けた代償は、思ったよりも大きかった。
「"リドヴィナ"により傷自体は完全に塞がりましたが、流した血の量が多過ぎたようです」
頭はまだ少しクラクラとしていた。失ったはずの血まで修復するには、まだ少し時間がかかりそうだ。
「力を使いすぎたってのも関係してるみたいッスけど。先の戦闘で―――何回解放した?」
「・・・・・・何のことです?」
「あんたに魔法特性がないことは知っていやす。腐っても神剣は神代の宝具ッス。魔法よりも崇高なものだ。そんな神剣をあんた解放できたってことは、それなりの代償があるのは道理でしょ?」
「・・・・・・察しがいいんですね、あなたは。全てお見通しですか」
「それなりには、と言っときましょうか。オイラの算段では、クゲンとダンナの時。すでに二回は解放したんじゃないんすか?」
「ええ。その通りです」
「なら、これだけは言っておきやす。あれはもう使わないほうがいい。元々魔法の使えないあんたにはあれは強力過ぎる。加えて、その腕では、支えることすら危うい」
「ええ。自分でも薄々気付いていました。ですが安心なさい、アルス。これでも、引き際は承知しているつもりです」
「・・・・・・あんたはマスターと似てるから信用できんす」
「あははっ、そこまで言いますか。ですが、・・・・・・大丈夫ですよ。騎士として、主の命を護る為にも自殺行為はしません」
軽くあしらったつもりはない。主を"護り通す"と誓った以上、"刺し違える"という概念は持っていない。全力を賭し、確実に敵を討つ。騎士として、身を徹して護る事はあっても、刺し違えて得る勝利など愚かでしかない。先に続かぬ守護など、守護ではない。その場凌ぎの勝利など、決して勝利とはいえない。腕一本の犠牲だけで、葵の身を護ることが出来るという確信があったからこそ。
「日はとっくに暮れてる。ダンナの方も、すでに決着がついてるはずッス」
「アルス。そのことについて話があります」
居間の冊子を開け、庭を眺める。大きく穿たれた庭には、未だ微かに魔力の残り香がした。殺意を孕んだ、必殺の魔。無造作に拡散する、絶つ刃。雷の顎と化す、太陽神の神槍。全てが、あの戦いで乱舞した『否定』の形。その『否定』の全てを、ジーンは己の全力をもって対抗した。だが、彼女にはその戦いの真意の全てを未だ明確には掴めていない。
「そのことについて、順を追って説明しやしょう」
暁はとうに過ぎた空。日はとうに暮れた空。紫がかる空の下、物語の真意が紡がれる。
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