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この物語をRに捧ぐ。

I hope you are my destiny.


肌を刺すような風が、冬を連れてきた。噎せ返るほどに空気が冷たくて、呼吸をするのが億劫になる。トドメを指すように、空からポツリと雫が落ちてくる。雫はちょうど、瞼の上に落ちてきて、傘を忘れたことを嘆くより先に、私を濡らした。

ジャケットのポケットに手を入れて、フードを被る。少しは雨を凌げるかと思ったけれど、急に降り始めた雨足は、優しい音ではないようだった。空を見上げると、真っ暗で、16時半の空とは思えないほど、黒く澱んでいる。小さな花のストラップをぶら下げたスマートフォンをバッグから取り出した。メールは来てない、もう五日目。今は便利なアプリで溢れているのに、その人はそれらを好まなかった。新着メールを確認しても、否定の文章がディスプレイに表示されるだけだった。空のように、泣きたかった。雨は心にも降るんだなと思った自分が虚しくて、私は涙を堪えるようにまた、天を仰ぐ。雨の粒が頬に落ちてきて、顔を濡らす。

せっかく施した化粧が落ちてしまう、そんなことも頭をよぎったけれど、気にする思考に至ることすらできない。

駅までは、この場所から10分くらい歩かなければならない。10分雨に濡れるよりも、目の前にあるコンビニで傘を買った方が早いと思った玲は、小走りでコンビニに向かった。活気のない店員の声が、少し煩わしい。店内はしんみりとしていて、客は玲と、カゴにお菓子やらジュースやら投げ込んだ親子しかいない。ビニール傘を1本手にして、チョコレートの陳列された売り場に向かう。落ち込んだ時はチョコレートを食べるのは、何年も前からの私の決まりだ。赤い箱の、12粒入ったチョコレート、銘柄まで決めてる。そういえば煙草も残り少なかったな、と思い返してレジへ向かう。

明るい茶色の髪の毛を頭の高い位置で束ねた若い女の子の店員は、早口にマニュアル通りの言葉を並べた。ため息を飲み込んでチョコレートと煙草の入った袋をバッグに投げ入れ、店をあとにする。コンビニの自動ドアを抜けて、駅の方角に歩き出したとき、1台の車が小さなコンビニの駐車場に入ってくる。思わず目を向けた。アイツと一緒の車種だ、目を背けるように傘を差して歩きだそうとしたら、ナンバープレートが視界の片隅に入った。見覚えのある羅列。

『絶対引くなよ?俺の好きな歌手の誕生日なんだ、ナンバープレート』

いつだったかのデートの帰り、あの人は言った。そのナンバーは今でも覚えてる。920。あ、そういえば、私が聞いたんだ、と鮮明に蘇った。

『なに、このナンバー、元カノの誕生日?』。あの人は苦笑いしながら、言葉を紡いだ。それを言ったあと私は確か、大笑いした。

『私のナンバー、野球選手の背番号って知ってる?』

『似たもの同士かよ、俺ら』

そうやって二人で笑った。馬鹿みたいに笑って、あの人は私の頭を小突いた。その思い出は、まだ季節が一つだけ前のことなのに、何年も昔の記憶みたいに思える。今目の前に現れたナンバーは、あの時笑いあった920で、思わず運転席に目をやる。栗色のパーマがかかった髪の毛は、前髪を隠して、その先に一重まぶたの薄い瞳が見える。いつか見たあの人だ、って他人事みたいに感じた。あの人はエンジンを止めて俯き、銜えたタバコを灰皿に傾けた。時間が止まったみたいに動き出せなくて、停止した思考を変えるように、タバコを1本私も取り出し、火をつける。湿気のせいかライターの火は反応しなくて、カチカチ無機質な音を立てた。

「良かったら使いますか?」

背後から声がした。背筋にぞくぞくと冷たい汗が伝うのがわかる。どうして分かってしまうのだろう。背中越しに向けられた声ですら、あの人だとわかった。知らない顔して振り向くか、このまま背を向けておくか。

「あ、大丈夫です」

私は後者を選択して、早く火をつけようと何度も着火を試みた。焦れば焦るほど、タバコの先に火は灯らなかった。

「これ、使ってください、それ、オイルないんじゃないんですか?」

少し掠れたワンオクターブ高めの声。いつも聞いてた声じゃない。私に気づいてないってわかった。

ライターを差し出そうとした声の主は、背を見せた私の正面に回り込んで、私の顔を見た瞬間、動きを止める。

「玲」

声は一瞬で、何度も聞いた懐かしい声に戻った。最後に名前を呼ばれたのはいつだったっけ。そんなことを脳の片隅で考えた。

いつもにましてパーマの髪の毛がうねっていて、1ヶ月前に会った時より髪が伸びて、生え際がすこし黒くなっている。

「やっぱり優くんだったんだ…」

少し上擦った声になった。もっと自然に装えるはずだったのに。あの人は後ろ頭をかきながら、私から視界を地面に落とす。行き場を失ったライターを手にしたあの人の指先からライターを奪って、漸くタバコに火をつけることが出来た。1口長めに煙を吸い込み、乾いた指先にフィルターを挟んだ。

「メール返さなくてごめん、俺…」

そういえば、後ろ頭をあの人がかくときは、困ってる時でも気まずさを感じる時でもなかった。謝る時だ。そんな、癖すらわかるのに、50センチ離れた距離からお互い近づくことすらできない。

「もういいよ、知ってるから。言わなくていい」

あの人は漸くこっちを見た。白い肌が少し赤い。目を細めて、私を眺めてる。

「玲、乗ってく?お詫びに」

少し時間を置いてあの人は言った。いつもピカピカになるまで磨いていたクラウンを指さして。

「なんのお詫びかわからないけど、雨強いし乗る」

やっと、笑った。おどけた私を茶化すように、口を大きく開けて笑った。




あの人と出会ったのは、友達との飲み会。友達が連れてきた先輩を、迎えに来たのがあの人だった。先輩と友達が、盛り上がって二次会に精を出す横で、一滴も飲んでないあの人とほろ酔いにすらならなかった私は置いてけぼりになった。友達と先輩を繁華街近くで降ろしたあと、あの人と私は二人きりでいろんな話をした。主に好きなバンドの話で、何故そのバンドの話の流れになったのか、とか、その時車内に流れた歌とか、細かいところまではっきり覚えてる。それほど楽しかった。家まで送ってくれたあの人は、帰り際に私に今どき申し訳ないけどと断ってアドレスを聞いてきた。そこから始まったメールのやり取りから2ヶ月経って、あの人と付き合った。あれから1年半経った五日前、終わった。


『玲、別れて』

『どうして?』


そのメールのやり取りからまだ五日しか経っていない。理由は分かっていた。共通の知り合いがいると、付き合いを続けていくには有難いけど、別れがちらつけば辛いものだった。『アイツ、他の女に惚れたみたい』。皮肉にも私とあの人を引き合わせた先輩からそう聞いた。あの人が私に伝えるように頼んだのかまでは分からなかったし知りたくもなかった。飲み込むしかなかった。私よりも大切にしたい女性が現れただけ。せめてそう思うように心がけて、いい女の振りをした。泣すがることも、取り戻すことも出来ないくらい、彼への熱が無くなったと、その時知った。



あの人はコンビニに入って、自分のタバコと私のタバコを2箱ずつ買ってきた。ついでに赤い箱のチョコレートも。よく知ってるなって感心する。さっき買わなければよかったなと一瞬だけ思ったけど、すぐにその感情を消し去って、素直にありがとうと感謝を述べた。クラウンの助手席に乗り込むと、あのバンドの歌が流れる。敢えてそうした訳では無いだろうけれど、私たちの共通点として、初めて成り立った歌だった。


『もう2時って。玲ちゃん、明日朝wake me upね』

『英語2だからわかりません!』

『残念』

『わかった!起こして!RADWIMPSで知った!』

『RAD好きなの?』


RADWIMPSのその曲は、私たちの思い出を飾るテーマソングみたいになっていた。デートの帰り道に私が一方的に怒って沈黙を続けた車内でも、くだらないことを話疲れたときも、彼が私に想いを伝える時も、あの人は意図してこの曲を流した。だけれど、今は違う。Bメロから流れたその曲は、彼が仕向けたわけではなくて、ただの偶然の賜物だ。

車内は甘い匂いが漂っている。あの人が吸ってるタバコの銘柄の香り。キャスターマイルド。甘ったるいバニラの香りが私は好きではないから辞めてって喧嘩したこともある。小さなこと一つ一つに記憶が詰まっていた。

雨に濡れた顔を拭わなくてよかった。目を赤く充血させる水分の正体を、うまい具合に誤魔化せると思ったから。今の私にはまだ、この空間は、ただ辛かった。

「お客さん、どちらまで?」

「一の丘住宅まで」

「メーターあげときますね」

そう笑った運転席の彼を見たら、彼もまた私を見つめていた。サイドブレーキをあげて、チェンジレバーをドライブにいれる。走り出した車の中で、あの人にバレないようにこっそりと重い息を吐いた。

海沿いをただひたすら走るこの道は、数えきれないほど通った。いつもなら弾む会話も今日は二人黙っていて、続かない。話したことは彼の好きな野球チームの調子とか私の好きな選手の成績のことだけ。

カーブを超えて、住宅街が見えてきたら左折する。そこをしばらく走ると小さな公園があって、いつも此処で私を下ろしてくれた。私の家までこの場所から5分くらいかかるけど、そこに車を停めて、歩いて家まで送ってくれた。

「2400円です」

おちゃらけたよう彼は笑った。目じりを少し下ろして、ついでに眉も下に向けて。

「体で払ってもいいですか?」

「じゃ、遠慮なく」

合わせてふざけたように笑った私に、彼は真剣な眼差しを向けていた。彼の手が私の方へ伸びてくる。白くて大きくてゴツゴツした骨太な手のひらが私の頬に触れた。思考は止まっていた。頭が真っ白になるって、こういうことなんだ。私が目を閉じることも出来ずに彼を見ていると、瞼をおろした顔が近づく。続けて私も目を閉じようと意識した瞬間に、唇に温もりが触れた。3秒くらい、押し当てられた熱は、ゆっくりと、本当にスローモーションと思えるほどのスピードで離れていって、瞳を晒した彼の顔が視界に入る。

「玲、ずごい、好きだった。本当に今までありがとう。もうこっから送れないけど、今日会えてよかった」

少しだけ彼の瞳が赤かったことに、気づかない振りをした。だけどそんな私の想いと裏腹に、はっきりと雫として、なって零れた涙を見過ごすことが、出来なくて、自分の指先を下まぶたに向けて、温かい雫を拭う。涙の温度が温かいことを初めて知った。今まで私が涙を拭いてもらうばかりで、この人の泣き顔を見たことさえもなかったから。不思議と心は荒立つことはなくて、流れかけていた涙も引いた。

「普通立場逆だよ」

「ごめん、かっこ悪」

そう言って口元を釣り上げたのに、まだ次から次へ止まることを知らない彼の涙をもう、拭うことはなかった。

「送ってくれて、ありがとう」

そう言いきったあと、ドアに手をかけて開ける。車を降りたらもう雨が上がっていることに気がついた。少し雲の隙間から太陽も覗いていて、さっきまでの雨を打ち消すように空気は明るくなった。

「見て。虹」

その雲の狭間から現れた光と雨の水分で、空には小さな虹が覗いている。

「こんな綺麗な別れ方ないよ。さよなら」

彼は必死に1度だけ頷いた。

車が動き出すのを見送ることもなく、踵を返す。足早に家路に向けて歩き出した私は、振り返ることもしなかった。

スマートフォンをバッグから取り出して、電話帳のメモリからあの人のページを探し出す。タップして、削除のボタンを表示して、息を止める。そして、ボタンを押す。

削除しました。無機質なその言葉の羅列を見届けた。

失恋した。冬の迫る11月の終わり。




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