ヒューバートは幸せなぬいぐるみ
拙作、『リーゼと、ケビンと、ヒューバート』のその後のお話になります。
「やあケビン、おかえり! 街の学校は楽しかったかな?」
「……びっくりした。こっちに来ているなら先にそう言ってよ、ヒューバート」
ヒューバートは熊のぬいぐるみだ。身体は大きめで茶色くて、柔らかい素材によってできている。山間の小さな村に住んでいる、リーゼという名前の女の子がまだ小さかった頃、クリスマスプレゼントとして贈られた。それからは、ずっと彼女の友達である。
そんなヒューバートが声を掛けた相手、ケビン少年は出入り口に立ったままあちこちに視線を走らせて、近くに他の家族がいない事を確認しているらしい。何故ならヒューバートと話ができるのは彼だけなので、傍から見ると、独り言を呟いているようにしか見えないからだ。
ヒューバートが普通のぬいぐるみと少し違うのは、持ち主以外の友達がいて、彼とだけは言葉のやり取りができる事だ。リーゼとケビンは幼なじみで、今でもよく一緒に遊ぶ仲である。
このぬいぐるみの持ち出し許可が出ているのは、このケビンの家だけだ。以前に起きた事件の事を考慮すれば、当然の決め事とも言える。また、その当事者でもあったケビンが信頼を取り戻すために努力した結果でもあった。
今、ケビンのお母さんは近くの商店へ買い物へ行き、お父さんは仕事で朝から外出している。それからぬいぐるみをここへ連れて来た彼の可愛い妹も、今は外へ遊びに出掛けてしまった。
「……じゃあ牛飼いさんの所に子猫が生まれて、それを見に行ったと」
「そうそう、五匹もいるんだって」
二人の家にはそれぞれ小さな妹がいて、まだヒューバートを無邪気に、遊び友達に加えるお年頃である。今日はちゃんと持ち主の許可をとって、ケビンの家で一緒に遊ぶために連れ出されたのだが、突然入ったビッグニュースによって、ぬいぐるみは取り残される事になった。
「まあ、そういう時もあるさ。ヒューバートも元気出しなよ」
「別に落ち込んではいないけど」
彼はヒューバートを慰めるような事を言いつつ、戸棚から母親手作りのお菓子を取って来て、暖かい紅茶を淹れて、用意したカップはちゃんと二つ分である。湯気がふわふわと上がって、美味しそうな香りを、ぬいぐるみも一緒に味わった。
それからケビンは膝掛けの代わり、とか何とか言ってぬいぐるみを膝に乗せ、それからカバンから難しそうな本を取り出した。
彼は今年の春から、山の向こうの街の学校に通っている。彼の説明によると、頭の良い子供を集めた特別な場所らしい。リーゼも行きたがったけど、お父さんが女の子は心配だからと首を縦に振らなかった。
なんでも知り合いの娘さんが同じように街へ出て行って、そのままそこで恋人を作って、なかなか戻って来なくなってしまったという話を聞いたのだ。それ以来、心配でたまらないらしい。
そういうわけで頭の良いケビンは他の子供達とは一人だけ別の進路を選び、週末になると家に帰って来る生活だ。彼は机の上に、文字の細かい本を広げて読み始めた。何も知らない人が見たら、ぬいぐるみを可愛がるファンシーな趣味の男の子だな、とも思うかもしれない。
しかし構ってくれるのは楽しいので、ヒューバートは喜んで一緒にページを眺めた。ちなみにリーゼは華奢な女の子なので、これと同じ態勢で何か作業をする、というのは少し難しい。いつも隣の席の椅子に置いてもらえる。
「……難しい本だね」
「これを読み込んで、週明けに先生と意見交換やるんだよ。面倒だろ」
ヒューバートがページの半分を追う前にケビンが手元を捲るので、難解な内容の半分も頭に入らなかった。
ケビンはカップの中身を飲み切ったあたりで飽きた、と本を閉じた。代わりに席を立って二階の自分の部屋へ行って、大きなお菓子の缶を持って来た。近所に住んでいる娘さんのいないお婆さんが、自分はもう目が悪くなってしまったから、とケビンに譲ってくれた裁縫箱である。
彼は、男の子にしては珍しく、お裁縫が趣味だ。そこら辺の女の子よりは上手だとのお墨付きを周囲からもらっているほど。ケビンは箱の中から、街のお店で手に入れた真鍮製の指貫を嵌めた。
「あ、シロクマの帽子を作ってくれる約束だったんだよね」
前に会った時のやり取りをヒューバートは思い出して声を弾ませたが、ケビンからの返答にはやや間が空いた。
「……白い生地を切らしているからさ、また来年てことで。今年はペンギンでよろしく」
「そんなあ」
ちなみに現在のヒューバートは、羽が一本飾ってあるモスグリーンの帽子、それにベストを羽織っていて、木こりみたいな恰好をしている。季節ごとの衣装はもう一通り作り終えてしまって、そこからは警察官やらお医者さんやらの職業の制服をそれらしく自作して着せてくれた。それも一通り思いつくだけ製作した後は、動物の着ぐるみみたいな作品を延々と作っては、熊のぬいぐるみを着せ替え人形にして遊んでいる。
ケビンの操る糸と針が、生地の間を往復する音が規則的に聞こえた。初めて針を持った時、彼は頻繁に自分の指を刺して涙目になっていたが、今はとても作業の進行が滑らかである。針にも色々な種類があって、たとえば刺繍用の針は先が少し丸くなっていて、と豆知識を披露してくれた事もあった。
「ねえケビン、街の女の子ってやっぱりお洒落で可愛い?」
それが一段落した辺りでヒューバートは口を開いた。何が聞きたいんだよ、とケビンも手を止めたので、膝の上のぬいぐるみはええとね、と先を続けた。
リーゼと同じ学校の男の子が街へ遊びに行った時、お洒落で可愛い女の子を見掛けたらしい。そこから、ケビンは毎日あのようなお洒落な娘達と一緒に勉強をしていて羨ましいよな、という主旨の話になった。
そこで止めておけば良かったのに、同級生の中ではお調子者の彼はよりによって、たまたま近くにいたヒューバートの持ち主、つまりリーゼに向かって話を振った。
しかし彼女より先に、それは一体どういう意味なの、と気の強いお姉さん肌の女の子が反論して、と教室は少しばかり刺々しい雰囲気に包まれた。そして最終的に、ケビンを捕まえて聞いてみよう、みたいな結論になったらしい。
みんなお年頃になって、男の子達はガキ大将で目の上のたんこぶケビンがいなくなったのでそわそわしており、女の子達はいつも山間の村は流行におくれがち、と嘆いている。
リーゼは家に帰って来て、ヒューバートにぽつぽつとそんな話をしてくれた。その後は妹にからかわれつつも、小さい時と同じように、ぬいぐるみを抱っこしたままベッドに潜り込んだ。
同じ学校に行きたかったな、と小さな呟きを、ヒューバートだけが聞く事ができた。
「……みんな、子供じゃないんだからさあ」
ぬいぐるみが相手の反応を窺いながら話をすると、ケビンは呆れながら作業を再開した。ヒューバートはただ、膝にぬいぐるみを乗せている奴にだけは言われたくないだろうな、と思う。
別に、聞き手からの大袈裟な反応が欲しかったわけではない。事前に情報を与えておけば、ケビンはリーゼが嫌な気分になるような受け答えはしないはずだ。ヒューバートには持ち主やその周囲の世間話は耳に入るし、ケビンとは意思の疎通ができる。ぬいぐるみには大事な役目があるのだ。
「……もし、本当にかわいい子がいたら」
しばらくして、その話はてっきり終わったと思っていたぬいぐるみは、ぼそぼそと歯切れの悪いケビンの返事に耳を傾けた。
「うん?」
「ペンギンのくちばしから顔を出すぬいぐるみなんて作ってないよ」
そっか、とヒューバートはその答えで納得する。ケビンも気を引きたくて大変だね、としんみりした気分で相槌を打った。みんなお年頃である。うるさいな、とむっとしたケビンの声が上から降って来た。身体は随分大きくなったけれど、大事な気持ちまで変わってしまったわけではない。
「ああ、ケビン。おかえり、ちょっと外から薪を取って来てくれない?」
「はーい」
ケビンのお母さんが外の買い物から帰って来た。息子は言いつけに素直に従って席を立った。扉の外から気配がした時に、ケビンは素早くヒューバートを膝から下ろして、ただ趣味に没頭していただけですよ、という態を作ってからその場を離れた。
しかし読みかけの本や広げられた裁縫道具はともかく、二人分のカップを片づけ忘れたままだ。クマのぬいぐるみと目が合ったケビンのお母さんが、相変わらずファンシーな趣味ねえ、と苦笑しているのが聞こえる。僕もそう思います、と相手に聞こえないのはわかっていたけれど、ヒューバートも同意しておいた。
その後も、ケビンのお母さんが台所から、息子にあれこれと主に力仕事を割り振るのに、はいはい、と彼は何度か席を立って、仕事を終えてはまた針作業を再開するのを繰り返しているうちに、段々と窓の外が暗くなって来た。
「僕の妹、そろそろ帰って来るかな。何か言っていた?」
「それがね、『すぐ帰って来るね』って言っていた」
キッチンの向こう側では母親が何か野菜を切っている音が聞こえているので、ケビンは声を潜めている。子猫を見に行ったままの妹達の事を気にしているようで、ちらちらと作業の合間に窓の外を眺めた。
「ただいま、ごめんねヒューバート! 帰らなきゃ」
それからほどなくして、玄関先が騒がしくなって、女の子二人の焦ったような声が聞こえた。リーゼは自分の妹に、大切なぬいぐるみを持ち出す許可は一応出しているが、それは夕食までに所定の位置にちゃんと戻す事、という約束である。
「ケビン、フィオナちゃんを家まで送って来て」
「……今から?」
台所から母親が、お皿を並べている息子へと声を掛けた。ぱたぱたと足音がして、帰って来たケビンの妹が私が送って行く、と言った。しかし夕食の支度を手伝って、と母親に窘められた。
顔を上げたケビンの視線の先、窓の外はもう真っ暗だ。寒そうだなあ、とさっきは母親からの言いつけを素直にこなしていたが、今は少し渋っている様子だ。
しかし、ヒューバートはこれが建前だとよく知っている。このやり取りを挟まないと、母親と妹からのいかにも意味深な目線が待っているからだ。
「夜遅くから雪って予報だから、家に帰れなくなるでしょ」
「お兄ちゃん、お願い」
「仕方がないなあ」
台詞とは裏腹に、ケビンはいそいそと出かける準備をした。学校指定のコートを羽織って手袋をつけて、リーゼの妹のフィオナと一緒に外へ出た。ランプをつけて夜道を照らし、同じ手でヒューバートを小脇に抱えて歩き出した。反対の手をリーゼの妹のフィオナが繋いで、足取りはゆっくりだ。
子供の頃はケビンもリーゼも、ヒューバートを両手で抱き抱えるようにして運んでくれたが、今の彼は片手で難なく運ぶ事ができる。彼はその分、大人に近づいたのだ、と熊のぬいぐるみはしみじみとした気分になった。
「悪いね、ケビン」
「ケビン君、何か面白い話して」
フィオナは姉そっくりの容姿で、リーゼの小さな頃の事をよく思い出させる。淡い明るいピンクや水色のコートが似合っていて可愛らしい。きっとそれは、ケビンも一緒なのだろう。彼は大人しく、彼女の小さな手をとって、ゆっくりとした足取りで歩き出した。
「じゃあ、子供の頃に読んだ絵本の話でもしよう。……ある寒い国に、友達のいない男の子がいました」
「名前当ててあげる。ケビンだよ、絶対」
「名前はトマス。彼は冬休みは学校へ行かなくて楽だな、と思いながら森の奥へ行くと、そこで雪の妖精達と出会ったのです……」
ヒューバートのいれた茶々を一蹴し、ケビンは小さな女の子と手元のぬいぐるみに向かって、何やら話を始めた。
ケビンが子供の頃に読んだお話の中で、孤独なトマス少年は雪の妖精達と友達になった。そり遊びで森中を探検し、雪のお人形を何体も作って出来栄えを競い、凍った池の上で度胸試しも試みた。雪の妖精の、氷のように透き通った繊細な髪や背中の羽、良く晴れた朝のような瞳の色を夢中で追っているうちに、春が近づいていた。
ある朝、トマスが森へ行くと、凍り付いた川の氷が割れて、下草の緑が目について、それから妖精達の姿はどこにもなかった。人間の学校へ戻って、そこで話は終わる。もしかしたら、と次の年に森へ行っても、もう二度と彼女達には会えないままだった。
空の上の方で、強い風が吹いている音が聞こえた。橋を渡っている三人の足元では、流れの速い小川が、ごうごうと冷たい水を下流に運んでいる。
「……寂しい話だね」
「妖精達はどこへ行ってしまったの?」
「うーん、トマスは大人になった、っていう話だと思ったけど」
ヒューバートとフィオナが口々に感想を言うと、ケビンも頷きながら言葉を返してくれた。白い息を吐きながら、少しずつリーゼの家に近付いている。この橋を渡れば、もう間もなくの帰り道だ。
手を繋ぎながら、フィオナは話に聞いたばかりの雪の妖精を探しているらしい。きょろきょろと、辺りを楽しそうに見回している。
「私ね、冬の服がお洒落だから、これからが一番好きな季節なの。雪が降るの、すごく楽しみなんだ」
「なるほどね。僕もそうだよ、冬が一番好き」
彼女の楽しそうな声が、暗い夜の道に明るく響く。目を細めて聞いているケビンは、まだ小さかった頃の事を思い出しているのだろう。優しい声で、相槌を打った。
「あ、お姉ちゃんだ」
リーゼの家の明りが見えて、彼女はケビンの手を離れて駆けて行った。帰りを待っていたらしい、姉の姿を見つけたからだろう。
「ヒューバート」
「なに?」
足取りはゆっくりのまま、ケビンがヒューバートに話しかけた。これから雪が積もるかな、とぼんやりしていたヒューバートが返事をすると、彼は白い息を吐きながらこう言った。
「子供の頃はさ、大人になった時に、君と話ができなくなる日も来るかもしれないって、思った事もあった」
「そうなんだ、へええ。僕はそんな事を思いつきもしなかった」
ケビンはリーゼの家の明りに近付いていく。帰って来た妹を抱きしめて、こんなに遅くなって、と軽く諫めている声が聞こえて来た。
「ケビン、雪の妖精達はきっとあれでしょ、いつまでも自分達と一緒に遊んでいたら、きっとトマス少年はいつまでも人間の中に馴染もうとしないだろうと心配して、突き放したんだ」
「多分、そうだったんじゃないかって思う。絵本の最後は、大人になったトマスが、自分の子供にその話をしている絵が描いてあったから」
すごい荒療治だ、とヒューバートは思う。トマスの人間不信が増々悪化しそうなお話だ。それから、もし自分だったらどうするだろうか、と少しだけ考えた。
「あのね、ケビン。もしかしたらいつか、話ができなくなる時が来るかもしれないけど、僕はいつだって、君とリーゼの一番になるような事をちゃんと考えているからね」
「……ありがとう」
「ケビン、ありがとう。寒かったでしょう?」
いや全然、とリーゼに出迎えられたケビンは、出立前はあんなに文句を言っていたのが嘘のように大人しい。一旦、家の中に引っ込んだフィオナが戻って来て、ケビンからぬいぐるみを受け取って、ヒューバートは暖かな家に帰って来た。
リーゼのお母さんは夕食を作っているようだ。この匂いはきっとグラタンだろうな、と香ばしいチーズの匂いを嗅いだ。
「ごめんね、ヒューバート。一人にしちゃって」
全然気にしていないよ、とぬいぐるみはしゅんとしている妹を慰めた。彼女はヒューバートを抱えて姉妹の部屋へ向かい、定位置である窓際に設置した。もうすぐクリスマスだもんね、と後ろで何か引き出しの奥をごそごそとやっている音が聞こえて来た。
元々着ていた帽子とベストを脱いで、何年か前にケビンが作った、トナカイの被り物を頭から被せられた。ここからはまだ外にいるケビンとリーゼの様子を窺う事はできないので、寝る前まではゆっくりしていよう、と一息ついた。
しかし幾らもしないうちに、リーゼが自分の部屋に駆け戻って来た。ごそごそとベッドの下を漁っている。それから立ち上がって、トナカイを被ったクマのぬいぐるみをぎゅっと抱き締めた。
「ねえヒューバート、私に少しだけ勇気を分けてくれるかしら」
「……大丈夫、大丈夫」
彼女に声は聞こえないはずだけれど、ヒューバートも一生懸命励ました。十秒くらいぬいぐるみを抱きしめていたリーゼは意を決したように、ぬいぐるみを元の位置に戻して部屋を出て行った。
さてどうなったかな、とヒューバートは一人、持ち主を案じていた。リーゼが部屋に戻ってくるまで暇だな、なんて考えていると、外からまたね、とケビンを見送っているらしい声が微かに聞こえた。
そして、リーゼの部屋の窓へ近寄って来る足音が聞こえる。やって来たケビンは、首に新しい襟巻をしていた。何を着ていても似合うようにシンプルな黒で、割と様になっている。彼は上機嫌だった。
「……ヒューバート、知っていたのに黙っていたな?」
「……でも、僕の口から先に知りたかったって顔でもないじゃん。言ったでしょ、一番を考えているって」
ぬいぐるみが親友にそう指摘してやると、しばらく間があった。まあね、と窓の外の彼は暖かそうなマフラーの位置を直した。
リーゼが数か月前から、毛糸とかぎ針を使って編んでいた襟巻は無事に、相手に渡す事ができたようだ。絶対ケビンが作った方が上手だよね、と何度か投げ出しそうになっていたが、どうやら全て上手く行ったらしい。
「……今年は要望通りにシロクマを作るよ」
「やったね、よろしくケビン」
ヒューバートは長い付き合いの友達がおやすみ、と手を振って遠ざかって行くのを見送った。部屋の外では賑やかな食事の声と音が始まっている。
ヒューバートは、幸せな気持ちのまま、持ち主の女の子が戻って来るのを待つ事にした。