表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕の明日  作者: 町役太郎
1/2

はながみ

はながみ

千曲川はその名称通り何度となく曲がって犀川と合流し、日本一長い信濃川になる。犀川は渓谷を流れ、その流れの速さからいたるところにダムが造られていたが、千曲川はただひたすら平らなところをゆっくりと流れていた。千曲市は更埴市と戸倉上山田町が合併して、新しく誕生した市である。東と西に山があり市の中心に千曲川が流れていた。 

千曲川と平行して走る国道十八号線を軽井沢方面に走り、打沢の交差点を右折すると、勤務先の千曲中学校がそこにあった。校舎周りには沢山の樹木が植えられ、校舎に当たる日光を和らげてくれる。合併後改築された校舎は新しく、壁には肌色のモルタルが塗られ、屋根にはオレンジ色の瓦が敷き詰められていた。それはまるでヨーロッパのリゾートホテルを思わせる建物のような趣があった。

建物を上空から見ると口形になっていて、県道に面した南側が二階建てで、職員室や保健室のある建物になっている。北側は三階建てで、教室にあたる建物があり、東と西は渡り廊下で繋がっていた。中庭には旧校舎にあった瓢箪型の池がそのまま残され、中庭や職員室前にも樹木が植えられ、業者によって綺麗に手入れされていた。  

菱来誠はエスクードを職員駐車場に停めると、黒革の分厚い鞄を持ち職員室に向かった。シルバーメタリックの車には、生徒が悪戯したと思われる、線状の傷が彼方此方に付いていた。この学校に赴任して直ぐに新車を購入したのだが、学校に乗ってきたその日に、もう釘で引っかいたような傷が、フロントフェンダーからリヤのテールランプまで、真直ぐ線が引かれていた。このときは流石にショックで暫く立ち直れなかったが、一週間も経たないうちに傷は数箇所に増えていた。

校内に植えられた樹木に止まった蝉が耳障りに鳴いている。薄らと額に滲み出た汗を、背広のポケットから取り出したハンカチで拭くと、職員室に向かい歩き出した。

菱来は名古屋の私立大学を卒業し、長野県の中学教師なって今年で二十二年になる。受け持ち科目は社会科で、授業中よもや話をする訳でもなく、生徒にはあまり評判のいい先生ではなかった。誰が付けたか〈はながみ〉という渾名が付いていた。蓄膿症気味のため、ところかまわずポケットからティシュを取り出し、鼻をかむのでこんな渾名が付いたのだろう。前の学校では〈銀バエ〉という渾名が付いていた。〈はながみ〉という渾名が何で付いたか直ぐに理解できたが、どうして〈銀バエ〉という渾名が付いたのか分からなかった。結局卒業式の日学級委員を捉まえ訊いたところ「先生は僕たちが掃除の時間ふざけて遊んでいるときとか、何かしているときいつの間にか後ろにいるので銀バエという渾名が付いたんです」と笑って教えてくれた。なるほどと自分でも思い当たることがあり苦笑した。

 社会科は授業をまったく聞いていなくても、教科書を丸暗記すればそれなりに点が取れる教科である。真面目な生徒や歴史、地理などに興味ある生徒は授業に耳を傾けるが、そうでない生徒は隣同士で話をしたり、メールの遣り取りをしたり、各自勝手なことをしていた。校則では携帯電話を学校に持ってきてはいけない決まりになっているが、菱来が受け持つ二年三組は誰もこの校則を守っている者はいなかった。菱来は授業中それらを目にしても、生徒に対して強く注意指導することはなかった。生徒たちが授業を中断させるほど、大声を出したり、暴れたりしない限り、多少の遊びは大目に見ていた。それは生徒の方もよく心得ていて、厳しい先生の前では同じなことを行なわない。菱来の前だから安心してメールの遣り取りもできるのである。偶に生徒同士話が盛り上がって、声が大きくなることもあるが、そのときは「少し静かにしなさい」と言うくらいで、目くじらを立てて怒ることはなかった。

 どこの社会でもルールがあり、人はそれに従って生活していく。それでもそのルールを外れる者はどこの世界でも必ずいて、自分勝手な行動をとる。学校の中の決りはそれほど厳しいものではないが、彼等が社会へ出ていく過程に於いて、ここでの決りを守らせるのが教師の務めではある。しかしそのようなことに一々神経を使うのは、疲れるだけだと常々感じていた。

 千曲中学校は三クラスあり、近くにある千曲小学校の生徒がそのまま繰り上がるだけで、小学校も中学校もまったく同じ顔ぶれの生徒だった。クラスの編成替えはあるものの、他の学校から生徒が来ないため、生徒にとって中学生になったという実感はあっても、あまり代わり映えしない学校生活だったに違いない。

 菱来は比較的身長もあり、がっしりした体格をしていた。髭が濃く剃刀で剃っても青く痕が残ってしまう。以前は入浴時にT字剃刀で剃っていたのだが、一晩経つともう伸びているので、最近は専ら朝電気剃刀で剃ることにしていた。

 実家は長野県の南端飯田にあり、妻が飯田市内の病院に入院していたが、菱来自身が希望し単身で北信に転勤してきた。両親は既に他界しており、身内は入院中の妻と東京に嫁いだ姉だけである。

現在はこの中学から車で十五分ほどの、(しの)ノ(の)()の教員住宅に居住していた。中学、高校、大学と少林寺拳法を遣っていたが、教員になってからは道着に袖を通したことはなかった。学校では柔道部の顧問になっているが、もう一人の若い教師が一生懸命遣ってくれるので、ごく希に顔を出すものの、あまり顧問としての役割を果たしていないのが実情である。

週末は妻が入院している飯田の病院に行くため、どうしても部活は疎かになってしまう。























        はながみ

 千曲川はその名称通り何度となく曲がって犀川と合流し、日本一長い信濃川になる。犀川は渓谷を流れ、その流れの速さからいたるところにダムが造られていたが、千曲川はただひたすら平らなところをゆっくりと流れていた。千曲市は更埴市と戸倉上山田町が合併して、新しく誕生した市である。東と西に山があり市の中心に千曲川が流れていた。千曲川と平行して走る国道十八号線を軽井沢方面に走り、打沢の交差点を右折すると、勤務先の千曲中学校がそこにあった。校舎周りには沢山の樹木が植えられ、校舎に当たる日光を和らげてくれる。合併後改築された校舎は新しく、壁には肌色のモルタルが塗られ、屋根にはオレンジ色の瓦が敷き詰められていた。それはまるでヨーロッパのリゾートホテルを思わせる建物のような趣があった。

建物を上空から見ると口形になっていて、県道に面した南側が二階建てで、職員室や保健室のある建物になっている。北側は三階建てで、教室にあたる建物があり、東と西は渡り廊下で繋がっていた。中庭には旧校舎にあった瓢箪型の池がそのまま残され、中庭や職員室前にも樹木が植えられ、業者によって綺麗に手入れされていた。  

 菱来誠はエスクードを職員駐車場に停めると、黒革の分厚い鞄を持ち職員室に向かった。シルバーメタリックの車には、生徒が悪戯したと思われる、線状の傷が彼方此方に付いていた。この学校に赴任して直ぐに新車を購入したのだが、学校に乗ってきたその日に、もう釘で引っかいたような傷が、フロントフェンダーからリヤのテールランプまで、真直ぐ線が引かれていた。このときは流石にショックで暫く立ち直れなかったが、一週間も経たないうちに傷は数箇所に増えていた。

 校内に植えられた樹木に止まった蝉が耳障りに鳴いている。薄らと額に滲み出た汗を、背広のポケットから取り出したハンカチで拭くと、職員室に向かい歩き出した。菱来は名古屋の私立大学を卒業し、長野県の中学教師なって今年で二十二年になる。受け持ち科目は社会科で、授業中よもや話をする訳でもなく、生徒にはあまり評判のいい先生ではなかった。誰が付けたか〈はながみ〉という渾名が付いていた。蓄膿症気味のため、ところかまわずポケットからティシュを取り出し、鼻をかむのでこんな渾名が付いたのだろう。前の学校では〈銀バエ〉という渾名が付いていた。〈はながみ〉という渾名が何で付いたか直ぐに理解できたが、どうして〈銀バエ〉という渾名が付いたのか分からなかった。結局卒業式の日学級委員を捉まえ訊いたところ「先生は僕たちが掃除の時間ふざけて遊んでいるときとか、何かしているときいつの間にか後ろにいるので銀バエという渾名が付いたんです」と笑って教えてくれた。なるほどと自分でも思い当たることがあり苦笑した。

 社会科は授業をまったく聞いていなくても、教科書を丸暗記すればそれなりに点が取れる教科である。真面目な生徒や歴史、地理などに興味ある生徒は授業に耳を傾けるが、そうでない生徒は隣同士で話をしたり、メールの遣り取りをしたり、各自勝手なことをしていた。校則では携帯電話を学校に持ってきてはいけない決まりになっているが、菱来が受け持つ二年三組は誰もこの校則を守っている者はいなかった。菱来は授業中それらを目にしても、生徒に対して強く注意指導することはなかった。生徒たちが授業を中断させるほど、大声を出したり、暴れたりしない限り、多少の遊びは大目に見ていた。それは生徒の方もよく心得ていて、厳しい先生の前では同じなことを行なわない。菱来の前だから安心してメールの遣り取りもできるのである。偶に生徒同士話が盛り上がって、声が大きくなることもあるが、そのときは「少し静かにしなさい」と言うくらいで、目くじらを立てて怒ることはなかった。

 どこの社会でもルールがあり、人はそれに従って生活していく。それでもそのルールを外れる者はどこの世界でも必ずいて、自分勝手な行動をとる。学校の中の決りはそれほど厳しいものではないが、彼等が社会へ出ていく過程に於いて、ここでの決りを守らせるのが教師の務めではある。しかしそのようなことに一々神経を使うのは、疲れるだけだと常々感じていた。

 千曲中学校は三クラスあり、近くにある千曲小学校の生徒がそのまま繰り上がるだけで、小学校も中学校もまったく同じ顔ぶれの生徒だった。クラスの編成替えはあるものの、他の学校から生徒が来ないため、生徒にとって中学生になったという実感はあっても、あまり代わり映えしない学校生活だったに違いない。

 菱来は比較的身長もあり、がっしりした体格をしていた。髭が濃く剃刀で剃っても青く痕が残ってしまう。以前は入浴時にT字剃刀で剃っていたのだが、一晩経つともう伸びているので、最近は専ら朝電気剃刀で剃ることにしていた。

 実家は長野県の南端飯田にあり、妻が飯田市内の病院に入院していたが、菱来自身が希望し単身で北信に転勤してきた。両親は既に他界しており、身内は入院中の妻と東京に嫁いだ姉だけである。現在はこの中学から車で十五分ほどの、(しの)ノ(の)()の教員住宅に居住していた。中学、高校、大学と少林寺拳法を遣っていたが、教員になってからは道着に袖を通したことはなかった。学校では柔道部の顧問になっているが、もう一人の若い教師が一生懸命遣ってくれるので、ごく希に顔を出すものの、あまり顧問としての役割を果たしていないのが実情である。週末は妻が入院している飯田の病院に行くため、どうしても部活は疎かになってしまう。教師に対する遣り甲斐も生き甲斐も持てず、ただ毎日が変化なく漠然と過ぎていくように思われた。


        いじめ

        1

 プーという甲高いインターホンの音で目を覚ました林原幸雄は、ベッドの上に上体を起こすとゆっくり伸びをした。室内の空気を胸いっぱいに吸い込むと、ベッドを抜け出し階段を下りリビングに向かった。

「おはよう」

 リビングでは既に父の明彦がソファーに座り、新聞を読みながらテレビを観ていた。

「おはようございます」父に挨拶すると、ダイニングの対面キッチン前に備え付けられたテーブル前に座った。醤油指しを弄んでいると、母の美佐江が朝食をテーブルに並べた。納豆と目玉焼きと味噌汁。朝のメニューは目玉焼きの部分が変わることはあるが、略納豆は毎日出された。

 現在中学二年生の幸雄は小学校低学年のときアトピーになり、美佐江は本で読んだのか、アトピーには動物性たんぱく質より植物性たんぱく質の方がいいと言い、納豆や豆腐を頻繁に食べさせるようになった。皮膚科に通い始めて、小学校五年生頃には症状がすっかり快然した。それでもあれだけ食べさせられたにも拘らず、不思議と納豆を嫌いにならなかった。

 幸雄の朝食は小学校までパン食だったが、中学校に入ってからは和食に変更した。中学一年生の冬休みが終わり、三学期が始まった頃、給食を食べ終わった後、用を足したくなり男子便所に駆け込んだ。毎日掃除しているにも拘らず、アンモニア臭が鼻につく男子便所は、どこにでもある公衆便所と一緒で、小便器が六つと大便用の便器が三つ備えられていた。大便用の便所は男子便所の一番奥にあり、幸雄は頭の中で迷いながら一番奥の便所に入った。用を足し終えトイレットペーパーで尻を拭いていると、誰か特定できないものの、男子生徒等数人の話し声が近付いて来た。そのため幸雄は便所を出る機会を失ってしまう。彼等が出るまでここで暫く待つことにした。というのも小学校時代から、男子は大便所へ入るのをタブー視されていた。学校で大便をすることは、まるで罪を犯しているような目で見られる。幸雄も以前同じクラスの気の弱そうな者が、学校の便所で大便をして、からかわれているのを目にしたことがあった。そのようなことがあり、学校では極力大便をしないように気を付けていた。

 大人にとってはたいした問題でないが、子供にとってはとても深刻な問題だった。男子生徒たちはどんどん此方に近付いて来る。息を凝らしじっと待っているしか術がなかった。靴底のゴムと床のタイルの擦れる音が近くで止まると、一人の男子生徒が「おい一番奥の便所に誰か入っているぞ」と言い出した。

「まじかよ」一人の生徒が幸雄の入っている便所の前まで来ると、コンコンと戸をノックした。おそらく彼等は幸雄が入っている便所だけ、きっちり戸が閉まっていたため、中に誰かいるのではないかと推測したに違いない。幸雄は息を止め気配を消すように努力した。再びコンコンと誰かが戸を叩いた。

「おい俺の膝貨してやるから、ちょっと中を覗いてみろよ」

 幸雄は慌ててパンツとズボンを穿き立ち上がった。それと同時に、便所の上四十センチほど開いた隙間から、一人の男子生徒が此方を見ている。それは同じクラスの三橋だった。

「林原がうんこしているぞ」

 隙間から顔が消えると三橋が大声で怒鳴った。幸雄は覚悟を決め、ズボンのバンドを締め便所から出ようとすると、いきなり便器ブラシやデッキブラシが、頭上から降ってきた。急いで便所の戸を開けると、三人の男子生徒が走り去る姿が目に入った。暫くその場所で呆然と佇んでいた。教室に戻ると三橋は既に席に着き、他の生徒と話をしている。もう学校では大便をすることができない。このようなことがあったため学校で大便をするわけにいかず、朝無理をしてでもお腹のものを出していかなければならなかった。朝便意を催すのはパンより御飯のほうがいいと判断し、実際和食にしたところお通じがよくなった。習慣というのは恐ろしいもので、朝用便をする習慣を身体が覚えると、土日や祝日になっても朝になると用を足したくなる。

学校の便所で用便をし、掃除道具を投げ込まれてから、一年以上が過ぎようとしていた。その日の朝はお腹の調子が悪いのか、便所に入ってもヤギのような小さな丸い便が二つ出ただけで、後はいくら踏ん張っても大便はそれ以上出なかった。この朝の大便の出が悪かったこれだけのことが、幸雄の人生の歯車が少しずつ狂い始めるのを、今の幸雄は知る由もなかったであろう。

 幸雄は身長も低く痩せていて、あまり運動も得意でない。勉強のほうも中の下辺りを行ったり来たりというくらいで、気も弱くあまり親しい友達もいなかった。それでもたった一つ誰にも負けないものがある。それは絵を描くことだ。この学校の美術部に所属していた。授業中は先生の話を殆ど聞かず、授業の隙をみてノートの後に漫画を描いていた。今の幸雄にはまだストーリーは思いつかないが、将来は漫画家になりたいと夢を抱いていた。

 朝何かすっきりしないまま学校に登校した。その日は木曜日なので昼はソフト麺だった。幸雄は食が細いほうなので、麺類はありがたい。パン給食のときは半分近くパンを残すのだが、ソフト麺は喉越しも良く残さず食べることができた。しかしそれがいけなかった。給食が終わり暫くすると、お腹が重たくなり便意を催してきた。まずいと感じ我慢しようとすると余計に便意が強くなってくる。午後の授業があと五分で始まるというとき、どうしても我慢できなくなり、前傾姿勢の内股で便所に向かった。男子便所に入ると、洗面場に四人の男子生徒が屯していたため、中に入るのを諦め体育館横にある便所に向かった。鉄筋コンクリート造り三階建物のそれぞれの階に便所があり、幸雄たち二年生は二階便所を使用していた。  

 一年生は一階、二年生は二階、三年生は三階とそれぞれ使用場所が決められていたため、幸雄は少し距離があったものの、体育館横の便所を使用することにした。体育館横の便所は校舎に併設されている便所より幾分小さなつくりになっている。体育館横の男子便所に入ると、二人の青い体操着を着た男子生徒が小便をしている最中だった。ここで便所に入らなければ確実に漏れてしまう。しかし男子生徒がいる中で大便所に入るわけにもいかず、何気なく廊下側から女子便所を窺うと誰もいなかった。幸雄は迷うことなく女子便所に駆け込み、一番奥の便所に入ってドアを閉めた。そしてズボンとパンツを同時に下ろししゃがんだ瞬間、怒涛のごとくお腹の中のものが外に排泄された。今までの苦痛が嘘のように解放され、すっきりした気分ちになった。幸雄は二十五メートルプールを泳ぎきることはできなかったが、プールを横切る十メートルならなんとか泳ぐことができた。息継ぎをせず必死に十メートルを泳ぎやっとプールの向こう側に着いた心境と今の気持ちは似ていた。

 何とか間にあったという安心感から、自分が今女子便所にいることをすっかり忘れていた。トイレットペーパーで尻を拭きパンツとズボンを穿きバンドを締めると、何の躊躇いもなく便所の戸を開けた。

「キャー」

 女子の姿を確認する前に、女子の悲鳴が先に耳に飛び込んできた。幸雄より五メートル先に、エンジ色の体操着を着た女子生徒が立っていた。ここが女子便所ということをすっかり忘れていた。幸雄は放心状態のままそこから動けなくなっていた。

 ほんの僅かな時間の間に、女子生徒の悲鳴を聞きつけ、男女合わせて沢山の生徒が砂糖に群がる蟻のように集まってきた。幸雄を見て悲鳴を上げた女子生徒自身、このことに非常に驚いているようだった。

「三組の林原じゃねえか。何でこんな所にいるんだよ?」

 集まってきた体操着姿の生徒は皆、隣クラスの二年二組の生徒だった。

 駆けつけた男子生徒に取り囲まれると、二年二組の中で最も体格のいい生徒、郷田淳がいきなり幸雄の腕を取り、強引に職員室まで連行していった。幸雄はその行動に一切さからうことができず、郷田のなすがままになっていた。郷田は満員電車で、痴漢でも捕まえたように張り切っている。その後を七・八人の男子生徒が興味本位でついて来た。郷田は職員室のドアを開けるといきなり「三組の林原は体育館横の女子便所を覗いていました」と大声を張り上げた。それぞれの執務机に着いていた先生たちが、一斉に幸雄たちに視線を向けた。最悪の状況になってしまった。大便が我慢できなくなり、男子便所に入りづらかったから、女子便所を借りただけなのに、いつの間にか女子便所を覗いていたように言われてしまった。

 幸雄はどちらかというと、引っ込み思案のおとなしい性格の少年だったため、反論しようにも言葉が出てこない。幸雄が職員室の入り口に呆然と立ち尽くしていると、窓際の机で執務していた担任の菱来が、立ち上がり幸雄たちの前まで来た。

「郷田と林原、ちょっと社会科準備室まで来なさい」そう言うと菱来は二人を連れ、社会科準備室へ向かった。

 社会科準備室は職員室の直ぐ隣にあり、細長い場所に地図や年表が所狭しと置いてある狭い部屋だった。この中学には三人の社会科教師がいて、この倉庫のような狭い部屋に三つの執務机が置いてある。菱来が生徒二人を連れてきたときは、社会科準備室には誰もいなかった。菱来は自分の椅子に腰掛けると、二人の生徒に空いている椅子を勧めた。郷田は何の迷いもなく椅子に座ったが、幸雄はその場に立ったまま椅子に座ろうとしなかった。

「林原取り敢えずそこに座りなさい」

 幸雄は渋々菱来の勧めた椅子に腰掛けた。

「林原どうしたんだ?詳しく説明してみろ」

 菱来の顔は非常に穏やかだった。

「林原は女子便所を覗いていたんです」

 郷田は横から口を挟んだ。

「郷田お前には訊いていない。口を挟むな」

 いつも何となくいい加減そうな菱来の目が鋭くなった。郷田はしゅんとして下を向いた。

「林原、何があったか正直に事実を言ってみろ」

 菱来は覗き込むように幸雄を見た。

 幸雄はもじもじしながら「男子便所でうんちをするといじめられるので、誰もいなかったため仕方なく女子便所でうんちをしていただけです。それを女子に見られ大声を出されたんです」と打ち明けた。

「嘘をつけ」

 郷田が横から茶茶を入れた。

「郷田お前には聞いていない。黙っていろ。今俺は林原と話しているんだ。人の話の腰を折るな」

 突然菱来の大声で、郷田だけでなく幸雄までが身体を小さくした。

「だって・・・・・・」

「郷田、お前は林原が女子便所を覗いているのを、実際に自分の目で見たのか?」

「いえ見ていませんけど、林原は女子便所にいたんです」

「お前は見てもいないのに憶測で林原を犯人扱いにしたのか?それがいつものお前の流儀か?見てもいないのにいい加減なことを言うな。自分勝手な判断で人を陥れるところだったんだぞ。お前には話しを訊く必要がなさそうだな。後は俺が林原に事情を訊く。お前はもう授業に戻れ」

 そう言われると、郷田は渋々社会科準備室を出て行った。菱来はそれほど幸雄に対して腹を立てているようには見えなかった。でも何でこんなことになってしまったのだろう。学校で大便をすることが、そんなにいけないことなのだろうか。誰が、いつから言い出したのか。学校で大便をしているのを知られたら、その日からその人は大便と同等の存在にされてしまう。

 その日から案の定幸雄は〈女子便所男〉という渾名が付けられたが、男が言いにくかったからなのか、渾名はやがて〈女子便所〉になった。十日もすると嫌がらせをされるようになっていった。 

いじめられるのは今回が初めてではない。小学校のときは〈もやしっ子〉とからかわれ、雪合戦のときは雪玉に石を入れ投げられたこともあったが、それらはごく一部の者で継続性はなかった。少し我慢すれば何とかやり過ごすことができた。今のところ身体に対して直接手を出してくることはなく、殆どが精神的な嫌がらせである。それでも幸雄は学校を休まなかった。そのときはまだ担任の菱来を信頼していたのかもしれない。

 あの女子便所で大便をした日、菱来は「郷田が何と言おうと、お前が用を足すために女子便所を使っただけだということを俺は信じる。確かに俺の時代にもそういうことがあったような気がする。学校で大便をすると、まるで悪いことでもしたように言われる。しかしそれでも女子便所に入るのはまずいだろう。変な疑いを持たれても仕方ないぞ。本来女子便所は女子しか入っちゃいけないところだ。それが男であるお前が便所にいてみろ、女子もビックリするぞ。二度と女子便所に入るなよ」そのように言ってくれたものの、今度また便所に行きたくなったらどうしたらいいか、アドバイスは何もしてくれなかった。

 女子便所の一件から十日も経つと、嫌がらせをされるようになったが、身体に直接危害を加える者はいなかった。何とか登校拒否にもならずここまで無事こられたのも、担任の菱来が幸雄を信頼してくれたからだと思っていた。それまでは頼りなく何かいい加減にすら感じた菱来が、この学校で唯一好きな人物になっていた。

 あのとき僕は女子便所なんかまったく覗く気がなく、単に大便をしたいだけだった。しかし郷田は、幸雄が女子便所の中にいただけで、覗いていると勝手に決め付けた。僕が嘘を付いているかそうでないかは、僕と神様しか分からないことだが、菱来は幸雄の言うことを信じてくれた。髭の濃い中年男がいつしか僕の中でヒーローになっていた。

       2

 その日の朝は便もよく出て体調はとても良かった。クラスでは既に四面楚歌状態で、幸雄に声を掛けてくる者はいなかった。この状態を菱来は知っているのか、もし知っているのなら何とかしてくれるような気がした。大人の人はよく人生は山あり谷ありと言うが、きっと僕の今の状態は谷なのだろう。それもあとちょっとの辛抱だ。そのうちまた元通りになるに違いない

 クラスで席替えするといつも幸雄は教壇の真ん前で、つまりは生徒が一番行きたくない場所に座らされる。その日も登校すると真直ぐに自分の席に向かった。机の横にあるフックに、リック型の鞄を掛けると椅子を引いた。そのとき椅子の座面に茶色い絵の具が、排泄物のように載っているのが目に飛び込んできた。うんこのように見せたつもりだろうが、どこから見ても絵の具と分かる。幸雄は学生服のポケットからポケットティッシを取り出すと、椅子の座面についた絵の具と思しきものを拭いた。一回拭いただけでは落ちず、何回か拭いているうちにティッシュが無くなってしまった。誰がこんな卑しい悪戯をしたのか分からなかったが、例え相手が分かっても、それに対して抗議する勇気は幸雄にはなかった。

 翌日登校するとまたしても同じものが椅子の座面に塗りつけてあった。昨日と同じようにポケットティッシで拭き取った。絵の具と分かっていてもそのねっとりとした感触は悪戯した当人の思惑通り幸雄に不快な感覚を与えた。そしてその翌日もまったく同じことが施してあった。土日と休みを挟んで月曜日に登校するとまたしても幸雄の椅子に絵の具が塗りたくってあった。幸雄は暫く自分の椅子を呆然と眺めていたが、今までのようにティッシュでは拭かず、そのまま椅子に座った。何かねっとりした不快な感触が尻に伝わり、これを塗りつけた者の悪意が心まで到達したような感じがした。

「汚ねー。まじかよ」

 近くにいた男子生徒が露骨に嫌な顔をした。女子生徒も男子生徒もひそひそ何か言っているが、幸雄の耳には言葉として届かない。机の上に突っ伏すと涙が止めどもなく溢れてきた。何でこんなことをするのだろう。一時限目の授業が終ると、体育館の更衣室に行きズボンだけジャージに穿き替えた。昼休みに中庭にある手洗い場で汚れたズボンを洗った。冷たい水は手だけでなく心まで冷たくした。

 翌日学校に登校すると椅子には何も施していなかったが、机に白チョークでうんこたれ、死ねと書かれてあった。椅子に絵の具を塗りつける嫌がらせといい、このチョークによる落書きといい、いったい誰が遣ったのかまったく見当がつかない。通学用鞄の中から雑巾を取り出すと、それで机の上を拭いた。昨日までのことがあったので、家から雑巾を一枚持ってきた。

 翌日学校に登校すると、机にも椅子にも何も悪戯は施されていなかった。その翌日もまたその翌日も何もなく無事一日が過ぎていった。それでも周りの皆が何か余所余所しいというか、偏見の眼差しで幸雄を見ているように感じたのは気のせいだろうか。それから一週間幸雄の身には何も起こらなかった。皆の目は相変らず冷たいように感じたが、それでも直接危害を加えてくる者はいなかった。実際に嫌がらせをされたのは、一週間程度のことだ。直接嫌がらせをされているときは確かに辛く悲しかったが、それを我慢すれば、ときがすべて解決してくれるように思えた。僕は確かに意気地がない。何をされても言い返す勇気がない。遣られれば遣られっぱなし。そんな僕だから余計皆は嫌がらせをしてみたくなるのだろう。それは僕にも責任があるのかもしれない。無視は確かに辛いけど、それでも何とか耐えられそうに思えた。クラスの皆にとって僕は、毛虫やゴキブリみたいな存在なのだろうか。皆僕のことを嫌いなのだろうか。

 幸雄はこの学校の美術部に所属していた。同じクラスに女子が二人美術部に所属していたが、その者たちと言葉を交わすことはなかった。幸にして絵を描くときは人と話をする必要がない。しかし絵を描くのがあれほど好きだったにも拘らず、この頃はそれすらも億劫になってきた。鉛筆で石膏像をデッサンしていても、なぜか形を正確に捉えることができない。油絵を描いていても、キャンバスに色が乗らない。次第に美術室に足を運ばなくなっていった。 

 授業が終わるとグランドに行き階段部分に腰を下ろした。野球部やバレー部が練習している。 

何で皆あんなに上手に運動ができるのだろう。幸雄にとって体育は最も不得意な科目だった。運動場の西側には姨捨山が見える。親指のような変な形の山だ。

 他人から嫌われるにはそれ相応の理由がある。僕は貧弱だし顔もあまりよくない。運動神経も悪いし頭もよくない。これだけでも他人に嫌われる要素は備えている。それに追い討ちをかけるように女子便所の一件があったため、余計に嫌われる要素が増えてしまった。

 僕は学校で嫌われているけれど、そのことを家の両親にだけは知られたくない。僕が学校で皆からいじめられているなんて知ったら、両親はどんなに悲しい思いをするか、それを考えると優しい両親には心配を掛けたくなかった。一週間以上何もなかったことは、嵐の前の静けさで、その後の幸雄に対する嫌がらせは、次第にエスカレートしていった。

 ある日学校に登校し、下駄箱で上履きに履き替えようとしたら、下駄箱にあるはずの幸雄の靴が片方だけ見当たらなかった。上履きを学校側は白い靴と指定しているものの、それほど厳しく靴を限定しているわけでない。中にはメーカーのラインの入ったスニーカーを履いている生徒もいたが、それらに対していちいち注意を受けることはなかった。白い靴はどれも似たような形をしており、必ず踵の部分に消えないようマジックで、名前を書くことになっている。

 幸雄は自分の靴はないかと、靴箱の甲板に手を伸ばしてみたが、靴はなく埃が手に付くだけだった。そのときまた始まったと思った。嫌がらせが。幸なことに家から履いてきた靴が、白いスニーカーでメーカーのラインが入っていたが、この程度なら同じようなスニーカーを履いている者もいたため、砂だけ払って下履きを上履きに代用した。正直教室に向かう足が重かった。嫌がらせがなくなるとは思わなかったが、それでもここ数日は何もなかったため、このまま無事に過ごせるものと勘違いしていた。

 教室に入り自分の机に向かうと、あるはずの自分の机がそこになかった。どこに行ってしまったのかと思い後を振り向くと、教室の後にある掃除用ロッカーの横に、机と椅子が仲良く並んで置かれていた。幸雄は一瞬頭の中でこのまま床に座り、担任の菱来が来るまで待とうかとも思った。そして菱来が教室に入って来たら『学校に登校して来たら机と椅子がなかったんです』と訴えれば、菱来は僕が皆から嫌がらせを受けていることに、気付いてくれるかもしれない。でも今の段階では誰が遣ったかまったく見当がつかない。その上益々嫌がらせがエスカレートしていくに違いない。そのように思った途端幸雄は後に置いてある机に向かっていた。

 掃除用ロッカーの横に置いてある机を見ると、机と椅子の座面に雑巾の絞り汁みたいな汚れた水が、水溜りのように染みになっていた。幸雄は掃除用ロッカーを開け雑巾を手に取るとそれを拭いた。そして雑巾をロッカーに戻すと、小さな身体で机と椅子を重ね本来あるべき場所まで運んだ。定位置に机と椅子を置くと、何もなかったような涼しい顔で椅子に腰掛けた。時間がすべて解決してくれる。今はそう思うしか術がなかった。

 その日体育の授業から教室に戻ると、教科書に鉛筆でバカ、死ね、女子便所と書かれてあった。それが鉛筆からマジックに変わるのに、それほど時間は掛からなかった。真綿で少しずつ首を絞められていくような不快な感覚を味わっている。この後嫌がらせがエスカレートしていくのは間違いない。今の時点で誰が幸雄に対して悪意を持っているかまったく分からない。或いはクラス全員かもしれない。たとえ相手が特定されても幸雄はその者たちに対して、やめてくれとは言えなかった。こうなってしまった以上、もう我慢するしかないのだろう。

 幸雄は小学校のとき両親に連れられ、サーカスを見に行ったことがある。空中ブランコや綱渡りは確かにスリリングで凄いと思った。しかし何よりも幸雄の心を捉えて離さなかったのは、猛獣使いとライオンのショーだ。幸雄の頭の中で一番強い動物はライオンだと認識していた。火の輪潜りにしても、二本足で立つ演技にしても、史上最強の動物が人間の猛獣使い、それも若い女性が鞭一本でライオンを操るのが凄く恰好よかった。一歩間違えば食べられてしまう。それを若い女性の猛獣使いは、鞭一本で自分の思い通りにライオンを操っている。子供である僕には分からないが、猛獣を調教するにも色々遣り方があるのだろう。それでもあの勇気は半端なものではないと感じた。自分よりはるかに強い者を屈服されることができる彼女が羨ましく思えた。その頃の幸雄は特にいじめっ子にいじめられたわけではなかったが、それでも自分がどのクラスメイトよりも軟弱なのは自分自身よく分かっていた。自分より強い者には絶対逆らわない。いつから僕はこんなに軟弱になったんだろう。僕がもう少し身体が大きく強かったら、僕をいじめようなんて考える者はいないに違いない。僕は何でこんな弱いのだろう。そう思うと自分自身が情けなかった。

        3

 社会科準備室を追い出された郷田は腹の虫が納まらなかった。あのぼんくらの〈はながみ〉が、あんな大声を出し睨み付けるとは思ってもみなかった。正直あの教師をなめていた。それなのに一喝され、それにびびってしまった自分が情けない。俺は力も強くリーダーシップもあり、クラスの皆から一目置かれている。それだから女子生徒の悲鳴を聞きつけ、女子便所に逸早く駆けつけたのに〈はながみ〉は端から俺の言うことに耳を貸さなかった。時間が経てば経つほど、腸が煮えくり返ってくるのが自分でも抑えられない。あの意気地なしの林原の前で怒られたのが、よけい郷田のプライドを傷つけた。林原の野郎ただで済むと思うなよ。

 郷田は放課後同じ野球部で二年三組の真下に、昼休みの女子便所の出来事を詳しく話した。

「あのやろう俺に恥を掻かせやがって、絶対仕返ししてやりたい」

 あのやろうというのは勿論林原で、今の郷田にとって教師である菱来はとても適う相手ではないことはよく分かっていた。必然的に憎しみがより弱い者に転化されていくのは、自然の摂理に他ならない。

「分かった。林原をいじめるのなんかわけないさ」

 不敵に笑う真下を見て、自分と同じ色を持っていることを再認識した。

 小学校のとき、同級生が郷田のことを〈ジャイアン〉と言ったため、頭を思い切り叩いて泣かせたことがある。俺はいじめるほうになっても、いじめられるほうには決してならないという確証があった。

 真下は郷田より体格はひと回り小さいものの、郷田よりはるかに陰険な性格をしている。真下がどんな陰険な嫌がらせをするか見物だった。

蛇に睨まれた蛙のようになってしまった自分も情けないが、菱来には何か説明できない怖さを感じる。

 林原が女子便所を覗いていたのか、そうでないのか、そんなことは俺の知ったことではない。ただあいつは入ってはならない所に入っていた。だから俺はあいつをわざわざ職員室に連れて行ったのだ。褒められこそすれ何で怒られなければならないのか、どうも納得いかない。その思いはどんなに時間が経っても、郷田の心から払拭することはできなかった。

        4 

 精神的な苦痛よりも、やはり肉体的な苦痛のほうが辛いと感じる。椅子に絵の具で塗りたくられようと、教科書に落書きされようと、それは確かに辛いことだけど、誰が遣ったか分からないし、僕さえ我慢していれば、いつか諦めてくれるのではないかと思った。しかし時間が経つにつれ、その嫌がらせがとうとう幸雄の身体に直接向けられるようになっていった。それはもしかしたら僕が、彼等の嫌がらせをまったく気にしていないように映ったからなのかもしれない。

 その日幸雄は二時限目の授業が終ると、男子便所に小便をしに行った。便所では何人か小便をしている者がいたが、幸雄は空いている場所に行き、そこでズボンのファスナーを開け小便をした。すると幸雄の背中を誰かが押した。何も謝らず行ってしまったところをみると、わざと遣ったのだろう。御陰で幸雄の手は小便でべとべとになり、ズボンにも小便が多少飛んだ。学生ズボンは黒かったため、濡れた場所は分かりづらかったが、決して気持ちいいものではない。その後は教室内を歩いているとき、足を掛けられ転ばされたり、体育の授業の時間バスケットボールを思い切り顔目がけて投げつけられたりもした。このときになってようやく誰が今まで幸雄に対して、嫌がらせをしていたか知ることができた。このクラスで先頭になって幸雄に嫌がらせをしていたのは、野球部の真下だった。真下の他にも仲間が三~四人いるみたいだったが、先頭になって遣っているのは真下に違いない。真下はクラスの中でも人気があり勉強もできた。いってみれば幸雄と正反対の性格をしている。彼がなぜ幸雄に対して嫌がらせをしてくるのか、何となく分かったような気がする。この時点ではもう嫌がらせの域を超えいじめになっていた。真下が幸雄をいじめるのは、おそらく二組の郷田の入れ知恵に違いない。

 あの女子便所の一件のとき、菱来は郷田の性格をよく理解していたのか、彼の言葉に耳を貸さなかった。事実無根にも拘らず、郷田は幸雄を覗き魔みたいに決め付けた。しかし菱来は幸雄のことを信じて、郷田のことは取り合わなかった。あのとき郷田の中から沸々と怒りが込み上げてくるのを横にいて感じた。郷田は小学校のときから喧嘩も強くリーダーシップもあり、先生方も一目置いているように思えた。しかしそれは子供だからそのように思えただけで、幸雄にとって脅威のガキ大将も、菱来にしてみれば郷田はただの子供にしか過ぎないのだろう。郷田は幸雄とクラスが違ったため、三組で一番仲の良い真下に幸雄をいじめるよう嗾けたのではないだろうか。真下は頭が良く力を前面に出してくるようなタイプではなかったため、最初のうちは直接身体に対して危害を加えてくることはなかったが、幸雄が全然懲りていないと思ったのか、時間の経過と共に身体に対して直接危害を加えるようになってきた。

 今まで幸雄に対して行なってきた嫌がらせが、確証がないものの真下と分かって、意外な気もしたと同時に、彼なら遣ってもおかしくないのではないかとも思えた。今まで幸雄の周りには、いじめはなかったとはいえないものの、このような露骨ないじめは幸雄が初めてのような気がする。クラスの中で幸雄はいじめられているのは間違いない。しかしクラス全員がそれに加担しているとは到底思えない。でも誰もそれを止めようという者がいない限り、彼等も真下と同類なのだ。

 真下、伊田、木下、山口の四人は、幸雄に対して露骨に危害を加えるようになっていた。幸雄はそれでも菱来に対し、自分がいじめられていると訴えてはいなかったが、幸雄がクラスの中で、このような立場に追い込まれていることに気付いているのだろうか。四人は幸雄よりも体格がいいため、すれ違いざまに頭をぽんと叩かれたりもした。それでも幸雄は何も言わずただ耐え忍ぶしかなかった。

 昼の休憩時間にズボンとパンツを女子生徒の前で脱がされ、パンツとズボンを窓から中庭に投げ捨てられた。それらの行為に女子生徒は「あんたたちバカじゃない」と言って顔を背けた。女子にしてみれば幸雄の下半身なんて、見るに値しないものだっただろうし、真下たちは単に幸雄を辱しめたいだけだったに違いない。力の弱い幸雄では真下たち四人に抵抗することすらできず、されるがままにならざるを得なかった。このとき幸雄が泣いて哀願したら、彼等は喜んだだろうか。本当は悔しく悲しかったが、なぜか涙が出なかった。

 よくテレビなどで女の人が、悪い奴らに強姦されるシーンがあるが、僕も強姦される女の人と一緒で、抵抗することができなかった。誰でもいい一言彼等に(やめたほうがいいよ)と注意して欲しかったけれど、もしそれを口にしたら、今度はその人がいじめの対象になってしまうかもしれない。そう思うとそれを望むのは酷なような気もする。

 休みの日父と戸倉上山田温泉の銭湯に行ったけど、このときは周りが皆裸だったため、自分が裸になっても少しも恥ずかしくなかった。しかし皆の前で、それも女子がいる前で、パンツを脱がされるのは、この上もなく恥ずかしく屈辱的なことだ。悔しいけど何も抵抗できない幸雄は、翌日ズボンのバンドに南京錠を付けていった。昨日と同じことをしようとした真下たちは「おいこいつ、バンドに鍵を付けてきたぜ。だせー。バカじゃねーの」とからかったが、彼等が幸雄の抵抗に少なからず驚いていることは間違いなかった。そしてこのことは真下たちが、幸雄に対する憎しみに火を点ける結果となり、いじめは更にエスカレートしていった。

 この日まで何とか学校で大便をすることなく過ごせた。もし学校で大便が出そうになったら、菱来に言って早退させてもらおうと考えていた。しかし小便を我慢することはできなかった。幸雄が便所に行くと必ず真下たちがついて来て、小便をしている幸雄を後から押す。幸雄はその度に手が小便で汚れ、ズボンも少し汚してしまう。それも何日かすると飽きてしまうのか、今度は幸雄を三人で押さえつけ、真下が髪の毛を持つと幸雄の顔を小便器に突っ込んだ。このとき嫌だと思い必死に抵抗したが、やはり幸雄は力が弱く顔がもろに便器に付くのを防ぐことができなかった。汚物に顔を押し付けられることは、この上もなく屈辱的なことだ。それは幸雄以上に真下たちのほうが理解していただろう。

 幸雄はあのときあんなことをされながら、なぜ学校に行き続けたのか。父や母に僕が学校でいじめられていることを知られたくないのは勿論あったが、幸雄自身にも彼等に負けたくないという、小さなプライドがあったのかもしれない。

 人という生き物は直ぐに飽きてしまうのか、真下たちはより残虐性を求め、行動が次第にエスカレートしていった。昼食の後小便に行くと、真下たち四人は幸雄の後をついて来た。幸雄が小便をしている間、山口が大便所で戸を開けたまま小便をした。ジョボジョボという不快な音が幸雄の耳に飛び込んできた。その間他の三人は幸雄に対して何もしてこなかった。  

幸雄は小便をし終わって腰を振ると、伊田と木下がそれぞれ幸雄の両腕を取り、先ほど山口が小便をした大便所に引き摺られるように連行された。山口に腰を押され更に爪先で膝の裏を圧されると、幸雄は便器の前で正座するように床に膝をついた。

「こん中に顔を突っ込め」

 氷のような感情のない真下の言葉に背筋が寒くなった。目の前にある便器の水溜りが、黄土色に濁っている。

「君たちは何でこんなことをするんだ?」

 幸雄の口から出た言葉は、やめてくれという哀願ではなく、彼等に対する軽蔑と疑問だった。

「何でこんなことをするんだだって」

 からかうように伊田が言うと「きまってんじゃん。おもしれーからするんだよ」と真下が言い放った。他の者もケラケラ笑っている。

 真下は幸雄の髪の毛を後頭部から摑むと、それに自分の膝を添え、一気に幸雄の顔を便器に押し込んだ。冷たい感触が額に伝わり、やがて鼻の中に汚水が入り、つんと鼻孔に痛みを感じた。最初息を止めていたが我慢できなくなり、口を開くと汚水はもろに口内に入り咳き込んだ。

「汚ねーなあ。まじかよ。こいつ小便飲んだぜ」

「おえー。気持ちわりー」

 誰か分からなかったが、頭上で勝手なことを言っている声が鮮明に耳に入ってきた。

(死にたい。もう耐えられない)

 真下たちはこのような残酷な行為をしているにも拘らず、誰かが幸雄の襟足に唾を吐き捨てた。それは生温かくこの世のものと思えぬほど不快なものだった。

「女子便所はやっぱり便所がお似合いだ」

「ははは・・・・・・」

 男子生徒たちは幸雄から離れると笑いながら便所を出て行った。

下を向いた顎から滴り落ちるのは、汚水と唾と涙である。幸雄は便所の床に膝を着きながら大声で泣いた。悔しかった。遣られた行為よりも、僕が彼らに対して何もできない不甲斐無さが情けなかった。

 幸雄は便所の洗面場で顔を洗うと、急ぎ足で社会科準備室に向かった。そこには僕を救ってくれる救世主がいるはずだ。社会科準備室のドアを開けると、そこには誰もいなかった。

幸雄はこの後の授業には出なかった。授業なんてどうでもよかった。汚水が喉下を通ったとき、今までの考えがすべて間違いだったと思い知らされた。僕は他人に対していつもいい人でありたいと思っていた。たとえ相手が僕に対して嫌悪感を抱いていようと、時間が来ればきっと理解し合えると信じていた。しかし世の中はキリストの教え通りにはいかず、僕がいくら広い心を持って相手を受け入れようと心掛けても、相手は虫けら程度にしか感じていないのだ。

 幸雄は今日までどんなに嫌がらせをされようと、いじめを受けようと何とか耐えることができた。それはやはりいつかは理解し合えると、心のどこかで相手を信じることができたからだ。でもいくら幸雄が相手を理解しようと努力しても、まったく幸雄の気持ちは相手方に伝わらなかった。

 よく子供は純真な心を持っているというけれど、中には大人よりも残酷な要素を持っている子供もいることは確かだ。

 幸雄は誰もいない社会科準備室で、ひたすら菱来の来るのを待った。もうこの局地から僕を救い出してくれるのは菱来しかいない。

どのくらい待っただろう。かなりの時間が経過した後、社会科準備室のドアが開いた。幸雄はてっきり菱来だと思い、座っていた椅子から立ち上がった。しかし戸口に立っていたのは、同じ社会科の教師宮島だった。

「どうした。林原?」

 宮島はただごとではない林原の表情を見て、心配そうに幸雄に声を掛けてきた。

「菱来先生は・・・・・・」

「菱来先生は、職員室じゃないかな。ここで待っていなさい。先生が呼んできてやる」

 そう言うと宮島は踵を返し、社会科準備室から出て行った。

        5

 五時限目の授業が終わり、職員室の自分の席に戻るとパソコンのスイッチを入れた。ウインドウズの画面が開くまでモニターを眺めていると「先生林原が・・・・・・」と宮島が困惑した顔で近付いてきた。

「林原がどうかしましたか?」

落ち着いた口調で菱来が尋ねると「林原の様子がどうも変なんです。今社会科準備室で菱来先生を待っています」宮島は不安な顔を菱来に向けた。

宮島の口調に菱来もただごとではない不安な気持ちを感じ取った。菱来はパソコンをそのままにして社会科準備室に向かった。準備室の戸を開けると、幸雄は椅子に座り焦点の定まらない目で此方を見ている。それはあまりにも悲しみに満ちた絶望的な眼差しだった。

「林原どうした?」

「先生・・・・・・」

 幸雄は今まで我慢してきたものを吐き出すように泣き出した。

「何があった?落ち着いて話してみろ」

 小さな肩が小刻みに震えている姿を見て、自分の想像が当ってほしくないことを願った。

「先生、もう耐えられません。僕は女便所に入ったときからずっといじめられていました」

 自分の想像が当ってしまったことに愕然とした。確かに最近幸雄の様子がおかしいように感じていた。そうだ自分は幸雄が何かいつもと違うことに気付いていた。それはいつごろからか、教室の一番前にいる幸雄の目は、明らかに元気のある中学生の目ではない。負けたボクサーが控え室で一人佇んでいる姿に似ていた。何か悩み事を抱えているのは間違いないように感じた。それが分かっていて何も声を掛けてやれなかった。生徒に頼られるのが怖かった。できれば関わり合いたくないのが本音だ。だから今まで生徒の前では努めて頼りない教師を演じていたのだ。

「クラスの誰にいじめられたんだ?」

 ここまで来たら知らない振りはできない。

「真下と伊田と木下と山口です」

「真下・・・・・・」

 真下はクラスの中でも成績はトップクラスである。今は昔と違って成績のいい子が決して良い子とはいえないものの、菱来の目から見ていじめを率先してやる生徒にはとても見えなかった。真下のような頭の良い生徒がいじめの中心にいる場合、話は非常にややこしくなってくる。菱来の長い教師生活の中で頭のいい生徒が意図的に悪事を働いたとき、他人に自分の過ちを指摘されても、それを素直に認めるとは思えない。彼等は自分に火の粉が飛んで来ないようにあらゆる姑息な手段を取ろうとする。正直林原は迷惑な厄介ごとを持ち込んでくれたなと感じた。

「いったい真下たちに何をされたんだ」

 菱来が幸雄から訊いたいじめは壮絶なものだった。あまりにも卑劣で大人でも考え付かないような悪質なものだ。これは何とかしなければならないと思ったと同時に、まさかあの優秀な真下がそこまでするとは信じられなかった。

「分かった。真下のことはなんとかする。今日はもう家に帰りなさい」

 幸雄は何か訴えるような目を向けたが、渋々社会科準備室を出て行った。その後姿はとても寂しそうに菱来の目には映った。

 自分自身無責任だと思いつつ、幸雄に慰めの言葉を掛けてやれなかった。

 六時限目の自分の受け持ち授業を自習にして、いじめに関わっていると目される生徒を社会科準備室に呼び出した。準備室には椅子が三つしかなかったため、会議室からパイプ椅子を二つ持ってきた。社会科準備室で待っているとコンコンと戸を叩く音がした。

「入ります」という声がしたと同時に準備室の戸が開けられ、幸雄が名指しした四人がゆっくりと入ってきた。四人は野球部、サッカー部のそれぞれの有力選手である。皆成績も良く一見まじめな生徒に見えた。

「先生僕たちに何の用ですか?」

 この中のリーダーと思われる真下が、悪びれもなく訊いてきた。

「まあ、そこに座ってくれ」

 四人は菱来に勧められ椅子に座った。

「実は君たちを呼び出したのは、先ほど林原が泣きながら俺のところに来た。その様子がただごとでないと思ったので、理由を訊くと君たちにいじめを受けたと言うんだ」

 そう言うと菱来は鋭い視線を真下等四人に向けた。

「先生、それは何かの誤解だと思います。僕たちは林原にいじめなんかしていません。ちょっと悪ふざけが過ぎたところはあったかもしれませんが、悪気があって遣った訳ではありません。林原が誤解しているようでしたら、後で彼に謝っておきます」

 落ち着き払った真下の言い訳を訊いていると、とても嘘を言っているように思えない。確かにいじめというのは、双方の受け止め方でどのようにも解釈できるのも事実だ。でも林原のあの追い詰められた表情はとても嘘を言っているようには見えなかった。そうなると目の前にいるこの生徒たちが嘘を言っていることになる。しかし確たる証拠がない以上、真下たちを責めることはできないような気がした。

「もう一度訊くが、本当に林原をいじめてはいないんだな?」

「先生僕たちがそんなくだらないことするわけないじゃないですか。もうすぐ三年生ですよ」

 この真下の落ち着き払った態度は何なんだろう。濡れ衣なのか、本当の悪党か、どちらかには違いないが、僅か十四歳にしてこのように大胆な行動を取って、尚且つ林原をいじめていたとしたら、そう簡単には尻尾を出さないだろう。自分が思っている以上に、いい玉かもしれない。

 非常に厄介なことに巻き込まれたと感じたと同時に、何とかしなければ取り返しの付かないことになるような気もした。

「まあ、君たちが何も遣っていないというのならそれでいいんだ。林原は君たちに比べれば身体も小さいし気も弱い。君等がちょっとふざけたつもりが、相手にとっては酷く傷付くこともある。それは分かってやってくれ。わざわざ呼び出して済まなかったな」

 確証が得られない限りこれ以上詮索しても何も出てこないような気がした。このとき菱来はこの四人をただ帰してしまったことが、この後とんでもない事態になるとは夢にも思わなかった。

        6

 幸雄が学校から早退すると家には誰もいなかった。幸雄は一人っ子で、父の明彦は長野市内の会社に勤務していた。母の美佐江は上山田温泉にある旅館水凰荘で、掃除夫をしていたため、夜六時ぐらいにならないと二人とも帰宅しない。幸雄が小学生でいる間は、美佐江も近くの部品工場のパートに行っていたが、幸雄が中学校に上がると同時に、時給が高い旅館の掃除夫に転職した。旅館の掃除夫は時給もさることながら、チップも貰え客が置いていくタオルも貰えるので、美佐江はこの仕事を気に入っているようだった。

 幸雄は学校から早退しリビングでPS2を遣っていると、玄関のインターホンが鳴った。今日学校での屈辱的なことを頭から払拭するには、格闘ゲームを遣るのが一番と思い、対戦相手にサタン真下と名を付け、こてんぱんに遣っ付けている最中だった。帰宅して二時間以上は経っていたかもしれない。この時間に来る者といえば宅配便と相場が決っているため、インターホンには出ずそのまま玄関に向かった。「はーい」と言い玄関扉を開けると、そこには今幸雄が一番会いたくない人物が立っていた。

「よう。さっきは悪かったな。とりあえず謝っておくわ」真下は悪怯れることもなく言った。真下の後には金魚の糞みたいに伊田、木下、山口が学生服姿で立っている。

「しかしお前も卑怯だな。先生に告げ口するとはな。御陰ではながみに呼び出されたぜ」

 このとき幸雄は真下たちを菱来が叱ってくれたとばかり思っていた。そこには一瞬光が射したように感じられた。しかしその後真下が発した言葉に、幸雄は奈落の底に突き落とされる。

「はながみに俺たちにいじめられていると言ったらしいが、俺がはながみにそんなことはしていません。それは言い掛かりですと言うと、はながみはそうか君たちの言うことを信じよう。林原には誤解があったかもしれないので、明日もう一度詳しく訊いてみるってさ。当り前だよな。成績トップの俺と、成績があまり芳しくない林原の、どちらを信じるか常識で考えれば分かるよな」

後ろにいた他の者たちも「ああ」と相槌を打った、不敵に笑う真下の顔が鬼のように見えた。

「俺たちこれから部活があるから帰るけど、明日学校休むなよ。また楽しいことしようぜ。待っているからな」

 真下が言うと「待っているからな」「待っているからな」「待っているからな」と三人が鸚鵡返しのように言い、県道の方へ歩いて行った。

 幸雄が住んでいるこの地区は小島といい、中学校から歩いて十五分ほどの距離にある。走れば十分と掛からないだろう。幸雄は真下が帰っても、家の中に入らずその場に呆然と佇んでいた。外は耳が痛いくらい寒いはずなのに、今はまったく寒さを感じない。目の前にあるのは絶望だけだった。僕は明日学校に行かない。一番頼りにしていた先生は何もしてくれなかった。

 幸雄が住んでいる家から千曲川を渡り、白馬方面に山道を上って行くと、信更という場所にため池のような小さな池がある。池の名称は《嫁殺しの池》といい、周りに民家がなく池の水は緑色に淀み、池の名前と比例してより一層不気味さを増していた。

 この地方は土地が痩せていて昔から各地に色々な逸話があり、幼い頃誰ともなく聞かされた。林原の母である美佐江の実家が《嫁殺しの池》から五分ほど車で走った場所にあり、野菜を貰うためよく実家に顔を出していた。

 幸雄は子供の頃、この《嫁殺しの池》の逸話を美佐江から聞かされた。それは千曲市の人間なら誰でも知っている姨捨山伝説と違って、まったく救いようのない話だった。

{昔々とても意地悪な姑がいる家へ嫁いだ嫁は、一日で田植を終らせろと言われ、朝早くから田植をやったが、まだ田植が終えないまま日が暮れてしまった。嫁はお日様が再び昇ってくれるように空に向かって頼んだ。そうすると再び日が昇り、嫁は田植をやり遂げることができた。しかし疲れきった嫁はその場で亡くなった。そしてその池から水が噴出し、田圃は一瞬にして池になってしまったということだ} 

それを聞いたとき怖かったのは勿論だが、虐げられた人が結局最後まで報われず死んで逝くことがとても理不尽に思えた。幸雄が知っている昔話は、殆ど最後は報われる話だった。それなのにこの話しは姑にいびられ、結局精根尽きて亡くなってしまう。嫁の祟りを恐れ池の近くには祠が建っている。車でここを通るたびに憂鬱な気分になった。

 幸雄は学校でいじめを受ける度に、この池の伝説を思い出し、学校がこの《嫁殺しの池》のように、水に飲み込まれてしまえばいいのにと何度思ったことか。嫁がおてんとうさまにお願いしたように、幸雄も最後の頼みの綱と思い頼った綱を、頭上で切られてしまった。結局最後は独りで解決しなければならないのだ。

 同じ町に生まれて同じときを過ごしているのに、方や毎日のようにいじめられ死にたくなるような辛い日々を送っている。それなのにもう一方は毎日人をいじめることに生き甲斐を感じている。何がどう違うのか。それは運命でどうすることもできないのか。もしこの世に運命というものがあるなら、僕みたいに惨めな人間はいつまでたっても惨めなままで、日が経つにつれ、その惨めさが益々増幅していくのではないかと思えてならなかった。目を瞑ると思い出すのは便器の中に溜まった小便の混じった汚水だった。学校に行ってまたあのようなことをされるのはもうたくさんだ。僕の心の中はいつも曇っているか雨が降っている。この頃は晴れ晴れした気持ちになったことがない。梅雨どき部屋を閉め切っているとカビが生えるが、僕の心にもカビが生えていた。お父さんお母さんごめんなさい。今日まで僕を育ててくれたことに感謝しています。僕は弱虫です。誰にでも来るはずの明日は僕には来ませんでした。

        7

 林原美佐江が勤務先の温泉旅館水凰荘から、原付バイクで帰宅したのは、午後六時を少し回った後だった。道路が凍結していないときは原付バイクで通勤している。バイクを家の前で降り自転車置き場に置いた。バイクの鍵と一緒に繫がった玄関鍵を、玄関扉の鍵穴に鎖し右に回わし扉を手前に引いた。がつんと鍵が掛かっていて扉が開かない。(幸雄また鍵を掛け忘れている。しょうがないわね)鍵が掛かっていると思って鍵を回したのに、鍵は掛かっていなかったため逆にロックされてしまった。小さな玄関ホールの引き戸を開けると、そこはもうリビングになっている。この家の造りは一階には廊下がなく、リビングを中心にどこの部屋でも行けるようになっていた。リビングの壁には二階に行く階段がはしご状に架かっていて、その階段に何かがぶら下がっているのが、目に留まった。

 それが自分の一人息子、幸雄と認識するまでかなりの時間を要した。

 世の中の母親にとって、我が子の死に様を目にすることほど不幸なことはない。なぜ幸雄はこのような姿になってしまったのか、目の前にある現実を素直に受け入れるには、あまりにも過酷すぎた。

 働くことはそれほど辛いことではないが、それはすべて息子のためにと思って我慢できた。どんなに大変でも目標があれば頑張れる。それが何ものかに奪われてしまえば、これから先、何を生き甲斐にしていけばいいのか分からない。い首した物体が幸雄だと分かっても、何もできずただそこに呆然と立ち尽くしていたが、やがて足の力が抜けそこに倒れこんでしまった。

 帰宅した夫の明彦に起こされたとき、それが夢であればとどんなに思ったことか。大事な一人息子がこの様な姿になってしまい、すべての希望生きる力をなくしてしまった。いったい息子に何があったのか。

        8

 一度幸せを摑んだ者にとって、その幸せが手から零れ落ち、それが決して取り戻せないと分かったとき、どれほど今が辛く寂しいことか、一言で言い表すことは難しい。一人だから孤独で寂しく辛いのではない。生きる目的を見失ってしまったから辛いのだ。今の自分には明日という日がこないのではないかとさえ思えた。

 人は生きていく上でどんなに辛くとも、食物を採取しなければ生きていけない。独身時代は自炊もしたし、料理教室まで通い料理を覚えたが、今はそれさえも億劫になってきた。食事は専ら外食かコンビニ弁当で済ませている。このような生活を続けていたら、身体を壊すのも時間の問題だろう。しかしそれとて今の菱来にはどうでもいいことだった。

 菱来が学校から帰宅し、教員住宅で独り寂しくコンビニ弁当を食べながらテレビの洋画劇場を観ていると、サイドボードの上にある電話が鳴り出した。この時間に掛かってくる電話は殆どが学校からである。電話機の表示板を見ると、予想どおり勤務先の学校だった。

そのときなぜかいつもとは違う憂鬱な気分になった。受話器を取り「もしもし菱来です」と受けると受話器の向こう側で「宮前だが、直ぐ学校に来たまえ。君のクラスの林原が自宅で自殺を図った」と怒鳴りつけるような教頭の声が耳に飛び込んできた。

「今日はもう帰りなさい」菱来が言うと本当に寂しそうに幸雄は社会科準備室を出て行った。

 何で自分はあのとき気付いてやれなかったのだ。いや自分は気が付いていた。見て見ぬ振りをしたのだ。同じ過ちを一度ならず二度までも、何と愚かなことか。持っていた割り箸を片手で圧し折ると、それを食いかけのコンビニ弁当に投げつけた。暫くその場から動くことができなかった。


        絶望の扉

        1

 菱来薫は中学校のテニス部に所属していた。薫のいる飯田鼎南中学校は飯田の町を下り、川を越えたところにある。学校からは崖っ淵にある飯田拘置支所の高い外壁が、ヨーロッパにある古城のようにそそり立っているのが見えた。飯田は坂の町で市の中心地は市の高台にある。薫の住んでいる鼎から急な坂道をどんどん上っていくと、坂を上り切った場所に飯田拘置支所があり、斜め向かいに市役所がある。市役所の前には小さいながら動物園があり、薫も幼い頃よく父に連れられ動物園に足を運んだ。

 長野県でも飯田は温暖で、父親の仕事の都合で、長野市や松本市から転校してきた者は皆、此方の冬は北信や中信に比べると暖かいと口をそろえて言う。薫は冬長野や松本に滞在したことがなかったため、飯田が他と比べてどれだけ暖かいかは分からなかった。

 町には林檎並木があり、市の中心から少し外れると周りは殆どが林檎畑で、春になると一斉に林檎の花が咲き、林檎の里を象徴しているような景色を見せてくれる。

 中学のテニスは軟式で、前衛と後衛とに別れるダブルスが主で、薫は田尻美穂とペアを組んでいた。美穂とは一年生からペアを組み美穂が前衛、薫が後衛で三年生になった今でもそれは変わらない。美穂も薫も運動神経がよく三年生が引退すると、当然のようにレギュラーを勝ち取った。

 飯田は狭い町ながら祭り好きで、特に夏の人形カーニバルは全国的にも有名で、外国からも人形使いが来てカーニバルを盛り上げていた。

 この町の基幹産業に水引があり、母の由紀子は水引の工房へパートに出ていた。薫の携帯電話や通学鞄、テニスのラケットケースにも由紀子が水引で作った動物のストラップがぶら下がっていた。由紀子は気を利かせ、仲のいい美穂にも薫と同じ水引を作ってあげた。そんなに仲のいい二人だったが、あることが切っ掛けで亀裂が入り、二人の中は壊れてしまう。

 春の地区大会に出場した鼎南中学校は、最初の組が勝ち田尻、菱来組になった途端、美穂が緊張のあまりミスを繰り返し、すべてのセットを落としてしまった。後衛にいた薫は本来なら勝てていたはずなのに、美穂の初歩的なミスで負けたことが悔しくて仕方なかった。 ガックリ肩を落としながらコートを後にする美穂に、薫は何も声を掛けてやることができなかった。いつもであれば気安く「どんまい、どんまい、次頑張ろうね」と励ましの言葉を掛けてやるのに、その日はすべてのミスが美穂のせいに感じ、どうしてもそれが許せなかった。

 コートの外に出て同じテニス部の仲間が「気にしなくていいよ。今度頑張ればいいじゃん」と励ましの言葉を掛けてくれた。美穂は蚊の泣くような声で「ごめん」と薫に謝ったが、薫はそれには何も答えなかった。その後の組は相手チームが圧倒的に強かったため、健闘もむなしく負けてしまった。一対二で次の大会に進むことができなかった。

 大会の翌日学校に登校すると、昨日のテニスの大会で、隣町にある大久保中学校の男子生徒が恰好よかったと、女子生徒の間で話が盛り上っていた。やがてこの中学校の女子テニス部の話になった。美穂は隣クラスだったため、彼女たちの話題は美穂が試合でミスを連発した話に移っていった。薫は彼女たちの直ぐ傍の席にいたため、話しの内容に興味を持ち自らも話しに加わった。そして薫が「美穂があのとき、あんな単純なミスをしなければ、次の大会に進めたのに」と女子生徒たちに悔しい思いを口にした。しかしその一言が次の日には(美穂のせいで負けた。美穂みたいな下手くそな者とは、もうペアを組みたくない。今まで我慢してきたけど今度ペアを組む子はもっと上手な子の方がいい)と薫が言ったことになり、それはあっという間に学校中に広がった。同情が美穂に集まる一方で、薫は我が儘な嫌な女という噂が流れ、彼女の学校での立場を一気に悪くしていった。

 テニス部の監督は仕方なくメンバーを変更した。薫の相手は美穂ほどテニスが上手ではなかったため、当然のようにレギュラーを他の部員に譲ることになる。でもそれはたいした問題ではなかった。それよりも周りの部員が、薫とは一切言葉を交わそうとしなくなったことだ。そして試合から十日ほど経った頃、薫に対して嫌がらせが始まった。最初は教科書やノートにマジックでわがまま女、自分勝手と書かれ、携帯電話には引っ切りなしに、無言電話や悪戯メールが入ってくる。気のせいかクラス全員が薫を無視しているように感じた。当初は自分の言った一言が、このような事態を招いたことを反省し、ただひたすら我慢するしかないと考えていた。

 嫌がらせが始まって一ヶ月もすると、今度は直接的に嫌がらせをされるようになった。掃除時間に床の雑巾掛けをしていると、男子から塵取りで取ったゴミを頭からかけられたり、雑巾の絞り汁を背中に垂らされたりした。起き上がり男子生徒を何も言わず睨みつけると、相手の男子生徒は「おお、こえ~」とからかい薫から離れていった。

 夏休みに入り大会の練習が始まっても、部活には一切顔を出さなかった。結局夏の大会はレギュラーが惨敗し、春同様次の大会には出場できず、三年生はそのまま引退した。

由紀子は水引の工房に勤めていたため、娘の異常には気付いてやれなかった。今年の人形カーニバルは家に引き籠り、どこにも行かなかった。それは本当に寂しい夏休みだった。美穂との関係もすっかり疎遠になっていた。

 夏休みが終わり、状況が改善されていればと、少し期待して学校に登校したが、夏休み前と何も変わっていなかった。机や椅子に雑巾の絞り汁をかけられたり、上履きの爪先部分に画鋲を入れられたり、体操服を隠されたり、状況は悪い方へ確実に傾いていた。

 ある日学校に登校すると、薫の机の上に牛乳瓶が置かれ、それには数本、土手などに咲く地味な花が無造作に活けてあった。薫が自分の椅子に座ると、周りにいた殆どの者が、薫に向かい目を閉じ合掌した。男子生徒の小沢が「御悔み申し上げます」と言うと皆一斉に笑った。

「あなたたちふざけないで」

 薫は立ち上がると、花を牛乳瓶ごと持ってゴミ箱に投げ捨てた。そして席に戻ると机に突っ伏した。でも悔しさはあったが、涙は出なかった。

 男子生徒の中には塵取りのゴミを掛けたり、雑巾の絞り汁を掛けたりする者はいたものの、直接身体に危害を加える者はいなかった。それでも薫は担任に相談しようとしなかった。それまで薫の成績はクラスで常にトップ・スリーに入っていたが、中間試験は十番に順位を落とした。そのときまでいじめられているという自覚はあったにも拘らず、何とか自分はそれに耐えられる精神力があると思っていた。私はいじめには決して屈しない強い精神力がある。そう信じていた。それでも一つだけ気になることがあった。美穂のことだ。あのようなことを口走ってしまったことは、確かに薫自身にも非があると感じる。夏休みから部活には顔を出さなかったが、どうしても美穂には謝っておかねばならないと考えていた。

 五時間授業のとき、帰宅してから直ぐ美穂の家に自転車で向かった。本当は自転車で行くような距離ではなかったが、美穂の家まで歩いていく気力がなかった。自転車を道路端に停め、玄関扉の横にあるインターホンを押した。

「どちら様ですか?」

 インターホンから聞こえる声は間違いなく美穂の声だ。

「あの薫です。菱来薫です」

 そう言うと少し間をおいて「私今あなたに会いたくない」と返事がした。久しぶりに聞いたその声は非常に冷たく薫の胸に突き刺さった。

「あの美穂」とインターホンにいくら話しかけても、その後返事は返ってこなかった。薫は暫くその場で呆然と佇んでいたが、ふっと小学校から比較的仲の良かった矢部友香の家に行くことを思い付いた。彼女は美穂と同じクラスでとてもおとなしく、引っ込み思案の性格だったが、小学校のときは三人でよく遊んだ。彼女なら私の気持ちを分かってくれるかもしれないと思った。

 友香の家は、美穂の直ぐ近くにある。家のインターホンを押すと、友香本人が玄関扉を開けてくれた。そのときの友香は薫の顔を見て明らかに困惑していた。彼女はテニス部でなかったが、テニス部での今回の経緯は、すべて知っているように感じられた。

「ごめんね。勝手に来て。先ほど今回のこと謝りたいと思い美穂の家に行ったんだけど、美穂私に会ってくれないんだ」

 薫は涙声になりながら友香に訴えた。

「当り前でしょう。美穂があなたに会うわけないじゃないの。あんな言い方されたら誰だって怒るわ。あなたたちあんなに仲が良かったのにどうして。『美穂のせいで負けた。美穂のような下手くそな子とはもうペアは組みたくない。今まで我慢してきたけど、今度ペアを組む子はもっと上手なほうがいい』そんなことを言われれば、私だってショックを受けると思うわ」

 そう言うと友香は薫を睨みつけた。友香まで誤解している。薫にとって悲しいことは、誰一人として真実を知っている者がいないことだ。

「友香。今更言い訳になるかもしれないけど、私はただあのとき美穂がミスをしなければ、次の大会に進めたのにと言っただけで、先ほどあなたが言ったことは、言った憶えはないのだけれど。何でそんなことになってしまったのか、私にも分からない。確かに試合の後美穂に素っ気ない態度をとったことはあったけど、そんな酷いことは決して言っていないわ」

 本来なら自分を正当化させるような言い訳はしたくなかった。それでも子供の頃から仲良しの友香には真実を知ってほしかった。

「本当なの?」

 友香は今まで薫を責めるようなきつい表情だったが、自分が間違った情報に踊らされていたことに気が付いたのか、表情が突然変わった。

「本当よ。そんな酷いことは言っていないわ。多分うちのクラスのテニス部の女子が面白おかしく美穂に吹聴したのじゃないかしら。ただ私も悪意はなかったにせよ、美穂を傷付けてしまったのは私のせいでもあるわ。本当に申し訳ないと反省しているの」

「そうよね。私もあなたを子供のときから知っているけど、あんなことを言うとはとても信じられなかった。あのとき美穂はトイレに行って泣いたと言っていたけど・・・・・・。これはあなたに絶対言わないつもりでいたのだけれど、そうなると話しが変わってくるわね」

 友香の困惑した顔を見て薫は一抹の不安を感じた。何かこの後自分は聞いてはならないことを聞かされるのではないかと思うと、この場所から逃げ出したい衝動に駆られた。

「どうしたの?」

 それでも薫は真実を知りたかった。

「あなた、部活だけじゃなく今クラスでも、酷いいじめに遭っているでしょう。あなたのクラスの沢田栄一、あの子があなたのいじめの指揮をとっているのよ」

 友香はできる限り淡々と話しているように感じられたが、それが酷く残酷な言葉として耳に入ってきた。

「え~。でもなんで?」

 沢田は野球部に所属し端正な顔立ちで、薫は中学に入学したときから彼に対して恋心を抱いていた。自分から手紙を出したこともなければ、直接告白したこともない。しかし彼が好きだということを、親友だと思った美穂には打ち明けたことがある。

「あなた知らないの。沢田は美穂の彼氏よ。どういう経緯で付き合いだしたかは分からないけど、二人が付き合っているのは間違いないわ。美穂は沢田にあなたをいじめてくれるように頼んだのよ」

 中学三年生の少女にとって、男性を選ぶ基準は容姿以外考えられない。憧れの王子様が私を陥れる悪魔と知ったときの絶望感は、計り知れないものだった。私の周りにいるすべての者が、私から遠ざかっていくように感じた。

「どうしてなの?何で美穂が!私が美穂を追い込んでしまったのね。私のつまらない一言が美穂を傷付けてしまった。私は何で美穂の気持ちを分かってやれなかったのかしら」

その瞬間今まで抱いていなかった美穂への憎悪が、自分の根底から湧いてくるのを自覚したとき、自分自身恐ろしくなった。この期に及んで美穂を恨むのは筋違いに他ならない。

「何であなたは、自分を陥れた人間をそのように思えるわけ?」

「美穂が私を憎むのは私のせいなのかもしれない。もう親友には戻れないのかしら」

私が美穂に抱いていた思いと、美穂が薫に抱いていた思いはまったく違うことに気が付いたとき、既に美穂と親友でありたいとの思いは消えていた。私は今まで他人に対して憎しみを持ったことはなかった。美穂がそこまで私を憎んでいたことは流石にショックだった。

「美穂も罪作りなことをしたものね。これは美穂から直接聞いたのだから間違いないはずよ。そのとき私はそこまでしなくてもと随分反対したのだけれど、彼女はあなたの言ったことに酷く傷付いたのね。私の意見には耳を貸さなかった。多分あなたのことを心から信じていたから余計許せなかったのね。おそらく部活でも皆に吹聴したのじゃないかしら」

 バットか何かで頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。友香の言っていることが信じられなかったが、彼女が嘘を言う人間でないことは薫も良く分かっている。

そんなに私が憎かったのかしら。私は何であんなことを言ってしまったのだろう。そう思うと美穂が取った行動が許せないと思うより、自分の軽率さが許せなかった。(ごめん。美穂、私があなたを追い詰めたのね。あんなに仲良しだったのに。もう以前のように笑って話すことはできないのかしら。私って何てバカなの)今までどんなに意地悪されても涙一つ流さないで耐えてきた。それがどんなに辛くても、決して先生にも両親にも相談しなかった。どんなに辛くても独りで乗り切る自信があった。でももうだめだ。頭の中の何かが壊れたような気がする。目の前にいる友香が何か別の世界から来た異邦人に見えた。直線であるはずの玄関扉が、ムンクの絵のように歪んで見える。硬いはずの足元が綿の上を歩いているような不安定な感覚に陥った。

「薫だいじょうぶ?」

 友香の語り掛けにも、返事をすることすらできず、踵を返すと自転車に飛び乗り一目散で自宅に向かった。はっと気が付くといつの間にか自分の部屋のベッドに座っていた。

        2

 菱来が阿智村の中学校から柔道部の練習を終え、帰宅したのは既に午後七時を回った後だった。インターホンを押しても誰も出ないため、仕方なく自分の鍵で玄関の鍵を開けた。家は決して新しくないが、用心を考え鍵だけはオートロックに変えていた。キッチンにオートロックを解除するスイッチパネルがあり、いつもはキッチンにいるはずの由紀子がオートロックを解除してくれる。

「おい帰ったぞ」と少し大きい声で怒鳴ったが、電気が点いているにも拘らず誰の返事もないどころか、人が動く気配すらない。玄関で靴を脱ぎキッチンに向かった。和室の襖が開けられ、電気が点けてあったため覗くと、そこには信じられない光景が広がっていた。薫が鴨居からぶら下がり、その下で汚物塗れになった由紀子が娘の足を撫でているではないか。そして何か呪文のようなものを唱えている。それは菱来が初めて目にした地獄絵図だった。

 何なのだ。何でこんなことになったのだ。薫はなぜ僅か十五歳で自らの命に、ピリオドを打たねばならなかったのか。

 後日学校より薫はクラスの複数の者から、いじめを受けていたみたいだと報告を受けた。誰か特定の者がいるのではないかという菱来の詰問に、校長は特定の者はいないと説明した。

 菱来は最後に薫が書き残したと思われる便箋に(美穂ごめんね。貴女にそんな辛い思いをさせていたなんて)と書いてあったため、もしや薫自身にも非があるのではないかと思い、それ以上詮索することを控えた。たった一・二行しか書いていない遺書の文字を見ただけだが、世間で起こっている単なるいじめによる自殺ではないような気がしてならなかった。

 自分が知っている薫は、いじめられて自殺するタイプにはとても見えない。あの子が自殺する原因はもっと違うところにあるような気がする。教師をやっている自分が、娘が学校でいじめられ自殺したことを、素直に受け入れられるものではなかった。

 連日マスコミの攻撃に、菱来は口を貝にして何も語ろうとしなかった。自分が教師をやってきた経験上、どの学校にも大なり小なり必ずといっていいほどいじめは存在する。それは教師がどんなに頑張ってみたところで、根絶することは不可能なのが現実だ。しかし自分の娘がそれに巻き込まれて、命を落とすとは夢にも思わなかった。このときはなぜか加害者も気の毒に思えた。親の目から見ても薫はとてもできた娘だ。由紀子とは年中口喧嘩をしていたが、それとて母と子のコミュニケーションとしてみれば微笑ましい。 

部活も一生懸命頑張っていたようだし、勉強にしても何も言わずともしっかり勉強し、それなりの成績を修めているようだった。ただちょっと他の子より正義感が強いところがあり、それが彼女を追いつめる結果となってしまったのではないかと推測した。

 薫と最も親しい友人と思われる美穂に、ごめんねと書き残している。その子は小さい頃から知っている。薫が最も仲良くしていた子だった。学校の説明では春の市の大会で美穂がミスして、それを薫が責めたことが、いじめに繋がったのではないかという見解だった。学校の言うとおりなのか薫が亡くなってしまったため、確認することはできないが、少なくとも友人であった美穂にだけは、迷惑を掛けたくないと思ったのではないだろうか。父親としてそれを汲み取ってやるなら、これ以上追及し彼女を苦しませるのは薫の本意ではないような気がして、それ以上詮索することをしなかった。由紀子は薫のい首する姿を目の当たりにして、自分の殻に閉じこもったきり出てこなくなってしまった。あのとき菱来は何度か由紀子に語り掛け、病院にも連れて行ったが一向に病状は改善されず、仕方なく飯田中央病院の精神科に入院させることに踏み切った。病棟は完全に隔離され、そこに行くにはエレベーターで行くのだが、エレベーターも扉もすべて職員の持っている鍵がなければ開けられず、由紀子の病室に行くには職員の立会いが不可欠だった。由紀子には申し訳ないという気持ちもあったが、自分たちが生活していかなければならないことが最優先で、断腸の思いで転勤希望を出し、今の千曲中学校に転任して来た。

 あの小さな町ではもう生活できない。近所の人はどう思っているか分からないが、教師という仕事を続けていかなければならない以上、できるだけ噂が届かない遠くの中学校に赴任したかった。北信まで行けば南信の者が北信に来ることは、よもやないであろうと考えた。

 逃げるようにして北信まで来たが、気のせいか或いは言葉のせいか分からないものの、南信に比べると北信の人間は理屈ぽく冷たく感じられた。此方に来ても妻の容態が気になり、週に一回は飯田まで帰ることにしていた。

自分の娘が自殺し転勤までして北信まで来たのに、そこでまた自分の教え子が自らの命にピリオドを打ってしまうなんてなぜなんだ。

 自分は幸雄に言われ何とか確証を摑もうとしていた。頭のいい奴らに対抗するには、それなりの有無を言わせぬ証拠が必要だった。それなのにこんな早く逝ってしまうなんて。 

(幸雄本当にごめんな。お前の無念は絶対俺が晴らしてやる)菱来自身、自分では抑えられない怒りが沸々と湧いてくるのを、どうすることもできなかった。

        3

 校長はマスコミの対応と父兄の対応に追われるため、遺族への対応は教頭と菱来に任された。菱来が教員住宅から学校に戻ると、既に教頭はもう林原の家に行っているということで、学年主任から大まかな状況を訊き出し、エスクードで林原の家に向かった。林原の家に着いたのは既に十一時を回った後だった。玄関の呼び鈴を押すと幸雄の父親らしき男が、礼服を着て玄関から出てきた。その後には礼服姿の教頭が立っていた。菱来が「この度は・・・・・・」と声を詰まらせ頭を下げると、教頭が「君遅いじゃないか」と嫌味ぽく口を挟んだ。

 幸雄の父と思われる男は狭い玄関ホールで「幸雄に一体何があったのですか?先生は御存知なんでしょう」と菱来に詰め寄った。

この男が父親に間違いないようだ。林原の母、美佐江には何度か会ったことがあったが、父、明彦に会ったのはこれが初めてである。                    

菱来は玄関の三和土に土下座した。膝に伝わるタイルの冷たさと硬さが、幸雄が自分を拒絶しているように思えてならなかった。土下座をしてすむ問題ではないのは良く分かっている。しかしそうせざるをえない自分自身に腹がたった。

「誠に申し訳ございません。息子さんを守って上げられなくて・・・・・・」

 その後の言葉が喉から出てこなかった。

「先生息子はいじめられて自殺したんですか」

 明彦の言葉は驚くほど落ち着いていた。それが余計父親の苦闘を素直に受け入れられない姿に見え、何も言い訳が見つからなかった。

「申し訳ありません。私は今日幸雄君からいじめを受けているという、相談を受けていました」

やっとのことで自分の思いを口にすると、明彦の後ろにいた教頭が「菱来先生。家族の方には詳しいことは今調査中と説明してある。無責任な言動は控えてくれ」と横槍を入れてきた。教頭のこの行動は学校側の立場からすると正当なのかもしれない。しかしそのあまりにも誠意のない言動に菱来は怒りを覚えた。

「教頭あんた何言っているんだ。人が一人死んでいるんだぞ。調査はこれから俺がする。家族は自分の息子がなぜ自らの命を絶たねばならなかったか、一刻も早く知りたいんだ。あんたこそ無責任なことを言うな」

 いつもはおとなしく先生同士で口論さえしたことがない菱来が、鋭い目つきで教頭を睨み付けると教頭は一瞬怯んだ。「君・・・・・・」と言ったものの教頭は菱来の怒りの大きさにたじろぎ、それ以上何も言えなかった。

「大声を出して済みません。お父さん私が知っている範囲のことであれば、すべて隠さず御話しします。そして幸雄君を自殺に追いやった奴には、それなりの償いはさせるつもりです」

 土下座したまま見上げると、明彦は考え込むように目を瞑った。自分の娘も自ら命を絶っていたので、この父親の気持ちは痛いほど分かる。

「先生取り敢えず立って下さい。そして幸雄を見てやって下さい」

 菱来はその場に立ち上がり礼服の膝の部分の汚れを払うと、靴を脱ぎ玄関ホールに上がった。

「失礼します」と言い明彦の後をついて行った。リビングを抜け奥の和室に通された。小さな箪笥の上に紫檀でできた仏壇が置いてある。その仏壇の下に白い布団に寝かされた幸雄の遺体があった。菱来は遺体の頭の辺りに正座すると、顔に掛けてある白い布を取った。首を吊って自殺したと聞いていたが、死に顔は苦痛を伴った顔ではなく、とても穏やかな顔をしていた。一瞬薫の死に顔と重なった。(なぜ君たちはそんなに死に急ぐんだ。もう少し頑張って生きていれば、きっといいことが沢山待っているはずなのに)幸雄が社会科準備室から出て行ってまだ半日も経っていない。声を掛ければ目を覚ますのではないかとすら感じた。

薫のときはいじめられた原因が、自分にあるのではと彼女自身自覚していたのではないだろうか。友達思いの薫の意思を尊重して、あのときは原因を深く追求しなかった。今思い返してみると果たしてそれで良かったのかとときどき後悔する。あのとき自分は親の立場よりも、教師の立場を優先したのではないだろうか。今の時世ことが起こると直ぐに、我々教師や教育委員会は自分の立場を守るため逃げ腰になる。人一人が亡くなった事実よりも、自分自身の保身に走る。マスコミがすべて正しいとは思わないが、このような自分たちの行動は、傍目から見ていると大変不愉快に違いない。

 安らかな幸雄の死に顔を見ていると、真下、伊田、木下、山口、四人の顔が頭に浮かんだ。菱来は目を瞑り合掌した。

「幸雄ごめんな。本当にごめんな。お前の無念は俺が必ず晴らしてやる」

 独り言のように呟き、後に人の気配を感じたため振り向くと、そこには憔悴しきった美佐江がいた。

「先生これあの子が残した遺書です」

 美佐江が差し出した物は二つの白い封筒だった。

「拝見させて貰ってもよろしいでしょうか?」

 菱来は美佐江に断りを入れた。「どうぞ」と美佐江は頭を下げた。二つの封筒は糊付けされておらず、一通は菱来先生へと書かれ、もう一通は二年三組の皆へと書かれていた。菱来はまず自分宛の封書から便箋を取り出しそれに目を通した。それには以下のことが書かれていた。

{先生僕は昨日までどんないじめにも耐えられると信じていました。確かに精神的にも肉体的にも辛かったのですが、今日僕は真下と伊田と木下と山口に便所で、山口のした小便のたまった便器に顔を突っ込まれ、それが僕の鼻から入り飲んでしまったとき、何で僕はこんな目にあわなければならないのだろうと思いました。僕はあいつらに何一つ嫌なことはしていないのに。何で奴らは僕にあんなひどいことをするのか。僕は人の小便を飲んだとき、すべてがいやになってしまいました。もし今度生まれかわれるのなら僕は強いライオンに生まれかわりたいです。先生僕は最後のたのみだと思い相談しにいったのに、結局先生は何もしてくれなかった。僕が女子便所でうんちをしたとき、郷田が何と言おうと信じていてくれてうれしかったです。おそらく今回のいじめは郷田が真下に嗾けたんだと思います。先生二年三組の皆にいじめはいけないんだということを教えてやって下さい。あと真下、伊田、木下、山口と郷田だけはどうしても許せません。先生仇を取って下さい。僕の最後のお願いです}そこで文面は終っていた。菱来は自分の瞳から涙が溢れ、手紙に何滴も落ちていることに気が付き自分で驚いた。自分の頭の中の回路が涙でショートしてしまったのかもしれない。あのとき何らかの手を打っておけば、確実に幸雄は命を落とさずに済んだのではないか。自分は何て馬鹿なのだ。親としても教師としても失格だ。遺書を持っている手がぶるぶる震えていた。

 郷田が裏で糸を引いていたのか。幸雄が女便所で大便をしたとき、ちょっと強く郷田にあたったような気はしたが、それがこの様なかたちで、一人の生徒の生命を奪ってしまうなんて、そのときは知る由もなかった。

「先生大丈夫ですか?」

 項垂れている菱来を見て心配そうに美佐江が声を掛けてきた。菱来はその場から立ち上がると、明彦と美佐江に向かい沈痛な表情で言葉を発した。

「お父さん、お母さん今すぐ警察に電話して真下、伊田、木下、山口、郷田の五人を刑事告訴して下さい。彼等は全員十四歳になっていますので、警察に逮捕されると思います。お母さんこれをお読みになりましたか?」

 もう年度末になっていたことと、学籍番号は普通あいうえお順になっているのだが、この学校は生年月日順になっていたため、この五人が既に十四歳に達していることが菱来にも分かった。菱来は手紙を美佐江の前に差し出した。

「ええ読ませて貰いました」

 美佐江はそう答えると目頭をハンカチで押さえた。

「菱来先生何馬鹿なことを言っているんだ。君はうちの生徒を警察に逮捕させる気かね」

 少し離れたところにいた教頭が横槍を入れてきた。ことが公になると学校が何も知らなかったでは済まされない。

「やかましい。黙っていろ。何が正しいか間違っているか、司法が判断すればいいことだ。あんたは教育委員会にでも電話して指示を仰ぐんだな」

 菱来は教頭に罵声を浴びせた。

「自分が何を言っているのか分かっているのかね」

 教頭は顔を引きつらせ、狸のように出たお腹で身体を震わせていた。

「これはもう犯罪です。彼等を許していたら幸雄君は浮かばれません」

「先生よろしいのですか?」

 美佐江は心配そうな表情を菱来に向けた。

「お母さん。私も一人娘を二年前いじめに遭い亡くしました。もうこれ以上子供たちに辛い思いをさせたくないんです」

 菱来の目は真赤に充血していた。

「美佐江私が警察にすべて話す。菱来先生の言うことは正しいと思うよ。私自身幸雄は弱かったんだと思う。だからいじめた生徒を恨む気持ちは今はない。しかし幸雄の無念は親である私たちが晴らしてやらなければならないんじゃないかな。それは幸雄をこのように追い込んだ彼等に反省してもらうしかないと思う。彼等も警察官から事情を聴取されれば、自分たちがいかに酷いことをしたのか理解すると思うよ」

 明彦は何か決意した表情をした。

「お父さんその通りです。この後のことを学校に委ねていたら、おそらく彼等は何の罰も受けず、もしかしたらまた何食わぬ顔をして、他の者をいじめるかもしれません。それだけはどんな手段を講じても阻止しなければなりません」

「分かりました。主人に今から警察に電話して貰います」

 どこまで納得してくれたかは分からないが、先ほどよりは幾分穏やかな表情になったように菱来には見えた。美佐江の後方にいる教頭に目を向けると、携帯電話で誰かと話していた。

        4

 林原明彦の通報で五人は千曲警察署に連行された。翌日になると東京からテレビ局やら週刊誌の記者やらが学校に押しかけて来て、千曲中学校は蜂の巣をつついたように騒がしくなった。  

校長の記者会見は傍目から見ている限り滑稽だった。担任である菱来は記者会見から外されたが、テレビのレポーターからコメントを求められ「いじめは犯罪です。犯罪である以上、司法に委ねるのが最善の策に思います。お父さんお母さんのとった行動は当然だと思います」と毅然とした態度で答えた。

 警察が介入した以上何を言っても後の祭りなのに、教育委員会や学校側はひたすら保身に走った。その中で菱来の独断専行だけが目立ち、学校側はそれを非難した。PTAからのバッシングは凄まじく、あのような教師は首にしろと言う者まで出だした。ただ社会的には大きな問題だったため、マスコミでは賛否両論あったものの、菱来の行動はそれなりに評価された。

        5

 警察の少年課に連行された五人は、その日は簡単な取調べだけで終ったが、翌日からの取調べは少年たちにはかなりきつかったに違いない。四人はあっさりと幸雄を自殺に追い込むほどいじめたことを認めたが、郷田だけは直接身体に危害を加えていないということで、直ぐに釈放された。

 幸雄が亡くなった翌日学校は休校になった。その日保護者を集め学校側はことの経緯を説明した。二日後生徒たちが学校に登校し、朝のホームルームの時間菱来は二年三組の教壇に立った。目の前にある幸雄が使っていた机には誰が持ってきてくれたのか、綺麗な花が活けてあった。クラスの皆は元気がない。一人が自殺して四人が警察に逮捕された。それはこの学校の誰もが知っている事実だ。人それぞれ色々な受け止め方があるだろう。直接いじめに加担したかどうかは別にして、少なからず彼等、彼女等にそれぞれ大きな傷を残したことは間違いない。

 教壇に立った菱来は一通り皆の顔を見回すと、背広の内ポケットから白い封筒を出し中の便箋を広げた。

「これは林原が君たちに残した最後のメッセージと思って聞いてくれ。これを読んで林原は何で自ら死を選ばねばならなかったのか皆もよく考えてくれ。ただ勘違いしては困るのだが、私は君たちを責めるつもりはない。林原は君たちと一緒に学んだ仲間だ。その彼が最後に何を思い、悩みこれを書いたのか、君たちはそれを受け止める義務がある」

 そのように言うと菱来は、幸雄が残していった遺書を読み始めた。

「二年三組の皆へ。何で皆は僕のことが嫌いなんだろう。僕は僕なりに皆に嫌われないように努力したつもりだ。でも皆は僕の存在自体が嫌なのか、どうしたら僕のことを好きになってくれるのか、いやこの際好きになってくれなんて贅沢は言わない。僕を嫌いにならないでほしい。僕は皆のことは少しも嫌いではないのだから。もし僕に悪いところがあったら直すから、どうか皆僕を嫌いにならないで下さい。お願いします」

 菱来は遺書を胸のポケットに仕舞うと、もう一度生徒を見た。女子の中には泣いている者もいた。また明らかに迷惑そうに怪訝な顔をする者もいた。幸雄がクラス皆の気持ちを動かしたいと思って死んだのなら、それは成功したに違いない。十四歳の彼等は、大なり小なり同じクラスの者が、なぜ自ら死を選ばなければならなかったかということは、理解したはずである。ただこの中に一人でもいじめを止めようとする者がいたなら、幸雄は死なずにすんだかもしれない。勿論それは菱来自身にも大いに責任がある。

「君たちの中にカムイ伝というマンガを読んだことがあるものはいるかな?」

 菱来は教室を見回したが、挙手をする者は一人もいなかった。

「先生はこのマンガを丁度君たちと同じ中学のときに読んで、とても衝撃を受けたことを憶えている。この物語は江戸時代、徳川幕府の封建的な世の中での人々の生き様を描いた大河ドラマだ。この物語には色々な人物が出てくる。厳しい封建社会で自分の進むべき道を模索しながら生き抜いていく。その登場人物の中に一人の少年カムイと、狼のカムイが出てくる。お母さん狼から沢山の狼が生まれ、その中に一匹だけ白い毛並みの狼が生まれた。この白い狼がカムイなのだが、兄弟たちは自分たちと違う毛並みのカムイを何かにつけて仲間はずれにする。これにはちゃんと理由があって、狼たちは群れで生活していたのだが、この白い狼があまりにも目立ち、狩などに支障をきたすことになる。兄弟たちはこの白い狼がいると自分たちが餌にありつけないのではないかと考え、カムイを排除してしまう。厳しい大自然の中で、幼い狼が一匹で生きていくのは不可能で、この狼は己が生き抜くためにより強い一匹狼についていく。そのおこぼれを貰いコバンザメのように付き纏ううちに、やがてこの一匹狼もカムイを仲間として認めてくれる。一方人間のカムイはこの時代最下層の非人部落の生まれで、否応のない差別を受ける。君たちも歴史で習ったと思うが、この徳川の封建時代、士農工商という身分制度が画一され、農民は身分こそ武士の次だったが、現実は貧しくその日食べていくのがやっとだった。当然農民たちの不満は溜まっていく。そこで捌け口となるのが最下層のえた非人たちだった。非人たちが農民にどれだけ酷い仕打ちを受けたか想像に難くないが、我々が考えている以上の酷い生活を強いられていたのは間違いないだろう。ここでカムイは人一倍負けん気が強かったため、この部落を飛び出しやがて公儀隠密の上忍に拾われ忍者になる。しかし結局その社会でも一番下の下忍として虫けらのように扱われ、時代の波には勝てないと思い知らされる。動物にしても人間にしても他の者より優位に立ちたいと願うのは当然のことだろう。また普通と違ったものを見ると、排除したりいじめたりするのもいわば動物の本能なのかもしれない。特に人間は人よりいい服を着て、人よりいい家に住んで、人よりいいものを食べたいという欲求があったから、これだけ文明を発達させることができたのだが。旧ソ連のように皆が平等にという考え方だと国は滅んでしまう。こんなことを言っては身も蓋もないが、大人になっても決していじめはなくならないし、君たちがこれから高校に進んでも、そこにも必ず大なり小なりいじめはあると思う。でもここで皆も一つ考えてみてくれ。もしも自分がいじめられる立場だったらどう感じるだろうかと。皆死ぬほど辛いと思う筈だ。この中には私が言ったことを何馬鹿なことと思う者もいるだろうしまた、実際友人をいじめた者もいるかもしれない。しかし明日になれば今度は自分自身がいじめられる側になるということも忘れないでくれ。明日は我が身。他人に対して起こることは、自分に対しても起こることだということを肝に銘じて欲しい。君たちの中にはいじめられる者も悪いという者もいるかもしれないが、たとえば林原は君たちに何か迷惑を掛けただろうか。人間は自分では気が付かないうちに相手を傷付けてしまうこともあるだろう。そのときはお互い様と思って相手を許す広い心を持って欲しい。弱い人というのは強い人よりも、相手の気持ちを色々考えているものなのだ。こんなことを言ったら相手の人は気を悪くするだろうかとか、必要以上に気を使っている。そんな優しい気持ちを持った人を追い込んで、強い人は何も感じないなんて赦されるわけがない。君たちには先生からお願いがある。今回林原の死を真摯に受け止めて、二度と同じ過ちを犯さないようにして欲しい。君たちにはまだこの先楽しいことが沢山待っているはずなのだから。もし躓いたらそこでゆっくり休めばいいのだ」

 生徒は誰一人何も言わなかった。菱来には生徒たちが皆、自分には関係ないのに何でこの受験の一番大事なときに心を乱すようなことを言ってくれるのか、はっきり言って迷惑だとでも言いたかったのではないかと思えてならなかった。

        6

 幸雄のいじめの首謀者と目される郷田は、何ごともなかったように学校に通っていた。警察に拘束されたのは一晩だけだったことは、ごく一部の教員以外生徒たちは誰も知らない。郷田自身どう考えているか分からないものの、一人の人間を死に追いやっておきながら、何食わぬ顔で学校に出てくるのは、菱来にとって我慢できるものではなかった。自分はあのとき幸雄の遺体の前で約束した。幸雄を死に追いやった者はすべて償いをしてもらうと。だから何もなくただ普通に生活している郷田がどうしても許せなかった。

 報道によると警察に逮捕された四人も、鑑別所には行っても、少年院送致にはならないようなことが報道されている。しかしそれでも彼等にとって僅か十四歳にして、警察に逮捕された事実は、長い人生に於いて決して取り除くことはできない苦い経験になるに違いない。悪いことをすれば必ず報いを受けるということを学んだはずだ。 

 彼等四人の家族は示し合わせたように、どこかへ引っ越したということだ。事件を起こした本人よりも、家族の方が社会的制裁を恐れたのかもしれない。もし学校や教育委員会のいうなりになっていたなら、おそらく今の郷田のように、何ごともなかったように普通に生活していただろう。そういう意味に於いてあの四人には、幸雄に約束した通り仇を取ってやれたと思う。しかし郷田は違う。直接身体に危害を加えていなかったため、何もなかったかのように生活をしている。校長からも一生徒を個人的に責めることだけは慎んでくれと説得された。他の生徒の前で郷田を吊し上げても、また新たないじめが発生するだけで、何の解決にもならないことは勿論分かっている。だからといってこのままにしておくつもりはなかった。

 菱来は飯田に帰省すると、長い間箪笥に仕舞ってあった少林寺拳法の道着を取り出した。胸には赤い卍の刺繍が施してある。柔道部では名ばかりの顧問で、高校のときと、大学授業の体育で選択しただけで、柔道は白帯だったため部活では柔道着に袖を通したことさえなかったが、少林寺拳法は黒帯だった。始めた切っ掛けは単純で、空手バカ一代をテレビで観たとき、恰好いいし強くなれると思ったからだ。それで極真会館の道場に見学に行ったが、組み手を見て怖くなったため入門を断念した。中学のとき今度は燃えよカンフーを観て、少林寺拳法の道場に見学に行き女の子もいたため、その日に入門を決めた。中学生の菱来に少林寺拳法の師範は、この拳法は私利私欲のために用いてはならず、あくまで破邪顕正の拳としてもちいらなければならない。身を守るための拳法で、相手を一方的に責める格闘技とは違うと教えを受けた。カンフーと日本少林寺拳法が別物ということも、このとき初めて知った。

 その日授業が終ると二年二組の教室に行き郷田を呼び出し、放課後柔道場に来るように告げた。そのときの郷田の目は明らかに恐れを抱いている目だった。いくら郷田といえども先生に呼び出されそれを無視することはできないであろう。

 この学校で菱来が柔道部の顧問をしていても、誰も菱来が格闘技の黒帯だとは思っていない。少林寺拳法の道着を着て道場に入ると、三人の生徒が既に受け身の練習をしていた。   

 顧問の高島はまだ来ていないようだ。生徒たちは一瞬菱来を見て怪訝な顔をしたが、何も言わず練習を再開した。やがて郷田が学生服のまま道場に入ってきた。体格だけは柔道部の生徒より立派である。

「郷田、こっちに来い」

 上座に座っていた菱来が立ち上がり大声で郷田を呼んだ。郷田は菱来の姿を見て驚愕の表情を浮かべた。そして渋々菱来の前に赴いた。

「先生僕に何のようですか?」

 流石にあの事件以来ふてぶてしさはなくなっていた。

「俺が何でお前をここに呼んだか分かるか?」

「分かりません」

 郷田は困惑しながらも即答した。

「取敢えずこれを着ろ」

菱来は自分の横に置いてあった柔道着を取ると、それを郷田の胸に押し付けた。

「いいです」

 最初郷田は気をつけのまま道着を受け取ろうとしなかった。

「いいですじゃない。早く着ろ」

 怒鳴り上げた菱来の声が道場内に響いた。頑なに拒んでいた郷田が、菱来の声に畏縮して渋々道着を受け取った。

「学生服の上だけ脱いで道着の上だけ着ろ」

 威嚇しながらも今度は穏かに言った。郷田は露骨に嫌な顔をしたが、仕方なく上着を脱ぎ道着を着用した。帯は菱来が締めてやった。

「先生何をするんですか?」

 郷田はもう半泣き状態だった。何となくこの後自分が何をされるか覚ったようだ。

「郷田、林原が自殺したことをどう思う?」

 身体の大きい郷田でも目線はまだ菱来のほうが高かった。

「可哀相だなと思います」

「それだけか。林原が自殺したのはお前のせいではないのか?」

 菱来がそのように言った途端郷田の膝ががくがく震え、顔が蒼ざめていくのが傍目から見ても分かった。それまで菱来は一生徒に対して感情的になったことはなかった。菱来にしてみれば中学生は所詮子供である。しかし今は郷田がただの子供とは思えなくなっていた。

「・・・・・・」

「どうした。俺が怖いか。林原は毎日、このような恐怖を味わっていたんだぞ」

 菱来がそのように言うと、郷田の膝が落ち尻餅を着きそうになったため、奥襟を取って倒れないように立たせた。そして右足を一歩引き、拳を縦拳にして腰を入れるとともに、右の拳を思い切り郷田の鼻筋に打ち込んだ。菱来の拳に骨の砕ける鈍い感触が伝わってきた。そしてすかさず左手で郷田の右手逆小手を決め、腰を捻り投げた。受け身の取れない郷田は畳に崩れ落ち、痛さのあまり右手を左手で押さえ唸っている。

「先生何をやっているんですか?」

 いつの間に来たのか、顧問の高島が菱来のところに駆け寄って来た。

(林原約束どおり俺自身もお前を救ってやれなかった罰として、社会的制裁を受ける。これでお前が納得するとは思えんが、これが俺の取れるけじめのつけかただ)

郷田の鼻は拉げ右手首は脱臼していた。菱来は自ら携帯電話で119番と110番を押した。

        7

 菱来が千曲警察署に逮捕された後、警察の留置所から起訴され身柄が被告人になると、長野拘置支所に移監された。朝食の後荷物をまとめ所持金を確認すると、警察官に手錠をかけられ捕縄を腰に縛りつけられた。鉄格子の入った白いライトバンに乗せられ、千曲警察署から三十分ほどで県庁裏にある長野拘置支所に着いた。勾留尋問で裁判所に来たが、こんな場所に拘置所があるなんて、まったく知らなかった。菱来は幼い頃から飯田の鼎で育った。見上げると必ず目に飛び込んでくるのが、飯田拘置支所の高い塀である。そこは昔刑務所だったらしく、幼い頃母が「あの中には悪い人たちが沢山入っていて、誠も悪いことをするとあの中に入れられてしまうよ」とよく脅されたものだ。飯田拘置支所には入らなかったが、違う場所にある長野拘置支所に入る破目になってしまった。子供の頃、誰でもそうであるように、菱来もまさか塀の中に自分が繋がれるとは思ってもみなかった。

 長野拘置支所には十時に到着した。二人の警察官と共に、手錠に捕縄の状態のままライトバンを降り、拘置所の中に通された。そこは警察の留置場にはない独特な雰囲気が漂っていた。菱来自身代用監獄である警察の留置場と、行刑施設の拘置所の違いが今一つ分からなかった。警察官に訊くと菱来は起訴され、裁判を受けるためここの拘置所に移監されたということだ。拘置所の職員は刑務官といって同じ看守でも、留置場の看守とはどうも違うらしいということが分かった。(刑務所や拘置所の行刑施設の職員を刑務官といい、役職は下から看守・主任看守・看守部長・副看守長・看守長・事務官となっている)

 拘置所に来てまず通されたのが、新入調べ室である。警察官に腰紐と手錠をはずされると、警察官が刑務官に何やら書類を渡した。刑務官はそれに目を通すと菱来を直視した。

「名前と生年月日を確認する。名前は?」

「菱来誠です」

「生年月日は?」

「昭和Ⅹ年6月5日です」

「本籍は?」

「長野県飯田市・・・・・・」

「今日から貴方はこの移監指揮書に基づき、ここ長野拘置支所で生活してもらう」

 菱来に告知すると、連行してきた警察官の方を向いた。

「結構です。御苦労様でした」

刑務官が警察官に敬礼すると、警察官もそれに対し答礼した。警察官は手錠についた捕縄を巻き取ると新入調べ室を出て行った。

「まずお金と貴重品を出してくれ」

 刑務官が言うと菱来は自分が持ってきた黒のスポーツバックから、お金の入った封筒と銀行のキャッシュカードや免許証の入った袋を刑務官前のスチール机の上に置いた。新入調べ室には二人の刑務官が居り、袖に銀線を巻いた看守部長が、椅子に座り机上にあるノートパソコンを広げた。

「今からあなたが持ってきた荷物をパソコンに打ち込むので、持物をバックから出してそこの茣蓙に並べてくれ」

 看守部長が目で促すと、看守が菱来の足元に茣蓙を広げた。菱来は茣蓙の上に衣類は衣類本は本と種類別に並べると、パソコン前の看守部長の顔を見た。

「今着ている服を全部脱いで裸になって」

 警察でもそうだったが、何が辛いかといえばこのときが一番辛かった。医者でもない人間の前で素っ裸にされるほど屈辱的なことはない。たとえどんなに格闘技に長けていようと、何もつけず素っ裸にされてしまえば、戦意など簡単に消失してしまうほど、気持ちが小さくなる。裸になると茣蓙の上に立たされた。看守が菱来の正面に立つと身体を嘗めるように見て「身体に手術跡、傷、刺青はないか?」と訊いてきたため「いえありません」と答えた。看守が自分の掌を菱来に見せ「掌を見せて」と言った。看守に掌を見せると、耳の穴、口の中、入れ歯はないか確認され「ちんぽを見せてくれ」と言うと菱来のペニスをじっと見た看守が「玉入れはないね」と言った。「玉入れってなんですか?」と菱来は疑問に思ったことを口に出してみた。看守の説明によれば、ペニスにシリコンでできた小さな玉を入れ、多く入れるとトウモロコシのようになるそうだ。なぜ男がそのようなものを入れるのかだいたい想像がついた。

「今度は後を向いて四つん這いになって、尻の穴をみせてくれるか」

 一瞬何を言っているのか理解できなかった。このときばかりは流石に自分の起こした過ちを後悔した。刑務官たちはこれが仕事で、毎日こんなことを遣っているのかもしれないが、初めてこのような施設に収監された者からすると、とてもショックな出来事に違いない。希に尻の穴にタバコや覚せい剤を隠し持ってくる者がいるのでここまでするそうだ。自分の中に既に捨てたと思っていたプライドがガラガラと崩れていくのが自分でも分かった。自分は犯罪者なのだ。自ら望んで犯罪者になったはずなのに、この先色々なことを考えると憂鬱になってくる。

 長野拘置支所に移監されてから二週間ほど過ぎた頃、県の教育委員会の職員が三人面会に来た。菱来が拘置所の面会室まで行くと、面会職員の真北看守部長が面会室入り口の覗き穴を確認するように指示した。拘置所では面会する際、事件に興味を持った野次馬やマスコミなどが多いため、面会の前必ず面会相手を本人に確認させ、面会申し込み用紙に記載されている人物に間違いないか、間違いがなければ面会を実施するというシステムをとっている。

「相手が教育委員会の人間かどうかなんて、私には分かりませんが。相手の方がそのように仰るのなら間違いないでしょう」

 菱来自身教師をしていても、上級基幹であるここの職員とはあまり面識がない。

「面会受付で、身分証明書を確認したので間違いないと思うよ。こちらが提示を求めたわけでないのに、向こうが自主的に提示してきたんだが。昨日電話があってそちらに菱来という人がいますかというので、電話では在監者の有無は答えられませんと説明すると、明日そちらに行くということで、今日面会に来たということだ。何か渡したい物があるらしいぞ」

 教育委員会の者がここに何しに来たのか、おおよその見当はついた。面会室扉の覗き穴を覗くと、見知らぬ男が三人面会室に入ってきた。三人とも濃い地味な背広を着ていた。教師は皆教育委員会には頭が上がらないように思われがちだが、将来教頭、校長を目指す者でなければ、たいして気に留める存在でない。今回のように社会的な不正行為をしない限り、注意指導は受けても懲戒処分を受けることは殆どない。

 公立中学校教師は、法律で身分を保証された地方公務員のため、(勤務実績不良)(心身の故障)(適格性の欠如)などの理由がない限り免職も降任も降給もされることはないのが実情である。教師を処分するにはそれなりの理由と手続きが必要となる。

保護者が教育委員会に怒鳴り込んだところで、調査には時間が掛かるし、仮に注意指導を受けたとしても、所詮はお役所仕事である。教師の中にはそれをプレッシャーに感じ、ノイローゼにまでなってしまう者もいるが、気難しい上司だと思えば苦にならない。教員の場合、教頭、校長はいても他の教師は年齢の差こそあれ皆同じ先生である。教育委員会は上部基幹だが、別に毎日監視して顔を突き合わせているわけでないので、たとえ校長、教頭が難しいことを言おうと、自分の信念を持って仕事をしていれば、何も恐れることはない。民間の会社のようにノルマが課せられるわけではないので、ある程度割り切って仕事をしていれば、これほど気楽な仕事はないのかもしれない。

 中学生なんて何を言おうと所詮は子供だ。他の教師は兎も角、力でも頭でも彼等に負けるわけがない。学生時代色々アルバイトをしたが、こんな楽な仕事はないと思っていた。それは単に先生或いは人として無責任だったからだ。子供は強い者に対して絶対逆らわない。

菱来が子供の頃はよく先生に叩かれた。怪我こそしなかったものの、棒などで頭を叩かれたときにはたんこぶができたものだ。だからといってそれを恨むこともなかったし、そんなことを親に言おうものなら「おまえが悪いから先生が怒ったんだ」と言って「先生うちの子をもっと叱ってやって下さい」という親のほうが多かったのではないだろうか。しかし今の時代そんなことをしたら大変な問題になってしまう。

 菱来は適当に生徒との距離を保って、毎日恙無く過ごしてきた。しかし子供という生き物は白鳥が湖の上を優雅に泳いでいる姿と一緒で、水面下では何をやっているか分からないのが実情である。今の子供たちは菱来が子供のときより学力や運動能力は低下したものの、悪知恵は非常に働くようになった。それは親やメディアにも責任があると思う。

 菱来はよもや自分の暴力性が爆発し、生徒に怪我を負わせてしまうとは考えてもみなかった。結果論になるが、郷田のようなガキ大将は自分の力が絶対だと思っている。それ故に自分より力の強い者には、絶対逆らうことはない。だから郷田が菱来の黒帯を見て腰を抜かしそうになったとき、そこで止めておけば、郷田は菱来がこの学校にいる限りいじめはしなかったであろう。しかし子供に対してあそこまで遣ってしまったことは、自分の中に眠っていた暴力性が目覚めてしまったのだと感じずにはいられなかった。少林寺拳法はあくまで護身術であるため、空手のような一撃必殺の拳ではない。無抵抗な者に行なう攻撃は本来存在しないのである。

 二十年ぐらい前、ガンジーの映画を観てとても感動した。ガンジーはどんな暴力にも決して屈しなかった。人間の一番弱い部分をよく理解していた。それは彼がインド人だからと菱来は思った。ガンジーは絶対的な力に、力で対抗しても決して勝てないことを知っていた。暴力を振るう者が、相手の血で自らが血まみれになったとき、人間は自分の愚かさに気付くはずである。

 自分はあのとき、幸雄の約束を果せたと思った。しかし時間の経過と共に、暴力では何の解決にも結びつかないことを身を以て実感することになる。遣ったら遣り返す。それでは何の解決にもならない。それは歴史が証明している。ガンジーの無抵抗主義はイギリス人にとって脅威だったに違いない。無抵抗な者に暴力を振るうことほど愚かなことはない。菱来自身、郷田が自分より身体が大きく空手の有段者だったら、おそらくあのような行動には出なかったであろう。最初子供は絶対的な力に弱いと思ったが、本当は自分も子供と一緒なのだ。獄中に繋がれ一人になり、己の行なった行為がいかに愚かだったことか再認識した。

菱来が狭い面会室に入ると、透明アクリル板の向こうにいる男たちは「教育委員会の岡島です」「竹村です」「石野です」とそれぞれ名乗った。そして岡島という男が、定形外の茶封筒から一枚の書類を取り出すと、アクリル板の前に此方に分かるように示した。そして「残念ですがX年Ⅹ月Ⅹ日付で懲戒免職になりました」と事務的に告げた。

        8

 菱来の事件は幸雄の自殺よりも、大きくマスコミに取り上げられた。それまで生徒と一緒になっていじめた先生はいたが、いじめられ自殺した生徒の復讐をした教師は初めてだった。そして何より菱来の愛娘が二年前、いじめに遭い自殺している。マスコミにとってこんな面白いネタはめったにない。朝のワイドショーも昼のワイドショーもこのことを取り上げた。世論の意見は真っ二つに分かれた。確かに暴力はいけないものの、菱来に同情的な意見と、いくらいじめとはいえ一生徒に制裁を加えることは、教育者として絶対遣ってはいけない行為だという意見に分かれた。ある教育大学のコメンテーターは「教育現場に警察が介入すること事態もはや教育の退廃なのに、教師自らが復讐鬼になって生徒に制裁を加えることは、愚の骨頂も甚だしい。最低の教育者です。彼は仕置人にでもなったつもりなんでしょうか。今の時代には似つかわしくない人間です」と吐き捨てるように言った。 

 しかしある私立中学の校長は「大人は子供を天使のように神聖化するが、子供の心の中にはときに、途轍もない悪意が潜んでいることがあるのです。人生経験の乏しい彼等は手加減ということを知りません。ある意味に於いては大人以上に残酷なのです。私の経験したことですが、いじめられ自殺した生徒の葬儀にいじめた生徒が参列し、友達と話しをしながらげらげら笑っているのです。そのとき私は背筋が寒くなりました。この子は子供の皮を被った悪魔じゃないかとね。実際のところ学校に警察が介入するのはごく希で、殆ど加害者の子供たちが何の制裁も受けないのが現実なのです。その子たちが大人になって真面目に遣っていけるかは私の知るところではありませんが、そのような心を持った者がやがて結婚し子供を作ったときのことを考えたら、更に恐ろしいことになるんじゃないかと思います。我々教師の中では、菱来先生みたいな人間は決して歓迎されません。しかし各学校に一人でいいから警察官の権限を持った人間が必要だと思います。彼等は弱い者だからいじめるのです。裏を返せば自分より強い者に対しては絶対に逆らいません。私は今回の一件は教育界という池に投げられた一石だと思うのです。これは校長としての意見ではなく私個人の意見として捉えて下さい。彼みたいな教師は今の学校には必要なのです」とコメントした。この校長の発言は物議を醸し出し(教育者として言うべきことか。教師が仕置人になっていいのか)という抗議がテレビ局に殺到した。拘置所にもジャーナリストやレポーターが押しかけてきたが、それらの面会はすべて断った。自分のとった行動が、これほど世の中に大きく取り上げられるとは夢にも思わなかった。

        9

 自分は幸雄が自殺したあの日、彼が寂しそうに社会科準備室を出て行く姿を見て、不安な気持ちになったが、まさかそのとき幸雄が死ぬほど思い詰めているとは考えてもみなかった。今まで何千人と生徒を見てきたが、あんなに寂しそうな後姿を見たのは初めてだったような気がする。自分はあのとき幸雄を救えたのだ。いや幸雄を救えるのは自分しかいなかった。だから幸雄はこの学校で唯一理解してもらえる自分を頼ってきたのだ。それなのに自分は・・・・・・。

 勾留されるようになって、林原夫妻が面会に来てくれた。また面会のときには差し入れもしてくれた。身内が面会に来てもらえない菱来にはとても有り難かった。透明のアクリル板を通して、林原明彦は済まなそうに頭を下げた。

「先生こんなことになってしまって申し訳ありません。先生本当は私が遣りたかったんです。郷田のことは息子の遺書を読んで本当に殺して遣りたい気持ちでした。でも実際には何もできなかったのです。確かに先生のしたことは教育者としては許される行為ではないかもしれません。しかし私たちみたいな親の立場からすれば感謝したい気持ちで一杯なのです。あの日先生は私に直ぐ警察に連絡しなさいと言いました。私たち夫婦はあの後でも話し合ったのですが、先生があのときあのように言わなければ、警察には言わず教頭先生の言うように行動していたのではないでしょうか。そうなれば私は相手の生徒も恨むのは勿論、学校や先生のことも恨んだと思います。その前に生きる気力をなくしたかもしれません。私たち夫婦は一番大切なものを失ったものの、何か分からないが得たものもあるような気がするのです。私は今までテレビなどのニュースで、いじめに遭った子供の親御さんが、悲痛な表情でインタビューを受けている姿を何度となく目にしました。そのとき親御さんたちが比較的冷静にインタビューに答えていたため、人ごとと思いあまり深く親御さんの気持ちを考えませんでした。しかし自分が同じ立場になったとき、息子をいじめた相手にも同じような思いをして欲しいという気持ちを、自分も持っていたということに気付きました。それは法律やモラルで割り切れるものではありません。アメリカの9・11テロもそうであるように、身体の根底から湧き上がってくるのは復讐心だけなのです。良いか悪いかは問題ではありません。それが人間の悲しい性じゃないかと思うのです」

 そのように言う明彦の表情は苦渋に満ちていた。

「私たちは今屋代駅前や長野の駅前で先生の減刑の嘆願書を書いてもらっています。マスコミでも先生のことは取り上げられています。まあ反対意見も多いのですが。でも共感できるという人も少なくありません。先生私たちには残念な知らせなのですが真下、伊田、木下、山口の四人は少年院送致にはなりませんでした。それでも四人共もう千曲市にはいません。皆家を売り払いどこかへ越していきました」

明彦に最初に会ったとき、彼はいじめた生徒に恨みはないと言っていた。それは本心ではなかったのだろう。

「そうですか。しかし彼等にとって今回のことは、心に大きな傷となって残ったと思います。自分の軽率な行動が他人の人生だけでなく、自分の人生をも狂わせてしまうことを、身を持って実感したのではないでしょうか」

「郷田も結局あの町におられずどこかへ引っ越していきました。彼が影の首謀者だと皆知ってしまったので、彼も両親もあの町には住めなくなったんだと思います」

「あなた方は大丈夫なのですか?」

「私たちは大丈夫です。もう息子が死ぬより辛いことはこの世にありません。どんなことでも耐えていけます。それより先生頑張って下さい。私たちは先生に本当に感謝しています」

「いえ。此方こそありがとうございます」

 このようにときどき林原夫妻は面会に来て励ましてくれた。面会が終り三畳ほどの独居房で独り考えると結局、自分は幸雄の後に薫の亡霊を見ていたのかもしれない。薫は自分の無責任な言動が、女友達の心を悪意に変えてしまったことに酷く悩んだあげく、自らの命に終止符を打ったのではないか。彼女はおそらく死ぬとき、誰も恨んでいなかっただろう。いやもしかしたらこの俺を恨んでいたかもしれない。遺書に書かれた少ない文字で、薫の本心を知ることはできないものの、彼女は自らの命で償いたかったのではないか。あの子はとても正義感が強い。だから余計自分が許せなかったのだ。そのように育てた私に責任がある。人間はもう少しいい加減なほうがいいのだ。


        友達

        1

 美穂と薫は一見仲良しに見えた。友香も二人は親友だと思っていた。少なくとも薫はあのときまで美穂は自分の親友だと思っていたに違いない。私たち三人は幼い頃からよく遊んだ。特に薫は一人っ子だったこともあり、薫のお父さんがよくプールやスキーに連れて行ってくれた。私には四つ上に兄と二つ下に妹がいる。彼女は三人兄弟の私を羨ましがっていた。「いいな友香はお兄さんと妹がいて」そのように言っている薫は寂しかったのかもしれない。小学校のとき家に帰っても誰もいない。夏休みはいつも独りでいると言っていた薫を、少し気の毒に思ったことがある。

 私はどちらかというと友達に凄く気を使うタイプだけど、薫も友達に対してすごく気を使っていた。私は子供の頃からおとなしく、他人から強く言われると反論できないところがあった。自分の意思表示するのをすごく苦手にしていた。そこのところは薫とは違っている。薫は皆から嫌われないように自分が常にいい人でありたいと神経を使っていたようだ。多少我が儘な美穂に比べると、薫は誰にも優しく親切だった。このようなことをしたなら相手が傷付くということを、薫はよく理解しているように思えた。だから今回美穂があれほど傷付くことを言うとは、正直信じられない思いだった。常に、相手に対して気を使っている薫が、いくら美穂のせいで試合に負けて悔しかったからといって、あのようなことを口にするとは思えなかった。

薫と直接話をして、確かに同級生に思わず愚痴を言ってしまったようだが、それをすごく気にしているのが気の毒に思えた。たとえいじめに遭っても自業自得と思ったのだろうか。薫は最期までいい人だった。それなのに私はそんな薫を疑っていた。薫がなぜ自殺したのか本当の理由を知っているのは私だけだろう。或いは薫のお父さんやお母さんも知っていたかもしれない。

 薫があの日私の家に来て、美穂に謝りたいと言った。あのとき私は今更何を言っているのかと思った。今更美穂に謝ったところで、もう以前の二人みたいに仲良しにはなれないだろう。なぜなら美穂は今まで心の中に溜め込んでいた、薫に対しての妬みや憎悪を吐き出してしまったから。薫は自分を陥れた人さえ許そうとした。いや許そうとしたというよりも、美穂があのような醜い行動を取ったのは、自分に非があると感じてしまったからだ。自分のせいで、美穂があんなにも醜い人間になってしまった。そう思ったとき薫は自分自身が許せなかったのだと思う。そして中学校入学時から憧れていた沢田栄一が、自分をいじめていた張本人と知ったとき、彼女の心が壊れてしまった。それはまさしく私が言ったよけいな一言に違いない。

あのとき私にも確かに悪意があった。薫があんな卑劣なことを美穂に言うはずがないと思いつつ、半分は疑っていた。そして薫の口からそれは多分湾曲して本人に伝わっていることを聞いたとき、私はやっぱりという気持ちになった。私なら二人の互いの誤解を解いてやり、二人を仲直りさせることもできた筈だ。しかし私はそうしなかった。そこには私の悪意があったからに他ならない。

 私は美穂も薫もどちらも嫌いだった。私たち三人は小さい頃から仲が良く、よく三人で遊んだが、私は自分から行動を起こすほうでなかったため、いつも二人にとっておまけみたいな存在だった。美穂と薫がメインで私はその間にある繋ぎ紐のようなものだ。

 中学校に入って二人は迷うことなくテニス部に入った。私も誘われたが私はテニス部には入らずバレーボール部に入った。本当は私もテニス部に入りたかった。でも中学校のテニスはダブルスで、絶対あの二人はペアを組む。だから当然私は溢れてしまう。みすみすそうはなりたくなかった。私はあの二人が羨ましかった。なぜあの二人がいつも一緒にいたのか分からない。少なくとも美穂のほうは薫のことを快く思っていなかったようだ。それでも薫は自分がまさか美穂に嫌われているとは夢にも思っていなかったのだろう。

 薫が自ら命を絶ったあの日、美穂の家に行ったが会ってもらえず私の家に来た。そのときまで美穂のことで薫が傷付けばいいとさえ思っていた。あんなに純真無垢な人間がどのようにして傷付くのか見たかった。薫は何に対しても真面目すぎるところがある。それが彼女の命を縮めることになったのかもしれない。恐らく薫のお父さんお母さんは、本当にいい人で、他人の悪口を言ったり妬んだりするような行為を娘の前ではしなかったのだろう。私はあのような完璧な人間が壊れていく姿をどうしても見たかったのだ。しかし私の予想に反して薫の精神状態は硝子のように脆かった。薫がまさか自ら命を絶つとは考えてもみなかった。

 翌日学校で薫が自殺したことを聞かされたとき、あれは半分自分に責任があるように感じた。私の悪意によって薫は自らの命を絶ったのだ。あの日薫の顔はことの真相を知って、見る見る正気を失っていった。あの後私が美穂のところに行って、ことの経緯を話せばこんなことにならなかったのではないか。しかし私のショックよりも、美穂の受けたショックは計り知れない。薫が自殺した翌朝学校に登校すると、ホームルームの時間担任の山岡の口から出た言葉は驚くべきものだった。私だけでなく皆がそう思ったに違いない。

「皆心して聞いてくれ。昨日隣クラスの菱来薫が自らの命を絶ち亡くなられた。今日は休校にする」

 担任のその言葉を聞いたとき、直ぐに私は後を振り返った。三つ斜め後席にいる美穂の顔がみるみる蒼白になっていった。私は今更美穂を責める気はない。私たち二人、いや薫をいじめたすべての人が、今後重い十字架を背負って生きていかなければならない。ただ美穂が薫に抱いた誤解だけは解いてやらねばならないと思った。薫はいじめを苦にして自殺したのではなく、美穂を傷付けてしまったから、それを悩んで自らの命を絶った。そんなこと美穂に果たして言えるのか。どのように説明すれば傷口を広げずにすむのか、そのときの私には分かるはずもなかった。

        2

 美穂はあの試合に負けたことがショックだったと同時に、あれは間違いなく自分のミスだと自覚していた。本来なら勝てる試合だった。少なくともこの学校には田尻、菱来組が一番上手なはずである。私はあのときかなり緊張して、場の雰囲気に呑まれてしまった。それでボールをうまく追えなかった。薫はそうとう頭にきていたようだ。それは試合後の彼女の態度からも分かる。そのことは本当に済まないと思っている。

 美穂が更衣室で着替えていると、薫と同じクラスの女子が二人入ってきた。薫の姿はなかった。美穂が着替え中、彼女たちが美穂に近付き耳元で囁いた。

「美穂、薫がね、貴女のこと昨日の試合は美穂のせいで負けた。美穂みたいな下手くそな者とは、もうペアを組みたくない。今まで我慢してきたけど、今度ペアを組む子はもっと上手な方がいいって言っていたよ」

 その言葉は美穂にとってあまりにもショックな内容だった。できれば耳にしたくなかったし信じたくなかった。先ほどまで薫に対して申し訳ないという気持ちが、どこかに吹き飛んでしまった。そのとき私の中に薫に対して長年抱き続けた妬みみたいなものが、一気に噴出してくるのを抑えることができなかった。

 薫とは保育園のときから一緒だった。薫は一人っ子で私には三つ上に姉がいる。薫はいつも新しい服を着て、私はいつも姉の御下がりだった。薫の父は中学校の先生で、私の父は近くの小さな工場に勤めている。薫は夏休みや冬休み、ハワイやグウァムに旅行に行くが、私はまだ飛行機にさえ乗ったことがない。そして何よりも薫は私より綺麗で頭が良く、運動神経も私より良いように感じた。すべてに於いて薫は私の上をいっている。保育園、小学校、中学校ととても仲良くしてきたが、いつも私のどこかに薫に対してコンプレックスがあった。本当のところ私は薫と仲良くしたくなかった。彼女が嫌いだった。何も苦労しないで育ったからなのか。あの素直な性格、屈託のないあの笑顔を見ていると虫酸が走った。海外旅行に行くと必ず私にお土産を買ってきてくれるが、私はそれをすべて机の中に仕舞った。それは見ているだけで虫酸が走ったからだ。グウァムやハワイの土産なんて、今どきどこの雑貨屋にも売っているつまらない品物だ。それでも気を使って薫が私の部屋に遊びに来たときだけそれを出した。今回のことでそれらをすべて処分した。薫がもうこの部屋に来ることはないだろう。

 最初薫の携帯電話についたストラップを見たとき、正直可愛いなと思ったし、羨ましくもあった。

「薫その携帯のストラップ凄く可愛いね。どうしたの?」

「あ、これ。お母さんが水引工房に勤めているでしょう。売り物じゃないけど、お母さんが作ってくれたの。これキリンに見える?」

「うん。見えるよ」

 金と茶色の水引で丁寧に編み込まれたそれは、どこから見てもキリンに違いない。

「薫のお母さん器用だね」

「でもお母さんの勤めている工房に行くと、もっと色々な物を作っているよ。美穂も良かったら動物のストラップ作ってもらおうか。動物何がいい?」

「ええ、いいの?」

「いいよ」

「私もキリンがいいな」

「そう、じゃあ早速お母さんに頼んでみるね」

 そう言って薫は母親に頼んで、キリンのストラップの他にも、蛙やウサギのストラップを私のために作ってくれた。それらは二人の友情の印だったが、今はそれも鬱陶しいだけの品物になっている。

 考えてみればあんなに優しい子が、何であのようなことを言ったのか、薫には美穂の知らないもう一つの顔があるとしか思えなかった。

 薫から貰った水引でできたキリンのストラップに、鋏を入れた。首の部分だけ残り、可愛かったストラップが不気味に映った。そして更に細かく刻みゴミ箱に捨てた。残りの水引もすべて鋏で粉々に切り裂いた。 それでも薫の真直ぐな明るい性格は羨ましかった。しかしあのテニスの試合でミスを連発したとき、それに対して薫は私の居ない所で悪口を言った。私は薫のことが嫌いだったが、ある意味に於いて彼女のことを尊敬していた。あのように完成された女性は、この学校に薫以外私は知らない。その薫からあのような言葉がでるとは思ってもみなかった。ショックだった。

「私は薫にごめんねと謝ったのに酷いわ」

 私は薫と同じクラスの女子に涙目で訴えた。

「本当よね。酷いよね」

 本心からなのか分からないものの、私に同情してくれているように見受けられた。もしかしたら私のように彼女たちも、薫のことを妬ましく思っていたのかもしれない。

「私絶対に薫が許せない。貴女たちにお願いがあるの」

「何」と言って彼女たちは目を輝かせた。

「私は子供のときからいつも薫の機嫌を取ってきたの」

「何か分かるような気がする」

 この女たちに何が分かるのか。そう思いつつ勉強ができて、美人でスポーツ万能な薫を妬ましく思っているのは、間違いないように感じた。

「今回のことで彼女の機嫌を取るのはやめるわ。貴女たちクラスの者たちを嗾けて薫に嫌がらせをして」

「え・・・・・・」

 彼女たちは流石に驚きを隠せなかったようだ。しかし陰で同級生の悪口を言う彼女たちが、薫をよく思っていないのは明らかなのに、このように驚いて見せるとはとても白々しい気がした。

 私は彼女たちに薫が困るよう陰湿に嫌がらせをしてと頼んだ。

「何か面白そうね」と彼女たちの目が意地悪く輝いて見えたのは気のせいだろうか。そのとき突然更衣室の戸が開き、薫が入ってきた。美穂は顔を合わせないようにして更衣室を出た。そのとき私の中には確かに薫に対する悪意があった。

 私には半年前から付き合っている彼がいた。沢田栄一は野球部に所属し、女子生徒の中では彼に行為を抱くものも少なくない。まだ沢田と付き合う前あの美人の薫も、沢田のことが好きなのと、恥ずかしげに私に告白したことがある。何を隠そう私も沢田のことが好きだった。しかし先に薫に告白されてしまい、そのとき薫に美穂は誰が好きなのと聞かれ、咄嗟の返答に困り、今はとくに好きな人はいないと答えた。

そんな憧れの沢田と付き合いだしたのは、一年以上前から通っている塾の帰り道である。塾での授業が終わり自習をして帰ると、午後十時を回ってしまう。普通の親であれば夜道は危険が伴うため、母親か父親が迎えに来てくれるのだが、母親は自転車で行けば大丈夫と言って迎えに来てくれなかった。丁度同じ頃沢田もその塾に通っていて、帰る方向が一緒だったため、いつの間にかお互いの家もそれほど離れていなかったこともあり、二人とも自転車を押しながら家に帰るようになった。最初のうちはお互い自転車に乗って帰っていたのだが、沢田がある日話し掛けてきたため、いつ頃からか二人とも自転車を降り話しながら帰るようになっていた。それは私にとってこの上もない幸せの時間だった。沢田はわざわざ私の家まで送ってくれた。

沢田が美穂のことをどう思っていたか分からないが、半年近くそのような状況が続いていく中で、沢田の方から今度日曜日映画を観に行かないかと誘われた。そのときは天にも昇る思いだった。沢田が何で私なんかを映画に誘ったのか分からないが、それが切っ掛けで二人は付き合い始めた。沢田は学業の成績は私より良いみたいだが、同じクラスでは私の親友の薫には適わないと洩らした。私はこのとき表面上薫は親友であるかもしれないが、本当のところ彼女のことはあまり好きではないということを、沢田に告白した。それには沢田はとても驚いていたようだ。私は更に追い討ちをかけるように沢田に、薫が沢田のことを好きだと言ったまったく反対のことを吹き込んだ。

「沢田君は自分が恰好いいのを鼻にかけ、女の子に人気があるのをいいことに、少し天狗になっているのよね。成績だって私の方が良いのに、ちょっと調子に乗りすぎねと薫は言っていたわ」

そのように言うと、沢田の表情が凍り付いたのが私にもはっきりと分かった。この年頃の男子は精神年齢が女子よりも明らかに低い。沢田は面白いように私の口車に乗った。しかし今思い返してみると沢田は本当のところ薫のことが好きだったのではないか。だから薫が自分の悪口を言っているという私の嘘にショックを受けたのかもしれない。更衣室で聞かされた薫が私に対して言ったことを沢田にも話した。

「私は薫のことが好きでなかったけど、テニスのペアとしてはお互い信頼し合っていると信じていたのに、あんな言い方をされたのは本当にショックだった」と愚痴をこぼし遠回しに薫に対して嫌がらせをしてと頼んだ。沢田は顔立ちこそ大人びていたが、内面は今どきの中学生で、呆れるほど単純な性格だった。私はもっとクールな性格の男性に憧れていたため、その面に於いて沢田はどこにでもいる普通の男子中学生だった。私の言っていることを間に受け、薫に対して露骨に嫌がらせをするようになっていった。ただ沢田は自分が先頭にたって嫌がらせをするわけでなく、クラスの調子者を嗾け、自分自身は一歩引いたところから傍観していた。

 私は自分で唆しておきながら、彼等の遣っていることが怖くなってきた。私が想像していた以上に薫は次第に追詰められていった。少し気の毒に思えたものの、今更引き返すこともできず、私自身迷っているときだった。薫は自ら命を絶ってしまった。それを学校で聞いたとき、ショックのあまり声が出なかった。私はトイレに入り声を出して泣いた。 

 このときになって初めて自分のしたことが、いかに愚かだったことかを思い知らされた。そして同じクラスの最も仲の良い矢部友香に言われたことは、更に私を奈落の底に突き落とすことになる。

友香は「表面上、薫は皆にいじめられ、それを悔やんで自殺したように思われているが、本当は違うの」と言った。「どう違うのか」と私が問いただすと、友香は「それは貴女を傷つけてしまったからだ」と答えた。最初彼女が言っている意味が分からなかった。友香は「薫は美穂が聞いた悪口は言っておらず、それはおそらく同じクラスのテニス部の女子が面白おかしく吹聴したんじゃないかしら。かといって薫は自分の言ったことを深く反省し、美穂がそれに対し酷く傷付き自分に憎しみまで持つようになったことが、自分のせいに違いないと、そんな自分が許せなかったと、亡くなったその日に私のところにきて打明けたわ。貴女が薫のこと、どのように思っていたか知らないけど、少なくとも薫は美穂のことを親友だと思っていたみたいよ」

 友香は怒ったように私に言葉を投げかけた。その言葉を聞いてすべてを理解した。私は何て愚かなことをしたのだろう。私は自分の瞳から涙が溢れ出てくるのを止めることができなかった。そこまで薫は私のことを考えていてくれたのか。それなのに私は・・・・・・。

 いつもおとなしい友香が私を睨みつけ、まだ何か言いたそうだったが、それ以上何も言わなかった。しかし彼女の瞳も濡れていた。

 こんな醜い私を彼女は親友と思ってくれていた。知らなかった。友香の説明を受けるまでまったく気が付かなかった。私は通夜の日薫の遺体にしがみつき泣いた。薫の父親は私に「生前薫が貴女に何か辛い思いをさせてしまったみたいで、申し訳ありませんでした」と頭を下げたが、それに対して私は何も言えなかった。(薫本当にごめんね)心の中で土下座して謝った。それ以来友香は私と口を利いてくれない。

 








 由紀子のお腹に薫が宿ったとき、この上もない喜びを感じた。しかしそれが自分の子でないと分かっていたら、あのように嬉しかっただろうか。それでも薫の存在は自分の生きる糧に違いない。知らなかったのは自分だけで、彼女たちはそれぞれ悩んでいたのだ。

 女の人は自分のお腹を痛めて我が子を産む。しかし男はそれが自分の子であるか、そうでないか、DNA鑑定でもしない限り信じるしかない。イエス・キリストの父ヨセフはどのような気持ちで自分の息子を見守っていたのだろう。人が何を言おうと、自分が信念を持っていればそれでかまわない。

 人に執着しない菱来でも、自分の人生を振り返って人に何かをしてあげるのは、やはり悦びなのだと感じる。今由紀子に自分がしてやれることは傍にいてやることだ。

仕事が休みの日、久しぶりに由紀子のところに面会に行った。身動きしない由紀子の枕元に行き、彼女の顔をじっと見ていると、色々なことが走馬灯のように頭の中を過った。今までそれこそ色々なことがあったが、やっぱり俺はお前のことが好きだ。菱来は何も言わない由紀子の唇に自らの唇を重ねた。目を瞑っていた由紀子が、一瞬こちらを見たような気がする。意識がないものの唇には温もりがあり、初めて由紀子とキスをしたときと何も変わらなかった。由紀子は死んでなんかいない。間違いなく今ここに生きている。ここにいるのは植物なんかじゃない。人間なのだ。

菱来は由紀子の腕をとった。ミイラのように痩せ細った腕は、水気がなくカサカサして痛々しい。竹の枝のような細い指には、ぶかぶかになった指輪が辛うじて関節に引っ掛かり、落ちずにそこに留まっていた。指輪の図柄は蝶が二匹舞っているモリ・ハナエのデザインだった。

初めてこの指に指輪を嵌めてからどれくらい時間が過ぎたのだろう。昔は本当に綺麗な手だった。婚約したとき由紀子と二人で、わざわざ名古屋まで買いに行った結婚指輪だ。店のショーケースを見ていた由紀子が、迷わずこれがいいと言った。同じ物を二つ買ったのに既に菱来の指にはそれはなかった。

菱来は由紀子の手を取ると、その手で自分の瞳から零れ出る濡れたものを拭いた。それはいくら拭いても止まらなかった。快復するかどうかは分からない。それでも希望を持って待ってみよう。

嘗ては考えてもみなかったが、明日は必ずくる。そう信じて今は生きている。


     



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ